東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の「女性を蔑視したと受け取れる発言」をしたことが物議を醸している。この状況には、行き過ぎを感じて、私は何重かの意味で苦々しい思いでいる。
森会長はそのとき、40分も喋ったそうで、女性より森会長の方が余程お喋りじゃないかと思うが(笑)、その全部は確認できず、該当部分500字余りをスポニチアネックスの記事で見た(2月4日付「森喜朗会長の3日の“女性蔑視”発言全文」)。確かに、多様性を受け入れられず、女性を差別する発想の発露であって、「日本に深く根差したジェンダー問題」(米外交専門誌「ザ・ディプロマット」・・・時事通信の記事から)と受け止められるであろう。根深い問題ではあるが、正直なところ、森会長や一部の日本人に残ること、などと言ってしまえば異論が出るかも知れないが、多様化する社会への不適合の残滓と言えるもので、「あるある」の世界ではあるが、ほれ見たことかと一般化されることには抵抗したいし、少なくとも私を一緒にして欲しくないという苦々しい思いでいる。私だけじゃなく、私たち男女雇用機会均等法以降の世代は似たような思いだろうし、違和感は年齢が下るにつれて強くなるだろう。
現実問題として、日本は今なお、世界経済フォーラムが発表する「ジェンダー・ギャップ指数2020」(2019年)で、G7の中で最下位の121位という惨憺たる結果である。実際に、男女雇用機会均等法の初期世代がどうなったかというと、身近なことしか分からないが、水が合わなかったのか辞めて行った女性が多いし、学生時代の友人の中には優秀でありながら専業主婦の女性も多い。しかし私の周囲には小さいお子さんを抱えながら活躍する時短勤務の女性が増えたし、在宅勤務の浸透によってより働きやすくなるだろうし、いよいよ世代交代が進んで目に見えて改善して行くことだろう。人の意識のこと、人の社会のことだから制度的裏付けも必要で、もどかしいがそれなりに時間がかかる。
あらためて森会長の発言を眺めてみると、女性「差別」には違いないが、女性「蔑視」の要素はなさそうだ。森会長の気持ちを敢えて忖度すれば、所謂男性社会における阿吽の呼吸が通じない女性という異性に対する苦手意識か、煙たく思う気持か、嫌悪感、といったところだろう。櫻田淳教授はfacebookで、日本社会の何処にでもいた「村のまとめ役・町内会の顔役・中小企業の社長」の「別の姿」なのであろう、と呟いておられる。まさに「ムラの掟」に拘る「ムラの長老」のような古色蒼然とした印象だが、女性「蔑視」とはちょっと違う。それなのに多くのメディアや評論家諸氏が軽々しくステレオタイプに女性「蔑視」発言だと大騒ぎすることには苦々しい思いでいる。
なにしろ、日本の大騒ぎを見たのであろう海外のメディアなど(あるいは海外メディアなどに寄稿する日本人など)から、世界に向かって「金メダル級の女性蔑視」(国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ)などと鸚鵡返しに論評されるのは心外ではないか(英語でどのような表現をされたのか知らないが)。もっとも、「(日本に)はびこる女性差別をあらわにした」(同)、「日本の古いジェンダー観」(仏紙ルモンド)が残っている証しなどと、あれこれほじくり返されるのは致し方ない。それを嵩にきた日本のメディアが、ブーメランなのに、さも海外でもこんな風に報道されているなどと、これ見よがしに他人事のように報じるのはちょっと苦々しいし、野党のセンセイ方が、ここぞとばかりに政権批判、つまりはステレオタイプに政治問題として利用することにも、苦々しい思いでいる。
問題のひとつは、東京オリパラ大会組織委員会・会長というポストの発言にあるのだろう。オリパラ精神に反するという批判があって、会長ポスト辞任を求める動きが強まっているが、「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学」 「オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するもの」 「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」であって、性別はその内のひとつの要素に過ぎない。森会長の老害と露骨に非難する声もあって、確かに重大な「失言」だったに違いないし、余りに軽率でもあって、反省が足りないと言われるのも分からなくはないが、SNS全盛の時代に強まる「言葉狩り」のようなバランスを欠いた批判の嵐は、スポーツマンシップに悖るのではないかと、天邪鬼な私は、ちょっと苦々しい思いでいる。