その後、かたつむりつれづれのブログの記事にコメントを
いれてくれるようになりました。
2012年9月13日 ninjin→katatumuri 「こころのいずみ」
人の心の化学反応は予想できないことがしばしばありますね。
・・・じぶんのことですら・・・。
私も今頃になって、このときの息子の心情が、その後の彼の
すべての元になっているのか、と思うことがあります。
心のいずみ、とでも言おうか、わき出てしまうものを
大切にしたいものです。
そのあと、「かたつむりつれづれ」に茨木のり子さんの詩、
「りゅうりぇんれん物語」の感想を書いたことがあります。
それについてにninjinさんのコメント。
2012年10月7日 ninjin→katatumuri 「捕まえてみたいもの」
時々、私は本当はどうしたいのかなあと、思うことがあります。
京都の銘菓をひとついただきました。
ひとつです。
一緒にお茶をいただいている人に
・・「どうぞ・・」といいました。
その方も・・「貴方こそどうぞ・・」と。
そうしてちょっとだけ間が出来て
「半分づつにしましょうか・・」といってみました。
それで何事も無かったように
私の気持ちは流れていきます。
かたつむりさんの、この記事を読んでいて
ふっと、このときの自分の中が知りたくなりました。
つまらないことですが・・・。
2012年10月8日 katatumuri→ninjin 「おもいだしたこと」
もう、、ずいぶん前、娘が保育園のころだったか。
その保育園でののエピソードを聞いたことがあります。
何人かの幼児たちがいるところで、あめが一つ、
みんなの前にあるよういな場面になった。
係りの人は、「一つしかないのに、どうしよう?」と
おもって見ていたら、一人の子がそのアメを舐めて、
なんと、隣の子にまわしたというのでした。
「へええー」と、なにか難問が解けた、なぞなぞで
「なーんだ、そうだった、そうだよね」みたいな、知った
あとの爽快感が、そのときありました。
じぶんのなかに、囲うようなものがなく、相手にも
ければ、じぶんのなかの気持ちのままに、”問題”
というのは、どこにあるのかということになるのではないか?
幼児が同士、ときに喧嘩してると見えることでも、
じぶんの気持ちを言っているだけで、相手を責めるとか、
恨むとか、そういうものが、ないのでは、と最近
孫たちを見てて、おもうことがあります。
だって、彼らはいつまでも前のことを、ひきずっていない、
けろっとしている。そのくりかえし。
でも、どこからか、そうではなくなったいくんですね。
そこは、周囲の環境がおおきいかな?じぶんも、そのひとり・・・
2012年10月9日 ninjin→katatumuri 「ほう」
ほお~と言うか、まあ~と言うか・・・子供のその状態って
言い表しがたくすてきですね。
そのような感じ、かんじなんですが、気持ちが真空状態な
そういう瞬間が自分の中では、そこが捉えにくいです。
鈍磨してしまったんでしょうか。
りゅうりぇんれんの物語を、このところしきりに思い出して
しまうのは、なぜなのかしらと思っています。
(つづく)
<水彩画 岩田隆画伯>
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