goo blog サービス終了のお知らせ 

風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ムクゲ

2022-08-30 01:40:26 | 日々の生活

 漢字では「木槿」と書く。中国が原産の、落葉広葉樹の低木で、観賞用に栽培され、日本では既に平安時代初期には植えられていたそうだ。Wikipediaによれば、花持ちが悪いため花展には向かず、あまり一般的な花材ではないが、毎日生け替えて使うことで風情が出る、とある。さらに茶道では、茶人・千宗旦(利休の孫)が好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている、とある。韓国では国花になるほど人々に馴染みのようだ。

 添付は、会社の敷地内に可憐な花を咲かせていたのが目に留まり、写真に収めたものだが、期せずして、故・山本兼一さんの『利休にたずねよ』を読んでいると、象徴的に(たとえば高麗茶碗とともに)「木槿」が配されているのを、感慨深く思った。

 山本兼一さんと言えば、以前、このブログで、山岡鉄舟の生涯を描いた『命もいらず名もいらず』を取り上げた。その後、『オリビアを聴きながら』風に言えば、「私らしく一日を終えたい夜」に寝入る前15分の読書の友として(笑)、『火天の城』に惹き込まれた。続いて、遅まきながら読んだ『利休にたずねよ』の何が凄いって、巻末の浅田次郎さんとの対談の中で、利休はこれまでいくつもの作品が出ていて書き尽くされている感があるし、茶の湯を通じてカリスマ的な存在としてキャラクターのイメージが固定されているので、小説にするのは難しいし度胸がいると言われたのに対し、山本さんは、利休について書けると感じたのは、博物館で利休の真塗りの真っ黒な水指を見たときだと答えておられることだ。すごく柔らかくて、艶っぽく感じたんです、と。侘び・寂びの世界に「艶っぽさ」を見て取るのは主観の問題だが、その感性が素晴らしい。かつて、マレーシア駐在時に、マーケティング責任者のシンガポール人が、商品(モノ)を評価するのにsexyという言葉を使ったことに感嘆したことがあった(流行言葉だったのか、その後、公式の場で不用意にsexyという言葉を使って叩かれた政治家がいたが、半分、同情している)。日本語に訳せば、「艶っぽい」と言えなくもない。痩せても枯れても、どこかに「艶っぽさ」があるのは、もとより自分は遠く及ばないにしても、人として憧れである。

 俳句では秋の季語だそうだ。一週間前に撮影したときから、俄かに秋らしくなったが、写真でも既に秋の気配が感じられる。振り返れば短かったような夏の終わりに。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

需給逼迫注意報

2022-06-28 01:03:39 | 日々の生活

 週末、まるで梅雨明けしたかのような暑さやなあと、暑さにまだ慣れていない身体を持て余していたら、今日、本当に梅雨明けしたので驚いた。関東甲信は平年よりも22日早く、最も早い梅雨明けとなったようだ。この暑さで、東京電力管内で電力需給が厳しくなる見通しとなったのを受けて、経済産業省は昨日、初の需給逼迫注意報を発令していた。

 我慢強い日本人のことである。「古くて効率が悪くなっていた火力発電の休止や廃止が相次ぎ」(今日の日経新聞・電子版)、「東日本大震災の後、原子力発電所の稼働も減っているという構造的な問題がある」(同)上、「3月に福島県沖で起きた地震の影響で、いくつかの火力発電所が損傷して供給力が低下していた」(同)ところに、「想定以上の暑さが追い打ちをかけることになった」(同)ということだが、その経緯はともかくとして、如何にも場当たり的な「節電」が呼びかけられた。

 我慢強いのは美徳には違いないが、何事も程度の問題であって、過ぎたるは及ばないのが世の常だ。コロナ禍の前に日本だけがデフレだったのも、価格競争が厳しくなったり不況になったりした事業で、なかなか撤退する英断を下せず、構造改革と言う名の身を削る努力をし、給与レベルを上げなくても頑張る・・・というような日本人の我慢強さが影響しているに違いない(もとより、それが全てとは言わないが)。

 このあたりを匂わせる記事が、昨日の日経新聞・電子版に出ていた(*)。

 「政権発足からもうじき9カ月。特になにかをやったわけではない。もちろん大きな失敗があったわけでもない」(同)のに、「なぜ岸田文雄内閣の支持率は高いのかという素朴な疑問」(同)に答えるべく、安倍内閣と比較して、二つの顕著な違いを挙げる;

  • 安倍内閣が一貫して男性の支持率が高い「男高女低」だったのに対し、岸田政権では「男女同等」であること
  • 安倍内閣の支持は若手がシニア層より圧倒的に高い「青高老低」だったのに対し、岸田内閣では正反対の「青低老高」であること

 さらに、内閣支持の理由にカラーが出るとして、「人柄が信頼できる」が岸田内閣ではいつも上位にランクすることを挙げながら(勿論、この点は安倍内閣と対照的である)、岸田政権を次のように活写する。

(引用はじめ)

 まじめで一生懸命。変幻自在・臨機応変なのか、朝令暮改なのかは見方によるがこだわりなく変える。寡黙だった前任者、国会答弁で反論した前々任者。前の2人が強烈なリーダーシップを発揮したのに対して無色透明感。

 政策運営も積極的に打って出るのではなく、コロナ、ウクライナと起こったことに反応していくタイプだ。ゆるくて、ふわふわとして、そして、なんとなくの支持である。

(引用おわり)

 安倍内閣は、第三の矢として規制緩和などの成長戦略を掲げ、若者を中心に大いに期待させて支持を広げた(が、実際には政策に見るべきものがなかった)。岸田内閣は、他人の話を聞いて「検討する」と言うだけで行動に移さないところが、変化を求める若者の支持率の低さと、安定を求める年配者の支持率の高さに繋がっているような気がする。

 日本の社会は、危機や問題に真正面から立ち向かって痛みを伴う改革を断行するリーダーシップより、誰もが少しずつ不満を分かちあいながら変化を避けて丸くおさめるムラの長者のような存在感に人気があるようだ。そうである以上、電力不足に対しても、根本問題としてのエネルギーミックス、とりわけ原発再稼働のように不人気で角の立つ問題に真正面から取り組むのではなく、節電という忍耐に訴えて急場を凌いでよしとするのだろうか。暑さにストレスも加わるような夏は勘弁して欲しいのだが。

(*)https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK192QP0Z10C22A6000000/

