風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ミュシャ展(下)

2010-06-07 01:12:24 | たまに文学・歴史・芸術も
 ミュシャの絵は、これまでなかなか見る機会がなくて、ミュシャ本人の画集やアールヌーボー特集の画集で見ただけでしたが、あらためて本物がもつ迫力に圧倒されました。微妙な色合い、繊細さ、そして長い風雪に耐えた紙のくたびれ具合。そんな本物の作品を通して、何十年、場合によっては何百年の時を経て、作家と触れ合った気がする一瞬の独特の緊張感が、こうした展覧会の醍醐味だと思うのです。
 つい最近、音楽CDは所詮はコピーに過ぎなくて、コンサートや生演奏こそホンモノの音楽だ、といったような内容の雑誌記事を読みました。
 音楽情報もデジタル化されて以来、コピーされても劣化しないため、著作権侵害が騒がれて来ましたが、実は正規品CDやDVDですらも、演奏をコピーしているという意味ではニセモノなのであって、更に海賊版CDは、流通権・頒布権というものがあるとしたら、その侵害には違いないですが、本人の演奏を手軽に楽しめる商品に仕立てあげているという点では、正規品のCDと変わるところはないわけです。本当の意味での著作権侵害は、ある作品の着想を借りて別の作品に一定限度以上に流用することであって、そういう意味で、限られたお小遣いを携帯やゲームなどの他の娯楽と取り合っているという構図で語られることが多かったCD売上の話などは、音楽そのものの議論ではなく、音楽産業、しかもレコードやCDを生産し流通する業者、いわば記録音楽産業に特有の議論に過ぎません。更に言うと、CDを何枚売ったから音楽家として成功したと思いがちですが、それは記録音楽産業にとっては意味があっても、本来の音楽とは関係がない世界の話だと言うべきかも知れません。
 かつて、ニューミュージック全盛の頃、井上陽水や中島みゆきといったアーチストは、テレビ出演を頑なに拒否していたことで有名ですが、コンサートやライブで生の演奏を聴いて欲しいという気持ちは、今となっては分からなくはありません。それならレコードやCDは音楽としてニセモノなのだから、販売を拒否すればよかったではないかと、イジワルな見方をしてしまいがちですが、レコードやCDは単にプロモーションのための方便であって、彼らにとってその売上はどうでも良かったのかも知れません。実際、アメリカでもCDが売れなくなって久しいようですが、コンサートの売上は逆に増え、今では、ミュージシャンの収入源の三分の二はコンサートだとも言われています。主な収入が生演奏であるならば、CDはタダで配っても、それによってコンサートに客が来てくれれば良いと考えるアーチストが増えているのだそうです。CDといった記録音楽産業だけではなく、コンサートの興行も含めた音楽産業全体として見れば、縮小しているわけではないのかも知れません。
 印刷技術が進歩して、画集にあっても、本物を忠実に再現出来るようになったことでしょう。しかし、本物の作品が描かれている素材感や大きさや、さらに風化した度合いまで再現することは難しい。彫刻や建築物であればなおさらです。10年ほど前、北斎展を見に行って、青色の鮮烈さに衝撃を受けたことがありました。それは画集のテカテカの良質の紙に印刷された鮮明な青ではなく、和紙に写された透明感のある青でした。
 情報がいとも簡単にコピー&ペイストされ入手できる時代になって、情報のもつ意味あいをもう少し真面目に考えた方が良いのかも知れません。ある言葉や出来事をGoogleで調べるてみると、孫引きはおろか、曾孫引き、そのまた引用・・・と平気で行われていて、世の中はコピーだらけになってしまったことに気が付きます。ある大学教授は、最近の学生の卒業論文が似通ってきたことを嘆いていました。タダほど高いものはないと言いますが、自ら思考しなくなった社会、本物の音楽を知らない、あるいは本物の芸術を知らない社会は、薄っぺらで空恐ろしい気もします。ミュシャ展で、荘厳な雰囲気に包まれながら、そんなことをつらつら考えていました。
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