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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

2024回顧③民主主義

2025-01-04 20:44:47 | 日々の生活

 私たちは「民主主義の後退期(a period of democratic backsliding)」にあると、フランシス・フクヤマ氏が元旦の日経新聞で述べていた。確かにあの民主主義の殿堂とも言うべきアメリカでトランプ党と化した共和党が大統領府と議会を乗っ取り(所謂トリプル・レッド)、トランプ氏は忠誠を尽くすお友達で周囲を固めてしまった。一期目とは異なり、二期目は意のままに政策を推し進めそうな気配である。かたやヨーロッパではひたひたと極右が台頭している。韓国では民主化して日が浅いとは言え党派争いには目を覆うべきものがある。しかし、私たちは民主主義(ドクトリンではないのだから本来は「民主制」と呼ぶべきもの)に期待し過ぎているのではないだろうか。

 かつてプラトンは国制を①名誉支配制、②寡頭制、③民主制、④僭主独裁制の四つに分類し、この順番で古代ギリシアの国制は推移したと述べた。名誉支配制とは所謂「哲人王」による王制で、豊かな知と徳を備えた人々を守護者とする。彼らは「決して自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事が働きかける対象であるものの利益になる事柄をこそ考察し命令する」存在である。そのような守護者の中から一人だけ傑出した人物が現れる場合は王制、複数である場合が優秀者支配(=貴族制)で、プラトンはこれらこそ最善の国制とした。しかし支配者たちはやがて殖財に邁進し、寡頭制に転じる。更にそんな富や権力を独占する支配者に対する反発から民主制に転じる。民主制は、自由で平等な市民による相互支配の体制であり、アリストテレスは端的に「順繰りに支配し、支配される」と形容した。しかしそのような「最高度の自由からは最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくる」とプラトンは喝破した。僭主独裁制である(以上、君塚直隆著『貴族とは何か』参照)。もとよりアテネをはじめとする民主制は直接民主制であって現代の間接民主制とは似て非なるものではある(私たちの間接民主制はもはや民衆が選ぶ貴族制と化しているかもしれない 笑)。何しろアテネでは、投票は党派性を生むとして、籤引きこそ民主的と見做したのだ(私たちは中間団体としての政党=党派性の様々な塊を甘んじて受け入れている)。なんと素朴で手作り感のある社会だろう(私たちは政治に余り関わりたくなさそうだ)。この直接民主制を成り立たせるためには、古代ギリシア史家の伊藤貞夫氏によれば、一般市民が感情や目の前の利益に惑わされぬ冷静さと大局観を持つこと、更には彼ら市民の意向を集約し、時には的確な指針を示して、一国の向かうべき行く手を誤らせぬ政治指導者に恵まれることが必要条件となる。現代の間接民主制においても概ね同様の「関心」を持つことが必要で、それを失うと醜悪な全体主義に転じることは、私たちはその後の20世紀の歴史から学んだはずだ。

 プラトンに学んだアリストテレスは、政治制度を人数によって三通りに、また共通の利益に目を向けるか否かでそれぞれ二通りに、計六通りに分けて見せた。一人による支配(王制、僭主制)、少数による支配(貴族制、寡頭制)、多数による支配(国制または共和制、民主制)である。ここから読み取れるのは、人数による違いには本質的な意味がなく、人数の違いで分けた制度はそれぞれに両義的であり、中でも民主制はネガティブに捉えられていた、ということだ。プラトンもアリストテレスも、貴族制こそ理想としたのは、かの敬愛して止まないソクラテスを死に追いやったのは民主制のせいだと考えたからだろう。実際に久しく近代に至るまで民主制の評判はよろしくなかった。アメリカでさえ建国当初は民主制に懐疑的で、ローマ的な共和制を志向したとされる。それほどまでに、現代の私たちがつい当たり前だと思ってしまう民主制を成り立たせるのは如何に難しいかの証でもあろう。

