沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩462 死

2013年09月09日 22時13分35秒 | 政治論

 不図、やはり思うのである。この島は本土の参謀本部によって捨石にされ、本土決戦(という本土の自己欺瞞...結局それは決して実行されるはずもなかった)の準備のために時間稼ぎする、という方針によって主力を欠いた(主力は台湾に行った)無力極まりない持久戦に放り込まれた。

 しかも本土に疎開しなかった一般民衆の安否なぞは、圧倒的な物量を誇る米軍の砲火と掃討戦の只中で事実上風前の灯でしかなかった。血で血を洗う陸上戦と、海上を埋め尽くした米艦船から発せられる「鉄の暴風」と言われた砲弾の嵐が、蟻の隙間程も許さぬ密度で、ありとあらゆる空間に襲い掛かる。

 この戦争を扱った多くの戦記、体験記、記録は、この世ならぬ阿鼻叫喚の、あらゆる老若男女が無差別に死に行く地獄を伝えている。この地獄はこの国によって捨てられた同じ国民の上に齎され、一般民衆を軍人並みに必至の死地へ追いやった。彼らは軍人同様に「生きて虜囚の辱めを受け」ないために戦場で殆ど疑義なく自死する道を選ばされた。「八つ裂きにされ強姦され惨殺される」という触れ込みで、決して捕虜にはなりたくない思いを共有し、生きるより死ぬことが望まれたのだ。そしてむなしく捕虜となり生き延びてからは、死んでしまった者への悔恨に満ちた余生を過ごすことになる。

 死せる魂はこの島に「恨み」としてのみ留まりはしないだろう。「共生共死」精神ばかりは多くの場合、彼らの深奥に達したのではなかろうか。今となってはその心境に容易には近づけやしないが、集団強制死の驚くべき惨たらしさに思わず身をのけぞらせたとしても、頑是無い幼児たちは別として素直に死を受け入れた心根を思わずにはいない。

 しかしそこに「国に殉じる」という感懐も意気込みも見えてはこない。彼らが叫んだ「天皇陛下万歳」は明らかな過ちだったと今では言えるが、それは彼ら自身の内容ではなく彼らの死を意味づける形式にほかならない。特攻隊員がこれを叫ばずむしろ肉親の名を呼んだのは、その死が完全に殉死であり客観的に意味を持っているからだ。だがどちらにしろこの異常な死は現実に起こってはならないはずの死には違いない。(つづく)


詩461 現状

2013年09月09日 07時17分21秒 | 政治論

 「時間」というものが相対的なものだということはアインシュタインが既に前世紀初頭に原理的に説明したところだが、東京五輪が2020年につまり7年後に開催されると言うような話は、最初のそれが1964年に開催された頃とはひどくニュアンスを異にしていることを我々は重く受け止めなければならない。

 戦後復興と高度経済成長の真っ只中に突入していた当時は、総じて大衆的な盛り上がりが如実であり、タイミングが合っていたことは間違いない。このたびはそれと全く異なる極めてどす黒い不安を抱えた状況にあることを決して忘れてはならず、アベノミクスの空中浮遊を真に受けて、徒に「希望的観測」を煽ると、現実に進行しつつある事態(海洋環境汚染と内部被曝)にあって7年を待たずどんでん返しを喰らうことになろう。

 この夏顕著に見られたゲリラ豪雨、異常気象、竜巻などが、日本列島の最弱部分を直撃し、大震災原発事故とともにますます多くの民衆が、かつてない天与の「鉄槌」を実感せざるを得なかった。

 これといわば裏表のように、同時進行する南西島嶼における日米合作の軍拡行為は、休むまもなく島嶼民に襲い掛かり、高江では24時間体制で監視抗議活動が続けられている。いわずと知れたオスプレイパッドの建設現場だ。

 ただのヘリパッドではないし、160人の一般人が普通に暮らす自然豊かな亜熱帯樹林の「世界自然遺産」候補地である。つまり日米政府が非人道的に実行している軍産複合経済体制維持のための、全く説明できない悪行なのだが、彼らの異常な軍事的植民地主義の不動の犠牲者たる島嶼人にはおかまいなく、是が非でも続行現状維持手法を替えない、

 彼らの気違いじみた覇権主義がこのまま無事に済むとは到底思えないにしろ、現実に自然破壊行為を繰り返している現状にあっては、人員を増やしてこれらを是が非でもやめさせようという、高江住民、有志、の弛まぬ苦闘は、地を這うような姿で繰り返されているのだ。一方が五輪招致に浮かれているとき、一方にはこれを別世界のこととしか感じられないかたまりがあることを、日本の常民は決して忘れてならない。(つづく)