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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

アメリカ的な(3)機内にて

2010-04-29 13:28:40 | 永遠の旅人
 前回、Manifest Destinyと書きましたが、それを国家として追求すること自体が倣岸不遜と言えるのかも知れません。もともとアメリカという国は、宗教的な使命感に基づいて建国された国で、世界の中でも稀に見るほど宗教色が強い。日本人一般には、自由主義の国という看板と、一見、相反するように見えるかも知れませんが、そこで言う自由主義は、そもそも宗教的な確信から生まれたものです。プロテスタントの教義上、罪深い人間にとって、現世における成功こそ神のご加護の証であり、従ってプロテスタントは、神から与えられた天職に徹して精進して、神に選ばれ、神に救われし者の証を確認しようとする心理があることを、マックス・ヴェーバーは明らかにしました。労働と結果としての富には倫理的な価値があるということになりますし、貧しいということは、神の思し召しに背いた本人の責に帰すべきものであって、基本的に社会的救済の対象とは考えない。それが、結果の平等ではなく機会の平等を求め、また自由競争を是とする契機となり、アメリカン・ドリームを体現することへの信念に繋がっているのだと思います。しかもアメリカを建国したのは、純化(Purity)すべしということを説いたご存知ピューリタンで、イギリスにおいては革命を起こし、国王の首を刎ねた激しさがあります。かつて全体主義としてのヒットラーやソ連の共産主義を激しく憎悪し、今またイスラム社会との軋轢を招いているのも故なしとしません。宗教に疎い私たち日本人は、アメリカ的なものの、その表層を舐めているに過ぎないのかも知れません。
 さて、そんなアメリカの航空会社、アメリカン航空の機内でアルコール類が有料になったのは、プロテスタント的な倹約からではありません(笑)。仕方なく、まるで禁酒法の時代にタイムスリップしたように、コカ・コーラばかり飲んでいました。前々回に書いたように、アメリカの食事が不味いから、コカコーラで味を調えていたわけですが、そもそもコカ・コーラの原点である薬用酒フレンチ・ワイン・コカから、禁酒運動の時代にワインを炭酸水に代えて(更にコカイン禁止を受けてコカを抜いて)今の形になったコカ・コーラは、まさに禁酒法の時代にノン・アルコール飲料として売上を伸ばしたものでした。なんだかその歴史を辿っているようです。世界のどこに行っても口にすることが出来るコカ・コーラは、アメリカ的な資本主義あるいはグローバリゼーションを象徴する飲料ですが、第二次大戦の時、兵士がどこで戦おうとも、どれだけ自社の負担になろうとも、5セントで兵士が飲めるようにすると戦争への協力を訴え、それが士気を高揚するというので、軍需品としての認可を受けて、戦争とともに更に飛躍したところも、如何にもアメリカ的です。日本では何故かコーラという呼び名が一般的ですが、アメリカではコークと呼ばないと理解されません。コカ・コーラと正式名で呼ぶと、何か別のものを言っていると思われるのか、Pardon?と聞き返されるのがオチです。
 帰りの座席番号は41Gでした。41列目は、ボーイング777にあっては、実は特別の意味があります。通常、777は、両窓際に2席ずつ、真ん中の島に5席、つまり2-5-2席の構成ですが、機体後部は狭くなるため、真ん中の島の座席数が5席から4席に減るのが、ちょうど41列目に当たります。そうすると、機内のモニターや食事用テーブルは、通常、前の座席の背中に貼り付いているわけですが、席がズレてしまうので、この列だけ肘掛けに収納する形になっていて、肘掛けが2つもある。つまり同じエコノミー席でも、41列目だけは、隣の席との間の空間が広いのです。それを発見して、ささやかな喜びに浸れたのも、時代の流れと言うべきでしょう。私が入社した20数年前は、新入社員ですらビジネス・クラスで出張出来たことと比べると、時代の変化を感じます。こうした時代の変化を感じることなく、40年以上前の特別な感覚を持ち続けて乗務員をハイヤーで送迎する悪習を続ける日本航空が淘汰されるのもまた、時代の流れと言うべきでしょう。
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アメリカ的な(2)シカゴにて