 こうして民主制そのものへの過剰な期待を拭い去った上で、民主制を成り立たせる規模感、あるいは単位のことを思わないわけには行かない。本来の民主制は、多数派が支配すると言うよりも、市民に一定の同質性があり、生じる差異については協議し妥協して解決できる寛容な社会である必要があるようだ。古代ギリシアや中世イタリアの諸都市は、まさにそのような規模感だっただろうし、かのルソーも、まさかフランスのような国家レベルで民主制が成り立つ(革命が起こる)とは考えていなかったようだ。その急進性に危うさを覚えたエドマンド・バークは『省察』を書いて警鐘を鳴らした。フランスの貴族だったアレクシス・ド・トクヴィルは、1830年代にアメリカを訪れて、民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」と断じた(と言いつつも、ローカル・コミュニティには手作り感のある民主制が息づいていることは見抜いていた)。フランス革命が挫折した後、西欧で国民国家が誕生するまでには経済的に余裕ができて社会的に成熟する必要があった。

 そうすると、社会が分断するアメリカや更にその上を行くほどに分極化する韓国で政治が荒れるのは、民主制そのものに内在する道理なのだろうと思う。他方、中国やロシアのように多民族を抱える帝国が、国家をまとめるために民主制を実践できずに強権に向かうのもまた道理なのだろうと思う。だからと言って権威主義を認めるつもりはなく、いずれ最適レベルに分裂して行くしかないと希望的に観測している(笑)。実際に第一次世界大戦では四つの帝国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ロシア)が崩壊し、その余波は今もなお続いていて、第二次世界大戦後の体制に不満を持つリビジョニストたるロシアや中国という残された帝国が民主化に抗うのは当然として、強権化し却って不安定化しつつあって分裂しかねないとは皮肉な話だ。

 いや、権威主義国のことはひとまず措く。選挙イヤーと言われた昨年、アメリカや日本をはじめとする多くの国々で政権与党が敗北を喫したのは、生活を直撃するインフレなどの経済的な一過性の要因が大きく作用したのは事実だが、冷戦崩壊以降の新自由主義のもとで格差が拡大する中、中東情勢が不安定化して移民が拡散したり、中国という異形の大国が政治・経済的に台頭したりして、いずれの異質性へも嫌悪感や排他性が強まり、SNSのエコーチェンバー効果が手伝って、社会の寛容性が失われつつあることが底流にあるように思われる。SNSはツールでしかないが、トランプ氏暗殺未遂事件に象徴されるように、同質性の高い集団の中ではますます結束が高まった(他方、異質な集団への影響は皆無に等しかった)。国際社会では権威主義国が民主主義国から離れて行き、自由でオープンな民主主義社会に付け込んで分断を煽っていると言われる。

 社会が分断を深めつつあるのは日本も同じで、迎合するポピュリズムには苦々しく思い、既存の政党やメディアが信頼を失い、石丸現象のように特定個人に期待が集まる風潮には危うさを覚える。現代を20世紀前半の戦間期に比定しようとする向きがあるが、ワイマール体制下で多元主義への幻滅や、勃興する左翼(今で言うならwokeなリベラル)への嫌悪が広がり、ベルサイユ体制がもたらした経済危機や世界恐慌(今で言うならリーマン・ショックやコロナ禍やウクライナ戦争)で疲弊する中で、既存の政党は危機に適切に対処できずに、また既存メディアは世論を適切に喚起・誘導できずに、いずれもが支持を失い、各陣営が自分たちにしか通じない特定の思想や価値観を増幅させ、世論が分断されて、ナチスのようなポピュリズム政党に流されていった状況には留意すべきだろう。

 国制は人数に関わらず、と言ってみたものの、やはり今となっては法の支配に基づく民主制こそ個人の自由を担保できる制度だと思うからだ。しかしその民主制を成り立たせるのは人であり社会なのである。

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2024回顧②戦争

2025-01-01 09:47:07 | 日々の生活

 ウクライナ戦争が始まってから間もなく丸三年になろうとしている。世界のどこかで戦争があると実感する生活が当たり前になってしまった。さすがにロシアやウクライナ界隈では戦争疲れや厭戦気分が漏れ伝わる。最近で言えば(と言っても70年以上前のことだが)、朝鮮戦争が丸三年とひと月で休戦協定に至った。大統領に就任すれば24時間以内に戦争を終わらせると豪語したトランプ氏の登場で局面打開できるだろうか。

