かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

六十にして耳順(したが)う(3)・・・「やらなければならないことがない社会」

2012-08-13 03:45:38 | サイエンズ研究所のある暮らし

 

「やらなくっちゃ」は、人が生まれたはじめからあったかどうか。

 どうみても、赤ちゃんや幼児に、そういうものがあったとは見えない。

 いつのころからか、「やらなくっちゃ」というものに染まったか。

 わからないけど、成長とともに、いつのまにか染まっていた。

 大人になるというのは、そういうこと、ともおもってきた?

 

 「やることがある」

 「やるべきことがある」

 「やらなくっちゃ」

 

 ここのところ、じぶんの中が、こういうのをベースにしてたなんて、頭で

かんがえたことはあったけど、じぶんの実際がそこをベースにしてるとは

気が付いていなかった。

 

 「やらなくちゃ」がじぶんの中にも、誰のなかにもなく、社会の中にも

無い社会、こんなのが想像できるだろうか?

 

 「社会の自由」

 こんな表現は、いままで出会ったことがない。

 資料を検討していくうち、こんな箇所がでてきた。

 

 「社会が人を規制しなくてよい。社会が人を裁いたり罰しなくてよい。

社会が人を咎めたり責めたりしなくてもよい。社会が誰かのために何か

しなければならないということがない。社会は誰になにもしなくてよい。

社会そのものが楽で自由」

 

 「ええー」とおもった。

 

 「学校は授業をしなければならないということがない。病院は患者を

見なければならないということがない」

 

 ここまで来ると「うーん」と声がつまる、

 

 その次を読む。

 

 「ここでは「何もしない」といっているのではなく、「しなければならないことが

何もない」ということである。「しなければならないことがない」というのは

「なにもしなくてもよい」ということでもある。だからといって、「何もしない」

訳ではないだろう」

 

 人のなかにも、社会のなかにも、「しなければならないことは、なにもない」

ということを言っている。

 「しなければならないことがない」ということをベースにして、人とか社会を

想像してみたらどうなるか・・・

 

 なにか、ぱっと視界が開けたようだ。

 「しなければならない」が原動力になっての行いでないとすれば、どんな

ところから、「する」という行為が起きてくるのだろう?

 これまでの、じぶんの状態をそのままにしていては、見えてこない世界が

ありそうだ。

 

 資料はつづく。

 

 「社会は人のために大いにするだろうと思う」

 

 ここでいう「社会」は、これまでの人間社会の歴史の延長上には

現れて来ないのではないか。

 

 歴史の究明をないがしろにするわけにはいかないにしても、未だ

平和で誰もがこころ満ち足りて暮らせる社会が現れていないことを

うけとめるとき、好奇心で目を輝かせ、欲するままに遊び興じている

幼い子どもの姿のところから、人間の本来性の究明と、その

本来性が誰の中からも開花できる社会の構想と試みが待たれて

いるのではないか。

 

 この辺は、サロンのなかでかんがえたというより、サロンのあと、

じぶんのなかであれや、これやとおもいめぐらしたこと。

 

 なにかわからないが、わくわくするものが、あるような、ないような。

 自分とはどういうものか、人とはどういうものかと観察してきて、いま、

その人が集まって構成している社会が視野にあらわれてきた。

「いい歳して、なにを呑気な」といわれそうだが、どうするわけにもいかない。

 

 世の中には、「社会」についての言説はいろいろある。

 じぶんとしては、その語る人の生き方のなかに社会が現れてていること

に気づき、そこから社会の本当のあらわれを探っている人と出会いたい。

 

 「耳順う」は、他の人の言動に対してということもあるけど、自分のこころの

奥底の声にも耳を澄ますような意味で、どうも六十の年代を、ゆっくりでも、

もたもたしているようでも、暮らしていきたいとおもっている。

 そのためのゆとり、気のおけない仲間がおってくれるのが有難い。

 歳を重ねて、いまになって、もっともっと人に甘えてもいいんだ、

と気づきはじめている。

 そのうち、周囲に甘えるしかなくなるだろうけど・・・

 


 またまた、じぶんでもよく分かっていないようなこと、書き連ねしまった。

 なにかが、じぶんのなかで起きている。

                                        (おしまい)