「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 185 「コンピュータの本質―情報による「人生の01化」」

2019-03-15 13:13:32 | 日本文学の革命
実は情報も「人生の01化」なのである。現代は情報化社会と言われ、コンピュータやインターネットも情報を得たり発信したりすることが第一の任務のようになっているが、この情報も「人生の01化」だと言ってもいいのである。仮想現実ほど鮮やかに人生を取り込むものではないが、やはりこれも人間の人生をコンピュータ内部に統合しようという試みなのである。

情報とは「ある目標に向かって合理的で最適な選択行路を取らせる知識」と言ってもいいだろう。A・B二つの選択行路があるとき、どちらの行路を選択した方がより合理的最適な形で目標に辿りつけるか、それを教えてくれるのが情報なのである。
たとえば横町の飲み屋で酔っ払うことが大好きなあるおやじが、新橋で一飲みしたあと、行ったことはないが最近有名な赤羽の飲み屋街に行ってみたくなったとしよう。地図アプリで検索してみたらすぐに最適なコースが表示された。「京浜東北線で30分か。割と近いな」と行ったことがない赤羽でも、すでに酔いが回っている彼でも、迷うことなく合理的で最適なコースで赤羽駅に辿り着くことができるのである。もしこのような情報ソフトがなかったなら、酔った勢いで山手線に乗ってしまい、いつまでも赤羽駅に辿り着けないまま車内で酔いつぶれていたかも知れないのである。また旅行に出かけるときも「トリバゴ」や「トラベルコ」のサイトを使えば安くて最適なホテルや旅館をもっとも合理的な形で予約することができる。商品の比較サイトを使えば様々な商品の価格を比較でき、合理的な選択を行うことが可能になる。たとえば「家電量販店で買うよりもネットで買った方が安いや」ということが露わになり、家電量販店を青ざめさせることもできるのである。
アップルとソニーの株どちらを買う方が資産運用に望ましいのかを教えてくれるのも情報だし、新製品の部品をどの会社から調達すれば最適なのかを決定してくれるのも情報である。資本主義社会ではより合理的な選択をした者やより合理的な機構を築いた者が、儲けを得ることができるのであり、この社会の勝利者になることができるのである。だからこそ合理的選択を可能にしてくれる情報というものはこの社会で必要不可欠なものなのだ。

この「A・B二つの(複数でも構わないが)選択行路のどれを選べばより合理的なのか」は、一つの「二値化」であり「01化」であり、アルゴリズムで表現されるようなコンピュータの思考法に特徴的なものなのである。情報とはコンピュータ的思考法と言ってもいいかも知れない。われわれ人間は情報化社会の中で、知らず知らずの内にコンピュータ的思考に染まってゆき、その中に取り込まれてゆくのである。

情報―つまり合理的行動をとらせるもの―を自ら望んで得ている内はまだいい。これが強制的なものになり、無理やり合理的行動をとらせようとしてくると、人間にとって苦痛となってくる。
某有名ネット企業の巨大倉庫で一日働いたことがある。本のネット通販用の巨大倉庫で、見渡す限りに棚が並び、その中に何十万冊もの本が並べられてある。それを注文書に沿ってピッキングしてゆく作業なのだが、作業の前にバーコードを読み取るハンディが渡された。それは小型コンピュータが搭載されたハンディで、小さな画面があり、そこに指示された命令に従って棚からピッキングしてゆくのである。小型コンピュータが「A棚の13番に行って三冊取って来てください」と指示したらカートをガラガラ押して指示通りの場所まで歩いてゆき本を取ってくるのである。次に「B棚の4番へ」と指示されたらB棚の4番へ、次に「G棚の56番へ」と命令されたらG棚の56番へと歩いてゆき、それが際限なく続くのである。もっとも合理的な形で指示してくるのだろうが、こちらにしてみたらまるでロボット扱いである。さらにはバーコードの押し方が悪いだとか「もっと早く歩いてください」と文句を言われ、しまいには「あなたの現在のピッキング作業能率は最低のCランクです」と言ってくる始末。だんだんこのハンディが憎たらしくなって「うるせえんだよ。この野郎」とつぶやきたくなったほどである。そうやって人に命令してくるくせに、自分はしばしばフリーズしたり、電池切れで消えてしまったりするのである。しかも戻ってきても「ごめんなさい」の一言もない。相も変わらず合理的な命令を強制してくるだけである(作業能率の低さについて言い訳させてもらうと、実は作業をしながら本の背表紙を読んでいたのである。実に様々な本が並べられているので、本好きの僕としてはどんな本があるのか興味津々である。中には手にとってよく見たりもしていた。まったく非合理的行動をしていたので、作業能率も悪くなるわけである)。
先日テレビで見たのだがこの企業の倉庫は今や全面的にロボット化されていた。お掃除ロボットを一回り大きくしたような機械が棚をかかえて走り周り、作業を行っていたのである。ロボットとは合理的行動のかたまりであり、プログラムされた合理的行動しかしない究極の合理的存在である。もちろん人間みたいに文句も言わないし、非合理的行動もしない。情報企業にとってはまさに使い勝手のいい存在なのだろう。

情報による「人生の01化」について、もう一つ言いたいことは「われわれ自身の情報化」である。
ソビエトや東ヨーロッパなどの旧社会主義国では民衆一人一人を支配管理するためにその個人の「台帳」(たしかこんな名前だったが、正確には覚えていない。ただ中国にはまだ現存している)なるものが作られていた。これはその個人の年齢・性別・出身地・経歴・職業・家族構成などありとあらゆる情報が記載されているもので、一人分が電話帳数冊分にもなる程の膨大な量で書かれている。よくもまあここまで個人情報を調べ上げたものだと感心するが、旧社会主義国は「国家という名の収容所」と呼ばれるほどの厳格な支配体制を敷いていたので、その基礎としてこのような個人情報の把握が必要だったのだろう。ここまで綿密に調べ上げられたら、まさに個々人にはどこにも隠れようがないのである。向こうはこちらのことを何でもお見通しなのであり、いくらでも支配下におくことができ、いくらでも思うがままに動かすことができるのである。
これと同じような事態が今起ころうとしているのである。コンピュータやインターネットを使えば使うほどその個人の情報が知らないところで蓄積されてゆくことになる。年齢も性別も居住地も、家族構成や買い物履歴も、個人の活動履歴から生じた情報がどんどん積み上がってゆく。その個人の趣味や言動や思想状況も情報として記録されてゆき、その個人の性格を特定するのに役立つことになる。「このエッチなビデオを夜中こっそり見てただろ」というような人に知られたくない情報まで筒抜けになって記録されてしまうのである。その情報量はたちまち旧社会主義国の「台帳」に匹敵するものになるだろう。個人はこのような「情報の総和」として把握されてしまうのである。いくら「個人情報の保護」を唱えたところで、盗み出すヤツはいくらでもいるし、権力や金力をカサに着て見てしまうヤツもいる。中国みたいに国家ぐるみでやっている国もある。個人を「情報の総和」として把握してしまうと、いわば計算可能な対象として合理的に(「思うがままに」と言いかえてもいい)操作することが可能になるのだ。われわれ自身がひとつの情報と化し、情報として支配されるようになるのである。
これなどはまた違った意味での情報による「人生の01化」だと言ってもいいだろう。