【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

節分会Part1

2016-02-09 | デジカメ紀行
2月3日、各地で節分の行事が行われています。

聖護院、廬山寺の行事へ行くことにしました。

まずは聖護院へ向かいます。

聖護院は京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山の寺院。
聖護院門跡とも言います。





山号はなし。開基は増誉、本尊は不動明王。
日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山です。

900年前に現在の場所に建てられましたが、4回の火災で市内を点々とし、今の場所に戻ったのは約300年前のことです。
明治までは西側に聖護院村があり、鴨川にかけてうっそうとした「聖護院の森」が広がっていました。
その森の中にある御殿であることから、「森御殿」ともよばれ、 今でも近所には聖護院と呼ばずに、「御殿」と呼ぶ方もあります。
この森の紅葉は、錦の織物の様に美しい為「錦林」と呼ばれ、 「聖護院」と共に今も地名として使われています。
修験道に関係する仏様を多くお祀りしています。

京阪電車、神宮丸太町駅で下車し、如意が獄(大文字)方面へ歩きます。
1時からの追儺式に間に合うよう、道中の「かく谷」で、早めの昼食をとることに。
かく谷は、老舗のお蕎麦屋さんで、にしん蕎麦が有名です。

山門(パンフレットより)

延宝3年(1675)の大火で全焼した聖護院は、
創建当初の旧地に伽藍を再建。
山門はこの時の建築で、300年以上を経て平成12年に修理されました。


聖護院の門をくぐると、甘酒の無料接待があります。

大玄関

山門正面にあり宸殿への入口である。内部には桃山障壁画の遺風を残す堂々とした老松が狩野永納、益信の筆によって描かれています。

境内には大護摩供で使う護摩壇が用意されています。



宸殿
平成12年に修理が完成しました。
天明の大火時には光格天皇が仮御所として使用された由緒ある建物で、狩野派による襖絵が100面以上あります。
書院作りの影響を強く受け、寝殿造りの形式を残し、宮殿風に造られています。

本堂
昭和43年に建替えられ、江戸時代の本堂と外観はほぼ同様です。重要文化財の本尊、脇仏は耐火式空殿と内内陣に祀られ、南北両面に収蔵庫を持つ形となっています。主な法要は宸殿で行われており、本堂は加行道場としての一面を持っています。

すでに、宸殿の前には追儺式の開始を待つ人たちが大勢。
追儺式も間近で見ることが出来、豆まきの時にも良い場所と言うことなんでしょうね。

白梅



後ろに見えている建物は宸殿です。

庭は砂紋が引かれていて、この上を歩いてもいいのかな?と思いつつ・・・。

宸殿の前では、山伏によってその場で御祈祷をしていただく、「厄除祈願のろうそく」にも行列ができていました。
ろうそくを上げた参拝者一人一人に、「ろうそく一丁!」と。2,3人の山伏の方が唱和されます。「・・・」(よく聞こえませんでしたが御祈祷の文言なんでしょうね。)

宸殿から、仏間、本堂(不動堂)へあがることができました。(撮影不可。)
手を伸ばせば触れる距離で見ることが出来ます。

追儺式まで、時間があったので、東隣の積善院凖提堂へ行くことに。

積善院凖提堂門  

聖護院塔頭。
積善院は鎌倉時代1200年頃の創建とされ、江戸時代建立の凖提堂と
明治時代初期に合併して積善院凖提堂と呼ばれるようになりました。



本堂

積善院本尊、重要文化財の不動明王や、光格天皇勅願による
凖提観音像が安置されています。

拝殿


元本堂(左手に見えているお堂)

役の行者像や阿弥陀如来像が祀られています。

右手に見える松の下には・・・。



可愛い置物がありました。

本堂の裏手へまわります。

人食い地蔵(左から2番目の祠に安置)

正しくは「崇徳院地蔵」といい、保元の乱で隠岐に流された崇徳上皇の
霊を慰めるために祀った小さなお地蔵さまです。

人食い地蔵と呼ばれるようになった由来は崇徳上皇が怨霊となったという言い伝えと、「すとく」という名前が
「ひとくい」に訛ったためともいわれています。

お俊伝兵衛恋情塚

近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」のモデルである、
呉服商井筒屋伝兵衛と先斗町の遊女お俊が
聖護院の森で心中した、お俊・伝兵衛の供養塔。

