「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 262 「コンピュータの本質ー数学とは何か 9 」

2023-02-04 11:54:06 | 日本文学の革命
「外界」は我々が活動する生命に満ち溢れた場所であるが、同時にありとあらゆる危険をもって我々を取り巻いている「死と隣り合わせの場所」という特徴も持っている。さらには死後に我々が消えてゆく場所でもあり、ある意味我々の存在を飲み込もうとしてくる「怖しい世界」でもあるのだ。「外界」に特徴的なものとして何らかの法則が存在していると述べたが、この法則もまた実は死と関係しているのである。法則が全面的に適用できるのは「死んだもの」に対してだけなのだ。「死んだもの」あるいは物質的なもの無機的なものだけに法則は適用できるのであり、「生きているもの」あるいは生命的なもの有機的なものに対しては限定的な形でしか適用できず、どうかすると全く適用できないのである

法則が適用できるためには適用しようとする対象が明確に固定化していなければならない。いろいろ変化したり定義できないような対象では法則は適用できないのである。地面に転がっている石や岩石のようにそれ自体動くこともなく変化することもない無機的な存在「死んだもの」こそが望ましいのだ。そのような変化しない対象だからこそ「これは建築資材に使えるな」「この重さは漬物石にちょうどいい」「この堅さの石をぶつけてやればアイツさぞかし痛がるだろう」と論理的な判断が下せるのである。ところが「生きているもの」の第一の特徴は変化することなのである。生まれた時の小さな状態からどんどん成長してゆき、青年になり、壮年になり、老年になり、そして最後には死んでゆく。この間毎日毎時間、あるいは一瞬たりとも同じ状態を留めることはないのである。生きている限り時間と共に変化し続けるのであり、変化が止まるのは「死んだもの」になった時だけなのだ

対象の性質や活動も明確に固定化されていなければならない。太陽系の活動は明確に固定化されていて変化することはない。我々が地上から見ると太陽は毎日規則正しく登っては沈んでゆくし、月や金星も規則正しい軌道を描いて空を巡ってゆく。何万年経とうが変化することはない。このような明確で固定化された活動を見抜き予測することから法則が生まれるのである。ところが「生きているもの」の大きな特徴は予測不可能な動きをすることなのである。例えばある人間が今日のお昼会社の社員食堂で何を食べるのかを予測することは困難である。麺類を食べるのか、日替わり定食を食べるのか、あるいはサラダボールで済ませるのか、前もって予測することはできない。大体の傾向なら予測することはできる。脂っこい麺類をガッツリ食べたがる男もいれば、サラダボールしか食べないダイエット中の女の子もいる。しかしそれはあくまでおおまかな傾向であり、明確で固定的な予測ではないのである。メニューの限られた社員食堂でもこの有様なのだから、この人間たちを食堂のひしめく街中に放ったらどんな行動を取るのかさらに予測不可能になるだろう

法則の大きな特徴として「いつ・どこで・だれが」やってもその結果は変わることがないというものがある。例えば高い塔から物を落とせばいつ誰がやっても物は加速度を増しながら落下してゆく。ボールを遠くに放り投げたらボールはきれいな放物線を描いて飛んでゆく。風の強い日を除けばいつどこで誰がやっても変わることはない。アントツィアニンを含んだ水溶液に濃塩酸をたらすと水溶液は真っ赤に染まる。これもいつ誰がやっても実験室で起こすことができる現象である。このような常に繰り返すことができる普遍性こそがまさに法則なのだ。ところが「生きているもの」にとって決定的に重要なのは「いつ・どこで・だれが」やったかなのである。それによって結果は千差万別になるのである。さらにはその結果は一度限りであり、法則のように二度とは繰り返されることがないのである

例えばある男が女性にプロポーズする時も「いつ・どこで・だれが」やったかがまさに決定的なものになる。二人の仲が深まり、二人の思いがつのり、そして二人とも婚期が来たまさにその時にプロポーズは行われるべきなのである。場所もどこでもいい訳ではなくできるだけムードのある場所で、女性の胸をときめかすようなシュチュエーションで行うのが望ましい。もちろん相手も誰でもいい訳ではなく「この人こそ!」と思いを決めた人にプロポーズを行うのである。この決断にその後の自分の人生がかかっているのだからまさに「この人!」でなければならないのだ。結果も千差万別である。うまくいって彼女がプロポーズを受け入れてくれるかも知れない。あるいはすげなく「ごめんなさい」を喰らうかも知れない。人によって時代によってプロポーズもその結果も千差万別なのである。そして数多くの人間の中でこの二人が結ばれたということ、それは一度限りのことであり、法則のように二度とは繰り返されることのない彼らの運命なのである

法則が厳密に適用できるのは物質的で無機的なもの「死んだもの」だけなのである。もちろん「生きているもの」も肉体という形で物質的なものを持っており、決して全面的なものではないが法則の支配は受けている。また石や太陽系のような物質的なものも決して変化しない訳ではない。地面に転がっている石もかつてはマグマとして噴出して来た物かも知れないし、海底に堆積しプレートに押し曲げられようやく地面に出てきて今はそこに転がっているのかも知れない。太陽系も誕生した時には凄まじい大変動とエネルギーに満ちていたのであり、今我々が目にしているのはその冷え固まった結果だけなのかも知れない。しかも石も太陽系もこの先また何らかの大変動を起こすかも知れないのである。ただその成長は何万年何億年という長さで起こるので我々には感知することができず、そのため永遠に変わらない法則のように映るのだろう

この世界には合理的な法則が適用できる物質的無機的な面もあれば、合理主義的予測ができない生命的有機的な面もあり、両者は混在して相互に影響し合っているのである。決してどちらか一方だけでー合理主義で全てを律しようとする現代の世界観のようにーこの世界はできている訳ではないのである

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