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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

エクトル・クーペル。歴史は再度繰り返すのか

2018-06-17 01:04:40 | 日記
 エジプト代表監督であるエクトル・クーペルからすれば、モハメド・サラー野負傷欠場は痛かったに違いありません。

 そして主力選手の欠場でクーペルが頭を悩ませたことも、これが初めてではありません。

 2000年、彼が率いるバレンシアはチャンピオンズ・リーグ決勝に進出するも、レアル・マドリードの前に0-3で完敗します。

 当時のバレンシアは往年にミランを彷彿とさせる4-4-2の浅いラインが特徴でしたが、軸となる最終ラインにアメデオ・カルボーネの欠場という事態が重くのしかかります。

 それでもクーペルは自身のアイディンティティである4-4-2と浅いラインでマドリーと対戦したわけですが、この試合をみたアリゴ・サッキは記者から

 「過去のミランとバレンシアは類似していると思います」

 と問われます。

 彼の答えは「確かにバレンシアは浅かった。しかし私のミランはもっと浅かったよ」と言う代物でしたが、バレンシアの戦いにひどくご満悦だったようです。

 その後、クーペルは2002年から2004年の前半までインテルで指揮を執ります。

 「さすがにクーペルでもインテルの混乱は奇異に思うだろう」
 「いや、彼こそがエレニオ・エレーラと同様の存在価値がある」

 と様々な声がもたらされます。

 結果はその半分、半分というものでしたが。

 実はクーペルは初年度、リハビリに喘ぐロナウドの復帰を慎重に捉えており、この方法論がロナウドのレアル移籍を後押しした、とも囁かれました。

 それ以上にクーペルにとって不満だったのは、オーナーのモラッティに自身の4-4-2を具現化する両翼の補強を訴えるも聞き入れてもらえず、初年度は最終節にラツイオに2-4で敗れ、スクデットは奪還できませんした。

 それでもインテルに戦術を植え付け、3位で終えたことは画期的ともいえる事柄でした。

 クーペルが希望した両翼のひとりはアルゼンチン代表のキリ・ゴンザレスでしたが、彼がインテルに加入したのは2004年、しかもクーペルが解任されザッケローニが後任監督になった時でした。

 2002年の左翼は同じアルゼンチン代表のグリーでしたが、もしここに本職のキリ・ゴンザレスがいれば。

 クーペルとインテルの運命は違っていたのではなかろうか。

 と今でも思う時があります。
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