どんよりした一日。小雨が降っている。
毎週水曜日の午後は「じじいの会」なるものを、ぼくのところで
やっている。
寄っているのは、鈴木英二、高崎広、中井正信。
それぞれの話題を出し合っている。
今日は、中井さん一人だった。
中井さんは、鈴鹿に住む人たちが、気軽に立ち寄って、ちょっとした
身体の健康上の心配や、そのほか近所同士でも話ができる「暮らしの
保健室」が実際に出来上がって行くことをめざしている。
鈴鹿や亀山、四日市など、地域の人たちが隔てなく話し合える場を
作りたいという人たちと話し合いを続けている。
街のお医者さんや、地域の在宅医療や介護、看取りの専門の方にも
会いにいっている。
中井さんのこんな暮らしの発端は、病や死について、もっとオープンに
語り合える場がほしね、ということだった。
ぼくも、何年かいっしょに動いたけれど、僕自身が重度の心不全状態
になり、療養暮らしになっている。
今日は、31歳の若き医師にあって、話してきたと報告してくれた。
「在宅医療、看取りと言っても、最後は本人の納得と覚悟だろう」
若き医師は語ったという。
ぼくが、「もう手の打ちようがなくなったときは、延命治療は
しないでほしい」と考えていると呟いた。
中井さんは、死がまぬがれないものとなっているとき、「納得」
とは、親近の人たちの話しや気持ちを受けとることであり、「覚悟」
とは、たとえ死の間際になっても、「死んで欲しくない」と願う周囲
の人と最後まで生きるということもある、と思ったという。
実際、中井さんの母が亡くなるときがそうだった。
死は本人一人だけのものではないと思うんだ、熱を込めて話して
くれた。
聞きながら、ほんとにそうかもしれないなあ、と思っていた。
そして、最後に、「実際そのときになってみないと、分からない
よね」とぼくは言った。
「それは、そうかもしれない」と中井さんも相槌打った。
別れたあと、心に浮かんで来ることと、しばらく付き合った。
「なんで、こんなにまでして、生きようとしているのだろうか?」
たまたま夏目漱石の「硝子戸の中」という随筆を読みはじめた
ところだった。
毎日、部屋の中にいると周囲の風物もきわめて単調に見えてくる。
人の出入りがあると、興味のあることが起こる。
ある日、話しを聞いてほしいう女の人が来て、げんざいの心情を
打ち明け、小説にしてもいいと話していた。
何回目かの訪問のとき、「その女の人は生かすように書きますか、
死んでしまうように書きますか」という問いを漱石に投げかける。
美しい恋が破綻して、生死の間を彷徨っているふうだった。
この文章のなかで、漱石は述懐している。
--「死は生よりも尊とい」
こういう言葉が近ごろでは絶えず私の胸を往来するように
なった。
然し現在の私は今まのあたりに生きている。
(このあと、じぶんがここにあるのは、先祖からのつながり
の結果であると)
だから私が他の人に与える助言はどうしても此の生の許す
範囲内に於いてしなければ済まないように思う。
何(ど)いう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は
人類の一人として他の人類の一人として向かはなければならない
と思う。
既に生の中に活動する自分を認め、又其の生の中に呼吸する
他人を認める以上は、互いの根本義が如何に苦しくても如何に
醜くても此の生の上に置かれたものと解釈するのが当たり前で
あるから。
死を望んでいるかのような女性と向き合いながら、この章に
最後でこう書いている。
--斯くて常に生よりも死を尊いとして信じている私の希望と
助言は、遂に此の不愉快に充ちた生というものを超越する
ことができなかった。
しかも、私にはそれが実行上に於ける自分を、凡庸な
自然主義者として証拠立てたように見えてならなかった。
私は今でも半信半疑の眼で凝と自分の心を眺めている。
漱石の文学上のことは分からないけど、「死と生」に向き合う態度に
心に残るものがあった。
中井さんの話しともつながって。
死について、いくら考えてみても分かるものではない。
生きているとはどういうことか、その実際と向き合うことかと思った。
いろいろでてくる想念や妄想はあるにしても。
生が終わるまで、半信半疑で向き合うほかないかな。