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼

2022-05-12 20:08:52 | 日々の生活
 最近、相次いで亡くなられた方に衝撃を受けている。
 一人は、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さん。享年61。これまでも本ブログに書いて来たように、普段は何ら気に留めていないのに、いざ亡くなると無性に恋しくなる方がいる。上島竜兵さんも、バタな演技は決して憎めないのだが、またやってるなあ・・・程度の反応でしかなかった。しかし、これまでの彼のキャラクターと彼の死との間に余りにもギャップがあって、悲しい。
 NEWESポストセブン(*1)は次のように回想する。「大の酒好きで知られる上島さんは、売れない若手芸人を誘って、頻繁に飲み会を開催していた。ブレイク前に面倒を見てもらった有吉弘行(47)や土田晃之(49)は、上島さんを恩人として慕い、“竜兵会”は芸能界の一大グループとなった」「メンバーが多忙になったため、近年は『竜兵会』を開催する回数もめっきり減っていたようですが、今から10年ほど前はほぼ毎日が飲み会でした。1日に4軒まわることも多く、朝帰りが日常だったようです。基本的には上島さんのおごりで、若手の芸人さんを10人以上引き連れてお店で飲むこともあったので、金銭的な負担も少なくなかったはず」と。器用には見えないけれども一所懸命な彼の人柄が偲ばれて微笑ましい。
 上島さん自身も、一昨年、コロナ禍で亡くなった志村けんを師匠と仰ぎ、よく飲んだそうだ。志村さんは生前、「ダチョウ倶楽部との飲み食いで1億(円)は使った」と豪語されていたらしい(東スポ)。同じくNEWESポストセブンは次のように回想する。「上島さんは仕事が終わると、すぐに電話をかけて、麻布十番で飲んでいる志村さんと合流。”おネエちゃん”の話から、お笑いに関する話まで。多い時は週に4回も飲んでいたとか。奥さんからは“志村さんと結婚したらよかったじゃない”と言われることもあったそうです」「志村さんが亡くなってからというもの、上島さんは“寂しい”とよく呟くようになりました。コロナ禍により、昔のように気軽に飲み会を開くことも難しくなりました。仕事などへの不安を口にするようにもなってきて、ひとり飲む夜もあったようです」と。
 ガダルカナル・タカさんが振り返る。「本当にさみしがりなんでね。本当いつも家にいて奥さんと仲良くしてればいいのに、いろんな先輩に連絡して、後輩集めて飲みに行ったり、とにかく人と接していて上島竜兵がここにいるんだよっていうのをみんなに分かってもらわないと不安な人だった。とにかく飲みに行くのが好きでした」。なんだか切ない。
 もう一人、慶応義塾大学教授の中山俊宏さんが、今月1日に亡くなっていたことが分かった。享年55。クモ膜下出血だったそうで、余りにも突然だった。もとより面識はないし、著書を読んだこともない不逞な輩(=私)で、テレビやネットで拝見するだけだったが、現実的なアメリカ政治外交の専門家として注目していた。
 学者には珍しく(と言ってしまえば他の学者の方々に失礼にあたるが)上品(そう)なスーツをさりげなく着こなすダンディーな方で、でもご本人はそう呼ばれることを嫌がっておられた。「ダンディーなどと言われたら、絶対嫌ですね。目立ちたい気持ちはゼロとは言いませんが、見てもらいたいように見える、それは恥ずかしい。そもそもですけど、私にとってファッションは隠れることだったんですよ」「際立つ、のではなく、あえて何も気づかせない、ということが大切なのではないでしょうか。『すれ違った時に振り返られたらだめ。それは何かスタイルで失敗している』という話がありますよね。さりげなさに執拗なまでにこだわること。社会的な地位が高くなればなるほど、過剰な装飾などせずに際立たない。ただ、すっと、スタイルや体形に合ったものを着る、ということが非常に重要になってくる気がします」(Nikkei Style *2)と。ご本人もこのインタビューで言われるように、身の丈に合った、といのは、自らに合わせるのではなく逆に服装に合わせるように努力することでもあり、それはそのまま生き方の美学に繋がっているような気がする。ここで「服装」は自らの「発言」や「主張」「思想」と言い換えてもいい。
 たまたま連休初日(4/29)の夜、実家でFNNプライムニュースでお見かけしたはず・・・と思って確認したら、確かにその通りで、次の日(4/30)にツイートされたのが最後だったようだ(下記)。現実的なご意見に賛同。

(引用はじめ)
 国連事務総長の苛立ち。昨晩は大国間の争いの狭間で何もできないUNSGについて、@primenews_ で冷ややかなコメントをしましたが、自分は国連不要論者ではなく、その限界と実態を踏まえた上で、不可欠な役割を果たせるとの立場です。
(引用おわり)

 お二人のご冥福をお祈りします。

(*1)https://www.news-postseven.com/archives/20220511_1753149.html?DETAIL&_from=widget_ranking_pc
(*2)https://style.nikkei.com/article/DGXZQOLM234LL0T21C21A1000000?channel=ASH03000
   https://style.nikkei.com/article/DGXZQOLM24D9K0U1A121C2000000?channel=ASH03000
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教雑感

2022-01-29 20:34:04 | 日々の生活
 もう一ヶ月以上前になるが、統計探偵/統計データ分析家を自称される本川裕さんが、プレジデント・オンラインに、ある統計データについての興味深い解説記事を寄せておられた(*)。
 「世界価値観調査」によると、世の中には「神の存在を信じる」国民がまだまだ(という言い方が適切かどうか分からないが)多いようだ。調査対象77ヶ国の内、95%以上の国民が「神の存在を信じる」国が26もあり、90%以上まで拡げると半数近い36ヶ国にものぼるという。他方で、東アジアの仏教圏(儒教的仏教圏)は最も低い部類に入るという(中国17%、日本37%など)。特に中国が極端に低いのは、共産主義社会だから、と言われるのはその通りで、マルクスは「宗教はアヘン」だと言って禁止する一方、共産主義をドグマ化し、宗教の代替にしようとした。逆に、かつての共産主義国家では、ソ連崩壊以降、共産主義の縛りが解けて、時系列で見ると「神」や「宗教」が復活しつつあるとする見方には、なんとなく納得する。
 もう一つ面白いのは、「分からない」という回答が極端に多かったのが日本なのだそうだ。日本人は「あいまいさ」を好む(許容する)とは思っていたが、まさにその通りのようだ。このコラムで気候学者の以下のような発言を引用されているのが興味深い。

(引用はじめ)
 気候学者の鈴木秀夫によれば、〈ドイツ人は、わからないという状況が耐え難くて、物事の理解より自分の意見をはっきり持つということを優先する態度をとる。例えば、よく知らないにもかかわらず訊ねられた道をきっぱりした態度で教える。これに対して、日本人は、人間の判断を空しいものとみなす仏教の思想に影響されている。理解していることでも自分の理解は不十分なのではないかと感じ、むしろ「わからない」と回答するほうがしっくりする気持ちを抱く〉 といった主旨の解説をしている(『森林の思考・砂漠の思考』NHKブックス、p.14~18)。そして、こうした東西の考え方の違いを気候風土に影響されて生まれたものとしている。すなわち、乾いた大地において水場に向かう道としてどちらかを選ばざるを得ない西洋の「砂漠の思考」に対して、どちらの道を選んでも生き残れる東洋の「森林の思考」とがあり、日本人は特に後者に親しんでいるためと見なしている。
(引用おわり)

