もう初夏の風になっている。
『ぼくたちに翼があったころーーコルチャック先生と107人の子どもたち』
(タミ・シェム=トヴ作、樋口範子訳、岡本よしろう画)は、
この本の翻訳者の樋口範子さんらいただいた年賀状で紹介してもらった。
樋口範子さんは、厳寒期を除いて、山中湖畔で「森の喫茶室 あみん」を
オープンしている。
何度か行ったことがある。森のなかにテラスがあり、夏でも森閑とした
緑の佇まいに身を委ねることができた。
コルチャック先生という名前は、なんとなく知っていた。
ナチスの強制収容所で死んだという、まことに漠然としたものだった。
ナチスがドイツで台頭して、ユダヤ人を迫害から、絶滅へまで暴走
したという経過については、以前、『あのころはフリードリヒがいた』
(ハンス・ペーター・リヒター作 上田真而子訳)を、何回か読んでいた。
ナチスの暴走にユダヤ人が翻弄されて、ドイツの庶民も狂信していく
様子が子どもの目を通して表現されてある。
最後、フリードリヒが防空壕に入れず、空襲の中で息を引き取った
場面には、こみあげてくるものをおさえきれなかった。
ドイツ人の両親を持つ「私」とユダヤ人の両親をもつフリードリヒは
同じアパートで暮らす、仲の良い家族のつきあいをしていた。
1930年ころである。子どもたちはまだ小学生1,2年生か?
ユダヤ人に対する差別が現れてきて、はじめのころは差別を止める
ドイツ人もいたが、1938年ついにポグロムというユダヤ人に対して
ドイツの庶民の迫害にまで発展していった。
フリードリヒの家族も近隣の人たちによって、アパートの部屋を
破壊された。
フリードリヒの母は。それがもとで病死し、フリードリヒの父もナチスに
逮捕され、残ったフリードリヒも連合軍のベルリン空襲の最中、
ユダヤじんだというので、防空壕にいれてもらえず、帰らぬ人に
なっていった。
悲しいし、暗いし、痛々しい10年余の少年たちや、仲の良い家族の
物語だった。
『ぼくたちに翼があったころ』は、1934年から1939年、ポーランドを
舞台にした物語だ。
とても、深い余韻があります。
ナチスが台頭して、ユダヤ人にたいする迫害が強まっている時期、
コルチャック先生と107人の子どもがユダヤ人の「孤児たちの家」で
日々、自他のなかで起きてくる難問に迷いながらも、逡巡しながらも、
鳥が翼を広げて、空を飛べる自由を目指してくらしている、そういう
実際があったのではないか。そんな感想が湧いてきました。
ナチスのやったことは、暗くて、とても尋常なことではないかもしれな
いけど、そのなかで、こういう世界があったのか。
それも、個人の心のなかのことというだけでなく、「孤児たちの家」には
社会の仕組みもあり、その運営も一人ひとりを尊重するという気風を
つくっていこうとしている。
コルチャック先生の研究をしているわけではありませんが、
作者タミ・シェム=トヴさんの捉えたコルチャック先生からは、
日々、子どもたちに接しながら、とても普遍的なもの、だれもが願って
いるものを子どもたちに知ってほしいと、そこにかけていたように
感じました。
作者のタミ・シェム=トヴさんによれば、物語の主人公ヤネク・ヴォルフは、
創作だそうです。
舞台となったヤヌッシュ・コルチャク先生設立の「孤児たちの家」は、
ポーランドのワルシャワで約30年間実際に運営されていた
児童擁護施設でした。
コルチャック先生と子どもたちでつくってきた世界については、タミさんが
描いた物語を読んでいただくほかありません。
ヤヌクは、両親を失い、姉に見守られながら育ってきたが、孤児院
「かけこみ所」の仲間から、足を蹴られて、普通に歩けなくなった。
”盗人”のレッテルを貼られて、失意のとき、姉から「孤児たちの家」を
紹介されて、コルチャック先生に会い、だんだん自分を取り戻していく。
印象に残る場面の連続ですが、そのなかのいくつか、書いて記憶に
のこしたおきたい。
ーードクトルは、一足の靴の片方を手に取ると、すぐまた元の場所に
もどし、別の靴の片方を取って、ながめていた。(中略)
ぼくはきいた。「ぼくがピカピカにみがいたかっどうかを書いている
のですか?」
「ああ、すまん。ピカピカかどうかは、みていない」ドクトルはびっくり
いたように、答えた。「靴が、子どもたちの足に合っているかどうか、
それを調べている。この靴はもう小さ過ぎるんじゃないか、とか、
すりきれてていないかとか。・・・」
ーー・・・ひとりを診察して何かを書き込んで、また次の子を診察した。
そして、全員の爪を切ってくれた。小さなハサミで、ぼくの親指の
爪をきっているとき、ドクトルは言った。
「わたしが君のことわかってきたきたように、君も、なぜわたしが
爪を切っているのか、わかるね?」(中略)
「爪を見て、その子どもが元気かどうか、調べているんですか?」
はて、どうだろう?
