かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

ある出会いの記録(2)・・・・こころの化学反応

2015-06-29 09:00:41 | わがうちなるつれづれの記

その後、かたつむりつれづれのブログの記事にコメントを

いれてくれるようになりました。

  

2012年9月13日 ninjin→katatumuri  「こころのいずみ」

  人の心の化学反応は予想できないことがしばしばありますね。

  ・・・じぶんのことですら・・・。

  私も今頃になって、このときの息子の心情が、その後の彼の

  すべての元になっているのか、と思うことがあります。

  心のいずみ、とでも言おうか、わき出てしまうものを

  大切にしたいものです。


そのあと、「かたつむりつれづれ」に茨木のり子さんの詩、

りゅうりぇんれん物語」の感想を書いたことがあります。

それについてにninjinさんのコメント。

 

2012年10月7日 ninjin→katatumuri 「捕まえてみたいもの」

  時々、私は本当はどうしたいのかなあと、思うことがあります。

  京都の銘菓をひとついただきました。
  ひとつです。

  一緒にお茶をいただいている人に
  ・・「どうぞ・・」といいました。
  その方も・・「貴方こそどうぞ・・」と。

  そうしてちょっとだけ間が出来て
  「半分づつにしましょうか・・」といってみました。

  それで何事も無かったように
  私の気持ちは流れていきます。


  かたつむりさんの、この記事を読んでいて
  ふっと、このときの自分の中が知りたくなりました。

  つまらないことですが・・・。

 

2012年10月8日 katatumuri→ninjin  「おもいだしたこと」

  もう、、ずいぶん前、娘が保育園のころだったか。

  その保育園でののエピソードを聞いたことがあります。
 
  何人かの幼児たちがいるところで、あめが一つ、

  みんなの前にあるよういな場面になった。

  係りの人は、「一つしかないのに、どうしよう?」と

  おもって見ていたら、一人の子がそのアメを舐めて、

  なんと、隣の子にまわしたというのでした。

  「へええー」と、なにか難問が解けた、なぞなぞで

  「なーんだ、そうだった、そうだよね」みたいな、知った

  あとの爽快感が、そのときありました。

  じぶんのなかに、囲うようなものがなく、相手にも

  ければ、じぶんのなかの気持ちのままに、”問題”

  というのは、どこにあるのかということになるのではないか?
 

  幼児が同士、ときに喧嘩してると見えることでも、

  じぶんの気持ちを言っているだけで、相手を責めるとか、

  恨むとか、そういうものが、ないのでは、と最近

  孫たちを見てて、おもうことがあります。

  だって、彼らはいつまでも前のことを、ひきずっていない、

  けろっとしている。そのくりかえし。

  でも、どこからか、そうではなくなったいくんですね。

  そこは、周囲の環境がおおきいかな?じぶんも、そのひとり・・・


2012年10月9日 ninjin→katatumuri  「ほう」

  ほお~と言うか、まあ~と言うか・・・子供のその状態って

  言い表しがたくすてきですね。

  そのような感じ、かんじなんですが、気持ちが真空状態な

  そういう瞬間が自分の中では、そこが捉えにくいです。

  鈍磨してしまったんでしょうか。

  りゅうりぇんれんの物語を、このところしきりに思い出して

  しまうのは、なぜなのかしらと思っています。


                (つづく)

 

<水彩画  岩田隆画伯>




 


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