かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

病院暮らしつれづれ

2017-03-11 14:52:55 | アズワンコミュニテイ暮らし

東北大震災から6年目。

2万余の犠牲者、いまも原発事故で避難を余儀なくされている

人びと12万人と聞きます。

震災の影響、いまだ、終わらずだと思います。


病院暮らしのあと、不如意の予後暮らしです。

いつも、ブログに書くとき、これってどんな意味がある?という

自問があります。

先ずは、自身の記録だよね、これでお茶を濁している?

どうにか、心の整理もしたい。なるべく、心開いて。

 

      (一)三重大学付属病院に緊急入院

昨年11月末に、心臓の不整脈が多発し、12月2日、三重大付属病院に

入院しました。

12月8日、不整脈起こしている心筋の電気系回路を心臓の内壁にカテーテルを

入れて、その回路を焼ききる手術をしました。7時間ほどかかりました。

予後、体調はもうひとつだったけど、不整脈が起きてこないので、

12月20日、退院ということになりました。

わが家に戻り、理容してさっぱりしました。お風呂に入り、夕食を

食べました。それから、気持ち悪くなり、息苦しくなり、布団に横になる

ほかありませんんでした

担当医に電話連絡したたところ、たまたま繋がり、状態を伝えると、

すぐ病院に来るようにと言うことでした。

「動けないなら、救急車でも」と言ってくれました。

結局、息が詰まるし、身体が言うこと効かない。

救急車を呼んで、朝出てきた病院に逆もどり。

心臓の不整脈が止まらないので、電気ショック(AED)をかけて、

とりあえず、心室の頻拍(不整脈)を止めました。

息が出来るようになり、苦しさもなくなりました。

よかった!

それはそうなんですが、さて、これからと言うのでは,

ぼくの心臓の状態で、不整脈をとめるのにはどんな手があるか。

医師の方でも、検討してくれましたが、伝わってくるのは「打つ手が

ないなあ」という雰囲気でした。

そこから、命懸けの入院生活がはじまりました。

 

入院したころは、その手術さえ終われば、もとの暮らしに戻れると、

高を括っていたと思います。

表面では、それでも元気そうに振舞っているけど、いつまたあの

不整脈が起きるのか、内心不安だし、「打つ手がないかも」と思うと、

暗い気持ちにもなりました。

 

年末年始も病院で過ごしました。

元旦には妻や息子・娘、孫たちが正月を祝いにきてくれました。

ほのぼのとした気持ちになりました。

中井夫妻も来てくれました。

2日にも秀剛一家が孫2人を連れて見舞いに来てくれました。

2歳の男の子、和(わたる)が「ジジは、なんでここにいるの?」

問うというより、和なりの何かの表出かと思いました。

帰るときは、「ジジ」といって、手を握ってくれました。

 

ところが、その夜、脈拍が100を超え、なんと不整脈が起きて、

除細動器が作動しなかったので、また電気ショックで不整脈を

止めました。

止めることが出来ましたが、このままでは心臓がどんどん痛んでいく

ということでした。

このまま死んでいくってこともあり得るよなあ。

真夜中、なかなか眠れませんでした。

このまま死ぬのかも、とか思い巡らしました。


正月3日、主治医から「心臓の内壁から焼き切るのは、あなたの場合、

拡張型心筋症で心筋が厚いので、難しい。名古屋大付属病院では、

心臓の外壁からアブレーションに熟練している医師がいるので、

転院して、心臓の外側からの手術を受けてみますか?」と問われ

ました。

なんか、切羽詰った感じだった。

その手術は大変そうな感じだつたけど、そんなこと言ってられない、

「お願いします!」

 

 

    (二)名古屋大学付属病院に転院

1月10日、救急車に乗せられて、名古屋大学病院に転院しました。

12日、2回目の手術。

手術は、心臓の外壁からのアブレーション。

これが出来る人、少ないらしい。東海地区では、今回の主治医

因田(いんでん)医師が熟練の第一人者と聞きました。

カテーテルはお腹の辺りから入れて、外壁に入れるのと、腿の

動脈から心臓の内側からと2本入れました。

そこから、不整脈の回路を探しました。

全身麻酔ではないので、医師たちの会話が聞こえてきます。

どこを焼き切るかを見出す因田さんは、磊落な感じで、

「ここはどうだい?」とか臨床技師のメンバーと声を掛け合っています。

その様子はぼくからは、見えません。

でも、経験を積み重ねている因田さんからは、不安なものを感じません

でした。

あちこち焼いていましたが、4時間ほどしたら、「ここだ!」という声。

強い電圧かけて焼いている、痛いような、苦しい感じ。

終わった様子。

因田さんも、術後、うまく言ったと思う、と言ってくれました。

酢こし、安心しました。

桃子と風友も見舞いにきました。

 

      (三)名古屋大学付属病院、3回目の手術 

因田医師は、毎朝、にこやかな笑顔で病室に覗いてくれました。

朝、自宅から病院に飛び込んだ、出で立ちのまま、いつも黒い

コート姿で現れました。

そんな気さくな感じで、因田さんは身近な存在でした。

不安な気持ちもすこし和らぎました。

2、3日して、因田さんから「残念ながら、いまも不整脈が続いている。

不整脈の回路がまだいくつかあるようだ。それを止めないと厳しい。

再度のアブレーションが必要」と告げられました。

拡張型の心臓で、心筋がふつうの人より厚い上、それが風船のように

膨らんでいて、いまの状態では再手術は避けられない。

もう、ここまで来たら、「やるっきゃないなあ」

「じゃあ、よろしく」と返事した。

 

