秋のお彼岸に合わせて計画していた密蔵院の「お百度石」。
計画当初から、数々の私からのワガママな難題を苦労してクリアーしてくれた堀石材の若さん。
「こういう仕事はおもしろいですよ」と笑顔で、テキパキと仕事を進めてくれます。
朝から土台となる石のセッティングをしてくれたところで、ようやく住職も腰をあげた。
お寺の門近くからのロングコースと、本堂前の塀からのショートコースの二種類を作ってもらったのだが、さて、石から本堂前まで、祈りを込めて百回往復すると、総延長は何メートルになるのだろうと、巻き尺持ってはかりました。写真はロングコース。
ロングコースは片道12メートル。往復24メートルだから、お百度を踏むと、2400メートルになる(ちなみにショートコースでは往復16メートルだった)。
この土台の石に、武将のしょどう家堀之内哲也の豪快な文字が入り、さらに上部の石には100個のカラフルな数え玉がくる。わはははは。
日本人が考えた祈りのアトラクション、お百度石。数百年にわたってどんな人々の、いかような祈りや願いの受け皿になってくれるのだう・・・。
明日、完成したら、またアップします。
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今日はやろうと思っていたことが、急遽できなくなることはしばしばである。
240枚のお地蔵様のハガキに色を入れようと思っていたのだが、10月5日の明治大学での単発「祈りの歌声-ご詠歌の世界-」の講義の確認の電話をもらった。
電話でのやりとりの中で、「私は若い大学生に90分で、祈りや歌の裏側や生き方を、実際に唱えながら伝えるのだな」という思いが強く沸き上がってきた。
--つまり、エライコッチャ!である。
すでにご詠歌の世界についての講演は、年に何度かやらせてもらっているが、それは檀信徒の方々や、年配の方々が対象だから、みなさんある程度土台を持っている。念仏も聞いたことがあるだろうし、お坊さんのムニャムニャお経だって聞いたことがある。
ところが、今回は対象が異なるのだ。
バンドをやっている子もいるだろう。カラオケ大好きな子もいるだう。彼らが身近に接している音楽や歌が、2500年の歴史がある仏教の祈りの歌声と密接な関係があることを知ってもらえたら、そこから仏教にも関心を持ってもらえるかもしれない。
そこで、いままでとは趣向を変えることにした。かつて作ったレジュメは一切参考にしないで、新たに内容を組み立てることにした。
--まだ講義までには時間があるのに、そんなとを始めたから、ほーら、ハガキのお地蔵さまに待ちぼうけをくわせることになる。ゴメンナサイである。
うははは。
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「暑さ寒さも彼岸まで」という常套句は、自分ではもう使うまい・・・と思っていながら、つまるところ
「お彼岸は、暑さ寒さの峠道っていいますからね」
と言い続けて3年目である。うははは、情けない話だ。
それでも、使い続けていると、同じ言葉でも愉快な展開をみせることがある。
頂戴する新米や、シャキシャキの梨・・・。
考えて見れば、暑さの峠の越えたところにある「峠の茶屋」で、一カ月以上の猛暑に疲れた体を一休み。
そこで新米のご飯やら、デザートの梨などを頬張るという寸法なのだと思う。
食欲の秋まぢかだ。
「寒さ暑さの峠道、越えて茶屋で一休み、秋の空をあおぎつつ、逝った人々のことを思う」
来週の秋分の日は国民の祝日だが、この日はいつだってお彼岸の中日である。「先祖のことを思う日」みたいなことが、これもまた国として決められている。
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九月第二週、月曜からフル活動といったところ。今日も、午前中はご詠歌の個人大会出場の二人の特訓。
午後の「写仏の庭」のお手本、愛染明王が大版だったことを忘れていて、二枚を一枚に仕立てる作業をぎりぎりまで。
来月の佐渡の講習会で、講義が一コマ増えるこになり、そのタイトルと内容を考えてメールで送りーの、今日のお通夜での戒名解説を文章にしたためて喪家へ届け(私は講演会があるので拝めないから副住職が担当するからだ)。
そんで、夜の写仏のお勤めは家内に任せて、私は二つの地区合同の、青少年関係の講演会である。
こんなことをテキパキとこなしています。なぜそんなに次から次へと仕事(?)がはかどるかと言えば、朝食の時、家内がいれてくれたお茶をのんで・・・・
「涼しくなったねぇ。熱いお茶が美味しいと思うものね」と言えたからであろうと思う。
これが「今日は涼しくなったねぇ」で終わってしまうような感性では、ヘトヘトになって愚痴の一つもでる一日になっているに違いない。
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女性が出産する時の痛みを例えた話にこんなのがある。
--それはまるで、上唇を思いっきり引っ張って頭にかぶせるような痛みである--と。
家内に真偽のほどを問うと、
「そんなもんじゃないわよ!」と怒った顔をする。
自称、「筒井スト」(筒井康隆の熱狂的ファン)の私は、初期の作品群に中にあるスプラスティクな情景が好きで、先の上唇を引っ張って、そのまま頭から背中へ、そしてついに足元を回って胸元へと回り、ついには体を一周して上下の歯で噛むというところまで、情景が展開する。
