蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

眠っていたもの

2020-06-10 | 無題
今朝のミュンヘンストーリー、ガツンときた。
と同時に、わたしとは真逆の生き方に溜め息が出た。
そして、人には人に合った道がある、、、と自分に言い聞かせながらも、あんなに満足している(と思っていた)自分の生き方に疑問すら感じた。
滅多に他のこと(人)に動かされることがないわたしだが、意外にも動揺が隠せない。


ほんの少しのキッカケ、英断、勇気で、事態が大きく転換することがある。
しかし、キッカケをチャンスに好転させるのには運だけではどうにもならない。
努力や才能が不可欠である。
そして、人には器というものがある。
「自分には限りないポテンシャルを秘めていると確信するには根拠は必要ない」と力説する、自分を盲信する人がいるが、わたしはそう思えない。
根拠が必要だと思う。
だが、実際に事態が動くと火事場の馬鹿力が出て、能力がアップするのはよくあることだ。
そうしなければ、人は飛躍できない。

今のわたしは、仮に誰かそそのかす人がいたとしても、テコでも動かない。
動きたくない力が凄い。
動く力の何十倍もある。
いったい、なんだろう?
守り体制老人特有のカチカチ頭、重いオモリをがっしり足に着けて意固地になっている?

内向きに籠る、溜まる力を、外向きに発散、解放すれば、色んなエネルギッシュな行動が出来ると思う。
が、今は内向きオンリー。
死ぬまで内向きオンリーかも知れない。
なぜなら、本人は内向きが快適だから。
内向き人間に、外向けになれと言われても無理だ。苦痛なだけ。
と、そう思い込もうとしていただけかも知れない。

外で活躍している人に、自分とのあまりの違いに溜め息をついたり、小さな自己嫌悪鬱に陥ったりするのはなぜ?
しかし、ミニ鬱はすぐ治る。
「諦める」という自己否定的マイナスの悲観的な考え方ではなく、「諦観」の境地。
「開き直る」という太々しく不貞腐れた可愛げのない、無理やり自己肯定的な押し付けがましいものも、あまり好感が持てない。
行き着く先は「悟り」、、、?

人には人の道がある。
それだけだ。
わたしは、その人ではないのだから、同じように真似をしても滑稽なだけ。
基本、根本が違うのだから。
個々の個体が持つ個性を元に、人は行動を積み重ねてきている。
外側の行動だけを真似しても、疑似体験に過ぎない。
旅のようなもの。
旅と暮らしは違う。
旅は非日常。
非日常も定着して暮らしていくと、それが日常になる。
旅を通して発想の転換を得ることもある。
キッカケはなにも「旅」とは限らない。
日常に埋もれて見えなかったものが、日常を離れた違う視点から見える。
オセロゲームのようなもので、黒が白にコロっと変わる。


究極のところは、自分には自立心が育っていない。 
今から育てるのは、しんどい。
なので、自立している人を横から応援する側に回る。
気分だけ自立。


しかしながら、わたしが行う、わたしを救う解決策はある。
あまり、追求しないこと。
うやむや。
明かりと影、光と闇はセット。
ビシッと一方からだけ見て落ち込むのは愚かだ。
別の一方が必ずある。
具体的な事柄を思い浮かべながらアタマの中を整理している。


「慣れ」とは恐ろしい。
幸せを幸せと感じられなくなることもある。
刺激も、慣れると飽きてくる。
また別の刺激を求める。
幸せも飽和状態になると、ありがたみを感じなくなる。
危機に直面すると、平凡な日常のありがたみに気づく。
なんでもそうだ。

ところで、、、
こんなに長々書いて、自分で言うのもなんだけど、わたしの話は長くてウザい。

何もしなくても一生。
シャカリキに熱く濃縮して頑張るのも一生。
人間、誰もが死ぬ。
死ぬまでをどう生きるかなのだ。
飽き飽きするほどよく耳にする、言い古された内容にたどり着く。

だが、今朝はなんだか虚しい気分になっている。
このまま何もしなくて本当にいいのだろうかと。
眠っていたもの、起こさずそっとして眠らせていたものが、ピクと顔の一部を動かして起きかけの表情を見せる。
今朝のミュンヘンブログに、明らかに刺激を受けたわたしがいる。


過去を振り返ると、これでいいのか?という自問自答するような閉塞感はなかった。
自分の道を探し、結局見つからなかったというような、「幸せの青い鳥」流の、ただただ現状に満足しないだけの、ないものねだりはなかったと思う。
ミュンヘン女史のように、疑問を抱き自分の道を探す流れには至らなかった。
自分の道は、自分がいる道、歩いている道だった。
だから、他の道に切り替える動機がなかった。
だが、現状に満足していたわけではない。
しかし、自分のそれまでの積み重ねをリセットして心機一転する勇気も能力も、そして、それほどに巨大な不満もなかった。
植えられた場所で咲く道を選んだようだ。

このままでいいのか?
という、目指すものとは違うコースを歩いている感覚はなかった。
たいして違和感はなかった。
なぜなんだろう?

やりたいことをやり尽くしていない残念感はない。
こころ残りはない。
たぶん、、、自分に課す目標が低いのだと思う。
だが、こうしたいと思うと一直線に頑張ってきた。
(どこが?と周囲の近い人々に笑われそうだが)

満足の質が、人それぞれ違うのかなあと。
幸せ指数が違うように。
その時その時に置かれた状態で(自分なりに)一生懸命してきたので、後悔はないのだろう。

ではなぜ、今、こんなに動揺するのか?
自分が目指していた道は終了、ゲームオーバーしている?
新たな道を模索し始めているから、こころが反応したのだろうか。
終活にはまだ少し時間とエネルギーが残っている。
水面下で何かが生きているようだ。