「争いのない、幸せな社会」の実現は、そんなこと絵に描いた餅だと
あきらめている人が多いのではないか。
「もともと、人間は争う性質をもって、生まれてきた」と考える
人もいるかもしれない。
ほんとうにそうだろうか?
なぜ、人と人の間で、国と国の間で、争いが起こるのだろうか?
これまで、争いの原因について、ある程度までは研究してきたが、
「争いはよくないからやめよう」とは言うけど、その原因について
徹底究明してきたかどうか。
最近、いろいろな研究機会でその端緒のようなものが明らかに
なってきているように思う。
争いの原因
「人が人を動かそうとする」
「やらせる、やらせない」「強制と束縛」
人は、誰でも、じぶんの意志に反して行動することを好まない。
動物の性質と同じ。
争いになるのは、争いたくないが、相手が押し込んできたら、
自分の立場がなくなるので、やむなく自分を主張し、護ろうと
する。
国と国の争い、民族と民族、宗教の争い、目に映る世界は、
じぶんの身を護るために、ほとんど動いているように見える。
そこから争いが起こる。
身近では、夫婦、周囲の人の間柄、それも、言動に現れてこない
ことでも、内面世界では「人は何をするか分からない、危険な
存在という、人を危険視する」認識、人間にたいする捉えかたが、
なんの疑問も起こらず、当たり前化している。
そうなると、人が人に対して身構える。
争いの端緒になる。
ここのところ、そういう人と人の間がらについて、焦点をあてて
自他を見てきたけど、日常のささいな心の動きにもはびこっていると
思った。
社会のなかに、自分のなかに。
「人が人を危険視するのは異常だ」
これは、本来の人と人の間、一人で生きているわけでなく、
お互いの切っても切れないつながりにあることを知ったら、
わけなく、争いの原因が解決するとおもった。
ただし、目の前の現れは、
「やらせる、やらせない」
「大事なことだからやらなければならない」
「しつけは必要ようだ」・・・など、相手を縛り、自分も
内面で自分の意志を抑えるような、ふつうでない認識が人びとの間で
根付いていて、それに気づくのは容易でない。
静かに自分の中がそいう観点からどうなっているのかと見ていくと、
「食べなくちゃ」『寝なくっちゃ」『約束は守らなくっっちゃ」
「薬はのまなくっちゃ」・・・
「人間が自分の身を守る行動をとる」ことが、「やらなくては
ならない」という自分の意志以外のもので動こうとする現われ
てくる。
それだけでなく、人にもそれを強いる。
これが、どんなことなのか、一人考えていてもなかなか見えてこない
だろう。
ここを解いていくのがサイエンズであり、サイエンズメソッドであり、
一人ではなく、有志の人とともに観察し合うことが欠かせないだろう
なあと思った。
以前にどんなことだろうかと宿題だった、「他を侵すことの浅ましさ、
愚かさを気づこと」それが解けそうに思った。
いまの現状はあまりにも「他を侵す」なんて、これっぽちも
思っていないのに、内面的に観察していくと、「あれ、こんなこと
していたのかと、驚かされる。
動物はもちろん、人間も幼少期は「やらなければならい」という
認識・観念はないことは、おそらく誰で分かるだろう。
争いなんてしたくない。
これも、誰しもの本心ではないか。
争うことはしたくなくても、相手が侵してくるので、立場が
なくなるので、争いになっていく。
戦争のようなことでなくとも、人と人の間柄でも、内面の
状態は、静かに観察してみると、争いの種が根付いているようだ。
でも、これは、後からいろいろな環境のもとで、できたもので、
誰がおかしいとか、言うものではないよう思う。
後で、ついたものなら、正常な状態に戻せるはず。
一人で気づくというより、気づきあうということかな。
そのために、自分の中にある、社会のなかにある争いの
種に気づきあっていくのはすぐに争いがなくならないかも
しれないが、その間に正常な状態の観察もできて、争う
ことの愚かさが身に滲みてくるように思う。
本来の人間というのはどんなもか。
この究明に争いを無くす明かりがあるのではないか。
(まだまだ、これからだとおもっているんだけど)
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