かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

兄の消息

2012-08-25 06:49:25 | 家族あれやこれや

 フェースブックを見ていたら、おもいがけず、兄の写真がタグ付けされて

出てきた。若い子のなかにまぎれて、横顔がちょっとだけ見える。 

 兄の消息が途絶えていたわけではない。

 フィリピン・ルソン島の南端、ナガというところで、今年の冬から

日本語の教師をしている。

 州の政府が運営している日本語学校で、兄は一応、そこから招へい

されたことになるらしい。

 

 兄伸一、68歳。三歳はなれている。

 大学卒業後、東京に本社がある顔料の会社の経理畑を地道に勤め

あげた。定年前の10年ほど、香港とタイで長期駐在を命ぜられた。

 2001年秋、香港に兄を訪ねたことがある。事務所にも、案内して

もらった。飛行機の乗り継ぎ時間だけだったので、ゆっくり話はでき

なかった。

 

 その後、香港からタイの支社に移って、社長として何年かやって、

定年前に退職している。

 アジアに住む人たちに、なにか貢献できることはないかと言っていた。

 兄のなかで、長期駐在の間になにがあったのか、なぜそう思うのか

くわしくは聞いていない。聞いたかもしれないが、印象に残っていない。

 

 会社をやめて、すぐ専門学校に通って、日本語教師の資格をとった。

 以後、断続的だけど、1年とか2年、フィリッピン・シンガポール、

そして、今は、フィリピンのナガで暮らしている。

 ほとんど、家族からも、日本からも離れた暮らしをしている。

 この暮らしを支えている、兄の原動力になっているものは、なんだろう?

フエースブックの写真を見ながら、あらためておもった。

 

 今年、ナガに暮らしはじめて、「ナガ滞在記」というエッセイ風の文を

4回メールで送ってもらった。

 

 兄から見たフィリピン社会の一端が、おもしろい。

 

ーーほどほどに仕事があり、食事は保証され、少ないが給料もでる、

   楽しい仲間がいて、ウォーキングもできる。定年後の3人にとっては

   とても快適な環境である。わたしも住まいのことを除いて満足している。

   しかし、その住まいの問題は依然として解決していない。

    街なかの部屋は構造が悪い。窓は入口側にしかなく、しかも鉄格子で

   冷房機がつけられない。4月に入り猛暑の季節に入った。夜、外は涼しく

   なっているのに、部屋に熱がこもり天井のファンは熱気をかき回すだけ。

   ベッドで汗をかいて、なかなか寝られない。ーー

 

  はじめに用意された宿舎が、トイレ・シャワーの水がでないので、修理する

までといって、別の部屋を探してくれた。その部屋が、そんなんだ。

 これだけ読んでいたら、フィリピンの人に親しさを感じる。

 兄は、「もっと、なんとかできないか」と切実だ。

 それでも、日本に帰って来ない兄の胸中やいかに。

 

  日本語学校の卒業式。

  ーー州政府の上級管理者でも来るのかと思ったが、だれもいない。

   アンジー女史と助手のルス譲、アンジーの娘の3人でやりくりしている。

   2週間前に急に先生方はスーツで、と言われ、家内に連絡し高い送料で

   送ってもらった。

    招待状は前日夕方もらい、ようやく場所と時間がわかった。古橋先生は

   何日か前に言われ、アンジーの娘の英語の司会の通訳をやらされた、

    荒井先生とわたしは会場で急に言われ、卒業証を渡す役を仰せつかった。

      何というドタバタ。これが地方政府の日本語教室の実態なのだ。ーー

 

  当地の新聞にも、写真入りで報道された。

  卒業証書を渡しているのは、兄ではないが、「miyachi」と書かれていた。

   兄は、その側らにつったている。

 

  老境に入った兄弟ふたり。

  両親は亡くなり、妹も6年前に他界した。

  兄とは、退職後は1年か2年に一回ほど会う。東海道53次を歩いている

ときは、四日市、亀山に来たとき、泊まっていった。

 あまり、内面のことは、ゆっくり話さないできた。

 

 こんど、9月2日からサイエンズスクールの内観コースに参加するつもり。

 母や父にたいする自分を観ていたが、今回は兄にたいしても観てみようと

おもっている。

 身近な人の内面に関心をもたないできて、なにか豊かではない感じが

してきているのだ。