「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 184 「コンピュータの本質―仮想現実」

2019-03-10 13:31:27 | 日本文学の革命
仮想現実と現実の人生を区別できるもう一つの特徴が「予測できないことが起こる」ことである。われわれの現実の人生行路はこの「予測できないこと」に満ち満ちているのである。
子供時代にどんな体験をするのか、誰と友達になるのか、どんな遊びに興じどんな趣味を持つのかは、本人はもちろん親兄弟にも誰にも予測できない。学校時代に何を学ぶのか、どんなクラブ活動をするのか、どんな進路に進んでゆくのかも前もって予測することはほとんど不可能である。どんな職業に就くのかも、誰と結婚するのかも(おとぎ話で占い師が若い娘に未来の夫の姿を水晶の玉の中に見せてやる話があるがこれなどはロマンチックでよろしい)、その後どんな人生遍歴を送ってゆくのかも、ほとんどが運次第である。どんな子供が生まれるかも、その子がどのように育つかも、果たして孫が見れるかどうかも、そしていつどのように自分が大往生を遂げるのかも、誰にも予測できない人生の神秘なのである。現実の人生は予測のできない力に支配されていて(この力はよく「運命」と呼ばれている)、合理的な計算によってその行路を予測することは―極めて近視眼的なものを除いては―できないのである。

ロールプレイイングゲームでは結末の予想がつかず、プレイヤーによって異なってくるから、多少人生に似ていることは確かだが、しかしどんな結末になろうがそれは「想定内」のこととして予測可能なのである。実験用のラットの前にA・B・C三つの道を用意してその向こうにエサを置いておく。エサに向かったラットがA・B・C三つの道のどれを通るかは確かに分からない。しかしどれかを通るのは確かなのであり、そういう意味で「想定内」のことであり予測可能なことなのである。

これが一人一人の人生が織りなされてつむぎ出される巨大な織物―「歴史」になると、この予測不可能性がより一層はっきりしてくる。歴史はまさに「予測できないこと」に満ち満ちているのである。
たとえば幕末から今日に至るまでの日本の歴史を見てみよう。三百年の太平無事の世を謳歌していた江戸末期に突如黒船がやって来るなどほとんど誰も予想しない驚天動地の出来事だった。それからわずか15年で巨大な江戸幕府が崩壊してしまうことなど誰一人予想できなかったに違いない。その後西洋新文明の大流入が起こることも、それを吸収した日本がわずか30年で日清日露に勝利して列強の仲間入りすることも、ほとんど誰も予想していない出来事だった。列強の一つになってこれから発展してゆくだろうと思った日本がその後急速に衰退し(漱石のように日露戦争後の日本を見て「滅びるね」と予言した少数者を除き)太平洋戦争を起こして滅んでしまうとは一体誰が予測できただろう。
戦争末期ほとんどの日本人が「日本はもうこれでお終いだ。日本民族はもう滅亡だ」と絶望し自決した者までいたのに、その後また予想をはるかに上まわる事態が起こった。日本人の生命の大高揚が起きたのである。国家も社会も崩壊した廃墟と焼跡の中、食べ物も満足に得られないという環境の中で、日本人の生命がものすごい勢いで燃えあがったのである。三島由紀夫はこの時代を生きた人物だが、彼はこの戦争直後から10年ほどの時代のことを「真夏の時代」と呼んでいる。「この時代には退屈だとか倦怠だとかを感じた者は一人もいなかっただろう」とまで述べている。それほどまでに熱い時代であり、人々の生命が燃えあがった時代なのであった。ベビーブームも沸き起こり保育園も子ども手当もないのに女性たちがバンバン子供を産んで出生率が大上昇した時代でもあった(今日の日本―繁栄し食に溢れ生活保障も行き渡っているのに、多くが「退屈だ」「虚しい」と生命感を失っている時代と、好対照である)。この「真夏の時代」を生き抜いた人々がその後の世界に冠たる日本経済を築きあげたのである。日本は滅びるどころか、誰も予想しなかった空前の繁栄期に入ったのである。
高度経済成長を経て、バブルの金満期が到来し、誰もが日本のこの繁栄はいつまでも続くと確信していた。しかしここでもまた予想を裏切る事態となる。バブルが崩壊し、日本は止めどもない長期衰退期となったのである。世界最強を誇った日本経済は衰退し、日本的経営も崩壊し、日本は日増しにじり貧になってゆくばかりとなったのである。そしてこれからどうなってゆくか。日本がどのような運命をたどってゆくかは、やはり誰にも予測できないのである。

現実の人生の二大特徴として「あと戻りできないこと」と「予測できないことが起こること」をあげたが、実はこれと真逆のことがゲームや仮想現実の二大特徴なのである。つまり「あと戻りできるし何度でも繰り返すことができる」ことと「すべては計算可能であり予測可能である」ことである。この二つがゲームや仮想現実の本質的特徴を成しているのである。仮想現実がどれほど現実とそっくりになろうと、本質的な部分でそれは現実と異なっているのである。
たしかに仮想現実には現実の人生では味わえない面白い体験やあり得ない体験や夢みたいな体験を好きなだけできるというメリットもある。しかしその際われわれは現実の人生の運行から遮断されて「別の世界」に不可避的に入ってゆくことになるのだ。仮想現実が映し出される3D空間もあのカプセルも3Dゴーグルもある意味現実の人生からの遮断である(3Dゴーグルは現実からの「目隠し」みたいな印象がある)。そのような遮断された状態で「別の世界」に強制的に連れ去られてゆくのである。

このわれわれを連れ去ってゆく「別の世界」とは何なのだろう。実は先ほど述べたゲームや仮想現実の二大特徴は、そのまま科学や数学やコンピュータなどの合理主義的世界の二大特徴なのである。「何度でも繰り返すことができること。シュミレーションできること」は科学法則や科学実験の特徴的性格だし、「すべては計算可能であること。予測可能であること」は数学の理想であり一大特徴である。そしてこのような合理主義的世界の特徴はまさにコンピュータの特徴そのものなのである。
つまりこの「別の世界」とはコンピュータ内部のことだと言ってもいい。われわれは仮想現実に耽ることによってコンピュータ内部に取り込まれてしまうのである。これまで「視覚の01化」だとか「音声の01化」だとかで人間の諸感覚がコンピュータ内部に統合されてゆくことを書いてきたが、仮想現実はその究極の形なのである。それは「人生の01化」だと言ってもいいだろう。われわれの人生そのものがまるごとコンピュータ内部に統合されてしまうのである。
「人生の01化」それが仮想現実の本質なのである。