かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

ある出会いの記録(3)・・・・若年性認知症

2015-06-29 12:29:41 | わがうちなるつれづれの記

2012年の11月末ある夜、寝ようとして布団に入ったかどうか、

一瞬、「ウッ」と意識がなくなった。

目が覚めたら、病室で呼吸器を喉の奥なで入れられて、手足も

縛られていた。

「何かが起きて、こうなっている。でも、どうも生きているらしい!」

幸い、妻や周囲の人や救急隊や医師の人たちの処置で

後遺症もなく、再起できた。

 

   2012年12月4日 ninjin→katatumuri  「貴重なご体験でしたね」

    本当に久しぶりにパソコンを開いてみましたところ、なんとまあ

    驚いてしまいました。貴重なご体験でしたね。

    徳永先生と谷川さんの「死の文化を豊かに」はうなずくことが多く、

    生きるゆとりをつくるのは、死をしっかり意識することではないかと

    思うようになりました。

    河口の水のように、渾然としているのかもしれないですね。

    あちらとこちらは。



その後、12月は除細動器を植え込む手術で入院していた。

ninjinさんから、術後の様子を聞かれて、返信をした。

 

  2012年12月17日 katatumuri→ninjin  「ご心配おかけました」

   結局、先週水曜 除細動器を左鎖骨の下に

   うめこみました。

   部分麻酔でしたが、覆いがされて、様子は見れませえんでした。

   5時間半、かかりました。 

   そろそろ抜糸と言われれています。 

   そのあとも、薬の調整とか、ふだんどのくらいで暮らせるか、

   見極めてくれるようです。

   病院食は工夫があって感動ものですが、正直早く退院したい

   気持ちです。

   退院が目的でないよ、はやる自分にいいきかせています。

   気持ちは元気です。

   長谷川町子 「いじわるばあさん」みています。

   いじわるのことがらは、ひどいのに、なんでカラッと  

   笑えてしまうのか、おもしろいです。

 

  2012年12月18日  ninjin→katatumuri  「良かったですね」

    ペースメーカー埋設されたのですね。

    友人もその施術を10年ぐらい前にしました。現在もとても元気で、

    時々メンテナンスを受けているようですが、低い山などに一緒に

    登ったりして楽しんでいます。

    最近金時山と言うところに登りました。

    二人とも、おばさんでふうふう言いながらでしたが、山の中では、

    富士山が見え隠れする山道を歩きながら木々や小さな生き物と

    共に生きていることを実感でき、預かっている命と時間を本当に

    大切にしたいものだねえ、などと話しました。


    ペースメーカー埋設のこと本当に良かったと思います。

    サザエさん、私も大好きです。

    なぜかわかりませんが、同じところを何度見ても笑ってしまいます。


 

 

その後、びっくりするような知らせがninjinさんから届いた。

 

  2012年12月28日 ninjin→katatumuri  「私も診断されました」

   生きている間に何がおきるか、本当に予測はできませんね。

   私は、今後自分のある意味の崩壊を見つめながら生きていく

   ことになりそうです。


   若年性認知症という診断をされました。

   かなり長い時間をかけてのさまざまな検査の結果ですから、

   受け止めざるを得ないことですが、やはり受け止めがたい。

   前頭側頭葉脳変性の為に言葉の障害が出てくるそうです。

   あれこれ調べてみて、次々と不安が押し寄せてきます  

   非ピック型とのことですがピック病にならない保証はない。

   こうして書きながら、勝手に不安を引き寄せているなあと思います。

   でも明るい方向にはなかなか気分が向きません。

   これから、新しい旅路が始まるのだと思いますが、

   どこまで自分というアイデンティティを感じ取っていられるか・・・。

   眠れない夜が続いています。


                         (つづく)


  <水彩画 岩田隆画伯>

 

 

 

 

 


ある出会いの記録(2)・・・・こころの化学反応

2015-06-29 09:00:41 | わがうちなるつれづれの記

その後、かたつむりつれづれのブログの記事にコメントを

いれてくれるようになりました。

  

2012年9月13日 ninjin→katatumuri  「こころのいずみ」

  人の心の化学反応は予想できないことがしばしばありますね。

  ・・・じぶんのことですら・・・。

  私も今頃になって、このときの息子の心情が、その後の彼の

  すべての元になっているのか、と思うことがあります。

  心のいずみ、とでも言おうか、わき出てしまうものを

  大切にしたいものです。


そのあと、「かたつむりつれづれ」に茨木のり子さんの詩、

りゅうりぇんれん物語」の感想を書いたことがあります。

それについてにninjinさんのコメント。

 

2012年10月7日 ninjin→katatumuri 「捕まえてみたいもの」

  時々、私は本当はどうしたいのかなあと、思うことがあります。

  京都の銘菓をひとついただきました。
  ひとつです。

  一緒にお茶をいただいている人に
  ・・「どうぞ・・」といいました。
  その方も・・「貴方こそどうぞ・・」と。

  そうしてちょっとだけ間が出来て
  「半分づつにしましょうか・・」といってみました。

  それで何事も無かったように
  私の気持ちは流れていきます。


  かたつむりさんの、この記事を読んでいて
  ふっと、このときの自分の中が知りたくなりました。

  つまらないことですが・・・。

 

2012年10月8日 katatumuri→ninjin  「おもいだしたこと」

  もう、、ずいぶん前、娘が保育園のころだったか。

  その保育園でののエピソードを聞いたことがあります。
 
  何人かの幼児たちがいるところで、あめが一つ、

  みんなの前にあるよういな場面になった。

  係りの人は、「一つしかないのに、どうしよう?」と

  おもって見ていたら、一人の子がそのアメを舐めて、

  なんと、隣の子にまわしたというのでした。

  「へええー」と、なにか難問が解けた、なぞなぞで

  「なーんだ、そうだった、そうだよね」みたいな、知った

  あとの爽快感が、そのときありました。

  じぶんのなかに、囲うようなものがなく、相手にも

  ければ、じぶんのなかの気持ちのままに、”問題”

  というのは、どこにあるのかということになるのではないか?
 

  幼児が同士、ときに喧嘩してると見えることでも、

  じぶんの気持ちを言っているだけで、相手を責めるとか、

  恨むとか、そういうものが、ないのでは、と最近

  孫たちを見てて、おもうことがあります。

  だって、彼らはいつまでも前のことを、ひきずっていない、

  けろっとしている。そのくりかえし。

  でも、どこからか、そうではなくなったいくんですね。

  そこは、周囲の環境がおおきいかな?じぶんも、そのひとり・・・


2012年10月9日 ninjin→katatumuri  「ほう」

  ほお~と言うか、まあ~と言うか・・・子供のその状態って

  言い表しがたくすてきですね。

  そのような感じ、かんじなんですが、気持ちが真空状態な

  そういう瞬間が自分の中では、そこが捉えにくいです。

  鈍磨してしまったんでしょうか。

  りゅうりぇんれんの物語を、このところしきりに思い出して

  しまうのは、なぜなのかしらと思っています。


                (つづく)

 

<水彩画  岩田隆画伯>