わたしが中学に入ったとき、生徒総会のその年のメインテーマは、
「エリート意識をなくそう」だった。
これって、すごくない? なんの、こっちゃ?
ぽっと出の、(そりゃあ、小学校を卒業したばかりだから・・・・)、田舎モンであったわたしは、
たまたま、なにかの流れで紛れ込んでしまった中学で、
そもそもエリートの意味もわからなかった。
生徒会長さんは、学年2つ上のお方。
さらに、アタマよさそうな、そしてカッコイイ上級生がズラリと並んでいたような印象があった。
しかし、今、思えば、いくら2つ上の上級生といっても、たかだか中学生である。
なにが、わかる?
今の中学生は、それなりに、ややこしくて、生きにくそうだけれど、
当時の中学生も、そこそこ、ややこしかった。
他の地元の中学生と違うところといえば、
地元の学校では、スニーカーみたいな靴だったけれど、黒い革靴、腕時計OKぐらいなことか。
地元中学との違いを勝手に感じ取って、勝手にエリート意識を持っているのかどうか、知らないが、
コトの起こりは、そもそも先生自体が、エリート意識を持っているということだった。
なにかといえば、自分は、そんじょそこらの田舎教師ではなく、
エリート教師であるという自負が、ぷんぷん臭っていた。
そんな学校、そんな教師、ある?
エリートだか、なんだか知らないけれど、
みんな、それぞれ、各高校に進学し、さらに大学に進学し、就職し・・・
どこの学校にいようが、径路は違えど、最終的には同じところで出会ったり、行き着いたりしている。
例えば、クラス全員がエリートだったとする。
エリート意識は、どのようにして持つのか?
他校と比べるのか?
会社が一流だったとする。
他社と比べるのか?
エリートは、エリート街道から踏み外さないように、こころを砕いている人もいる。
必死でしがみついている人もいる。
自然体のエリートもいる。
エリートというレッテル、枠組は、けっこう、重くて、めんどくさいもののようだったりする。
維持するプレッシャーは、思いのほか、苦しいと想像する。
自分は、エリートではないので、ただただ想像するだけなのが、哀しいところだが。
エリートの人は、気さくに話しに応じてくれる。
非エリートとされている人は、話の場にさえ、出てこない。
出て行っても、おもしろくないそうだ。
そんなこと、まったく気にしない、非エリートもいる。
では、非エリート同士、集まったらどうだろう?
それはそれで、楽しい場合もあるし、楽しくない場合もある。
たんに、「エリートか否か」だけで、くくろうとするから、無理がある。
そのほかの重要なファクターで、同好の人々が集まると、けっこう楽しい。
仕事を終えた、リタイア組みになると、もう、エリートだの、非エリートだのは、過去の話になる。
こだわっている人がいるとすると、ちょっとお気の毒かもしれなくて、それもまた面白い。
聞き手は、おお、それはすごい!と、驚くだけであって、
今の生活に、その過去が、どれぐらい影響を与えているのか、そのほうが重要だ。
年金の額が違う、とすると、これは、かなり影響は大きい。
同じ年金生活者であっても、自由になる金額が異なると、ライフスタイルが違ってくる。
非エリートでも、お金持ちもいるし、その逆もあるだろう。
エリートと非エリートは、年金や退職金の金額だけでなく、付き合う人脈も違ってくるようだ。
が、会社をリタイアした人は、リタイア直後は、よく同期の仲間で集まっているようだが、
次第に、遠のいてくる場合もある。
社会背景や、ポジション、給料などで、人を判断される時代が、リタイアによって終わると、
判定の軸がごろっと変わる。
学生時代から偏差値教育を受け、
大学、就職も、値によって、ランキング、格付けされた時期が、人生の半分以上を占める。
それが、カサブタが剥がれ落ちるように、すっと、つるんとなくなると、
なにが、見えてくるか?
なにを基準に、人を見るか?