 私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、正直なところよく分からないが、世の中で宗教はもっと形骸化しているものと思っていた。アメリカ駐在の頃(と言っても20年以上前になるが)、あるアメリカ人から、日曜礼拝しないアメリカ人が増えているとも聞いていた。もっとも、アメリカやオーストラリアなどの移民社会では、(宗教を含む)文化を鉄壁の鎧・・・とまでは言わないが、スーツや化粧で完璧に覆い隠して、文明人の装いをしているが、一皮剥けば文化が顔を出すものだ。他方、マレーシア駐在の頃に触れたイスラム社会は対照的で、一見、西洋文明に浴して(植民地支配されて)、文明国の一つに成長しているには違いないが、その文明の装いは天女の羽衣のように「すけすけ」で、文化的(宗教的)な地肌が露わになっている。マレーシアはまだ穏健な方で、アラブから来られたと思しき女性たちは、マレーシアのホテルのプールですら水着にならず、あの黒い装いのまま肌を見せていなかったことに驚いた。キリスト教社会にしか馴染みのない私に、イスラームはある意味で偉大だと思わせたものだ。
 結局、西欧社会は、人間がか弱い存在であることを自覚しつつ、宗教を聖なる世界に閉じ込めて、俗なる世界では宗教を克服しようとサイエンス(近代科学・・・政治を含めて)を発達させて来たが、それでも、「神の存在を信じる」人が多いということは、内面の解決には至らない、すなわち宗教(一神教)という心の問題は手ごわいというのは、人間存在の本質に関わるからだろうか。あの文明国・アメリカですら(いや宗教立国・アメリカだからこそと言うべきか)、進化論を学校で教えて裁判沙汰になって否定されてしまうほどだから・・・
 中国は、宗教やら文化やらの厄介モノ(文化的価値)はそれぞれなので、それを避けて、カネ(経済的価値)という共通の価値で交わろうとするように見える。かつて朝貢してきた周辺国の使者に対して「倍返し」で手なずける、あの発想だ。アメリカ撤退後のアフガニスタンに対しても、また他の一帯一路の国々に対しても、「内政干渉」を避けて、飽くまで経済的付き合い(カネ)に限ろうとしているように見える(そういう意味では、新彊ウイグル自治区や香港の問題は「内政干渉」だと、ことさらに反発するのは、相互主義の態度として一貫している)。もっとも、最近はカネの切れ目が縁の切れ目で、一帯一路はうまく行っていないと言われ、綻びを見せ始めているようだが・・・。
 翻って日本・・・このコラムの作者は「無宗教に最も近いのは日本」だと言うが、私は日本人は「無宗教」かも知れないけれども極めて「宗教的」だと思っている。大多数の日本人は、「神の存在を信じるか」と面と向かって問われれば、キリスト教などの一神教を思い浮かべて、否定的な反応を示すに違いないが、「神」ではなくて一般名詞の「神様」と呼びながら、あらゆるものに「魂」が宿ると思っている人は今でも多いのではないだろうか。いわゆる原始宗教のアニミズムの世界だ。豊かな自然の恵みに感謝する日本人らしい心性である。
 小学生の頃、友達と砂場で遊んでいて、その友達が砂の上の動物の玩具をフォークで突き刺そうとふりかぶったときに、その動物を守ろうと咄嗟に手を出して、そのフォークが私の指に突き刺さったことがあった。馬鹿なことしたものだと思うが、動物(の玩具)がかわいそう・・・と思ったごく自然な反応だった。子供心に動物の玩具にさえ憐れみを感じていたのである。すれっからしの今なら考えられない(笑)。当時は、ちょちょいと消毒してすぐに治癒したが、今の年齢なら化膿して大変なことになっていただろう・・・その面でも今となっては考えられない(笑)。

(*)「日本の若者が信心深くなっている…旧共産陣営ロシア・ベトナムと並び「神の存在を信じる人」増加の謎」 https://president.jp/articles/-/52644
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年の始

2022-01-07 21:13:59 | 日々の生活
 年始と言いながら一週間が過ぎた。昨日は底冷えのする一日で、都心でも10センチの雪が積もり、昨晩は久しぶりに駐車場の雪掻きをした。それを知った近くに住む知人が驚いたのは、どか雪ではなく、今日の昼には陽のあたるところは溶けて消えてしまう程度だったからだが、雪掻きの「道具」と「意識」があるから、かも知れない。四半世紀前に4年間住んだボストンは、感謝祭の頃から3月一杯は雪に覆われ、雪が降った日の朝、雪掻きをしないで共同駐車場に一台だけ取り残されると酷い目に遭う(タウンハウスが契約する業者の除雪車が入るのだが、除雪の際に寄せられる雪の壁で車が囲まれてしまう)ので、ちょっとした雪→雪掻きしなきゃ思考がクセになっている(笑)。そして車上の雪を振り払う当時の「道具」は今でも重宝している。
 閑話休題。かつて三が日は商売が止まるので、各家庭は自衛のためにお節をつくるのが習いだった。しかし最初こそもの珍しい餅にもすぐに飽き、変わり映えのしない正月番組も見飽きて、子供心に世の中が早く元に戻らないかと待ち遠しかったものだ。その後、いつの間にか元旦営業が当たり前になり、さらに最近は人手不足のあおりで揺り戻しがあるとは言え、今年も近所のヨーカドーやコンビニは元旦も休まず営業されており、正月は暦の上で年があらたまるだけで、かつてのけだるい正月気分からは遠ざかったままである。今思うと、イスラム世界のラマダンとまでは言わないが、年に一度、数日間ではあるが日常をほぼ離れてこそ日常が有難く思える貴重なイベントだったのが懐かしい。
 そうは言っても幸先という言葉があるように晴れやかであって欲しい年始だが、オミクロン株が日本でも暴れ出し、あっという間に全国の感染者数が六千人を超えたようだ。日本のこともさることながら、お隣の中国のことも、お節介ながら気になってしまう。
 イアン・ブレマー氏率いるユーラシア・グループから、年始恒例、世界の「十大リスク」が発表された。その第一番目は、“No Zero Covid”(ゼロコロナ政策の失敗)だった・・・と言うよりこれから始まることとして、不吉に予想されている。問題は、欧米諸国がウィズコロナに移行しつつある中、なおも“ゼロコロナ”に拘る中国で、折しも北京では冬季五輪を控え、世界中から人が集まることだ。よりによって(とマスコミは騒ぎ立てた)デルタ株が流行するさなかに五輪が東京で開催されたように、今、オミクロン株が流行するさなかに五輪が北京で開催され、東京では一般の観戦は認められなかったのに、北京では中国人観戦客が受け入れられ、外国人と接触する。ただでさえ物流が停滞し、物価が上がりつつあるご時世に、これまでまがりなりにもコロナ対策の成功例と見做されて来た“世界の工場”中国で、コロナ対策に大失敗すれば悲劇的な状況が訪れないとも限らない。
 ここで、「まがりなりにも」と断り書きしたのは、ジャーナリストの福島香織さんがJBpress誌上(*)で、中国にあって“ゼロコロナ”とは“コロナウイルス”を排除するのではなく、“コロナ感染者”を社会(街)から人里離れた郊外に排除(隔離)して、表面上なかったこと(=“ゼロ”)にするのを意味すると暴露されたからだ(中国人は当然、気づいていたのだろうけれども)。「市内の居住区に住民がおらず、空っぽであれば、そもそも人がいないのだから、ゼロコロナが達成されたことになる」のだそうだ。なんとも相変わらず奇妙な中国式ロジックだが、“ゼロ”にこだわる習近平主席のもと、「“中央からの無茶な指示を受けた現場官僚たちが、何とか帳尻を合わせるために人民を欺くロジック”として確立した」もので、これでも現場官僚たちにとっては“目標達成”して、“めでたしめでたし”と相成るのだそうだ。それを福島さんは、「毛沢東の『大躍進』に匹敵する非合理さ」であり、「問題発言した女子テニスプレーヤーを失踪させたり、あってはならない事故を起こした高速鉄道車両を穴を掘って埋めてなかったことにするのと同じといえば同じ」とまで指摘される。何でも“臭い物に蓋をする”中国らしい対応と言えるが、人民にとっては難儀な国である。秋には5年に一度の共産党大会を控え、三期目を視野に入れる習氏にとって、北京五輪と“ゼロコロナ”は絶対成功させなければならない、“無謬”たるべき中国共産党(それを牛耳る習氏)の象徴であろう。習氏にとっての正念場であり、世界への影響を考えれば、そこだけは習氏に頑張ってもらいたい(「ゼロ」に拘れとは言わないのだが、今さら撤回できないだろう)ものだと、切に思わないわけにはいかない。
 こうして見ると、(前回も言ったように)コロナ禍対応は国の優劣や正邪を示すものと言うよりも国柄・土地柄を表すものだとつくづく思う。危機のときにこそ人柄なり国柄なりが表れるとする“あれ”である。野放図と言っては申し訳ないが奔放なアメリカ人から成る駐留米軍基地を抱える沖縄・山口・広島(はまん延防止等重点措置適用が決定された)や、反体制的気分が横溢すると言うのも言い過ぎかも知れない大阪が苦労するのは、よそ行き感が強いというのも田舎者の私の独断かもしれない首都・東京ほどの規律(あるいは個々人の自制)がなかなか守られない証ではないだろうか。それでも日本全体として見ればマシな方で、挨拶のキスやハグなどの濃厚接触が当たり前で声もデカくて同調圧力に屈するよりも自己主張が強い欧米諸国は、日本より規制が厳しくてもコロナ蔓延を抑え切れない。そんな日本でも、オミクロン株がいくら重症化率が低いとは言え、そしてインフルエンザ並みの対応(これが、とりあえず社会的に(疫学的には別にして)新型コロナ禍の「終焉」と言えるのだろう)が模索されているとは言え、絶対数が増えれば重症者の絶対数も増える。新年早々、なかなか気が抜けない日々が続く。
 なお、岸田首相は“聞く力”を誇示して、唯我独尊的なところがあった前任・前々任者の失敗の轍を踏まないで、これまでのところは無難に高支持率を保ってきたのは、ひとえにコロナ禍が落ち着いていたからであって、言わばワクチン接種を強引に進めたスガ前首相の置き土産である。岸田さんにとって、そして当然、私たち国民にとっても、いよいよ試練が始まる。どうも岸田さんが頼りなげに見えるのは、安倍さんやスガさんに見られた、時に世論を気にしない強引さ、言わば信念の強さが見えて来ないからで、ポピュリズムのニオイを嗅ぎ取るから・・・などと思うのは、ただの我が儘なのも知れないが。