 ウクライナ戦争を通して多くの人が様々な教訓を再確認したことだろう。

 まさか21世紀の現代に19世紀的戦争が行われることになろうとは思ってもみなかった。しかも第一次世界大戦当時の塹壕戦が展開される上空に遠隔操作ドローンが飛び交うハイブリッドの様相である。民主的平和論が本当かどうか分からないが、現代にあっては戦争へのハードルが高い民主国家と違って、独裁国家においては少人数で(場合によっては一人で)意思決定される恐ろしさがある(その意味で最近、習近平に権力集中する中国で人民解放軍筋から集団指導体制を称える論説が出始めているのは注目される)。そして戦争は始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。しかも戦争は、戦争法規というものがありながら、いともたやすく破られて悲惨である。長期戦になれば砲弾などの物量がモノを言う。戦争ではロジスティクスが重要と言われ続けて来たが、あらためて実感された。中でもサプライチェーンに関心が集まる。アメリカで今、造船が注目されるのは、ウクライナ戦争やコロナ禍と無縁ではないだろう。最近でこそ世界の工場とは言われなくなった中国の(米国に対して比較優位にある)製造能力は、いざ戦争が勃発したときには脅威となるからだ。また、プーチンの継戦の「意志」は変えられないとしても「能力」を削ぐために矢継ぎ早に幅広く経済制裁を科して来て、三年近く経ってなお、ロシアがへこたれないでいることには驚くべきものがある。中国から電子機器を、イランからドローンを、北朝鮮から砲弾や歩兵を調達しているからとされ、グローバル経済にあって、特に価値に囚われることなく米露いずるからも経済的恩恵を引き出そうとする新興国がいれば制裁は破られる。逆に、世界経済に組み込まれた資源大国を制裁したことでエネルギー危機が勃発し、世界の景気を悪化させ、選挙イヤーと言われた昨年の選挙戦では各国で軒並み与党が敗れる波乱が続いた。米国のような特定の社会だけでなく世界も民主主義国家と権威主義国家とに分断され、窮屈になった。最近になってようやくウクライナにロシア領攻撃が許されつつあるが、日本が国是とする専守防衛では心許ないことがはっきりした。そして、核戦争をチラつかせるプーチンの脅迫に弱腰のバイデン大統領や西欧諸国を見ていると、力に対して力で対抗するしかないという現実が突きつけられる。やはり、戦争は始めるべきではないのだ。敵基地攻撃能力を保有してでも、外交を駆使し、相手の意志を拒否的に徹底抑止しなければならない。

 シリア・アサド政権が崩壊したのは、ウクライナ戦争と中東紛争の余波と言えるであろう。ロシアがウクライナ戦争に足を取られ、ヒズボラやイランがイスラエルによって壊滅的な打撃を受けて、シリア・アサド政権を助ける余力がなく、言わばシリア内に権力の空白を見てとった反体制派が進軍し、シリア軍はあっけなく瓦解した。

 そして何より、私たちは経験の中でしか物事を見ることが出来ないことが分かる。だからこそ読書したり映画やドラマや漫画を見たりしてなんとか想像力の翼を広げようとするのだが、それでも実体験には及ばない。戦争を遠くからではあるが同時代的に眺めていて、歴史を学び歴史的視野で物事を捉える重要性を思い知った。マーク・トウェインが言ったとされる「歴史は繰り返さないが韻を踏む」(History doesn’t repeat itself, but it often rhymes.)が人口に膾炙したことにはワケがある。

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2024回顧 ①AI

2024-12-31 11:51:50 | 日々の生活

 ここ数年のAIの進歩は凄まじい。所詮、人間が理解する世界はたかが知れていて、人類の知の資産を乗り超えて、想定外の発見がなされるのではないかと期待する声もあるが、人類には果たしてどんな未来が待ち受けているのか、私のようなボンクラな文系人間でもシンギュラリティのことを薄っすらと不安に思わないわけにはいかない。当面は、軍事を取り巻く環境でAIの活用が広がることが懸念される。社会不安に極度に神経質な中国では、人手に頼らずにAIを軍事転用する動きが活発化していて戦争へのハードルが下がる(低烈度の紛争が頻発する)のではないかと気になるし、そもそもウクライナ戦争では北朝鮮が実戦経験を積むことに警戒が広がったように、ウクライナや中東で新兵器の見本市のように実戦投入されて開発が加速されているし、旧式兵器在庫をここぞとばかりに一掃するロシアや北朝鮮で兵器が刷新される未来には大いに不安がある。やはり戦争はやってはいけないのだ。かつて軍事技術が民生転用された事例は、弾道計算のためのコンピュータや衛星通信やGPSから、缶詰や電子レンジのマイクロウェーブに至るまで枚挙にいとまがないが、最近はその逆でAIや量子といった民生技術を軍事が取り込む事例が増え、今、戦争が現に行われている中で大盛況という、技術が進歩するとしても余り嬉しくない状況にある。また、身近なところでも、偽情報・誤情報・怪情報に溢れ、中国やロシアやイランや北朝鮮といった新・悪の枢軸とも言われる権威主義国家にとって、自由でオープンな民主主義社会は付け入る隙だらけで、益々社会の分断が進みそうである。

