時々、息子秀剛の子ども、生まれて5ヶ月の孫がわが家に
やってくる。
嫁さんが買い物やどこかに出かけたいというとき、
「お願いします」と母子でやってくる。
妻は孫を一頻りあやして、畳の部屋に寝かせることに
なる。
畳の部屋には炬燵がある。そこに、ぼくは足を突っ込んで
寝転んでいることが多い。
赤ちゃんと一緒に並んで寝ることになる。
むっちり肥っている。
身体を反るように力んでいる。
妻に聞いたら、寝返りを打とうとしているらしい。
その方向に手を引っ張ってやると、嬉しそうに笑う。
「嬉しそう」に見える。
最近、やろうと思っても、出来ないことが多い。
「やろうと思う」ことと、「実際にやる」ということの間がどんどん、
離れていく実感がある。
よく見れば、歳にかかわりなく、思っても出来ないことなんか、
ざらにあるだろう。
「思ったら、やれる」と思い込んできたことへの、身体の方から
の警告か。
思った通りいかないのは、赤ちゃんも老人も同じかな。
赤ちゃんは、どんどんやれるようになっていく。
老人はますますやれなくなっていく。
このところは、違う。
赤ちゃんは、やれないことがやれるようになって、新しい世界を
知っていく。
老人は、やれると思っていたことがやれなくなってきて、そこで
新しい世界を知っていく。
そこに学びがあるかな。
赤ちゃんといっしょにいると、命のエネルギー、どんな環境で
あろうが健康正常に生きていこうという溌剌たる力が漲って
いるのを感じる。
終りが見えている老人も、この姿に触れていると、むくむくと
なんともいえない力が湧いてくるのを感じる。
「過去の人たちが積み上げて出来たものを、自己の代で
停滞・消滅ささずに、次代の繁栄・前進への素材として、
よりよきものに練り固め、周囲及び後代へ引き継ぐ事こそ
生きがいというべきです」
以前に読んだ一節が浮かんできた。
お母さんが帰って来た。
子どもの寝ている隣で、浮き輪に空気を入れ始めた。
それでお風呂に入れるという。
お父さんもやってきた。
お風呂が賑やかだった。
見にいくと、赤ちゃんが浮き輪を首に着けて、浴槽に
浮かんでいる。
嫌じゃないみたい。かといって、嬉しそうにも見えない。
なんとも、言うに言われぬ表情に見えた。
テレビでは、「集団自衛権」とか言って、他国が攻めてきたら
どうするのかとニュースが流れている。
ああ、この違和感。
この子たちに何を引き継ごうとしているのか、この老い人。
この子たちが本来もっているものが、花開いていく方向へ、
そうなるような土壌づくり。
手遅れじゃない。
いま、実際にできるところから、現していく。
老人の生きがい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます