沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩595 沖縄からの発信 13

2015年07月10日 09時30分30秒 | 政治論

 「正しかるべき正義も時として盲いることがある」、とはドラマ「逃亡者(The Fujitive)」冒頭のナレーションだが、英文は「an innocent victim of blind justice」(盲目の裁定による罪なき犠牲者)だそうだ。

 差別、というのは言わば、裁判官も弁護士もはては検事さえいない無人の法廷に、一人の罪なき市民が無慚に放り出されているといった光景であろうか。あるいは、ある日気が付いたら罪人として収監された状態にある自分を発見する、といったこと。正義の女神が寝ぼけ眼でやっつけ仕事をしてしまったのかもしれない。しかし、これは個人的な感想に過ぎない。実際は差別の当事者も間違った裁定を下す裁判官も又当然殆ど力のない弁護士さえ間違いなく存在し、寄ってたかって不当な罪状で犯人と決めつける検察の魔手も無数にある。

 この「罪なき犠牲者」としての琉球沖縄の民は、その対日関係史においてその地位を練り上げた結果、現在の謂れなき「基地押しつけ」身分に貶められた。高みの見物であるヤマトゥ常民は「自分たちとは違う人たち」といった目つきでそれを遠目に眺めることにしている。しかし、ヤマトゥ常民の心情に意識的な差別の根拠はない。国家がその琉球処分的施策の数々で作り上げた印象操作の結果にほかならない。国家がこの誤った裁定を自ら決定的に破棄しないかぎり、常民の「対岸の火事」身分は持続される。勿論こうした政治権力を生んだのは他ならぬ常民であり、彼らが筆者も含め無罪放免される道理はどこにもなく、同時に、冷静に見つめれば現在の安倍政権というのが丁度彼の祖父岸信介が元A級戦犯の身で時の最高権力を握ったように、言わば資格のない政治勢力が2割程度の支持を得たからと膨大な議席を奪い取った選挙制度そのものに原因があり、間接代議制の「民主主義」弊害が露骨に野心的に繰り広げられている、というべきであろう。

 しかし、辺野古のことは実はこの国の表面的な不作為が引き起こした訳ではなく、吉田ドクトリン(国防軽負担経済優先主義)以来、戦後処理そのものに過ぎない国策と対米関係の業務懈怠に等しい永続的採用こそ、必然に齎した奇妙な真空地帯と言えるのである。アメリカは基地の撤退さえ考慮に入れていたが日本政府は「是非ここにいてくれ」と執拗に懇願したのだ。

 つまり、辺野古のことはまさしく日本国政府と官僚合作による「政治的理由」で、沖縄に基地を押し付けるという状態で事なきを得ようとしているわけだ。当然これを地元沖縄が「はいそうですか」と肯んじる道理はない。現在国家がしていることは心情的にも論理的にも叶わぬ怠慢、堕落、と言える。其処へきてさらに反対派勢力の暴力的排除、あるいは言論封殺という手荒な手段に出た安倍晋三政権は、到底、現代「正義」の理念に添うものとは言えない。認知症内閣、時代錯誤政権と言われるゆえんだ。

 沖縄県民の非暴力な不服従抵抗は台風後も続く。(つづく)