「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 186 「コンピュータの本質―人生と非合理的情熱」

2019-03-17 14:00:30 | 日本文学の革命
情報化社会とは情報とそれによってもたらされる合理的行動を何より重視する社会である。合理的行動を取ったり取らせたりすることによってこの社会は成り立っているのである(ただその究極の形はAIやロボットの社会なのだが。AIは合理的行動を取らせる究極の存在であり、ロボットは合理的行動を取る究極の存在だからである)。では人間がよくしてしまう非合理的行動には何の意味もないのか。それは排除すべき無駄でしかないのかというと、実はそんなことはないのである。

ある若者がリヤカーを引いてアフリカ大陸を縦断する計画を立てた。リヤカーに寝床だの食料だのマンガ雑誌だのを積んで、それを自力で引いて、アフリカ大陸の北端から南端までサハラ砂漠や熱帯ジャングルを貫いて歩いて縦断しようという計画である。彼はたいへんな情熱に駆られてこの計画の実行に突き進んでいった。しかしこんなことをしてももちろん何の得にもならない。何か給料が入る訳でもないし、アルバイトで貯めた多額の資金を無駄に浪費するだけである。何か立身出世に役立つ訳でもなく、逆にこんなことをするヤツは日本の会社では敬遠されて面接で落とされるだろう。それどころか強盗やマサイ族やイスラム原理主義者に襲われて命を落とす危険性もある。合理的に考えてみたら、全く割が合わない非合理的行動なのである。
しかしこの一見すると非合理的な情熱や行動も、かつて人類の発展に多大の寄与をしたのである。数万年前人類はアフリカから出て世界中に拡散して行った。「グレートジャーニー」と呼ばれる人類の大移動であり、アジアやヨーロッパや南洋、果てはアメリカ大陸の南端にまで到達したという人類の大旅行であり大冒険行である。この結果人類は今日にまで通じるような大発展を獲得したのである。この「グレートジャーニー」を可能にした原動力は原始人類の「情熱」だったろう。ただ単に獲物がいそうだからとか暮らしやすそうだからとかそういう理由だけで、雪原や山脈や荒波をかき分けて万里の道のりを旅できる訳がない。やはりそこには原始人類の胸の内に熱い「情熱」が燃えていたのであり、その非合理的な力に突き動かされて人類は「グレートジャーニー」を達成できたのである。
そう考えるとこの若者の無謀で非合理的で何にもならない行動にも、実は意味があり、かつて人類を「グレートジャーニー」に突き動かした熱い情熱が彼の中でむやみに燃えあがったのである。それはたしかに現代社会では、意味もなければ用もない非合理的情熱だが、かつてはこれによって人類は大躍進を遂げたのであり、またこれからの時代にもあるいは役に立つ時が来るかも知れないのである。

人間のこのような非合理的な情熱や行動は、まったく計算に合わない非論理的でバカげたものかというと、案外そんなこともないのである。非合理的な情熱や行動に賭けた方が、普通の合理主義よりもより合理的な結果がもたらされる場合もあるのだ。
ある女の子が舞台女優になりたくて劇団の面接を受けにやって来た。ただその女の子は背が低くまるっとした体型のちびまる子ちゃんだった。舞台女優には到底向いていない体型の持ち主だったのである。劇団の人たちもそのことを指摘して彼女に舞台女優になる夢を諦めさせようとした。「やはり舞台女優というのはこう、宝塚女優みたいにね、スラリとして、八頭身で、ああいう体型をしていないと務まらないものなんだよ。君みたいなちびまる子ちゃんには無理なんだよ」と説得したのだが、その女の子はまったく諦めようとせず、劇団に入れてくれと迫るばかりである。困った劇団の人たちは最新のAIソフトを使って彼女が舞台女優になれるかどうか予想させてみた。結果は「3.7%」。間違っても無理という数字である。しかし女の子は諦めようとしない。何がなんでも舞台女優になりたいのだという。それには理由があり、彼女が小学生のとき旅周りのシェイクスピア劇団が彼女の学校に来て体育館で『ヴェニスの商人』の上演をした。同級生のみんなと一緒に見たのだが、その楽しいこと楽しいこと、ワクワクしながら舞台に見入っていた。ハッピーエンドでヒロインと主人公がキスしたときには(顔を隠して振りをしただけだったが)会場中にどよめきと歓声が沸き起こり、会場全体が一体化したような喜びに包まれた。彼女にとっていつまでも忘れられない素晴らしい体験となり、いつか自分もああいう風に舞台に立って人々を喜びと感動で包みたいと舞台女優に憧れるようになったのである。それから何年が経っても彼女の情熱は高まるばかりだった。残念ながらその間背丈は伸びず、ちびまる子ちゃんになってしまったが、彼女の情熱は衰えることなく劇団に入れる年齢にもなったのでこうして劇団員に応募したのである。
このちびまる子ちゃんが舞台女優になれる確率は「3.7%」である。しかしこれはその時その場での一回限りの確率のことであり、失敗にめげることなく何度も何度も挑戦を繰り返してゆけばなれる確率は高まってゆくのである。それが50回に達したとしよう。すると成功確率は「97%」まで高まってしまうのである。大成功間違いなしの数字だが、何度も何度も繰り返していると確率論的にそうなってしまうのである。ちびまる子ちゃんでいえば50回もオーディションに落ち続けるということであり、それに耐えて修行を積み挑戦し続けるということはたいへんな精神力が必要であるが、彼女の情熱がそれに打ち克てるほど強かったならついには成功確率「97%」まで至ることができるのだ。ある時ある監督がちびまる子ちゃんの姿を見て「なんて惚れ惚れするほど小さいんだろう。まるっとしている所もかわいい。今度の舞台の主演女優にピッタリだ!」と合格の通知をしてくる日が必ず来てしまうのである。
彼女に成功をもたらしたのは、彼女の―無謀で非合理的であるが―不撓不屈の情熱である。なんとしても成し遂げたいという熱い情熱が道を開いたのである。彼女の非合理的な情熱や行動が「無理だ」という合理的判断に打ち勝って舞台女優になるという彼女の夢をかなえたのであった。

情報化社会の中合理的な判断や行動ばかりが求められているが、非合理的な情熱や行動にも意味はあるし効用もあるのだ。もしかしたらこの非合理的なものの方が人間にとってより重要かも知れない。岡本太郎は尊敬する人物で、彼の本も長い年月愛読してきたが、その中の一節を引用しておこう。
「生きる―それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどといってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世に何故生まれて来て、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。
だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生きぬいてきたのだとぼくは思う」

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