友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

許す心を持て

2007年05月23日 22時15分31秒 | Weblog
 やはり、時間がなかった。ちょっと焦っていて、何が書きたかったのかわからなくなっていた。昨日のブログのことだ。

 今日、人との会話の中から『晩秋』の年老いた父親役の俳優は、『アパートのかぎ貸します』などで有名なジャック・レモンと教えてもらった。残念ながら余り俳優の名前を知らない私には、そんなに有名な俳優なのか、じゃーあの映画はメジャーなのか、そんなことくらいしか思いつかなかった。

 また、横道に逸れてしまったが、50年以上も一緒に暮らしながらも、人はなかなか理解し合うことが難しいということは理解できた。多分それは、恋人なら夫婦なら「一体になる」という幻想に縛られているからだということもわかった。私は「愛することの呪縛」に取り付かれているのだろう。愛することは一方的なことなのだ。愛するだけでよいものを、人は愛することへの見返りを求めてしまうから、難しい存在になってしまう。

 父親は家族のために、働いてきた。子どもたちが育ち、巣立っていく。夫婦二人の安住の生活が始まる。それなのに、求めているものは違う。違ってもよい。付き合える部分で付き合っていけばそれでよい。そんな当たり前のことが、頭では理解できても、現実生活では不満の形で現れてしまう。「19歳の若者となった老いた父親は、子どもたちの世話をしたり、温室で花を育てたり、実現できなかったけれど、海岸で妻と踊ったりしたかった」。彼は生活のために犠牲にしてきたものを、老いた今やろうとしているのだが、しっかり者の彼の妻はつつましく充実した日々こそが大事と思っている。

 老いた父親が息子に語る最後の言葉が、「やればできる」というアメリカンドリームで、その息子が自分の子どもに語る言葉が、「許す心を持て」というのも面白い。息子は父親の姿を見て育つ。老いた父親の息子は労働者ではなく、お金を動かす経営者になる。それこそが男の価値と思い、家庭崩壊を招いてまでも働き、冨を築いてきた。両親の離婚を見て育ったその息子は、大学を出て資格を得る道を捨てた生活を選ぶ。

 3代の男の生き方は違う。何が幸せかではない。人はどんな風に生きるかだと思う。それでも3代の男はそれぞれの生き方を認め、敬意を持って受け止めているようだ。この映画では、男たちはそれでよいかも知れないが、老いた妻はそれでよかったか、夫婦のことが描き切れていないと不満が残った。夫婦は、きっと親子のように、血で理解し合うことはできないだろう。相手への思いやりと妥協とあきらめに尽きるのかな。

 先日もカミさんが包丁をタナの上に置いたままにするので、「何回も言って申し訳ないけど、包丁はキチンと仕舞っておいて」ときつく言ってしまった。そるとカミさんは「そんなに言うなら気が付いた自分がやればいいのよ」と言う。もちろん私はすでに仕舞っている。私は包丁がよく目に付くところに置いてあることがイヤなのだ。もう、そんなに若くないのだからカッとすることはお互いに無いかも知れない。まずそんなことは無いだろうけれども、不安なのだ。だから仕舞っておいて欲しいと言っているのに、全然で聞いていないことが腹立つ。

 二人の価値観は違う。私がものを言えば「どうしてそんな小さなことばかり言うの。もっと大事なことがあるんじゃないの」と言い返されてしまう。言えば角が立つから何も言わない方がうまくいく。しかしいつか、どこかで、何かで、不満は吹き出ることになる。もちろん不満を持たなければよいわけだから、飄々と生きていくことがうまい方法だとは思う。

 『母と娘』は、そういう意味で母親と娘が血で理解していく様子がリアルに描かれていた。母親は家族のために香港に出稼ぎに行くが、子ども、中でも娘は母親が自分達を置き去りにしたと恨む。この食い違いがなかなか埋まらない。娘は盛んに「家族のためと言いながら本当は自分のためじゃないか」と責める。母親を「決して母親と認めないし、許さない」と責める。母親は家族のためにつらい思いに耐えて働いてきたことが理解されないことに苦しむ。そして二人の感情は爆発し、心の中にあったものを全てぶちまけてしまう。その後はお互いを理解する。

 それでも生活のために再び母親は出稼ぎに出発するところで終わる。娘は母親の出稼ぎをテーマに論文を書くと母親に言う。国の誇りだとも。豊かになることは同時に貧しくなることのようだ。母親の出稼ぎで買われた物であろう家電製品や家具が揃う豊かな生活がある。その恵まれた生活の中で、娘は母親を憎み、罵倒し、自ら身を崩す。求めるものが大きければ大きいほど、失うものも大きいのだ。

 「許す心を持て」と言った父親の言葉は正しいと思う。いつだったか友だちが「そういう意味では日本人はすごいですよ。何でも水に流してしまうのですから」と皮肉を込めて言ったけれど、そのとおりだと思う。「許す心」は尊いし、人間として最高の精神だと思うけれど、「許す心」は水に流せということではない。「水に流す」のを許してしまえば、歯止めはかからない。何が問題で、それはどのように克服しなくてはならないか、私たち自身が問われていることだ。

 私は自由を求める。人は自由でなくてはならない。自由でありながら、人と人とのつながりとルールを作り上げ守っていかなくてはならない。無秩序の上に作られる秩序こそが大切で、秩序が目的にならないようにしなくてはならない。
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