(*)「住民の強制隔離で感染者ゼロ?中国式『ゼロコロナ』のカラクリ」 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68333
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年の瀬

2021-12-31 11:00:21 | 日々の生活
 あと10数時間で2021年が終わる。
 暮れ行くコロナ二年目を象徴するのが東京オリパラだったと言えるだろう。始まる前は、コロナ禍対応における政府の一連のぐだぐだ振りもあって、世間では警戒心が昂じて憎悪の声まで充ち溢れて、清少納言ならさしづめ「あな浅まし・・・」と冷ややかに背を向けたことだろう(苦笑)。世論の分断は最高潮に達した。ところが、いざ始まってみると、ボランティアを含む現場の関係者の努力と、何よりもアスリートの頑張りが世間の空気を一変した。憎悪の声を煽り続けたマスコミは手のひらを返したように、日本人のおもてなしと外国の賓客の反応ぶりを詳報し、これでもかとその交流をもてはやした。清少納言なら再び「あな浅まし・・・」と呆れたことだろう。この頃を分水嶺として、デルタ株流行はワクチン接種が進むとともに収束し、誰もが首をひねるほどに原因不明の低水準で推移して来た。今またオミクロン株の脅威がひたひたと打ち寄せているが、諸外国の爆発振りと比較すれば、まだ「さざ波」レベルである(時間の問題かもしれないが)。
 こうしてファクターXを思わないわけには行かない一方、10日ほど前にアゴラに寄稿された森田洋之さんが、緩い日本と厳格な韓国の感染対策を比較して(さらに緩いスウェーデンと厳格なデンマークという同じように対照的な隣国同士の事例を付け加えながら)、「厳格なロックダウンや感染対策・経済抑制をしても、感染拡大の先延ばしするだけで、結局コロナはいつかは国中に広まるし、そうならなきゃ終わらない? とも考えられる」と、当座の結論めいたことを言われていたことに、なんとなく賛同したくなる(12/21付「韓国とスウェーデンのウィズコロナは失敗だったのか?」)。
 いずれにしても、どちらが優れているとか正解だったという評価は馴染まないのだろう。これだけ世界が一律に苦難に直面する事態は、そうあるものではなく、政治リーダーにとっては成績表を横並びで比較されるようで辛いだろうし、私たち国民は民度が試されているようで面白くないが、良くも悪くも国柄が表れているだけ、と言うべきなのかも知れない。SNSの時代に、自由な社会にあっては世論が分断するのはある程度はやむを得ないとして、儒教圏の人々のように何かと自らが優れていると思いたくて一喜一憂するのではなく、また西欧圏の人々のように自由と権利を主張してさっさとマスクを外して浮かれることもなく、日本人は淡々とマスク姿で耐え続ける(ように見えて、したたかに慣れてしまう)姿にはあらためて感服してしまう。
 私的には、生活に変化をつけようと(巣籠もりで痩せ細って上半身がジジイ体形になりつつあるのを食い止めようと)、春先に腕立て伏せ100回チャレンジを始め、夏の終わりにようやく瞬間風速で達成した(今も少なくとも二日に一度は続けているが、その後100回には二度と届かない)。秋口からは、いつでも走れる恰好で散歩に出るようにして、時々ママゴトのようなジョギングを入れている(しかし青梅マラソンは今年2月に続いて来年もヴァーチャル開催となってしまい、いまひとつ気合いが入らない)。師走に入って、学生時代の友人たちと二年振りの(腰の引けた!?)忘年会を楽しんだ。東京都の感染者数が最低レベルにあった頃とは言え、飲み屋は思った以上に密で、確率論を信じて、その後の二週間はおとなしく過ごしたものだった(笑)。五輪開会式前日に二度目のワクチン接種をして、次の接種を心待ちにしているところだが、世の中は、緩い対策による感染とワクチンによって、明らかに次のステージに進んでいるようだ。少し勇気を出して新しい世界に踏み出そうと思う。
 最後に、この一年で最も心に残るシーンを思い浮かべてみた。ブルーインパルスが(オリパラではなく)医療従事者に向けて感謝の飛行を行ったのは5月末のことだった。政治家の声は(残念ながら)心に響かないし、マスコミは(申し訳なくも)その場限りの感情を弄ぶ雑音にしか聞こえないが、常に日陰の存在ながら日本の独立と平和を守る自衛隊が、やはり縁の下の力持ちである医療従事者への感謝を通して、国民に示してくれた連帯の心意気という声なき声が、最も心に残る。30年に及ぶ経済的な凋落を続ける(特に最近は給与レベルが上がっていないとの批判が喧しい)日本の周囲を取り巻く環境は厳しいが、「日本を日本たらしめている価値」(を守ることが安全保障だと、故・高坂正堯教授は言われたが、「日本」を「私」や「私たち」に置き換えてもいい)に思いを馳せるならば、前途は決して暗くないように思う。

