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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

外国人に日本語を教える

2007年05月19日 23時17分03秒 | Weblog
 今年から『国際交流マインド』の日本語教室の責任者になった。
 日本にやってきた外国人に日本語を教えるボランテイア活動である。『国際交流マインド』ができた時は、この地域で生活している外国人の方の役に立つ活動を目指すものだった。私自身は外国の人々に対する違和感は全くない。むしろ外国を旅してみて、もっと多くの人々が外国を知るなら決して戦争などしないのではないかと思っている。友人を知っていれば、その友人を襲ったり、殺したりはしないからだ。

 ところで、日本語を知らない外国人に日本語を教えてみて、教えることの難しさを感じるようになった。どのように教えたなら、彼らは満足できるのか、本当に理解できるようになるのか、疑問がわいてきた。たとえば、「私は花が好きです」という言葉を、外国人が「私、花が好きです」と言ったならば、なぜダメなのか。日本人の多くは「私、花が好きです」と言われても理解できるはずだ。日本語の助詞の使い方は難しい。だったら、助詞が抜けても意味は伝わるのだから、まずはそれでも良いとしてもいいのだろう。そんな疑問を感じていた。

 美濃加茂市で、外国人に日本語を教えている友人がいる。土曜日の午前10時から、日本語教室を行っていると聞いて、早速見学させてもらった。狭い教室に10人ほどの外国人がやってきた。全員がブラジル人だ。美濃加茂市の人口の1割は外国人だそうだ。しかし、私たちの町はトルコ人、韓国人、中国人、イラン人、インドネシア人、ペルー人、オーストラリア人、ソロモン諸島から来た人など種々雑多である。人数もそんなに多くはない。けれども、はるばるやってきた外国の地で困っている点では同じだ。友人が行った日本語授業を見せてもらって、彼の優秀さに感服した。彼は日本語を教えるためにブラジルの言葉であるポルトガル語を覚えたと言う。

 なるほど、相手の国の言葉を自由に操れるならば、相手に日本語を教えることもたやすいのかもしれない。けれども、ローマ字もわからない人がいて、そこで日本語をどうやって教えていったらよいのか、ここは思案のしどころである。先人たちの実践に習いながら、私流に日本語のテキストを作ってみようかと、ファイトが沸いてきた。中学・高校時代には、英語の授業は全く馬鹿気ていると拒否してきた自分が、今になって言葉の大切さやおもしろさに気付いたことも滑稽である。人は言葉があって初めて人は自分の意思を相手に伝えることができるのだから。

 中学・高校時代からの友人が英語の人並み以上の親近感を抱くのも、彼が彼自身を伝えたいという気持ちが人並み以上に強いからに他ならない。
コメント (1)
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