「密室の戦争」日本人捕虜、よみがえる肉声 片山厚志NHKスペシャル取材班 岩波書店刊
https://www.youtube.com/watch?v=cIL1xX_Rjvc
これは、2015年8月にNHKスペシャルで放送されたもので、内容は本を読んでもらえば、あるいは映像を見てもらえばわかる。この中で、戦時中、中曽根康弘元首相の同期で大学同窓だった稲垣利一氏に関する話は、現代人にとってはっきりと、極めて重要な普遍的な示唆を与えるものとして見れると思えた。この時あった彼の中の最後の葛藤は、同時に人としての当たり前の心理的な揺動で、だからこそその後の彼の決断(戦争相手国に対する日本兵捕虜等の懐柔宣撫策協力)の意味が深いと言える。同じころドイツで、個人的な心的葛藤の推移を全く見せずに他人のために命を投げ出したコルベ神父は、初めから一人で自由に思考し、判断し、実際に行動できる資質の人だったのだろうが、利一氏のそれは、日本人ならではの極めて道徳的な真情を開陳していた。我々は彼の中に、古いけれど極めて高潔な思念を看取するが、同時に、これとは別に、時勢に流されやすい一般的な日本人の性向を何となく垣間見させるようで切ない。実際、当時の連合国の日本人分析内容はかなり痛切に今の我々に突き付けられる。おのれの考え、おのれの判断、おのれの行動基準に従えず、常に周辺事情に沿って生きる日本人の性向。
他の何人かの日本兵捕虜に関することは、事実上この稲垣氏の決断に極まるのであって、稲垣氏が生きた戦争時代がいかに人間の本性を試し、生き方を問い、「殺し殺される」異常な世界が、人をどのように駄目にするか、はっきりと自覚させる。国と国の戦争は言うまでもなく人と人との殺し合いにほかならず、その「ひと」は、どうにもやるせない生きた感情と心理を持つ、生身の苦悩を生きなければならない普通の「ひと」なのだ。戦時の言動が、戦時だから許されるのでないし、全ては「上官の命令」によっていた事実は命令に従った下級兵の、戦時下差し迫って否応なく選ばされる境遇であり、これを戦後に炙り出し、掘り出して裁く戦勝者側の行為は「報復」や「復讐」に彩られるが、たとえその戦争犯罪の最高責任者に言及する話でも、一方で、残された実行兵(実際に外人捕虜を殺すことになる兵士)の心情にはその後晴れ間の来ることはない。彼等は一様におのれの死をこそ望むという。戦争捕虜として?否人間として。
捕えた捕虜を斬殺する。その直前の写真がある。彼は日本刀ですぱりと首を切り落とす。観客(これを見ている兵士たち)は、きれいに切ったと称賛し、彼はこれを誉とする。しかしこれは勿論上官が斬れと言ったからやったことであって、彼自ら進んでやったことではない。だが自身が捕虜となり様々な尋問を受けるうちに、その(命令に拠る)行為が恐ろしい悔恨を彼の中に呼び覚まし、激しく打ちのめされ、「ひと」として絶望の底に突き落とされる、ということが起きる。(我々の中の或る者は、ドストエフスキーの「罪と罰」を想起して、普通の人が、戦時とは言え、やはり、普通の人を殺したなら、いずれにしろ、到底その事件のインパクトに堪え得ないおのれの、人間としての自然な心性をいやと言うほど味あわされ、「罪と罰」という主題の深い意味こそ、思い知らされると理解するであろう)
総体的に見て、戦争は結果的に向後の平和実現をその大前提とするはずなのだが、その事後の人間に現れる戦場後遺症は実際上計り知れないと言える(その実例は米国ベトナムイラク等帰還兵に如実に現れている)。「自衛のための戦争」、「正義の戦争」、「単なる領土拡大のための戦争」、など、人類史は様々な理由を付けて行った数多の戦争の歴史を見せつけるが、何処にも、戦争現場の当事者である一般兵士が自ら惹き起こすような戦争は見当たらない。全ては時の為政者や権力者、あるいは実際には(人殺しに)手を染めない一部の指導者たちが起こしている。何が問題かと言えば、こうした参謀たちの脳髄には実際に殺し殺される兵士たちの身の上のことは決して去来しないということであり、戦争を起こすものと戦争をさせられるものとの純然たる乖離があり、そこに、実際の戦争の消しがたい暗黒性が横たわり、上意下達の軍事行動の、機械的非人間性が、苦痛に満ちた残酷な現実を血と共に地上に刻み込む。それは永遠に拭えない血痕として残る。こうして、逃れようもなく苦しみ続けるのは、命令され戦争をさせられる者だ。国家は常に正義ではないし、過つことさえしばしばあり、この場合、人として考え判断し行動することを選択するのが、「自由」の価値を深くも現実に生かすことになる。(つづく)