ここのところ、新緑のころとはいえ、夏日のような日が
つづいている。
散歩コースの川俣公園の樫や椎も少しづつ若葉に変わり、
枯れ葉を落としている。
落ち葉を集める軽トラックがあって、おじさんが集めていた。
そこまでするのかあ。落ち葉のない公園。
散歩以外はほとんど部屋のなかで暮らしている。
テレビの脇に、薄紫と白い可憐な花が、可愛い花瓶に二輪差しで
置かれてあった。
妻は、偶に洒落たことをする。気持ちがやわらぐ。
二輪差しがあるのと、無いのとではそこの世界がちがって見える。
そこに、在るというだけで、世界が変わるんだとおもった。
今度は、「ねえねえ、玄関に燕が巣をつくりはじめた。どうしよう」
聞いてきた。
「へえ」と懐かしい気持ちになった。
それも、わが家の軒下に、かあ。
妻は、巣の周りがフンで汚れることを心配したのか、出入りする
燕を追い払おうとした。
「燕ほもう、ここと決めているらしく、巣作りをやめないのよね」
玄関にでて、換気扇の上を見たら、確かに2羽が出たり、入ったり。
つがいの燕。
人を危険視してないんだよなあ。
どこかで、人のそばにいたら、安全・安心という認識が代々
伝わっているのか。
人が人を危険視する世界とは異なるようだ。
ある夜、妻が「居るわよ、いるわよ。巣の中に」とレポートしてくれた。
「写真とっておくか」
妻は、夜中に燕の巣に、自撮り棒につけたスマホで燕を撮った。
少し巣が小さく窮屈そうである。
子どもができたら、どんな感じになるのか、心配している。
翌日、巣を見に行ったら、もぬけのから。
留守が気になるのである。何度も見上げた。その度に、目まいに
おそわれる。
それでも、家族の一員を受け入れたような感覚でいるらしい。
そこで暮らしてくれることに親しい気持ちが湧いている。
巣をつくりわがもの顔の燕かな