 今年、通勤途上で読む本の中で(ということは持ち運びの点でも読み易さの点でも軽めのものになる)、AI関連でいくつか面白いものに出合った。

 一つは『AIにはできない』(栗原聡著、角川新書)。キリスト教の影響を強く受ける西欧では神に次ぐ人間存在を重く見るがために道具としてのAIにこだわるのに対し、鉄腕アトムやドラえもんを生み出した日本人こそ将来登場する自律型AIと共生する時代をリードできるのではないかとか、自律型AIは日本的な「おもてなし」を目指すべきではないかなど、AI開発で後れをとって閉塞感を覚える私のような日本人には心地よい話があって、明るくなれる(笑)。何より「サイモンのアリ」の話から説き起こされる「群知能」や「スケーリング則」の話が面白い。今はまだ何となくジョージ・オーウェルの『十九八四年』のような巨大AI(コンピュータ)を思い浮かべてしまうが、いずれAIも様々に組み合わさってシステム化されていくことは、コンピュータ業界の発展を見ずとも、自然に受け止められる。AIと共生するためには、初等教育では情報教育よりも社会的動物としての人間らしさを学ぶことの方が重要という指摘は、あらためてAIを開発し社会実装していく上では人間や社会を理解することの方が重要であることを意味し、私自身もこれからAIとどのように付き合っていくのか、自分はどうあるべきなのかと、考えさせられる。

 もう一つは『AIを生んだ100のSF』(大澤博隆ほか監修、ハヤカワ新書)。SFと言っても私は星新一くらいしか完読していないが、日本人なら誰もが鉄腕アトムやドラえもんやコブラなどに身近に接していて、様々な分野の様々な世代の専門家が、育った時代毎に見たTVアニメや映画や小説などのSF体験を語るのは、なかなかに興味深い。その中で、松尾豊・東大教授の対談が印象に残った。以下抜粋;

(引用はじめ)よく、「AIで仕事がなくなる」と言われますけど、なくなるわけないじゃんと思っています。人間の仕事が生産に寄与している、という思い上がりはもうやめた方がよくて、農業や資源採掘をやってる人なんてほとんどいないわけですよ。それでも、たとえば数社のビールメーカーがシェアを奪い合ったりしているわけです。ビールは十分うまいのに、新商品のなんとかビールとか冬のビールとかを発表して、売上が上がったとか下がったとか、勝った負けたとか言っている。それを大真面目に、何万人・何十万人がやっているわけですよ。結局、人間には「味方を集めて敵と戦う」という習性があって、それが面白いんです。人間は社会的動物だから、味方を定義して、敵と戦うことによって脳の報酬系が出て、それが好きなんですね。人間とはそういうもので、AIがいくら発展しようが、味方を作って敵と戦うんだけど、そこにおいては人間同士の相対的な優劣が重要で。相対的に優れていると認められる人が上にのぼっていくし、そうじゃない人が失脚することになる。(それはある種のゲームですね、の合いの手に)そうなんです。味方を作って敵と戦う、ということをやっているだけ。それが結局「仕事」なんですね。そう思うと、仕事なくなるわけないじゃないですか。そういう意味では、人間は進化的なものに縛られ過ぎていますよね。進化的な報酬系と感情に縛られている。(引用おわり)