(注記)ブルーインパルスの飛行は前の年のことでした。その区別がつかないとは耄碌が進んでおり、恥じ入るばかりです。ここに謹んで訂正致します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寂聴さん大往生

2021-11-14 14:53:02 | 日々の生活
 瀬戸内寂聴さんが9日、亡くなった。享年99。
 普段は意識しないのに、いざ亡くなると、胸の奥にぽっかり穴が開いたような喪失感に襲われて無性に恋しくなる方がいる。寂聴さんの本は、最近では数年前、近所の古本屋で見つけた「古都旅情」(装画本・・・端正な毛筆の署名&落款入りだったが、保存状態が良くなくて、店頭で段ボール箱に詰めて叩き売られていた)のほかに、数冊しか読んだことがないが、なにしろ存在感があるお方なので、ごく自然にその立ち居振る舞いは気になっていた。
 人間の業のようなものと向き合って、鋼(はがね)のように頑ななわけではなく、鎧を纏って内を守るでもなく、素のままで柳のようにしなやかに(結構、わがままに!? 笑)生きて来られた方だったように思う。波乱万丈の半生を経て、51歳のときに出家されたが、「売れっ子と呼ばれ、恋愛をしてもむなしかった。良い小説を書くため、文学の背骨になる思想が必要だった」と後に語られたように、一本筋を通した方だった。生命のみずみずしさを失わず、70歳の時に、『源氏物語』の現代語訳を始め、76歳で仕上げられた。『源氏物語』のことを、「日本の文化遺産としては唯一最高のものだと思います。世界最古のこの傑作小説が、1000年も昔の日本で、紫式部という子持ちで寡婦のキャリアウーマンによって書かれたというのですから驚かされます」と痛快に語っておられる。「出家とは生きながら死ぬこと」 そう言って、剃髪後も酒を飲み、肉を食すことを公言されながら、生臭坊主ではない、庵を結んで超然とされるわけでもない、いつも隣に座ってニコニコ話を聞いてくれ、あるいは問わず語りに語ってくれる、そんな風情を思わせる(本当かどうか知らないが)方だった。
 日経ビジネスが4年前に、当時の新刊『95歳まで生きるのは幸せですか?』出版記念に行ったインタビュー記事を、追悼し再掲していた。
「自分が生きている世界に起こるあらゆることに、無関心ではいられません。テレビや新聞を通じて知るトランプさんの言うことはなんだかむちゃくちゃで、戦争がおきたら困るなあ、と思っているんです。」 政治的主張は合わないが、失礼を顧みずに申し上げれば、いつまでも精神の若さを失わない、かわいらしいおばあちゃんだった。3年前、96歳の誕生日を前にInstagramを開設し、「日本最高齢のインスタグラマー」として話題になった。
「そもそも、人間、歳をとったら、だいたいうつ状態になりやすくなります。なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。そしていったん、うつになっちゃうとそこから逃げ出すのはとっても大変です。(中略)うつになるってことは、自信を失っている。だからひたすら一生懸命褒めてあげる。(中略)古沢先生に教わった「うつの人は褒めてあげよう」は、その後の私の人生の指針のひとつになりました。(中略)こうやってお話しすると「バカみたい」って思うかもしれないけど、大人になると、ましてや50歳以上にもなると、人に褒められることってほとんどなくなります。褒められるのって、ほんとうに元気が出るの。元気がなくなっていたり、鬱っぽくなっている人が周りにいたら、ぜひ褒めてあげてくださいな。」 ただでさえ経済成長から遠ざかり、給料も上がらないギスギスした世知辛い世の中なのに、パンデミックで巣籠もりすることが多くて、世間は多かれ少なかれ心を病んでいると思う。「褒める」・・・シンプルで、人間の本質を捉えた、なんと奥深い処方箋だろう。
「法話を聞きにきたその世代の男の人たち、多いですよ。男は、女みたいに自分の悩みを口に出して私に伝えたりしません。でも、悩みは伝わってきます。(中略)つくづく男は純情だと思います。歳を取っても変わりません。(中略)女のほうがすぐに諦めて、今日と明日のことを考えますね。男は昔を振り返って泣いてばかり。男のひとたち、もっと楽しいこと、やりたいことを考えなさいな。」 自戒するところだ(苦笑)。
 他にも、あちらこちらの追悼記事が寂聴さんのさまざまな言葉を懐かしがる。
「『青春は恋と革命』が私の信条です。本は大事だけど、100冊読むより本気の恋愛を一つした方がずっと成長する。人を愛することは幸せです。」
「好きな言葉は『情熱』。情熱がなければ生きていてもつまらない。『青春は恋と革命』。その情熱を失わないまま死にたいのよ」 
「生きることは愛すること。愛しなさいといって私たちはこの世に送り出される。そして愛することは許すこと。それは私がまさに死のうとする今、得た悟りなのね。どんなに仲が良くても必ず嫌になるの。最後はあきらめね、嫌なことも許すようになる。誰かを好きになるのは雷に当たるようなもので、別れることになっても雷に当たった方がいいの。つらいけど、そのつらさを味わったら人間ができて優しくなれる。」
「仏教の最も大切なことは『忘己利他(もうこりた)』。自分の利益を忘れ、他者の幸せのために奉仕することです」
「出家したとき、こだわりを捨てることができた。お金も地位もほしくない。ただ一つ残っている煩悩が、ものを書くこと」
「生きることは愛すること。世の中をよくするとか戦争をしないとか、その根底には愛がある。それを書くのが小説」
 そうやって世の悩める子羊たちを(勿論そこにはアバターとしてのご本人も含まれていたのかも知れない)慰めて来られたのだろう。墓碑銘は、「愛した、書いた、祈った」と決めていたそうだ。スタンダールの場合は、「書いた 恋した 生きた」だった。それぞれ三つのことの選択と順番に妙を感じる。私ならどんな墓碑銘にしようか・・・そんなことを思ったりする。寂聴さんにあやかって、気持ちだけでもその墓碑銘に従って、これから生きて行こうか、と。
 ご冥福をお祈りし、合掌。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

