goo blog サービス終了のお知らせ 

塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

2002年横浜、ブラジルとドイツの分かれ目の時

2014-07-12 22:31:35 | 日記
 ブラジルとドイツの分かれ目は、決勝戦で戦った横浜の夜にあると思います。

 2000年の欧州選手権の惨敗を受け、ドイツは指揮官をルディ・フェラーに変更し、若きバラックとクローゼ、そしてカーンの活躍により準優勝という望外の結果を得ます。

 一方のブラジルも3Rを軸にした3-4-2-1で5度目の世界王者に輝きましたが、両者の歩みはここから劇的に変化してゆきます。

 ドイツはこの時点で4年後、ワールドカップ自国開催という名誉と苦衷に見舞われていました。

 70年代の黄金期であれば、名誉と思えたのでしょうが、若手の台頭に乏しく、代表に新陳代謝が無いことと決別するために、ドイツサッカー協会はしがらみを吹っ飛ばすために、米国で最新のフィットネスを学んだ

 「ユルゲン・クリンスマン」

 を代表監督に指名します。

 「後進国の米国から学ぶことは無い」

 と伝統主義者がクリンスマンの練習内容に苦言を呈します。

 しかしクリンスマンはこのフィットネスが選手を向上させると信じ、同時に自分が戦術には明るくないという弱点を素直に認め、この時、ドイツサッカー史上で最大の決断であろう出来事

 「ヨヒアム・レーブの入閣」

 を決断します。

 その後のドイツの歩みは

 1・レーブの長期政権
 2・若手の台頭に困らない育成現場の充実
 3・ザマーの提唱による、若年層からの布陣の固定

 という相乗効果で現在の2014年にまでたどり着きます。

 もしクリンスマンがマラドーナのように、全てを司る、言い換えれば弱点を認めない人物であれば、レーブ招聘は無かったでしょう。

 代表監督である以上、細部にまで目を配る事は責任事項として挙げられ、疎かにしてはいけませんが、専門分野の達人に任せると言う事例を、クリンスマンは伝えています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スパイクにおける最近の流行 | トップ | 2002年のブラジル、20... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

日記」カテゴリの最新記事