かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

「この野郎!」

2012-10-16 06:02:39 | アズワンコミュニテイ暮らし

 昨日の午後、はたけ公園からの帰り。

 自転車で大通りを横切って、路地を直進していた。

 うしろから、警笛が聞こえた。

 バイクが自転車に乗っているぼくの横に寄ってきた。

 おもわず自転車を止めたら、バイクも脇に止まった。

 ヘルメットの顔カバーを外して、

 「なんで道の真ん中を走るんだ、この野郎!」と怒鳴った。

 怒鳴っていると聞いた。

  一瞬、その男の顔を見ると、ふだん道ですれ違ったとしたら、

穏やかな初老の人と感じるだろうな、とおもった。

 じぶんのなかでは、「道の真ん中」に反応しているつもりだった。

 「真ん中を走っているつもりはないが・・・」

 はて、なにか、じぶんでも意識できていないことをしてたかな、

とちょっと、相手のおっさんの顔を眺めていたら、急に発進、

後ろ姿を見送るほかなかった。

 

 それにしても、その場面をよく振り返ってみると、まず「この野郎!」

というコトバに反応しているのではなかったか。

 久々に聞くコトバだし、この語調も忘れているほどだった。

 それだけ、印象に残っている。

 「このやろう!」と聞くと、「なに、てめえ」とか即、反射的に

立ち上がるものがあったようにおもう。

 

 こんなとき、そのおっさんが「・・・このやろう!」というのは、

もちろん、じぶんのことを言っていると捉えている。

 「この野郎とは、なんだ!」

 だから、「なに、てめえ」といった反応が即出てくる。

 静かに見てみて、かすかでも、そんな反応が出てきていた

ようだ。出てきてしまったのはどうすることもできない。

 

 このとき、その人がその人のなかで起きていることを、

「・・・このやろう」というコトバで表現していると受けとめることが

できたら、その人がどんなことをおもって、そんなに言っている

かに関心がいくのではないか、少し気持ちが鎮まって、そんな

におもった。その人の語調とかにかかわらず・・・

 

 混線しているという自覚。

 「そこを退け」と言う人がいる。

 それを言った人のもとに、「人をさせたり、させななかったりできる」

としているものが、無意識にでもあるかどうか。

 それを聞く人の方でも、その人のもとに、そういうものが、どうなって

いるか。

 いくら、「そこを退け」と聞いても、それをするかどうかは、その人の

意志や気持ちでしかやれない。

 「そこを退け」と言う人も、じぶんの意志や気持ちは言えても、

人を「させたり、させなかったりできない」


 この混線が自覚できたら、自ずから、よく話し合おう、よく理解し

合おうという方向に向かうだろう。

 

 ここが、意識とか考えでどう思っているかということと同時に

じっさい、じぶんのなかがどうなっているか、ここを観察して

みることを心している。

 人と人の間がらを考えていくにも、社会や国や国際社会に

かかわっていくうえにも、混線がないかどうか。

 この混線が解明されていったら、霧が晴れるように、晴れ晴れ

とした、透き通った秋空のような、世の中があらわれてくるのでは

・・・・

 

 初老のおっさんの「この野郎!」で、どんな世界に向かって

行きたいとおもっているか、目を覚ましてもらった感じ。

 有難かったかもしれない。