「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 183 「コンピュータの本質―仮想現実」

2019-03-07 06:05:37 | 日本文学の革命
仮想現実はこのように大発展する可能性を持った技術なのである。今のところまだ3Dゴーグルを付けて楽しんでいる程度だが、もっと技術が進んだなら3Dの立体空間にもリアルな映像を再現できるようになるに違いない。さらにもっと技術が進んだなら脳に直接作用して仮想現実を見させることも可能かも知れない。この脳に直接作用する方法が仮想現実としては一番効果的だろう。どんなに3D空間の仮想現実が精巧なものになっても、人間が自分の意識を働かせている限り、どこかに現実感覚が残っているものなのだ。どんなに仮想の空間に酔いしれていてもお腹が空くと「今日の夕飯。何にしようかしら」と思ってしまうものだし、どんなに仮想空間で戦闘バトルに夢中になっていても蹴りを入れたはずみで腰を痛めたら「アイテテテッ!腰を痛めた」とすぐに現実に引き戻されてしまう。その点脳に直接作用を及ぼすときは、本人は寝ていて日常の意識はない状態なので、現実に妨げられずにいくらでも仮想の夢を見ることができる。人間は実は目や耳で見たり聴いたりしているのではなく、脳が主体となって見たり聴いたりしているのだというから、その感覚の元締めである脳に直接作用を及ぼせるこの方法は仮想現実としてまさに理想的なのである。

しかしここで困ったことが起きる。仮想現実のテクノロジーがこうまで発展してくると、仮想現実と実際の現実の区別がつかなくなってきてしまうのだ。どちらがどちらだか分からなくなって、混乱してしまうのである。たとえば仮想現実の世界では蝶になるプログラムをオーダーして、一匹の蝶になって楽しく飛びまわり、のびのびと快適に過ごしていたのに、ふと目覚めたらいつもの自分に戻っていた。蝶であった時もまぎれもないリアリティーを感じていて、今の自分もまぎれもないリアルな自分である。「いったい自分が蝶になった夢を見たのだろうか。それとも蝶が自分になった夢を見ているのだろうか」と仮想と現実の区別がつかない困った状態に落ち入ってしまうのである。

しかし仮想現実がどんなに精巧になりリアルになっても、現実の人生と区別できる特徴が二つほど存在している。それは仮想とは異なる現実の人生の二大特徴と言ってもいいものである。まず一つが「あと戻りできないこと」である。

パソコンゲームなどに特徴的なものに「リセットできる」「あと戻りできる」「何度でも繰り返すことができる」という性格がある。同じゲームを勝つまで何度でも繰り返すことができるし、ちょっとヘマをしたらその前の状態にリセットして再び再開することもできる。このような「あと戻りできる」「何度でも繰り返すことができる」ということはゲームの一大特徴なのだが、しかし現実ではそうはいかないのである。たとえば恋愛シュミレーションゲームでは何度相手の女の子から「ごめんなさい」を食らおうが、手を替え品を替え勝つまで何度でも繰り返すことができる。しかし現実の女性に対して何度断られてもしつこくアタックしたら、不審や警戒の目で見られるようになり、その内警察に通報されるのがオチである。現実の人生は刻一刻と前へ前へと進んでゆくばかりで、シュミレーションゲームのように何度も同じ状態が繰り返されることはあり得ないのである。
もちろんリセットもできない。車を運転しているときほんの5秒だけスマホ画面に見入ってしまったために、交通事故を起こして人をはねてしまった。だからといって5秒前に戻ってリセットできるかというと、決してできやしない。一度やってしまったことはもう取り返しがつかないのである。どんなに本人が、ほんの5秒だけ注意をそらしていただけなんですよ、いつもはこんなことしないんですよ、と言い訳に必死になっても、警察も裁判所もそんな言い訳を許すはずがない。かえって「こんなヤツ。もっと重い罪にしてやれ」とより重罪にされるかも知れない。やってしまったことは厳格に本人にかえって来るのである。リセットもできないし、あと戻りもできないのである。

この「あと戻りできないこと」が現実の人生の特徴なのである。われわれは生まれてから死に至るまでの間、刻一刻と自分の人生を歩み続け、さまざまなことをやってゆき、そのすべてが自分の人生に積み重なってゆくのである。リセットもできないし、あと戻りも許されない。それが仮想現実と異なる現実の人生の一大特徴なのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