沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩463 何が悪いのか

2013年09月11日 13時56分28秒 | 政治論

 生き残ったひめゆり学徒たち -収容所から帰郷へ-   ひめゆり平和祈念資料館編

 あのひとたち、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の在校生約1110人のうち、所謂「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる寮生他生徒222名が沖縄陸軍病院に動員されたのは、1945年(昭和20年)3月23日、米軍沖縄上陸作戦に伴う空襲と艦砲射撃により県土(慶良間諸島)が大混乱に陥った日のことだった。(勿論様々な事情によりこの動員に加わらない多くの生徒らも、それぞれの居所や近在部隊、家族らとともに戦火に巻き込まれ、命を落としていることは言うまでもない。)

 沖縄戦関連死で言えば、動員生徒と教師のうち136名が死亡、104人が生き残った。その他の生徒たちと教師では91人が死亡したとされている。彼女らの年齢は概ね13歳から19歳、数多くの負傷兵の手当てや看護に従事したが、6月18日頃突如解散命令が下され、いわば行き場を失くした軍属として、戦場を彷徨する憂き目にあう(解散して勝手にどこへでも行けということだ)。

 勿論その間多くの生徒仲間が次々と命を落としていくさ中にあり、生きることよりも自決し果てることのほうが望まれる状況下、生き残ったあの人たちの手記からは、捕虜となって収容所に連れて行かれることと、手榴弾や青酸カリで死を選ぶことが、殆ど偶然のきっかけで分かれるような皮肉な運命の采配だったと知れる。

 収容所に護送されるトラックから身を投げて死んでしまおうと考える場面では、まさしく、戦争指導者の「生きて虜囚の辱め」訓示が現実の棘となって青年たちの心根に深く突き刺さっていたことがわかる。

 今重要なことは、生き残ったあのひとたちが図らずも語ったところから、何がこうした悲劇を生んだのか探ることにある。つまり「ひめゆり学徒」の物語は、あらゆる感傷を度外視しても厳然と残る彼女たちの語らざる無念であり、郷土の人と土地と生活をめちゃくちゃにした戦争への憎悪であり、そこにドラマの悲喜劇や美醜はあっても、これを決して楽しむことのない、悔恨に満ちた複雑な真情の吐露であるわけだ。それがまた現今戦争経済主義の日米政府施策の、県民の心情を顧みない偽善的な安全保障政策に対する根本的な反発となって、県土を覆いつくそうとする根拠となっている。(つづく)