哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『民族とネイション』(岩波新書)

2011-02-17 00:34:34 | 
 題名の通り、民族と国家に関する本である。一般的に国家の形成について、民族という括りで一体性を強調されることが多いが、この本を読むと、決して「民族」というものは、先天的なものでも一義的なものでもなく、きわめて多義的・多面的であることがわかる。具体的には、民族という括りを作る要素は、血縁、言語、宗教、生活習慣、文化などから、自分たちが共通認識を持った要素がその民族を形成するという。つまり、民族というものは、自身たちの思いこみによって作られたものにすぎないということになるのだ。

 血縁的な遺伝を先天的と考えやすいが、これも必ずしも科学的な話ではなく、当事者が思い込んだ共通認識でしかない。例えば日本人という括りでも、顔つきなどで南方系や北方系とかいわれるように、歴史的にも地域を超えて混血が発生しており、どの要素で日本民族という括りにするかは、まさにその当事者が作り上げた認識によるしかないのだ。言葉の共通性だって、方言か異なる言語かの区別も明確な基準はないというのだから。


 この本の内容は、池田晶子さんなら、まさに我が意を得たり、と言うことだろう。池田さんは一足飛びに、何者でもない、という境地へ飛んでいくが、そこまで飛ばなくても、よく考えれば、国家も民族も、そこに我々が帰属意識をもつからそこに属するわけで、そうと思わなければ、そこに属することにもならないという、当たり前のことに誰でも気づくことができる。


「私が日本人なのは、何者でもない「私」が、たまたま私、池田某であり、それが生活の便宜上、日本国政府に税金を払っているからである。その意味では、確かに私は日本国民である。しかし、それだけのことである。・・・国家なんてものを目で見たことのある人はいないように、民族なんてものを目で見たことのある人はいないのである。なるほど、似たような顔かたち、似たようなDNA、それらは確かに目に見える。しかし、それらの顔かたち、それらのDNAであるところのその人そのものは、目に見えるものではない。誰でもない。「私」なんてものを目で見たことのある人はいないのである。」(『私とは何か』「私は非国民である」より)



 表題の本の最終章の方では、ナショナリズムの良し悪しについて分析しているが、どんなナショナリズムでも結局は排他性や不寛容を作り出しやすい性質を有しており、そのような暴力的な性格を強める前に対策をうつ必要性が述べられている。ただ、ナショナリズムを前提にしておいて、それに歯止めを掛けるのは、いかにも困難なことかと思う。