長女のダンナの姉がリサイタルを開いた。彼女がリサイタルを開くのは2度目で、前回のような硬さが取れて、伸び伸びと歌っていた。会場が100人収容という小さなところだったことと、何よりも伴奏がリェートだったのが良かったと思った。彼女は教育大の音楽科を卒業し、小学校で教師をした後、特別支援学校に勤めている。昨日も彼女を慕う子どもたちが大勢来ていた。オペラ歌手のような声量には欠けるけれど、バロック風の歌唱には向いているようだ。
シェイクスピアの時代に人気の高かったリュート奏者ジョン・ダウランドの作品が歌われたのだが、私自身は初めて聞くものばかりだった。一緒に行った友だちはリュートの音色が大好きで、昨年ワシントンへ行った時もわざわざ演奏会に足を運んだと言う。けれどもその時は余りいい席ではなかったので、「今日は楽しみにしている」と話す。彼がどんな風にこのリサイタルを感じたのか、また機会があれば聞いてみたい。
リュートを奏でながら歌う姿は中世の風景画にも出てくる。彼女は全ての曲を英語で歌ったので、英語力の無い私は、初めはスライドで映される日本語の歌詞を読むより、耳で聞き取ろうと努力した。けれども曲の感じはどれもよく似ていて、何を歌っているのだろうかと歌詞の方が気になった。解説を聞いて分かったことだが、歌の主題は「恋」で、「太陽は輝くのに、あなたは振り向いてもくれない。まるで漆黒の闇にいるようだ」など、想いが届かずに嘆き悲しむものが多いそうだ。
シェイクスピアの時代は、スペインが力を失いイギリスが勢力を強めていく。貴族たちが権勢を極めていく時代でもある。その貴族たちの間で流行ったのがリュート演奏で歌う恋の歌のようだ。日本でも平安時代から貴族だけでなく庶民の間に言葉に抑揚をつけた「今様」が歌われている。おそらくこれは私の勝手な推測だが、歌は世界中どこでも歌われ、流行があったであろう。人はそんな風に、想いを伝えたり、社会を批判したり、人生とは何かまでも言葉にして考えたのだろう。
時代とその社会が抱えていたものを歌は常に表していくのだろう。日本の民謡も調べてみれば面白いと思うが、ストレートな恋の歌はないような気がする。こんなところにも民族性というか、人々が経てきた歴史が土壌となっているように思う。今日は土曜日、最後の夏祭りなのか、民謡が聞こえてくる。そうか、もう8月も残り1週間しかない。