かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

チェルノブイリ子ども基金の”里親”をやってきて

2012-08-01 17:39:44 | アズワンコミュニテイ暮らし

 先日、チェルノブイリ子ども基金の佐々木真理さんから、メールを

いただいた。

 佐々木さんは、6月18日~7月5日のベラルーシのサナトリウムの

保養に参加してきた。

 里親をしているナースチャさんとも会ってきてくれた。

 ナースチャさんは、絵を画くのが好きだという。

 保養所では、路上絵画コンクールをしていた。彼女が、進行をして

楽しんでいる様子。

 写真も添えてくれた。

 

 保養所は、18歳まで。彼女は、来年からは、参加できない。

 泣いていたという。

 

 チェルノブイリ事故後、3年、4年、10年、15年と月日がたっても、

放射能の影響は母から子へと、受け継がれている。

 発症して、手術・治療と過酷な経過がつづく。本人はもちろん、

家族も発病以外の困難にも見舞われていく。

 保養所は、1年に一回でも、期間がきまっているとはいえ、

汚染地域の環境から離れ、同じ境遇の仲間たちや理解ある医師と、

だれに憚ることなく、こころ安らかに治療をうけ、暮らせる場だ。

このような子どもたちにとって、なくてはならない、いのちの広場だ。

 

 里親は、これで4年になる。二人の子どもを見てきた。

 何をしたかといえば、毎月いくらかを仕送りしただけ。

 佐々木さんは、経済的だけでなく、精神的にも支えていただいた

と言ってくれた。

 今年の12月で、いったん里親をやめようとおもっている。

 年金暮らしに入り、家賃を払ったら、あとどうなるか、といった

現状にいったんは、身の丈にあった暮らしに立ってみようというのが

正直な気持ち。

 

 そうはいうものの、すこし複雑な気持ちは残る。

 年に何回か送ってくれる、「チェルノブイリの子どもたち」という

ニュースレターを読むと、「ああ、なにかじぶんでやれることが・・・」

とおもう。

 

 6月23日発行の「チェルノブイリと福島」という講演会の記録には

胸を打たれた。

 ベラルーシには「困難の中の子どもたちへ希望を」という被爆して、

発症した子どもや親たちを支える団体がある。

 その代表は、ポホモワ・ワレンチーナさん。彼女の娘オリガさんと、

来日した。

 娘オリガさんは、1986年4月26日のチェルノブイリ事故の4年後に、

甲状腺がんが発症した。

 

ポホモワさんは、講演会で語りました。

「娘のやつれた顔、注射跡で痩せ細った腕、彼女の喉に入っていた

蛇のようなチューブ、それらを見ていたとき、こう思いました。

もし、娘が回復したら、病気の子どもを抱えた母親が今後、

ひとりぼっちで悲しむことのないように、何とかしたいと。

・・・だって、私はそのとき、誰も頼る人がいなくて、世界中で

たったひとりぼっちのように感じていたからです。

 オリガは、ベラルーシではじめて甲状腺がんの手術を受けた

子どもの一人だったのです」

 

 娘オリガさんも、講演会でこんな気持ちを話していた。

「両親がどんなに私を救おうとしていてくれたか、私には

わかっていました。両親は私の回復のために、文字通り戦って

くれました。そして、私はいつも両親が自分のためにしてくれた

ことのすべてのことに感謝しています」

 

 オリガさんは、その後大学にも行き、理解ある夫とその家族にも

恵まれ、経済的には困難がつづいているものの、夫とともに

子どもの誕生をねがっている。

 

 ベラルーシの国では、チェルノブイリ被爆者への特典がつぎつぎ

なくなっていっている。経済的な理由からという。

 

 ポホモアさんの活動は、一人ひとりを大事にする活動だ。

 チェルノブイリ子ども基金も、事務局の佐々木真理さんのお話を

聞いて、それを、心のある人で、やれる分だけ、支えていこうという

活動だとうけとった。こころに、響くものがあった。

 

 一人ひとりが、大事にされる社会。

 人が大事にされる社会。

 

 そうはいっても、会社がなりたたなくては、とか、

 そうはいっても、国の政策があるとか、

 そうはいっても・・・というのをいったん棚上げして

 本当はどうしたいのか、どうありたいのか?

 

 すべてのことは、一人の人を大事にしようというところで

知能を最大限、つかっていったら、どういうことになるだろう?

 

 これからは、経済的な面で、気持ちをあらわせられないけど、

こういう社会の実現について、もっとしらべていきたい。