アエラという雑誌に連載されていた、養老孟司氏の掲題コラムが最終回になったという。池田晶子さんも一目置いていた方でもあり、アエラのこのコラムは必ず読んでいた。
最終回において養老氏が端的に言うには、「人は結局、世のため人のために生きている。」というものだった。
「あの世のことは知らないが、この世では死んだ本人は死んでも困らない。困るのは、生きている人である。私が講演の直前に死んでも、困るのは講演の主催者なり聴講者であって、私は何も困らない。」(掲題連載コラムより)
養老氏の言葉は、当たり前のことをユーモアっぽく語っているように思えるのだが、これをユーモアと捉えると、事の本質をなにもわかっていないということになるのだろう。自分が死んでしまえば、自分は無になってこの世にいないのだから、自分が困るということはありえない。あの世から自分の魂が、申し訳ないと思っているかもしれないが、そんなことはこの世ではわからないし、あの世のことは我々はわからない。
上の文章の後、養老孟司氏は、「自分の命は自分のものではない」ということが、最近の教育から抜け落ちていると指摘する。かつてそのことは、キリスト教が自殺を悪としていたように、宗教が補っていたとする。確かに、宗教に依拠することにより生きることは、ある意味精神的な支えを得ることができよう。しかし、哲学は何故そうなのか、を考える。
人は世のため人のために生きている、自分の命が自分のものではない、ということはどういうことか。人のため、というのは自分以外の人のため、ということだろう。だが、自分とは何か、すら答えはなかったはずだ(nobody)。自分とは何かがわからないのに、自分以外の人のためというのは、一体誰のためなのか。同じように、自分の命とは誰の命なのか。そもそも、人間は命を作ることさえできない(蚊さえ作れない)。人間は単に自然の摂理により、命をつないで子を作っているだけだ。自分とは、命とは、というこの当たり前の不思議さに、考えがどこまで及ぶのかわからないが、考えるしかないのである。
最終回において養老氏が端的に言うには、「人は結局、世のため人のために生きている。」というものだった。
「あの世のことは知らないが、この世では死んだ本人は死んでも困らない。困るのは、生きている人である。私が講演の直前に死んでも、困るのは講演の主催者なり聴講者であって、私は何も困らない。」(掲題連載コラムより)
養老氏の言葉は、当たり前のことをユーモアっぽく語っているように思えるのだが、これをユーモアと捉えると、事の本質をなにもわかっていないということになるのだろう。自分が死んでしまえば、自分は無になってこの世にいないのだから、自分が困るということはありえない。あの世から自分の魂が、申し訳ないと思っているかもしれないが、そんなことはこの世ではわからないし、あの世のことは我々はわからない。
上の文章の後、養老孟司氏は、「自分の命は自分のものではない」ということが、最近の教育から抜け落ちていると指摘する。かつてそのことは、キリスト教が自殺を悪としていたように、宗教が補っていたとする。確かに、宗教に依拠することにより生きることは、ある意味精神的な支えを得ることができよう。しかし、哲学は何故そうなのか、を考える。
人は世のため人のために生きている、自分の命が自分のものではない、ということはどういうことか。人のため、というのは自分以外の人のため、ということだろう。だが、自分とは何か、すら答えはなかったはずだ(nobody)。自分とは何かがわからないのに、自分以外の人のためというのは、一体誰のためなのか。同じように、自分の命とは誰の命なのか。そもそも、人間は命を作ることさえできない(蚊さえ作れない)。人間は単に自然の摂理により、命をつないで子を作っているだけだ。自分とは、命とは、というこの当たり前の不思議さに、考えがどこまで及ぶのかわからないが、考えるしかないのである。