2010-04-26 23:16:32 | 永遠の旅人
 今から8年半前、911同時多発テロの三日後、空港が再開された時には、機内の食事に使われるナイフがプラスチック製に変わっていて驚かされましたが(フォークも立派な武器になるような気がしたのですが、こちらはステンレス製のままという、なんともマニュアル的な対応に呆れたものでした)、それだけではなく、機内持ち込み荷物が厳しくチェックされ、ハサミやカッター等の文房具でも没収されるようになりましたし、その後、テロ未遂をきっかけに100ミリリットル以上の液体の機内持ち込みが禁止されたのはご承知の通りです。
 今回、ダラス・フォートワース空港の入国審査では、両手10本の指紋と両目の虹彩を採られました(成田でも、外国人の二本の指紋を採っていました)。ダラスからシカゴに移動する国内線では、ダラスを出る際、パソコンを鞄から取り出して別に検査すのはもとより、上着・靴・ベルト・時計などの金目のものを外さされました。靴を脱がされても、特に絨毯の類が敷いてあるわけではないのがいかにもアメリカ的です。
 日本にいる限りは余り感じることはないかも知れませんが、アメリカにいると、911以来、物流や人の流れでセキュリティが厳しくなっているのを感じます。人の流れは上に述べた通りですが、物の流れについても、一つには安全保障貿易管理という言葉があります。東西冷戦時代に、西側諸国の先端技術が東側諸国に流出して核兵器・通常兵器などの開発に利用されることを防ぐ目的で、厳格に輸出を管理する枠組みで、東西冷戦の崩壊とともに形骸化するものと思われていましたが、テロとの戦争の中で、テロリストに大量破壊兵器を渡さないという目的で、あらためて厳格な輸出管理が行われています。先週半ば、アメリカ政府はこの枠組みを緩和する方向で検討を開始すると発表しましたが、経済効率とのバランスで、先端技術は益々厳しく管理する、そうでないものは輸出振興のため緩和するというのが意図のようです。また、貨物便で輸送される貨物については、梱包から出荷まで、すなわちサプライ・チェーンの上流から下流まで、全てにわたって危険物の混入や差し替えを許さないほどのセキュリティを保証すれば、輸出入の通関が早くなるという、逆に言うと、自らセキュリティを保全できなければ、その検査作業のために通関において著しい遅延も止む無しという、官民合同で創設した制度があります。この8月からは、旅客便で運ぶ貨物についても100%検査(スクリーニング)が義務付けられるそうで、アメリカの提案により既に98ヶ国が合意しているといいます。
 もとよりテロとの戦争はアメリカが蒔いた種ではないかという意地悪な見方もあり得ますが、アメリカ人はそのようなことをおくびにも出しません。むしろ、テロとの戦いも、かつてテキサス併合のときに叫ばれ、その後の西部侵略や更には帝国主義的な領土拡張を正当化した“Manifest Destiny”だと、信じて疑うことを知らないのかも知れません。
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アメリカ的な(1)ダラスにて

2010-04-23 15:05:02 | 永遠の旅人
 先週末から出張でアメリカに来ています。
 アメリカ出張は久しぶりで、911同時多発テロが起こった時、出張でサンノゼに滞在して、翌日に帰国するはずが、空港閉鎖により滞在を二日間延期した、あの時以来で、実に8年半振りです。あの時のことは別のブログに書いたので、繰り返しません。
 あの当時は、ちょうどアメリカのとある事業を閉鎖するヤマ場を迎えていて、その後は、マレーシア・ペナンやオーストラリア・シドニーに滞在したように、アジア・大洋州地域をうろつくことになったのでした。従い、あの時以後のアメリカについては、外からしか眺めていなくて、折悪しく、ブッシュ前大統領の単独行動主義が全世界から非難を浴び、更に追い討ちをかけるように、金融危機に端を発する景気後退で、アメリカ的な行き過ぎた自由主義(経済)が、非難を浴びて、アメリカにとって分が悪い8年間であり、私自身にとっても、第二の故郷とも呼ぶべきアメリカの凋落ぶりに当惑し、あるいは世間の一方的な評価に切歯扼腕し、同時に内心忸怩たるものもあって、アメリカびいきを表立って喋ることができない、不思議な雰囲気に包まれた、屈折した8年間でした。
 さて、久しぶりのアメリカを訪ねて、あらためて、アメリカはアメリカだなあと感じ入りました。この感覚は、アメリカにいなければ生まれ得ないかも知れない。外から見れば実に身勝手千万、他国のことは眼中になく、常に自分が世界の中心にあり、世界は自分そのものとも思うほどの傲岸さに充ち満ちた存在です。しかし一歩中に踏み込むと、外の人が見るほどのことはなくて、ただ単に気が回らないだけ、世界の中の大いなる田舎モノと言った方がぴったりと来るような、大陸的大らかさに溢れた、スキだらけの存在なのです。
 とにかく広くて、何もかも大きい。遮るものがないから、空が広い。もちろん場所によるのですが、平地であれば、それこそ北海道のように、見渡す限りの地平線が広がります。隣の建物との間ですら、歩いて行くには大変だと思わせるほどの距離、あるいは車に轢かれそうになるから歩くのは邪魔だと思い留まらせるような、つまり車に遠慮したくなるほど道幅やカーブが大きく、車中心の構造になっています。食い物は、アメリカ人だって食いきれないほど、そして残り物をDoggy Bagと呼んで、犬に食わせるどころか、家族に食わせるために持ち帰るほどの量がどっさり出てくる。デザートはゆうに三人前はあります。料理もコーヒーも、相変わらず大味で不味いから、料理なら塩・コショウで、コーヒーならミルクと砂糖で、ファーストフードならコカコーラで、味を整えながらでなければ、とても食い切れないシロモノです。
 それでも、このアメリカ人のフランクさ、人懐っこさは、何でしょう。普段の日の昼間だというのに、空港を歩いていてスーツ姿をほとんど見かけないラフさ加減は、何でしょう。全てが機能的、経済合理的に出来ていて、日本的な情け容赦は微塵も見られませんので、諦めざるを得ない。
 マレーシア・ペナンで食べたスパゲッティは、アジア的なピリ辛風味が美味かったけれど、ダラスで食べたスパゲッティは、同じチリを多用してピリ辛なのに、アメリカ的で美味くない。これがアメリカなのだと、妙に納得してしまいます。
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ノルウェー

