沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩470 無駄話

2013年09月18日 09時57分01秒 | 政治論

 私はこの世に「平和」を齎さんがためにやって来たのではない、却って「剣」を与えんがために来たものだ。.....この、殺伐とした救世主の自己規定を人の子の話ととるなら個人主義こそ最後の正義と勘違いしてもおかしくはない。しかしながら求道の有り様は所詮個人主義の徹底にしかない。全てを喪っても安心立命を図るのは「平和」を求める精神衛生にほかなるまいが、そこには当然「富める者」の天国に入るのは「らくだが針の穴を通るよりむずかしい」といった計算がなければならない。この何物かを捨てる、捨てていく計算のことをグリム童話には「幸せハンス」という話で語っている。7年の年期奉公が明けるとハンスは親方に暇乞いを願い出るが、給金として頭大の金塊を渡される。帰郷の途次これが重みに耐えかね馬と交換する。ところがこの馬が駆け出した挙句に振り落とされたハンスはいやになって牛と交換する。しかしこれが乳は出さぬしおまけに頭を後ろ足で蹴られまたしてもいやになって今度は子豚と交換する。勿論こうした交換価値の実効性は彼を頗る満足させるのである。そして頭大の金塊が馬や牛や子豚との交換には不釣合いなことなど少しも意に介さない。むしろ徐々に自己満足を達成しつつあるこの道程が彼にはさながら僥倖のようにさえ思えてくるのだ。しかしこの子豚が実は盗品らしいと脅かされ鵞鳥と交換する、最後に鵞鳥と砥石(将来の定職を保証する物)を交換し商取引は終了しハンスは我ながら幸運な商売をしたもんだと有頂天になるのだがこの砥石が重くて仕方がない。帰郷への道すがら井戸の水を飲もうとしてこの砥石を誤って井戸深く落としてしまう。さて身軽になったハンスは(重い砥石を井戸に落としてくれた)神に感謝し意気揚々と我が家へ帰るのだった。話はこれだけだ。グリム童話は児童向けの他愛のない教訓話の集合のように思われがちだが、実は甚だ鋭利な刃物のように「大人」をうならせる話が多い。ところでハンスの安心立命は結局胎内回帰(母親の許に帰郷すること)にほかならないが、それは永遠回帰に通じるのであり、死へ通じる。赤子の如くなければ、という聖書の文句は伊達ではない。不可知論の根拠は安心立命である。精神衛生に則った知的活動(平常心)から無欲無我な時代批評が生まれる。(つづく)