ぎっしり詰まっている手術のなかに、ぼくの手術を入れ込んでくれました。

1月19日、3回目のアブレーション手術が行われた。

手術衣に着替えて、呼び出しをまっているとき、なんとスイスの

パトリックさんが見舞いに来てくれました。びっくり。

スイスから出張で、たまたまその日、名古屋で仕事があり、寄って

くれた。30年近い付き合いで、以前から彼といるとゆったりとした

間があって、いつも心が和むのでした。嬉しかったです。

「こんなことあるんだあ」

 

手術は、4時間ほど。因田さんによれば、「やれることは凡て

やったよ」ということでした。

2,3日して、因田さん、いつものように朝、黒コートで現れ、

「小さいけど、まだ不整脈がちょこちょこおきているなあ」とすこし

困った感じで、ぽつり。

1月23日夜12時ごろ、胸が高鳴り、不整脈が起こりはじめたらしい。

看護婦さんが当直の医師を呼び行ってくれました。

しばらくすると、黒いコートを着た因田さんが現れました。

奇しくも、その時間まだ病院内にいたということでした。

そこから、除細動器の心臓の動きを掴かむため、臨床技師が調整器を

もってきて、除細動器の調整で不整脈が止まらないか、いろいろ

やってくれました。

途中からは、技師さんに代わって、因田さんが調整器に向かって、

午前2時ぐらいまで手を尽くしてくれました。

「いかんなあ、止まらない」とポツリとつぶやいて、病室から突如

出て行きました。

そのうち、不整脈を止める、強い薬を点滴で身体に注入しました。

しばらくして、動悸が治まってきました。

因田さんは、他にも薬をもってきました。不整脈を止めるための

強い薬だそうです。

その夜は、不整脈が落ち着いたのを見届けてくれて、事なきを

えました。

ほっとしましたが、これからどうなるのか、不安でもありました。

その薬は、不整脈は防いでくれましたが、ぼくにとっては、

強い吐き気が起きて、つらかったです。

 

  

 (四)除細動器付に三本目のリードの植え込み手術

4年前、心室頻脈で意識失ったあと、運よく回復し、その時除細動器付

ペースメーカーを心臓の近くの植え込みました。

3本のリードを心臓の周りの血管に入れたのでしたが、3本目が血管が

細くて所定の位置まで、当時どうしても入りませんでした。

除細動器の機能がよく分からず、2本でもペーシングも出来ると聞いて、

今日まで来ました。

因田医師は「ここまで不整脈が止まらなければ、いまの心臓が心房と

心室がうまく同期していない状態を改善するしかない」と説明して

くれました。

埋め込み手術をした三重大学の主治医とも相談してくれて、名古屋大で

3本目のリードを入れる手術をすることにしました。

3本目のリードで心臓を挟むことで、心室と心房の動きがスムーズに

するペーシングが働くようになるはず、と言うこでした。

4年前、入らなかったのだから、今回うまくいくのか、不安でした。

因田さんは、いくつかの方法を絵に描いて説明してくれました。

どっちにしても、任せることに変わりがなかったです。

 

この手術も困難があったようです。4時間かかりました。

最後、「あっ、この位置なら心臓を挟める!」と因田さん。

どうも、たまたまその位置にリードが入ってくれたみたいだった。

術後、同期のためのペーシングはうまくいっている。

「これで、不整脈が治まってくれれば、いいんだけど」


どうも、以後目立った不整脈が起こらなくなりました。

因田さんにお願いして、強い不整脈を止める薬も止められ

ないか、検討してもらいました。

除々に減らしてもらい、薬による治療も、もう少し減らしたい

けれど、この状態で様子を見ましょうとなりました。

胸の動悸や吐き気が無くなってくると、今ここにいるというだけ

でもこんなに快適なのかと、一時穏やか海にたゆたっている気分

でした。


   (五)三重大病院へ再転院、心臓リハビリへ

2月16日、再び三重大学へ転院。

3ヶ月の病棟暮らし、足腰も弱っているし、いまの心臓の状態で

どんな暮らしができるか、見通しつけて退院の予定だった。

ところが、そのころ、咳きが激しくなり、鼻水が止まらず、

喉にも痰が詰まるようになりました。

咳きは苦しかったです。

そのうち、熱も38℃を越え、点滴で抗生剤を投与するはめに

なりました。

その間も恐れていた不整脈は起こりませんでした。

そのため、3月2日、咳きは完全に治まっていませんでしたが、

カプセルの抗生剤を飲むことで、退院しました。

その日、ちょうどぼくの誕生日でした。


   (六)この3ヶ月有難かったこと

妻がぼくの付き添いにほとんど毎日、病室に顔出してくれたこと

です。

三重大のときはともかく、名古屋大学に移ってからは往復で3時間

はかかり、一緒にいるのは昼ごはん前後2時間ほどですが、どれほど

安心したか。何と言うか、甘えっぱなしでした。

前にもかきましたが、これは妻一人でできたことではなく、

そのように出来るように計らってくれた社会(コミュニテイ)の

気持ちがあってのことだと思っています。

2月末、3回目のアブレーション手術のあと、小浪がインフルエンザに

罹ってしまいました。

小浪が来なかった1週間、強がりよりは心細かったです。

他に移さないように、本人も楽になるようにと祈っていました。


自宅で暮すようになって、10日経ちました。

身体や暮らしの見通しはまだついていないという感じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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