 ビジネスに携わっていると、日本では一つの業界に企業数が多過ぎて、日本というコップの中の争いで疲弊して、世界に打って出る余力がない、なんて恨み節の自己批判をするが、結局、ヒトは競争が好きで止められないのだ。「味方を集めて敵と戦う」のが好きだからこそ、団体スポーツや果てはオリンピックのような疑似戦争を編みだして戦争回避する努力も見せてきた。その反動で共産主義を夢見たこともあった。AIを研究することは詰まり人間(の脳)や社会(の仕組み)を研究することであって、そのAI研究の最前線におられる方がさらりと述べておられる皮肉とも言える毒がやんわりと心に突き刺さる。

 AIはいずれ感情表現できるようになるとも言われる。脳のメカニズムは物理現象として解明されつつあり、いずれ機械(システム)で再現出来るかもしれない。しかし、人間は全てを記憶するわけではなく、水に流すという美徳もある。事象の重みづけによって記憶に強弱があり、一人ひとりに固有の人格が形成される。逆に、こうした重みづけを与える(栗原聡さんの言葉を借りれば、目的を与える)ことによって、AIにも人格もどきが生まれるのだろうか。宇宙海賊コブラの相棒である女性型アーマロイド・レディのように。確かに私のスマホは良くも悪くも私の好みに最適化してしまっている。そうすれば、欲も生まれるのだろうか。興味が尽きない。

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韓国擾乱

2024-12-21 10:39:57 | 時事放談

 韓国国会は14日、非常戒厳を宣布した尹錫悦大統領の弾劾訴追案を可決した。尹氏は職務停止され、憲法裁判所が尹氏を罷免するか復職させるか審理することになるようだ。

 忙しない師走に入って、驚かされることが相次いだ。韓国では3日の夜に非常戒厳が宣布され、その僅か6時間後には解除された。まさか戦争か大災害でも起こったのかと訝ったら、さにあらず、尹氏が血迷って、国政を安定的に運用する能力を失ったことを自ら白状するかのような(元検事総長にしては)軽挙妄動で、背後の政治闘争にもっと目を向けてあげた方がよさそうだ。韓国の民主主義が機能したと安堵する声が多いが、そもそも「法」の支配よりも「感情」が支配する国であり、反対デモは(報道によればKポップのコンサートのように)若者たちも多く参加して平和的に行われているようだが、国連貿易開発会議(UNCTAD)が韓国の地位を発展途上国から先進国のグループに変更することを可決してから既に3年が過ぎてなお、検事総長出身の尹氏を錯乱!?させてしまうほどの与野党の確執の異常さには、今更ながら驚かされるとともに、相変わらずやなあ・・・とつい溜息が漏れる。そしてシリアでは8日にアサド政権があっさり崩壊した。権威主義体制とは、こういうものかも知れない。習近平氏の中国や金正恩氏の北朝鮮も、ある日、ぷっつり息絶えるかもしれない。習氏も金氏もさぞビビったことだろう。そして、反体制派を徹底弾圧する強権政治と、不満の芽を徹底除去する監視社会に、益々傾くのだろう。

 韓国の話に戻る。

 非常戒厳を宣布した際、尹大統領は野党「共に民主党」が22件もの弾劾訴追案を発議し、行政府を麻痺させていると非難した。確かに弾劾訴追案は報道されているだけでも、省庁トップ、裁判官、検事、放送通信委員長など多岐にわたるそうだ。とりわけ「共に民主党」は党代表の李在明氏など同党の政治家に対する不正捜査や裁判を妨害し続け、自分たちの意に沿わない司法判断をするからといって裁判官や検事を弾劾までするに至るのは、三権分立を脅かすものだ。また、あらゆる議案に反対する一方、スパイ法(国家保安法)の廃止を含め、従北親中の「共に民主党」に有利な法律を多数通過させようともしているらしい。国家機能を麻痺させているのはむしろ「共に民主党」のように見える。

 おまけに李代表には、飲酒運転や検事詐称事件に始まり、対北朝鮮送金、市長時代の大長洞開発不正など複数の疑惑があり、現在5件の裁判を抱えているそうだ。先月には、公職選挙法違反事件の一審で懲役1年、執行猶予2年の有罪判決を受けており、最高裁判決が来年前半にも出るとみられ、憲法裁判所が尹大統領の罷免を決める前に李代表の有罪が確定すれば、10年間、被選挙権が剥奪され、次の大統領選挙に出馬できなくなるという。そのため李代表は、控訴審の弁護士を選任せず、訴訟に関する通知を受け取ろうともせず、訴訟を遅延させることを狙った行為ではないかと与党議員から批判されている。尹大統領の弾劾が決まって、李代表が「次は一日も早く罷免を」と訴えたのは、早く大統領選挙に持ち込みたい自己都合でもあるようだ。