聞くところによると、7年前、森さんは「頼まれたから、『無償』を条件に五輪組織委会長を引き受けた。規約上、報酬ゼロにはできないと知ると、自らの報酬をアルバイト職員と同額の最低額にし、その全額を積み立て、寄せ集めの組織委職員が一つになれるようにと、皆の懇親会費に充ててきた。そうして7年間、国のため、五輪のために無償で、しかも癌と闘いながら走ってきた」(有本香さん)そうだ。志や良し、だからと言って免責されるものではないが、オリパラ開催だけではなく、ラグビー・ワールドカップ開催にも尽力されたことが思い出され、人間社会のことだから奇麗ごとばかりではない利権が蠢く世界のこととは言え、スポーツを愛する思いは尊い。パンデミックで、しかも緊急事態宣言が出る中で、私にしても、関係する人々にしても、ストレスによって多少なりとも過剰反応しているのではないかと、冷静な気持ちに戻って、ちょっと反省してみたりする。
一番の問題は、飲み屋で内輪のぶっちゃけ話をするわけじゃあるまいし、報道を前提とした記者を前にして、政治家、中でも首相を務めたような公的存在としてより責任ある立場の方(ここでは森会長だけでなく、麻生副総理などもイメージしている)の、放言・失言・暴言の類い、もはや愛嬌として見過ごすことが出来ないコミュニケーション能力の低さ、あるいはコミュニケーションにおける意識(センシティヴィティ)の低さではないだろうか。ここでは棒読みと批判されるスガ首相もついでにイメージしている。もっとも、棒読みを感情が籠っていないなどと感想を述べるならまだしも批判するのは的外れだが(まあ、「失言」を避けるため、少なくとも正確さを欠く発言によって突っ込まれる事態を避けるため、官僚の作文に従う気持ちも分かるが)、コミュニケーションは、発信することに意味があるのではなく、どのように受け止められるかこそが問題である以上、政治家たる者、公人としての社会性とその影響力の大きさに配慮して、もう少し自分の言葉で、かつ時代精神とでもいうべき世の中のスタンダードは変わることに自覚的に、語って貰いたいものだ。昨今のようなパンデミック時のクライシス・コミュニケーションは特に重要で、メルケルさんのような欧米レベルとまでは言わないまでも、そろそろ日本のリーダーも、スキルとしてのコミュニケーションを、その心構えを、もうちょっと訓練して貰いたいものだと、苦々しい思いでいる。
森会長はそのとき、40分も喋ったそうで、女性より森会長の方が余程お喋りじゃないかと思うが(笑)、その全部は確認できず、該当部分500字余りをスポニチアネックスの記事で見た(2月4日付「森喜朗会長の3日の“女性蔑視”発言全文」)。確かに、多様性を受け入れられず、女性を差別する発想の発露であって、「日本に深く根差したジェンダー問題」(米外交専門誌「ザ・ディプロマット」・・・時事通信の記事から)と受け止められるであろう。根深い問題ではあるが、正直なところ、森会長や一部の日本人に残ること、などと言ってしまえば異論が出るかも知れないが、多様化する社会への不適合の残滓と言えるもので、「あるある」の世界ではあるが、ほれ見たことかと一般化されることには抵抗したいし、少なくとも私を一緒にして欲しくないという苦々しい思いでいる。私だけじゃなく、私たち男女雇用機会均等法以降の世代は似たような思いだろうし、違和感は年齢が下るにつれて強くなるだろう。
現実問題として、日本は今なお、世界経済フォーラムが発表する「ジェンダー・ギャップ指数2020」(2019年)で、G7の中で最下位の121位という惨憺たる結果である。実際に、男女雇用機会均等法の初期世代がどうなったかというと、身近なことしか分からないが、水が合わなかったのか辞めて行った女性が多いし、学生時代の友人の中には優秀でありながら専業主婦の女性も多い。しかし私の周囲には小さいお子さんを抱えながら活躍する時短勤務の女性が増えたし、在宅勤務の浸透によってより働きやすくなるだろうし、いよいよ世代交代が進んで目に見えて改善して行くことだろう。人の意識のこと、人の社会のことだから制度的裏付けも必要で、もどかしいがそれなりに時間がかかる。
あらためて森会長の発言を眺めてみると、女性「差別」には違いないが、女性「蔑視」の要素はなさそうだ。森会長の気持ちを敢えて忖度すれば、所謂男性社会における阿吽の呼吸が通じない女性という異性に対する苦手意識か、煙たく思う気持か、嫌悪感、といったところだろう。櫻田淳教授はfacebookで、日本社会の何処にでもいた「村のまとめ役・町内会の顔役・中小企業の社長」の「別の姿」なのであろう、と呟いておられる。まさに「ムラの掟」に拘る「ムラの長老」のような古色蒼然とした印象だが、女性「蔑視」とはちょっと違う。それなのに多くのメディアや評論家諸氏が軽々しくステレオタイプに女性「蔑視」発言だと大騒ぎすることには苦々しい思いでいる。