眞子さまと白鵬が背負うもの

2021-11-06 12:09:50 | 日々の生活
 秋篠宮家の長女・眞子さまが小室圭さんと結婚され、皇室を離れて小室家の眞子さんと、普通に「さん」付けで呼ばれるようになった。本来、おめでたい場であるはずの結婚会見だったが、一種異様な印象は、今なお小骨のように喉に、と言うより心に突き刺さって、その薄っすらとした痛みがわだかまっている。
 TVのワイドショーなどは、質問を受け付けない、従い、これまで騒がれてきた小室家の金銭トラブルの疑惑に対して納得のいく説明がなく、ただ自分たちが言いたいことを一方的に主張するだけに終わった頑なな態度を、批判的に報じていたようだが、私はただ寂しく切なかった。ノンフィクションライターの窪田順生氏によると、会見で「誤った情報」という表現が8回、「いわれのない物語」という表現が3回、「誹謗中傷」が2回、繰り返され、自分たちに批判的な人たちを、言い方こそ皇族らしく婉曲的だったが、結局は故なく「フェイク」と決めつけるような言わば「トランプ話法」を駆使された・・・とは言い得て妙だが、私には、それが国民への決別会見のように見えて寂しかった。早速、ニューヨークの弁護士試験に合格しなかったとか、眞子さんの恐らく最大の理解者だったであろう祖父・川嶋辰彦さんが亡くなるという、幸先悪いニュースが流れたが、準備が整い次第、予定通り日本を捨ててアメリカに旅立たれるのだろうか。
 若気の至りだろうと思う。しかし、そんな眞子さんを、誰が責めることが出来ようか。
 今回に限って矮小化して見れば、何十頁にも及ぶ、よく分からない文書で逃げるのではなく、小室さんご本人がしっかり問題に向き合うべきだったと思う。しかし、真相はうやむやなまま、眞子さんが力づくでカバーアップすることでケリをつけてしまった後味の悪さばかりが残る。
 そして、この不幸な、言わば国民との物別れは、この先、皇室という日本で最も由緒ある旧家の「伝統」を、国民一人ひとりがどのように受け止めるかという根本問題を突き付けている。
 かつて結婚は「家」と「家」が親戚づきあいの縁を結ぶものだった。今も結婚式場では「~家」と「~家」の挙式場との看板が立つ。50年前なら、天皇家ではなくて一般家庭であっても、今回のように親に問題がある人との結婚には、一応のいちゃもんがついたことだろう。
 戦後、共同体的な「家」同士の問題だった結婚が、少なくとも一般家庭においては「両性の合意」によって成り立つとする近代的なタテマエが実質を帯びるようになった。今では「長男の嫁」という特別な地位はほぼ認められない。それを、伝統ある皇室にどこまで認めるかどうかは、立場によっていろいろな考え方があり得る。ロイヤルファミリーを持たない共和制の自由・民主主義諸国の識者や、日本でも人権弁護士のようなリベラル派や、時代の先端を行く若者たちの鋭利な(しかし未成熟な)感覚からすれば、個人としての愛や一人の女性としての幸せを貫くことに拍手喝采を送っていることだろう。また、私のごく身近にも皇室は無駄だと広言する人がいて驚かされるが(無駄の中にこそ文化が宿るものだと思うが 笑)、皇室利用という言葉に見られるように、皇室の「権威」を見せつけられて嫌悪する人もいることだろう。そして恐らく多くの国民は、伝統ある皇室を素朴に敬う余り、お相手が皇室に「相応しい」か否かという意味での「家格」に拘り、此度のご結婚を物足りなく思っていることだろう。何と言っても、殆ど民主化した日本にあって皇室は殆ど唯一と言ってもいい「アイドル」家系なのだ。
 それが、近所のお節介なおっちゃん・おばちゃんが井戸端で噂するレベルであれば他愛ないところだが、SNSの匿名の時代に、しかもこのコロナ禍で荒んだ心が吐け口を求めて口汚くネット空間を暴れまわるだけでなく、リアルな世界にも漏れ出して、誹謗中傷と受け止められて、当事者が精神的に病む事態に至ったのは、不幸なことだった。。悪意ある場合は除いて、「裏切られた」という思いがあったのだろうか。
 宗教改革以来、歴史的に「個人」の確立に一日の長があるヨーロッパでは、最近は英国のほか、ノルウェーのホーコン皇太子やスウェーデンのヴィクトリア王太子のように、物議を醸しながらも「普通」の結婚を貫き、周囲の理解を得るに至る例が増えて来た。しかし、日本では「個人」の確立が遅れている上、ヨーロッパのように国境を越えて王室同士の血が混ざって、EUという地域で束ねられても抵抗がないほど一体感がある(その分、純潔は薄れた)土地柄と違って、大陸から程よく離れた島国で、征服の歴史がなく、純粋培養された皇室が1000年、1500年という単位で続く尊さは、世界に類を見ない奇跡であるだけに、「普通」であることへの軋轢は今なお小さくない。女性皇族でこの騒ぎになるということは(これだけではなく、かつて皇室に入られた一般女性は失語症を患われ、適応障害を患われた)、男性皇族のときは如何ばかりかと、先が思い遣られる。逆に、皇族のお立場からすれば、一応は民間人となられる女性皇族ですらこの有様では、一生、逃れられない運命を背負った男性皇族のご苦悩は如何ばかりかと、心底、慮られる。
 レベル感は違うが、大相撲という「伝統」芸能の世界にも通じるものがある。
 白鵬関が引退された。凋落する大相撲界を牽引して来られた功労者だが、角界ではおよそ「横綱らしくない」という、モンゴル人にとってみれば甚だ理不尽とも映るであろう評価が根強く、その功績を素直に受け入れられない一定層が存在する(斯く言う私もその一人だ 溜息)。朝青龍関ほど「やんちゃ」ではないと思われていた白鵬関でも、寄る年波に勝てず、余裕がなくなって行くに従い、勝ちにこだわる余り、「横綱らしくない」言動が目立つようになった。所詮、モンゴル相撲は伝統芸能ではなくて格闘技なのだ。その本性が隠しおおせなくなったということだろうか。あるいは、「横綱らしさ」に拘る妙な日本人を挑発し続けたのだろうか。しかし、「伝統」に拘る日本人には、横綱は英語表記されるSumo Championを超えるもの、ただ勝って、強ければよしとするのではなく、勝ちっぷりや普段の立ち居振る舞いに至る「品格」が重視される存在である、とする考え方が今なお根強い。
 皇室に見る「家格」と、大相撲に見る横綱の「品格」。
 個人は尊く、自由・民主主義をあまねく貫徹すべし、とする考え方には、基本的に誰も否定できない。他方で、妙な拘りとも言える「伝統」を拭い去った世界がのっぺらぼうで、ひだひだのある潤いや味わいが失われてしまうのは余りに惜しいと感じることもまた、私には否定することができない。
 ここに来て、これまで大っぴらに論じられることはなかった皇室の存在意義を問い直す発言が堂々と登場するようになった(たとえばプレジデント・オンライン11月4月付、弁護士の堀新氏コラム『「すべての公務を廃止しても問題はない」 皇族に残る佳子さまのために考えるべきこと』など。因みにプレジデントは、人権派弁護士のコラムやアメリカ人の王室ジャーナリストへのインタビューを通して、民主化キャンペーンを張っているかのようだ 笑)。これまで曖昧にされて来たが、皇統の問題に向き合うにあたり、主権者たる国民が、あらため考えなければならない課題だろう。
 私は、皇室は神道的な清らかさを体現する、日本人らしい精神性そのものであると思うし、西欧の王室のように革命の対象になることなく、仁徳天皇の「かまどの煙」伝説以来、国民の安寧と繁栄を祈り、ひいては世界の平和を祈られるという(歴史的には奇麗ごとばかりではなかったのだが)、日本らしい国のありようのバックボーンを形成していると思う(こうした崇高な理念があってこそ、現実政治における権力政治的な対処が重要になる)。もとより常に身近に感じる存在ではなく、普段はむしろ気にすることなく生活する私たちが、たまに行われる儀礼を通して、日本人の来し方を振返り、そのありようを確認することができる、曰く言い難い有難い存在だ。天皇陛下が海外の要人と面会されるときの皇室内の部屋の、贅を尽くした華美とは対極にある、洗練された質素な趣はつとに知られるところで、中東・アラブの王室から寄せられる敬意は、(歴史的に対立して来たキリスト教ではないこともあって)絶大なものがあると言われるし、お隣の中国や韓国にとっては、悔しくてもどう逆立ちしても持ち得ない、永遠の憧憬(と嫉妬)の対象であろう。皇室が持ち得る外交的な価値は計り知れない。皇室や、また大相撲の世界くらいには、それぞれなにがしかの(全てとは言わないが合理的だけではない神秘的な!?)「らしさ」をそれなりに残して欲しいものだと思う。
 こうした、1000年、1500年という単位で続く「伝統」を守るのは、皇室と私たち国民との共同作業である。そして、その変容をどこまで許容するかは、持続可能性との兼ね合いで、私たち国民に突き付けられた覚悟の問題であり、煎じ詰めれば美意識あるいは美学の問題に行きつく。そこが何やら難しいところで、近代的な価値と対立する中で、均衡点を見出すまでには時間がかかるだろう。時間をかけて、じっくり馴染ませて行ければよいが、それが許される状況なのか、むしろ持続可能な形へと誘導する努力が必要なのではないか・・・なかなか悩ましい問題だ。少なくともその間の軋轢は余り荒立てたくはないものだと思うのだが・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンデミック下のオリンピック