 他方、大統領夫人(金建希)の株価操作や賄賂授受の疑惑を巡って野党の追及が加速し、国会での多数の力で特別検察官の任命を可決すると、尹大統領が拒否権を行使して止めるというサイクルが三度も繰り返されているそうだ。頑なに夫人を庇う尹大統領の姿勢には与党内からも苦言が呈されているようだが、もとより夫人のスキャンダルは国家を左右するほど大層なものではなく、「叩けば叩くほど政権支持率が下がる」類いの、政争カードの一つに過ぎない。その意味では、尹大統領が与党から辞職するよう働きかけられたのを拒み、弾劾訴追を受けて立つと表明したのも、その方が時間がかかり、その前に李代表の有罪が確定する公算が高まると判断した自己都合と見られる。与党・尹大統領と言い、野党「共に民主党」と言い、同じ穴の狢である。

 韓国内のこうしたドロドロの政争は、国内に閉じてやってもらう分には全く構わないが、外交に、とりわけわが国に影響があるとすれば問題である。実際に一回目の弾劾案の結論には次のような内容が含まれていた。「価値外交という美名のもとで地政学的バランスを度外視し、朝中露を敵対視し、日本中心の奇異な外交政策に固執し、東北アジアにおいて孤立を招き、戦争の危機を触発した」。今回の弾劾騒動は、韓国の民主主義が機能したからではなく、いつもの左右のイデオロギー闘争であった証拠でもある。

 こうして、尹大統領が進めて来た親日・親米路線は、当初懸念されていたように、挫折する。尹大統領自身も、歴代大統領と同様に収監か自殺かというような不幸な末路を辿るのだろうか。

 韓国社会の分断は米国のそれ以上であって、三韓時代に遡り、現代の北(朝鮮)、左、右に繋がる歴史的なものだとすれば、根深い。いや逆に、儒教における「正義」の考え方をバックボーンに、地政学的要衝ゆえの「恨」の文化をもつ国だからこそ、党派性から脱却できず、歴史的・構造的なものとなっているのではないだろうか。この「恨」について、呉善花さんがうまい説明をされていた。「韓国の『恨』は、韓国伝統の独特な情緒です。恨は単なるうらみの情ではなく、達成したいけれども達成できない、自分の内部に生まれるある種の『くやしさ』に発しています。それが具体的な対象をもたないときは、自分に対する『嘆き』として表われ、具体的な対象を持つとそれが『うらみ』として表われ、相手に激しく恨をぶつけることになっていきます」(文春新書『朴槿恵の真実』から)。

 そして、尹大統領が懸念するように、北は南の党派対立を陰で煽っていることだろう。ロシア、中国、イラン、北朝鮮の枢軸が形成されつつあるややこしい時代に、朝鮮半島の南ではコップの中の争いが西側の足並みを乱す、困った国だ。これは韓国人の民度を示すというよりは、他国の影響を受けやすい半島という土地柄のもたらす不幸と言えるのかもしれない。尹大統領が無理をして来ただけに、その反動は如何ほどのものになるのか、私たちには想像もつかないが覚悟しなければならないのだろう。

 朝鮮半島は、日清・日露戦争当時も、朝鮮戦争当時(と言っても現在まで続いているが)も、今も、日本にとって頭痛のタネであり続ける。

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あるリアリストのグランド・ストラテジー

2024-11-19 00:41:30 | 時事放談

 トランプ氏の政権人事が話題だ。2017年に始まる一期目では政界に不慣れだったため、プロフェッショナルで信頼できる人物が閣僚に選ばれて、多少なりともトランプ氏が暴走する歯止めになったし、その分、気に入らないからと首のすげ替えも頻繁に行われたのだが、2025年に始まる二期目ともなるとそうは行きそうにない。誰がどんな人物か、どこにどんな人物がいるか、トランプ氏にも見当がつくので、どうやらトランプ氏のお眼鏡にかなう「忠誠心ファースト」を軸に選考が進んでいるように見受けられる。そのため、早くも人選を危ぶむ声が漏れ伝わる。