境内には「五大力尊」の赤い旗が立っていますが・・・。

五大力尊とは金剛吼菩薩、竜王吼菩薩、無畏十力吼菩薩、雷電吼菩薩、無量力吼菩薩。

2月23日に「五大力尊法要」があり、僧侶と山伏が般若心経を読経し、護摩木を焚き上げて諸願成就を願います。盗難除けのお札、お守りの授与があります。
また、五大力菩薩の御開帳があり、無料で粕汁が配られるそうです。

続いて向かい(南側)にある須賀神社へ。



平安時代末の康治元年(1142年)美福門院の建てた歓喜光院の鎮守として創祀されたもので、祭神は素戔嗚尊、櫛稲田比売命を主神。
聖護院一帯の産土神とされ、縁結び、厄除け、交通安全の神として崇敬されています。




テントが張ってあったので正面から撮影できず、後姿の狛犬です。

素戔嗚尊がヤマタノオロチのいけにえにされそうになった櫛稲田比賣神を救って結婚、この夫婦円満な神がまつられていることから、縁結び・家内安全にご利益のある神社として人々に知られたそうです。

稲荷大明神


平安時代のラブレター代筆業者「懸想文売り」です。

節分祭の日、須賀神社で会えます。

懸想文とは、公家など限られた人しか文字が書けなかった時代に自分の恋心を代わりに書いてもらっていた文、ラブレターの代筆文の事です。

聖護院へ戻ります。


法話や説明のあと、いよいよ追儺式の始まりです。



年男福女の名前が一人づつ読み上げられ、
法螺貝や太鼓の中、入場です。










次いで現れたのが鬼達(緑鬼、赤鬼、黄鬼、)です。






赤鬼は、貪欲。全ての悪心の象徴で、豆をぶつけることで自分の中の悪い心が取り除かれる。
黄鬼は、我執(がしゅう)。自己中心的な甘えを反省し、豆をぶつける。
緑鬼は、不健康。不摂生を反省し、健康を願って豆をぶつける。
ちなみに
青鬼は、怒り・貧相。自分自身に豆をぶつけることで、徳を呼びこむ。
黒鬼は、愚痴。卑しい気持ちを追い払い、豆をぶつけて平穏を願う。

聖護院界隈で暴れまわっていた3匹の鬼たちへ年男福女が除災招福の豆を撒きます。






その後山伏の法力により改心した鬼たちは 年男福女と共に参拝者へ豆を撒きます。




修験道の開祖役行者が鬼を従えた伝説になぞらえた全国でも珍しい形での豆まきだそうです。

猿やバナナ?の被り物を付けた方々の姿も・・・。
伺ったところ、とくに深い意味はないそうでした。

豆まきが終わると、参拝者達が改心した鬼の周りに殺到。鬼に撫でてもらうことで、福を分けてもらうようです。

福豆

「菊紋に法螺貝」の紋が描かれています。

紅梅


4時からは、厄除祈願の護摩が約100人の山伏たちによって勤修されます。
その残 り火を使い、採燈護摩が焚かれたその場所で、一年間守っていただいた お札、お守り等が焼かれるそうです。

これらの行事は諦めて、3時から追儺式が始まる廬山寺へ行くことにしました。

門を出たところに。

あんなま忍者 「西尾の八ッ蔵(やつぞう)」

本家西尾八ッ橋の新しいキャラクター。
京都に古くから言い伝えられているまぼろしの西尾八ッ橋の里に住む
謎のいきもののあんなま忍者です。
他にも仲間がいるようです。


そして、近くにある「八つ橋の西尾」で、つき立てお餅の無料接待。

おぜんざいか、きな粉餅をいただく事ができます。
もちろん、生八橋の試食も。


餅花(もちばな)

日本の一部地域で正月とくに小正月に、ヌルデ・エノキ・ヤナギなどの木に小さく切った餅や団子をさして飾られます。
「繭玉」(まゆだま)の形にする地域もあるようです。
一年の五穀豊穣を祈願する予祝の意味をもつとされ、左義長(さぎちょう)の行事で飾ったり、食べたりする地方も多いそうです。

左義長とは正月15日の夜に催した火祭りで、松の内で役目を終えた正月飾りや旧年のお札やお守り、書初めなどを焚き上げるもの。
お店の軒先に飾ってあったものを、「台所に飾って下さい」と頂きました。

続いて「廬山寺」へ向かいます。
Part2へ。
公式ホームページ、京都観光Naviを参考にしました。

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