わたしは、この、価値観・見直しの洗礼を、二度受けた。
それは、仕事を通しての経験だった。
一度も社会に出たことがなかったとしたら、この貴重な経験は出来ずじまいで、
石アタマかちんこちんの、思い込みの強い、先入観・偏見の塊り、昔の価値観を固持していたかも知れない。
それは、わたしがエリートではなかったせいで、その機会に見舞われたわけだが、
今思えば、柔軟な見る目を養い、楽しいことを知ったり感じたりする範囲が、広がったように思う。
コンプレックスは、水平線よりマイナス方向に、がくんと落ち込んでいるが、
その落ち込み分と同じ分だけ、元に戻ろうとする力が働き、ついでに、ゼロから、さらに勢いがついて、
びゅーんと、プラスに跳ね上がることがある。
なので、コンプレックスも、優越感も、両方、味わえることになり、2倍のお得な人生を送ることができる。
素のままになると、やはり、マイナスなのだが、ブランコを漕ぐように、ぐううんと足に力を入れて漕ぐと、
浮上することもできる。
それがわかっただけで、楽しく、定位置のマイナスポイント(サボリ・パターン)に、いつも自分を置くことができる。
そりゃあ、エリートで、いつも定位置は、高い場所で、力もいつも、たっぷり蓄えられ、
余裕いっぱい、なんていうのが、望ましいが、
人には、人の、個性というものがあり、わたしには、エリートの個性が備わっていない。
(「エリートに匹敵する能力がない」とも言う)
なので、同じトラックにいないから、競争する必要がないので、
エリートさんと同席しても、卑下することも落ち込むことも、ライバル視することもなく、
なんの躊躇も、力むこともなく、ごくごく普通に会話することができる。
これは、じつは、つい最近、感じたことである。
へえ~、わたしって、エリートさんと、自然体で話せる、接することができる、非エリートだ、と、
これは、きっと稀な人材で、珍しいことではないかと、自分を見ている。
上下・縦横・斜め、行ったり来たり、自由自在だ。
(ヨーロッパの階級社会を自在に往来する旅人のよう・・・良いように、言いすぎか)
が、たんに、年をとっただけかも知れない。
今のわたしの最も重要ポイントは、ダンスがどれぐらい上手いか、だったりして、(皆さんはシラけるだろうが)、
ほとんどの人は、ダンスなどしていないので、
このジャッジの針が触れることなく、穏やかに人と接することができる。
エリートとダンスは、あまり、相対しない。かぶる要素がない。
お国の官僚でもヘタはヘタ、左官さんでも、上手は上手、また、その逆もあり。
これをダンスに置き換えずに、
釣りとか、スポーツ、音楽好きか、とか、いろんな趣味に置き換えると、また話が広がってくる。
ただし、先立つもの(お金)と健康は、(現役世代は、時間も)、行動範囲を狭めたり、広げたり、多少の制限を生む。
が、ジャンルによっては、まったく制限を受けない分野もある。
話が、どんどん広がり、エリートから遠のいていく。
これは、いつもながら、話のマトメ能力がないからであります。
悪しからず~。
悲しいエリートさんは 人を見るとき 何気なく 頭の先からつま先までさらっと見回し
身に着けている装飾品を チェックします
話題は 残念な会話です
まあ テキトウに話を合わせますが オペラだのなんだのってところまでいくと
もう 疲れて帰りますw
力の入らない 実はこっそりエリートさんが 一番かっこいいかもですね
習性でしょうか?
パリに行った時、階級社会だなあと感じましたが、
身なりや装飾品が、その人の属している階級を表していることが多かったです。
日本とはそのあたりの社会構造が違いますね。
こっそりエリートさんは、こっそりすぎて、
近くにいてもエリートであることに気づかず見過ごしてしまうのが、ちょっと残念かも。
スローさんはエリートに対してどういう姿勢でいるのかよくわかりませんでしたが、直感で読むに、「嫌いではない」ということかと思いました。
「エリート」が普通に周囲にいる環境においでなので、ごく自然なこと、単なるご近所さんという感覚なのでしょうかしらん。
私は周囲にその手の人間がいないのではてな、ですww
そもそもエリート自体よくわかってないみたいで。
私は若い時代に長く病院にいたので、人間の鎧を着た姿ではなく、素っ裸の、情けない姿によって人を判断するようになっています。
市井のごく普通の人たちのなかに、まぶしいほどの生き方をする(死に方かも)人がいらして、私にとってその人たちこそが、「神様に選ばれた人」エリートかもしれません。
一般の俗っぽいエリートは、
みんな顔を隠して、すごすごと逃げ出さなければいけないような、そんなかんじです。
ちやこさんの直感は、当たっています。
わたしは、エリートはキライではありません。
わたしに、害をもたらさないし、タイムリーな話題を提供してくれるからです。
わたしは自分自身は、エリートではありませんが、ご近所さんには、います。
裸で人を見る。
難しいです。なぜかというと、わたしは、純粋と対極にあり、、
汚れを衣類で隠していますが、裸になったら、真っ黒です。
裸で勝負できないので、なんらかのアクセサリーや、装飾品が必要になってくるのです。
ところが、装飾品も、ぼろぼろ。
裸になって、勝負できる、そんな人間になりたいです。
が、生まれつき、わたしは不純です。
スローさんは努力を見せたがらないけれど、努力家で
ひたむきだと思っています。
私は裸で勝負するなんて考えはもってませんです。
弱い人々に対するその人のキャパシティの大きさを見ます。
命が消えゆくときにどれほど心静かにしていられるか、
欲や雑念ではなく透明性を持っていられるか、を見ます。
そういう場所に長くいすぎましたから、癖ですねw
一番、身近な場所が病院でしょう。
単に生き物としての命の終わりだけでなく、魂の終わりでもあるのですね。
医療関係者は、毎日、そういう現場で働いていると、
生命体を維持するほうが手一杯で、なかなか魂の部分まで到達し得ないかも知れません。
長く療養生活を送ったり、入退院を繰り返したりしている場合は、
死をじっと見つめることになるでしょうが、
事故や突然死、即死の場合は、死の真際も、本人には、死が、わかっていないことがあるでしょう。
想像を絶するほどの恐怖があると思います。
弱い人の目線、慈悲、優しいこころ、などなど、わたしには備わっていません。
あるのは、自己チュー自分目線のみ。
なので、(透視能力のある)透明な目線を向けられると、汚れた裸を衣類等で覆い隠したくなります。
そんな自分をよく知っているから、ばたばた喘いでいるだけのような気がします。
努力というより、汚れた自分を少しでも浄化する、厄払いかも知れません。