なにしろ、日本の大騒ぎを見たのであろう海外のメディアなど(あるいは海外メディアなどに寄稿する日本人など)から、世界に向かって「金メダル級の女性蔑視」(国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ)などと鸚鵡返しに論評されるのは心外ではないか(英語でどのような表現をされたのか知らないが)。もっとも、「(日本に)はびこる女性差別をあらわにした」(同)、「日本の古いジェンダー観」(仏紙ルモンド)が残っている証しなどと、あれこれほじくり返されるのは致し方ない。それを嵩にきた日本のメディアが、ブーメランなのに、さも海外でもこんな風に報道されているなどと、これ見よがしに他人事のように報じるのはちょっと苦々しいし、野党のセンセイ方が、ここぞとばかりに政権批判、つまりはステレオタイプに政治問題として利用することにも、苦々しい思いでいる。
問題のひとつは、東京オリパラ大会組織委員会・会長というポストの発言にあるのだろう。オリパラ精神に反するという批判があって、会長ポスト辞任を求める動きが強まっているが、「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学」 「オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するもの」 「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」であって、性別はその内のひとつの要素に過ぎない。森会長の老害と露骨に非難する声もあって、確かに重大な「失言」だったに違いないし、余りに軽率でもあって、反省が足りないと言われるのも分からなくはないが、SNS全盛の時代に強まる「言葉狩り」のようなバランスを欠いた批判の嵐は、スポーツマンシップに悖るのではないかと、天邪鬼な私は、ちょっと苦々しい思いでいる。聞くところによると、7年前、森さんは「頼まれたから、『無償』を条件に五輪組織委会長を引き受けた。規約上、報酬ゼロにはできないと知ると、自らの報酬をアルバイト職員と同額の最低額にし、その全額を積み立て、寄せ集めの組織委職員が一つになれるようにと、皆の懇親会費に充ててきた。そうして7年間、国のため、五輪のために無償で、しかも癌と闘いながら走ってきた」(有本香さん)そうだ。志や良し、だからと言って免責されるものではないが、オリパラ開催だけではなく、ラグビー・ワールドカップ開催にも尽力されたことが思い出され、人間社会のことだから奇麗ごとばかりではない利権が蠢く世界のこととは言え、スポーツを愛する思いは尊い。パンデミックで、しかも緊急事態宣言が出る中で、私にしても、関係する人々にしても、ストレスによって多少なりとも過剰反応しているのではないかと、冷静な気持ちに戻って、ちょっと反省してみたりする。
一番の問題は、飲み屋で内輪のぶっちゃけ話をするわけじゃあるまいし、報道を前提とした記者を前にして、政治家、中でも首相を務めたような公的存在としてより責任ある立場の方(ここでは森会長だけでなく、麻生副総理などもイメージしている)の、放言・失言・暴言の類い、もはや愛嬌として見過ごすことが出来ないコミュニケーション能力の低さ、あるいはコミュニケーションにおける意識(センシティヴィティ)の低さではないだろうか。ここでは棒読みと批判されるスガ首相もついでにイメージしている。もっとも、棒読みを感情が籠っていないなどと感想を述べるならまだしも批判するのは的外れだが(まあ、「失言」を避けるため、少なくとも正確さを欠く発言によって突っ込まれる事態を避けるため、官僚の作文に従う気持ちも分かるが)、コミュニケーションは、発信することに意味があるのではなく、どのように受け止められるかこそが問題である以上、政治家たる者、公人としての社会性とその影響力の大きさに配慮して、もう少し自分の言葉で、かつ時代精神とでもいうべき世の中のスタンダードは変わることに自覚的に、語って貰いたいものだ。昨今のようなパンデミック時のクライシス・コミュニケーションは特に重要で、メルケルさんのような欧米レベルとまでは言わないまでも、そろそろ日本のリーダーも、スキルとしてのコミュニケーションを、その心構えを、もうちょっと訓練して貰いたいものだと、苦々しい思いでいる。