2009-10-13 14:29:17 | 永遠の旅人
 ノーベル平和賞の授賞主体となるノルウェーのことを気紛れに調べてみました。
 日本からは地理的に遠く離れた北欧の国で、日本の輸出入に占める比重は0.2%程度と、日本人にとって存在感は限りなく小さい。国土面積は日本とほぼ同じですが、人口は僅かに480万人、人口密度は15人に過ぎません。しかし注目すべきはGDPで、絶対額では日本の十分の一程度ですが、一人当たりに換算すると世界第三位(5万3千ドル、但し購買力平価ベース、出典IMF)であり、この一人当たりGDPと人口規模は、シンガポールとほぼ同じなのです(シンガポールは世界第四位の5万1千ドル、人口470万人)。
 スカンジナビア半島西岸に位置し、フィヨルドが天然の良港になっているのは、中学時代に理科の教科書で習いました。南方の首都オスロですら北緯約60度という高緯度地帯に位置しますが、暖流の影響で冬でも不凍港で、バルト海沿岸よりもむしろ穏やかなのだそうです。もっとも国土の北半分は北極圏、三分の二は不毛の地で、平地が乏しく耕作地は3%に過ぎません。このGDPを支えているのは、北海油田の石油・ガス生産で、石油生産量は世界第11位、ガス生産量は世界第5位を占め、GDPの25%、輸出額の52%を占めます。
 面白いのは、いずれ石油・ガス収入は減少し、他方、高齢化による社会保障費の支出増加が見込まれるため、政府は、石油・ガス収入がある内に、その他の産業の育成を図ると共に、将来の安定した福祉政策の財源に充てるため、その収益を年金基金として積み立てていることです。この国には財政赤字は存在しない上、この基金残高は国家予算の3倍の額に達しているそうです。
 福祉国家にふさわしく、男女平等の法整備が進み、公的資金を投入した保育施設や育児休暇(父親の育児休暇取得義務づけを含む)制度が充実しており、労働人口における女性の就業率は世界的に見るとトップ・クラスに位置します(男性の就業率82%、女性75%、但し女性はパートタイマーが43%)。また出生率は1.89、平均寿命は79.8歳(男性77.3、女性82.2)と、フランスやその他北欧諸国並みに高いですし、就学率や成人識字率をはじめ、「人間開発指数(HDI)」は世界トップクラスに位置しています(2006年度第1位)。
 政治的には、EUの一員かと思ったら、1972年に続き1994年にも国民投票でEU加盟を否決しています(1972年当時はECでしたが)。主権喪失、福祉水準低下、漁業権侵害に対する国民の間の根強い懸念等が理由のようです。だからと言って、孤立するのではなく、むしろ2009年欧州評議会事務総長選挙に現国会議長を擁立するなど、非EUの立場から対欧州外交を積極的に展開しています。経済の分野においても、EEA(欧州経済領域)協定(92年締結、94年発効)に基づき、人、モノ、サービス及び投資の協定域内での移動の自由を原則認め、ノルウェーはEU域内市場として扱われています(税制、農業・漁業政策、経済・金融政策、EU関税同盟等を除く)。現に輸出・入総額に占めるEU諸国の比率はそれぞれ83%と68%を占めます(一方、米国は僅かに4%と5%)。1999年にはシェンゲン協力協定を締結(2001年発効)し、旅券、司法、警察の分野でもEUと緊密に協力しています。
 このあたりの自主独立の気風と周辺諸国との関係強化は、9世紀にはノルウェー王家が成立するも、黒死病などにより1387年に断絶してデンマーク配下となり(デンマーク=ノルウェー)、デンマークがナポレオン1世側に付いた後の1814年にはスウェーデンに引き渡されてスウェーデン王国との同君連合となり(スウェーデン=ノルウェー)、1905年にようやく悲願の独立が認められた歴史に根ざすものでしょう。初代国連事務総長トリグブ・リーはノルウェー人でした。小なりと言えども、なかなかに尊敬されるべき国として、異彩を放っていますね。世界はいろいろな国があって面白い。
 ノルウェーに比べて複雑・大国化した日本に、シンプルな戦略策定は難しいでしょうが、国として進むべき方向に国民のベクトルを合わせることは可能なはずです。そして行政区分としては1億2千万人はやはり大き過ぎるかも知れません(日本の都道府県では9番目の福岡県ですらノルウェーの人口よりも大きい)。我々日本人の国の経営センスが問われます。
 以下の写真は、中継貿易の国シンガポールの港。
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