自己表現と天下

世界の中で、日本の中で、社会の中で、取るに足りないに違いないちっぽけな自分。

そんな自分が、じつは、ちゃんと(まさしく)、かけがえのない存在として、人生を生きていることを実感するのは、そう難しいことではない。

今日、足元の道路を見ながら犬の散歩をした。アスファルトはよく見れば、コールタールをまぜた、無数の小さな石が固められたものだ。

その小さな石はどこにあった石だろう。岩山の大岩が砕かれたものか、何億年の時を経た岩が、いま私の足元のコールタールの中に、埋まっている。コールタールもどこかの国から採掘された何億年も地中深くにあった石油(かつては地上に生えていた木だ)からできているだろう。

なんとも絶妙な取り合わせで、今、日本の江戸川区の道路になっている。それは、人を、車を、犬を上に載せてびくともしないで、この街のモノとして存在している。

その道路の上を、私が犬をつれて歩く。石と石油と犬と私という絶妙な出会いである。夜空には星がまたたき、北風が襟元を通り抜ける。そのどこにもチッポケな、石もコールタールも、星も空も、風も、犬も、私も・・・ない。取るに足りないものはない。

そして、私はいつ、どこにいても、その時、その場で、そこにしっかりとあるべくしてあることがわかる。天下のどんなものとも、つながっているし、天下と一体になって、その時、そこに、いるのだ。

何かができるとか、できないとか、他人や社会が認めようが認めまいが、他人や社会にアピールしようがしまいが、人はそれぞれ天下と一枚岩だと思う。
--自然の中にいると、それが良くわかるが、なに、都会の中でもそれは実感できものだ。

 ちょっと良寛さまになったような気がした。
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