 女性初の大統領首席補佐官に起用されるスーザン・ワイルズ氏は、フロリダ州の政治コンサルタントで、ワシントンの政界に必ずしも明るいわけではない。しかし、トランプ氏に対して批判的な言葉遣いをせず、感情を表に出さず、トランプ氏の怒りをそのままに受け入れることができる寛容な人物だと言われており、そのあたりがトランプ氏にとっては居心地良い存在なのかもしれない。

 型破りとされるのは、国防長官に指名されたピート・ヘグセス氏、司法長官に指名されたマット・ゲーツ氏、保健福祉長官に指名されたロバート・ケネディ・ジュニア氏の三人であろう。新・国防長官候補は、元軍人でイラクやアフガニスタンへの従軍経験こそあるが、その後はテレビ司会者やコメンテーターとして活動し、軍や国防の上級職の経験がないため、関係者からは「そもそも誰だ?」との声まであがっているらしい。新・司法長官候補は、共和党選出の下院議員で、未成年との性的関係、薬物使用、収賄疑惑で下院倫理委員会の調査を受けるという、トランプ氏同様の「お尋ね者」である。新・保健福祉長官候補は環境弁護士で、医学や公衆衛生の専門家ではない上に、反ワクチン論者として積極的に発言してきた陰謀論者である。

 と、前置きはさておき、トランプ政権一期目の国防次官補代理で、「国防戦略」を纏める過程で主導的役割を果たしたとされるエルブリッジ・コルビー氏の著作『拒否戦略』(日経新聞出版)を(インタビュアーであり訳者の奥山真司氏によれば)一般読者向けに分かりやすく説明したという『アジア・ファースト』(文春新書)を読んだ。奥山氏は、コルビー氏が戦略論の世界においてバーナード・ブローディやジョージ・ケナンやアンドリュー・クレピネヴィッチやアンドリュー・マーシャルやロバート・ワークと並び歴史に名を残すことになる人物などと最大級の賛辞を寄せ、共和党政権で政権入りし、「拒否戦略」が実行されたり大きな影響を与えることはほぼ確実と予想されている。今のところまだ名前が挙がっていないが、既にトランプ氏の思想に大きく影響を与えているようなので、概要を見てみよう。

 「拒否戦略(Strategy of Denial)」とは、「中国の地域覇権」を拒否することにあり、具体的には、中国政府の覇権拡大の野望を完全に封じ込めるために、アメリカとそのアジアの同盟国は積極的に軍備を拡大し、それによって地域のパワー・バランスを安定させ、結果として中国側の意図を挫くことに集中すべき、というものだ。ちょっと長くなるが、以下に抜粋する。

 

 基本的な理解として、代表的なパワーとはマクロ的に見た経済的な生産性を指し、それは軍事力に転換可能である。そして、人間の意志を強制的に変えさせることが出来る手段は顔に銃を突きつけたときだけであるという意味で、最も効果的な影響力は軍事力である。

 世界をパワーという観点で見たときに経済的生産性が強い場所は、かつては圧倒的にヨーロッパを中心とする北大西洋地域だったが、今は東アジアの沿岸部から東南アジアにかけて下ってインドの周辺部であり、しかも益々その集中度を高めている。

 そこで台頭する大国・中国は当然のように覇権を求める。アジアで地域覇権を確立することは、彼らの安全と繁栄に大きくプラスをもたらすものだからである。端的な例は「マラッカ・ジレンマ」で、中国が経済発展するほどに石油などの原料を輸入する海路としてのマラッカ海峡や南シナ海の重要性が増し、自らのコントロール下に置きたくなる。

 こうして、世界には「主要な戦域」が存在することが分かる。元・外交官であり学者でもあったジョージ・ケナンや、国際政治学者ニコラス・スパイクマンが唱えたように、アメリカの戦略の基盤は、第二次世界大戦のみならず戦後の冷戦期から今日に至るまで「主要な戦域」をベースにしている。そして、冷戦期の「主要な戦域」はヨーロッパであり、そこでソ連や共産主義国による統一を「拒否」することや「コントロールすること」に主眼を置いた。現在はこれと全く同じロジックを中国に対して適用する必要がある。