2021-07-11 20:00:07 | 日々の生活
 東京オリンピックは、開幕二週間前になって、東京・埼玉・千葉・神奈川に続き、北海道でも無観客で開催されることに決まった。東京で緊急事態宣言(明日から8/22迄)が発出されることに端を発する諸々の事情によるようだが、なんとも残念だ。
 宣言は回数を重ねるごとにその理由や目的が国民に伝わりにくくなっているように感じると詫摩佳代さん(東京都立大学教授)が語っていたが、私も今回ばかりは疑問に思う。
 政府のコミュニケーションの取り方がいま一つこなれないのは、今に始まったことではない。ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相のように・・・とまでは言わないが、リーダーのリスク・コミュニケーションあるいはクライシス・コミュニケーションを通して国民の共感を得て信頼を醸成することは、危機に対処するための貴重な基盤を構成するはずだが、スガ首相にしても安倍前首相にしても、有事と言うよりは平時に官僚が用意した原稿を棒読みするかのようで、想像するに国民の心に響かないのは残念だ。特に安倍さんの時代にメディアとの関係性に問題があったと思うが、メディアの姿勢だけでなく政治には説明責任があって、どっちもどっちだろう。
 中でも経緯説明が足りない。本来、緊急事態宣言は医療崩壊を避けることを目的とする予防措置だと理解しており、その意味では、重症患者の大部分を占める高齢者(65歳以上)のワクチン接種が今月末で完了すると言われるので、緊急事態宣言は必要なくなるのではないかと期待していた。実際にスガ首相は三日前の会見で、「東京では、重症化リスクが高いとされる高齢者のワクチン接種が70パーセントに達する中・・・(中略)・・・重症者用の病床利用率も30パーセント台で推移するなど、新規感染者数が増加する中にあっても、重症者の数や病床の利用率は低い水準にとどまって」いると言っておきながら、「ワクチン接種が大きく進み、新型コロナとの闘いにも区切りが見えてきた中で、ここで再度、東京を起点とする感染拡大を起こすことは絶対に避けなければなりません」と、いつの間にか感染拡大を抑制することが目的化してしまっている。この目的のすり替えを聞くと、此度の宣言は(これまでの姿勢を翻して)東京オリパラを無観客にするためにこそ発出したのではないかと疑ってしまう。無論、その先にあるのは、秋の衆院選挙である。都議会選挙で負けたし、人流が活発化する夏休みを控えているし、東京オリパラをキッカケとする「失敗」は許されないと、反対派に押し切られたのではないか・・・ことの真偽はともかくとして、こうした下衆の勘繰りを呼ぶこと自体が、危機に対処するために良かろうはずはない。
 因みに、添付グラフから読み取れるように、3度目の宣言までは、いろいろ文句を言われながらも、所謂ハンマー&ダンスで、拡大する新規感染者ひいては重症者を抑えるために発出されてきた(宣言後1~2週で感染者数が、更にその1~2週後に重症者数がピークアウト)。ところが4度目の宣言発出のタイミングは、これまでのパターンを踏襲していないことは明らかだ。なんだかやり切れない。
 振返ると、日本におけるコロナ禍対応は、昨年3月以来、東京オリパラ開催の影響を受けて来た。本当はオリパラを主語にして語りたいところだが、なかなかそう出来ないもどかしさがある。長引くコロナ禍で国民が疲弊する中、メディアはパンデミック危機を煽り続けるばかりで、「さざ波」と発言すると、それでも医療逼迫してしまう医療体制(つまりは医師会や行政)が問題視されるのではなく、発言した本人が叩かれる始末である。現場の医師や国民一人ひとりの頑張りで何とか持ち堪えて、超過死亡マイナスの日本で、「国民の命が大事」という正論が必要以上に勢いを得て、かつてオリパラ誘致を祝福した多くの国民は、いつの間にかオリパラを邪険に遠ざけてしまった(ように見える)。気の毒なのは、水を差されたオリパラであり、参加する選手たちだと思う・・・というのは少数意見であることを自覚した上で、敢えて述べたい。利権まみれのオリパラの意義を問う声があがるのはその通りで、それは運用上の問題として別に議論すればよいことだ。古代ギリシアに倣ってスポーツを通して鍛え上げられた肉体を賛美し、4年に1度の代理戦争とも言われる平和の祭典を(実際の戦争以外の理由で中止することなく)開催することの意義は変わらないはずだ。そうは言っても、所詮は「余興」であり、今は戦争に準じる有事だと言われると、立場は弱い。が、それでも、政府が国民のゴンセンサスを得ることに成功しなかったとは言え、「命」と「余興」の間のバランスのとり方が、いつもの日本人らしい冷静さを欠いていた(と少なくとも私には見えた)のを残念に思う。
 私のような素人がいくら言ったところで、チンピラの遠吠えでしかないが、現役の医師である大和田潔さんが、「日本では医療崩壊するようなコロナウイルス流行は終わった」 「日本はすでにコロナと共存できる環境に無事パラダイムシフトできた」 「(オリンピックの)祭典は、コロナと共存して人間が立ち上がっていくことを証明する機会になる」 「先進国の日本からパラダイムシフトを示すことになる今回の経験は、国民の自信や誇りにつながると思う」などと、挑発的とも取れる大胆な発言をされている(下記参考)。残念ながら、ぎりぎりのところで腰砕けになってしまったが、このオリンピックは、私たち日本人が国際社会と先人から受け継いだ公共の責務を果たし、無事の開催を通してパンデミック対応の底力を見せつける格好の機会となることを願ってやまない。