そうなると、すでに体の内部が外側にベロンと露出する形になる。
普段は見ることができない、自分の内臓やら筋肉が他にさらけ出されることになるのだ。
気味悪くてすみません。
密教では「成仏とは何か」という質問に対して「実(じつ)のごとく自心を知る」(如実知自心:にょじつちじしん)ことだと説く。
自分の本当の正体を知ってごらん。それは、仏様と同じだと分かって、素晴らしいものだとわかるから。
浅い掘りさげ方だと、自分の醜い部分にビックリする。しかし、より深いところで自分の心を知れば、まさにそれが仏そのものだということがわかるというのだ。
悩んでいる自分もそのままでOKである。駄目な自分のそのままでいい、宇宙とつながっている本当の自分を意識してごらんなないと・・・。
さて、前から始まった今回のシリーズ(?)。内部へと進んだところで、これにてまずは一件落着させるの所存でゴザル。
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「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」禅宗の言葉である。
--他に対して理屈を言う前に自分の足元をよく見ろ。自己反省をうながす意でもちいられる。(「大辞林」より。
--という、下の見方である。
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一昨日、半年ぶりにスカイツリーの足元まで行った。娘の部屋から見えるようになったのだが、彼女はこの巨大な建造物を間近でみたことがないというからである。
密蔵院から車で約20分の距離である。
450メートルにならんとするねじれ棒のようなタワー。生きている間に完成が見られそうなので、あの世へ行った時に、両親へのいい土産話になるだろうと思う。
このタワーを見るために人垣で見えないということはない。首を上にあげれば必ず見える。
ところがここに面白い話がある。
人垣や塀などの向こう側を見ようと背伸びをすることがある。それでも見えないと、多くの人は、口をあける。
口をあけば、顎の蝶番(ちょうつがい)から上部についている頭部、つまり目の位置も上がるだろうというのが人の心理らしいのだ。
ところが、普通はどんなに口をあけても、顎は下に下がるだけで、目の位置が上がることはない。これと同様の愉快な勘違いが人生にもたくさんあるだろう。
高校時代に、ダイエットしようと一生懸命運動したことがあった。結果的に贅肉の下に筋肉がついただけで、帰って痩せずらい肉体になったなんてこともあった。どははは。
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「自身の側面を見られる人は幸せである」
---この、誰も聞いたことがない名言を残したのはガメラとも戦ったことのある、怪獣ギャオスである。
私は、年に一、二度だが、寝違えて、首がまわらなくなることがある。こうなった時に、我が家では(と言っても私だけだが)「ギャオスになった」と言う。
なぜかというと、怪獣辞典によると、ギャオスは三本の首の骨で頭を支えている。よって、首だけを回すことができないのだ。
右を向こうとすれば、体ごと右へヨチヨチと回転させなければないない。よって、ギャオスは自分の側面を自身で見ることができない。
こうして、かの名言は生まれた。
人生はとかく、前と後ろばかりを考えがちだが、時々左右も意識してみると「線」が「面」になって、人生の広がりを実感できるかもしれない。
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今朝、背中の左肩甲骨の右下あたりにポツリとかゆいところがあった。私の背面である。
太っているし、手が短いし、体が固いので、どうしても手が届かない。だれもいなければ、柱の角にこすりつけて「かいーーの」と熊みたいにすれば済むのだが、みるとそばに家内がいた。
「わりーけど、掻いてくれないか」
掻いてくれたのだが、「もうちょと右」「ああ、少し上だ」「む?そこの左」「あれ?」
不思議なことにかゆいところが微妙に移動していく気がする。
結局全面ローラー作戦みたいなことになる。
もう夫婦を二十五年以上やっているので、背中から手を抜いたあと、家内は私の目の前で、自分の爪が汚れたのではないかと確認するような不作法はしない。
あはは。
背面の出来事は、移動するという話である。
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「あなたが直面していることは、夢でも幻でもない、幸か不幸か(それはあなたのご都合ですが)、真実です。そして真実というのは素晴らしいものなんです」
---これを仏教語では漢字四文字で「即事而真」(そくじにしん)といいます。
「事(こと)に即(そく)して、而(しかして)真(しん)なり」とも読みます。
今は、逃げたいと思っても、いつか、しっかりと、現実に対応していきたいものですね。
イガイガの栗は誰も触れたいとは思いません。そのイガを破るのは中身である栗、つまり自分自身、時や、縁をいただいて内から破るんだと思うんです。
その力は誰でも持っている力。生んでもらったらた誰でもが持っている力・・・。
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