 ところが、アメリカ政府は既に複数の戦域で軍事的な戦闘を維持することは不可能であることを認めており、潜在的に中国に後れを取り始めている。

 そこで我々には「反覇権連合(anti-hegemonic coalition)」なる同盟関係が必要になる。これは必ずしも「反中連合」である必要はなく、飽くまで「中国の覇権に反対する」意味である。同盟に参加するのは、自由主義の日本であれ、共産主義のベトナムであれ、東南アジアの中のイスラム教政権であれ、政権の性質に関係がなく、とにかく中国の支配下で生きたくないのであれば、中国が意志を押し付けるのを阻止するべく、協力する。アメリカはこのような同盟があれば、自分たちだけでその重荷を背負う必要はない。「反覇権連合」を運営していくということだ。

 ここで重要なのは、「反覇権連合」の目標は中国打倒、すなわち「中国を弱体化させる」、あるいは「中国の体制(レジーム)を転換させる」「中国を国際社会から追い落とす」ことではないということだ。他国を侵略しなければ、中国は「中華民族の偉大な復興」を達成しても構わない。

 アメリカの国益は、中国共産党と生きるか死ぬかのデスマッチをやることではない。共産主義は嫌いだが、アメリカはわざわざ中国と生存競争する必要はない。これは日本にも台湾にも当てはまる。我々は中国から「我々の境界線」や「勢力均衡(balance of power)」を尊重してもらえさえすればいい。

 アメリカという国家の根本的な目的は、他者の利益に配慮しながら、自国の利益を守り、前進させることにある。言い換えると、国家の物理的な面での安全と、自由な政治体制を守り、アメリカの経済面での安全と繁栄を促進すること、それがアメリカの「国益」である。こうした利益追求を行うには、アメリカに有利なバランス・オブ・パワーの状態を維持することが必要であり、その根本には他国が彼らの意志をメリカに押し付けることが出来るほど強大になることは望まない、という考えがある。

 こうして中国を相手にしたゲームのゴールは、彼らの侵略を不可能にするパワー・バランスの構築であり、最終的には「デタント(緊張緩和)」である。但し、「デタント」は軍事的な強さを通じてしか実現できない。「力によるデタント」こそが私が提唱するモデルである。レーガン元・大統領は、経済力や軍事力を強くすることによって、冷戦終結についてゴルバチョフと対話することを可能にした。我々は、中国がソ連のように崩壊することを期待できないし、期待するべきでもなく、また期待する必要もない。しかし「デタント」は可能だ。中国と向き合うときに重要なのは、「中国への優越」ではなく「中国とのバランス」なのだ。

 

 どうだろうか。トランプ氏が、ウクライナ戦争を24時間で終わらせると豪語するのは、ひとえに「アジア・ファースト」(究極は「アメリカ・ファースト」なのだが)、すなわち中国にフォーカスするために他ならないのではないだろうか。

 バイデン大統領の民主主義サミットのように、「理念」を振りかざし、権威主義国とまでは言えない国々をわざわざ分断し置き去りにする必要はない。国家の体制如何に関わらず、ただ中国の覇権に反対し、中国が意志を押し付けてくるのを阻止したい国と地域とで纏まればよいというのは、リアリストの本領であろう。「理念」を掲げて権威主義国のレジーム・チェンジを目指すのは僭越であって、飽くまでパワー・バランスを求めるというのもまたリアリストたる所以である。

 だからと言って、パワーの源をひとえに軍事力ひいては経済力という、いずれにしてもハード・パワーと見なすのは、行き過ぎであろう。パワーが重要であるのは論を俟たないし、日本が、相対的にパワーが低下するアメリカをアジアに引き留め、「反覇権連合」を組むためには、パワーを強化する覚悟が必要だが(余計なお世話だがコルビー氏はGDP比3%必要だと主張)、同時に、理想主義的な「理念」もまた重要、すなわち「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」あるいは「理念」のバランスが重要なのであって、ピュアなリアリストを補ってやる必要があるように思う。

 ここに見えるのは、一つのグランド・ストラテジーであって、日本はどのように覚悟し対応するべきか、一つの思考実験として書いてみた。

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