ドクトルの笑顔は、そのはげ上がった頭のほうまで広がった。
つまり、あたったのだ。(中略)
「爪の色や形、厚みで病気を発見できるかもしれないし、それに
爪を噛んでいるかどうかでいらいらしている子や、そうでもない
子がわかるとおもいます」ぼくは、自信をもっていった。
ドクトルは、頭を上げた。「すばらしい、ヤネク、そのとおりだとも!
ーードクトルは、ぼくをするどく見すえて、激しい口調で言った。
「盗みぐせは、絶対に遺伝することはない」
「たしかですか?」
「わたしは医者だ。こういう問題はくわしい。子が親から受け継ぐ
ものは、外見においても内面でも、かなりある。しかし、盗みを
受け継ぐことはできない。盗みが血の中に流れていることはない。
君が盗人になるのは、君がそうなろうと決めるからだ。君には
選ぶ自由がある」
選ぶ自由という言いかたに、こころ動かされた。そこからまぶたが
だんだん重くなってきて、いつのまにか、ゆっくり閉じていく。
「そのことを考えるんだね。君は空を飛ぶスズメのように、自由な
人間だ」
その後、ヤヌクはコルチャック先生が懇意にしている弁護士事務所に
取材にいく。事務所で一人になったとき、カーボン紙を友だちに
もって行きたいと思った。
何十枚かを黙って抜いて、家までもって帰った。葛藤が起こっていた。
その時の場面。
ーーとつぜん、奇跡が舞いおりたみたいに、ぼくが<家>に着いて
すぐにドクトルが話してくれたことが、頭によみがえった。
「ここでは、だれも盗みません。盗みは引き合わないから・・・。何か
欲しかったり必要だったりするときは、願い出ればいいのです。
願いが通るときもあれば、通らないときもあるし、無理なときもあります」
ぼくは、あっという間に気持ちが楽になって、どうすればいいかが
わかった。
お願いすればいい。そう、簡単なこと、明らかにそのとおりだった。
ただ、願い出る習慣がなかった。お願いするなんて、まったく考えても
みなかった。何かほしいものがあれば、かっさらうか、それが自分の
ものでないことに腹をたてるかだった。
ナチスの時代についての捉え方について、希望というか、新鮮な風が
入ってきた。
とはいえ、訳者の範子さんによれば、1939年9月、ドイツ軍がポーランド
に侵攻して、コルチャック先生と子どもたちは、すべてのユダヤ人たちとともに
ワルシャワ・ゲットーに強制移住された。
その後、1942年コルチャック先生は子どもたちとともに、トレブリンカ強制
収容所へと送られたということです。
翻訳のことはよくわかりませんが、作品がそうなのか、範子さんの
訳がそうなのか、行間に漂う余韻があります。
範子さんの翻訳本を読んでいつも感じることです。
ユダヤ人といっても、今執拗にパレスチナを攻撃している人たち
ばかりではないだろなとイメージしています。
タミさんが描いた、ユダヤ社会というより、誰もが安心して、その人らしく、
豊かに暮らせる社会をイスラエルにも、パレスチナへも、中東各地にも、
アメリカにも、そして日本にも、じつげんしていきたいなあ。
いまの日本は一面で、狂人のようです。
ヘイトスピーチといって、「在日は出て行け」と叫んでいる人たちは
一部かもしれませんが、中国や北朝鮮へのイメージについては、
”敵”とか、”ひどい国””怖い国”というイメージに知らず染まっている
感じがします。
そんなこといつまでも続くはずないでしょうが、この物語はそういう
内面を明るみ出して、希望をもたらせてくれるんじゃないかな。
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