理想の暮らしを語る会をはじめて、2年ほど経つ。
いつか、「語る会」から「実現する会」へと移行したいと
おもっているけど、いつになるやら。
梅雨どきの晴れ間、6月13日午後、その日は近所に
暮らす下野和子さんから、6年間、老年期認知症の母の
介護をした体験談を、理想の暮らしを語る会で、聞かせて
もらった。
彼女はいま、認知症家族の会の、鈴鹿支部の代表を
している。
「母の介護、はじめ甘く見ていた。私は腹は立たないと
自負していたが、とんでもない。母の言葉や態度に
ひっかかりまくり。そのうえ、自分が乳がんになり、
こんなんだったら、母と共倒れだと、不安のどん底に
なったりした」
そんなとき、認知症家族の会に出会った。
「介護している人の健康が大事なんだよね、と言ってもらった。
聞いたらボロボロ泣いてしまった」
「介護していると、まわりが見えなくなるんだよね。
まわりの人は、なんできついって、出さないのかって言うけど、
私が見なくっちゃって、いっぱいいっぱいなんだよね。
言ってもらっても、大丈夫だいじょうぶって。これが、いちばん
危ないだよね」
「或るとき、母がうわ言で、わたしの知らない名前を呼んで
いたのよ。その人って、誰だろう?姉に電話で聞いてみたら、
母には姉がいて、姉の子どもの子守りを長くしていたことが
あって、その子たちの名前ということが分かった。
可愛がっていたんだろうね。
そのとき、はっきりおもったの。
私は母のことを知っているとおもってきたけど、ほんとうの
ところわかってはいないじゃないか。
母は母としての人生がはっきりあるんだ、と。
母には母の心の世界がある!」
「こちらがどうおもっても、母の介護にはいろいろある。
夜中にウンコしたので、オムツを取り替えようとして、
不器用にやっていたら、母がいやがりはじめ、親子で
ギャーって、大喧嘩したりした。
おそらく隣近所にはそれが聞こえていただろうね。
朝、そっと汚物をゴミ集積場に持っていったら、隣の
こわもてのお父さんに見つかってしまった。
こそっと帰ろうとしたら、そのお父さんが、一言、
「おはよう!}と声をかけてくれた。
ああ、この一言でどんなに救われたか」
「近所を散歩していると、母に”娘さんといっしょでいい
ですね”って声かけてくれるのよ。母は言うの。”私には、
娘はいない。何ちゅうことを言ってくれんねん。
落ち込んだわね」
「介護しているうち、自分は母の世話をしてエライとかいって
いるけど、自分が子どものときは、どれだけじぶんを世話して
くれたことか。
今の自分は、その万分の一もやっていなんだよね。
しみじみ思ったときがあり、母に伝えたら、”やっているよ”と
いうコトバで返ってきた。
こちらが純な気持ちになると、つたわるのかなあ?!」
「母にも心の世界がある。
それをコトバで表現ができないんだね。
突然、噛まれるようなときもあった」
下野和子さんの体験談が語られたあと、質疑タイム。
義母の介護をしている真理子さんが、「介護しいると、
どこまで世話してやったらいいのか、分からなくなるときが
ある。そのへんの基準、いつも迷うんだけど・・・」と
問いかけがあった。
和子さん。
「そうだね。世話するほうがいいとか、しないほうがいいとか、
具体的にはいろいろあると思うけど、自分でも体験してみて、
これだけは知っておいてほしいのは、介護されている人は
自分では決められないんだけど、だけど自分で決めたいと
思っていること、そのことだね」
続けて、和子さん。
「人の価値って、何をしたからとか、こういうことを言っていたとか、
そんなことで決まらないっていうか。
母が亡くなったとき、母に寄り添ったら、身体がまだ温かかった。
ああ、この温もりが生きていることだとつくづく感じた。
人の尊厳というのは、この温もりにこそあるんだって」
認知症の話って、誰もがそうならないとは限らない身近な
テーマであるにもかかわらず、、どこかで「ぼくに限って
そんなふうにはならない」と他人事な感じもある。
認知症のことには、触れたくないといった気持ちも
あるのかしらん。
いったん認知症になったら、ただただ他人様にご迷惑を
かけっぱなしで、そのまま死んでいく、そんな余生を
送らなきゃならん、情けない、そんな不安。
会が終わってからも、認知症って、いったいどんな
ことを言うのかしら、と考えている。
認知症については、まだ学問的にも、臨床的にも
十分に研究し尽くされていないらしい。
そのため、実際の介護の分野に投げ出されたままだけど、
そのうち、人の尊厳という視野から、この分野が
見直されてくるようにおもう。