(参考)「現役医師『ゼロコロナは永遠にやってこない。だからオリンピックを楽しもう』」(プレジデントオンライン 7月7日付) https://president.jp/articles/-/47500
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不機嫌な時代

2021-05-27 00:12:49 | 日々の生活
 このコロナ禍を他人事のようにちょっと離れて眺めてみると、いろいろな感慨が湧く。
 これは戦争に準じる一種の有事(危機管理)であることは広く認識されるところだが、実のところ、こうした有事への対応はそう簡単ではなさそうで、過去の戦争にしても、人はいろいろ想定外のことに躓きながら、なんとか遂行して来たのであろうことが想像される。そして、一時的に成功したとしても、それで足元を掬われかねないのは、ビジネスでもよく経験されるところであるし、今回のコロナ禍でも、封じ込めに概ね成功している国がワクチン接種に出遅れていることからも、よく分かる。逆に、封じ込めにお世辞にも成功したとは言えない英・米が、ワクチン接種では戦略的に対応して逆転勝利したかのように今のところは見えるものだから、日本のようにまがりなりにも堪えて来た国は、その後のワクチン接種が進まない体たらくには、余計、苛立つ(笑)。クラウゼヴィッツが論じたように、戦場には霧(作戦・戦闘における指揮官から見た不確定要素)があり、摩擦(計画・命令を実際に実行する上で直面する障害)があって、今は平和な時代だから、理念として完璧に遂行されることを前提に、私たちはつい不平・不満をぶちまけるが、実際には想定通りにスムーズに進捗することの方が珍しいのだろう。このあたりは、 私たちはもう少し冷静になってもよい。
 他方、この新型コロナ禍は変化を加速していると言われる。最近、とみに目立つ中国の台頭にしても、DXにしても、コロナ禍以前から既に変化の兆しがあったというわけだ。有事は事態を極端に推し進めるものかも知れない。その伝で行けば、先に触れた通り有事ではただでさえ上手くいくものではないだけに、有事にあっては平時のまともな精神状態を維持するのは難しい。このコロナ禍で人々の不機嫌は間違いなく倍化している(笑)。大東亜戦争では軍部が独走したと、GHQ史観は教えるが、当時の世相、すなわち激昂する国民感情を無視して論じるのはフェアではなくて、世論をバックに世論に阿るマスコミも政治を動かした。今回のコロナ禍で言えば、もともと体制に不満をもつ人は、益々、体制批判的になり、信頼を寄せて来なかった人は、益々、不信感を増す。実例は、一つや二つではない。
 宝島社が二週間ほど前に朝日・読売・日経に出した広告はその類いだろう。長刀を突き立てる女の子の写真のド真ん中にコロナ・ウィルス(模型)を配して、「ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戦えというのか。このままじゃ、政治に殺される。」と語る、見開きの全面広告である。ちょっと過激だ(笑)。戦争でリーダーシップは重要で、ビジネスで盛んに論じられるリーダーシップ論も戦略論も軍事に由来する。コロナ禍のような有事では政治のリーダーシップが重要だが、先ほど述べたように、実戦では必ずしも上手く行くわけではない(前回のSARSの教訓が活かされていないのは、別の問題)。それだけに、この見開き広告の気持ちはよく分かるが、やや被害妄想に過ぎるのではないだろうか。
 また、自衛隊が巻き込まれた大規模接種センターの予約システムで不備が発覚し、朝日系と毎日の記者が架空の番号で予約できることを確認した上で報道したことを巡るいざこざも、その類いの一つと言えるかも知れない。本来、メディアは体制批判的であって然るべきだが、この報道はどうも後味が悪い。留飲を下げた方々が多いかもしれないが、健全な批判以上のある種の歪みを感じて気分が良くない。この有事にあって完璧なシステムを求めるのは土台、無理な話で、しかも朝日は天下の公器を自任するのであれば、そして有事だからこそ、報道の前にやるべきことがあったはずだが、それを抜きに報道の大義を主張するとは、些か片腹痛い。結果として、体制批判が昂じた揚げ足取りに堕してしまった印象だけが残ってしまう。
 政府の参与だった高橋洋一さんの辞任に至る盛り上がりも、過剰反応だったように思う。9日に自身のツイッターに「日本はこの程度の「さざ波」。これで五輪中止とかいうと笑笑」と投稿して物議を醸し、21日に「日本の緊急事態宣言といっても、欧米から見れば、戒厳令でもなく『屁みたいな』ものでないのかな」と投稿して、収まりがつかなくなった。このコロナ禍で身近な人を亡くした人もいるし、営業自粛で困窮している人もいるというのに・・・という感情的な反応はよく分かるが、高橋洋一さんが意図していたのはそこではない。百田尚樹さんが、「あんな発言で辞めさせるって、今の内閣は屁みたいなもんやで!」と投稿されたのは正論で、座布団一枚さしあげたい。が、このご時世でKYと疑われかねない状況だし、本来、東京オリパラ開催の是非を問うときに問題となるのは、感染レベルや死亡レベルそのものではなく、医療逼迫の度合いであろう。三浦瑠麗さんが、「高橋さんはマクロ経済の人。ミクロのアクターがどんなに苦しんでも、2年間で飲食店がほぼ全部つぶれても、雨後のタケノコのようにまた出てくるだろうと見ているんじゃないかな。少し共感が足りないのは、そこの問題ですよね」と解説されたのは、まあその通りだろうし、「数学脳」(高橋洋一さんは東大理学部数学科卒)と揶揄されたのも、分からなくはない。やや軽率だったと思う。が、そこまで騒ぐ問題かという気もする。
 不機嫌な時代である。
 それだけに、日経ビジネスに「東京都・小金井市のワクチン接種現場に聞く」特集として、「ワクチン接種、全力で攻めてこそ医者も市民も救われる」、「町のお医者さんフル稼働、ワクチン接種『小金井メソッド』」と連日、報じられたのは、一服の清涼剤だった。本ブログでも「コロナ敗戦」と書きたてたが、国家レベルではなく、現場レベルでは、まだまだその力を信じられることを再認識させられた次第だ。
 そういう意味で、今回のコロナ禍では、結局、頼りになるのは(WHOなどの)国際組織や(EUのような)地域組織ではなく、国家であること、更に実際の感染の抑え込みなどのオペレーションは、国家レベルではなく地方が主体であることを痛感させられている。国家と地方の間の責任と権限のあり方は、長年、日本の課題だったが、現場力の強い日本だけに、いい加減、見直されるべきだと思う。
 なお、添付グラフは毎度のものだが、過去2回の緊急事態宣言と比べると、三回目の今回は、明らかに感染者数と重症者数の推移が違う動きをしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする