蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

子ども

2014-04-08 | 日々のこと
子育ての仕方には、ひとそれぞれ、微妙に尺度が違う。
実際に真っ最中の人と、眺めている人とでも、温度差がある。
大勢のママ軍団が、周りの迷惑を顧みずに、当然の権利とばかりの態度には容認できないものがあるが、
ベビーカーを折りたたんで、電車に乗るべきという意見には、いささか違和感を感じる。
ぎゅーぎゅー満員のラッシュ時や、保護者が、二人以上いるなら、まあわからないでもないが、
保護者が一人で、(二人でも)、空いている時間帯なら、ベビーカーはたたまなくてもいいと思う。
抱っこして、重いベビーカーを持って、荷物を持って、というのは、かなり大変だ。
抱っこできない状態のベビーもいるし。
当然の権利とまではいかなくても、大目に見てあげてほしい。
というか、保護者一人でベビーカーをたたんで持って、ベビーを抱っこして、荷物を持つという、
そんなハードなことをしている親子は見たことがないが。

あくまでも自覚、認識が大事だということだろう。

自分の子育てを振り返ると、
電車には、帰省する時以外は乗らなかった。
平常時に、子どもを連れて電車に乗るなどという、そんなストレスのかかることはしない。
自分が疲れる。
街に用事に出かけたり、ママ友と会いに、なんということは考えられなかった。
(ママ友、いないし)
ベビーカーや自転車で、自宅周辺をうろちょろするだけだった。
先日、地下鉄で、三人の乳幼児を連れたママを見かけたが、すごいなあと感心した。
若いということは、バイタリティがある。

自宅を離れて、子どもの面倒を見るなどと、そんな疲れることを選択するなんて、
わたしには出来なかった。
家で世話しているほうが、ずっと楽だった。
スーパーへの買い物や、公園などにベビーカーで出かけることはあったが。

と書きながら、そういえば、デパートに1歳と2歳の2人を連れて、よく行ったような記憶が蘇ってきた。
電車には乗っていないが、バスには乗ったような・・・。
ベビーカー、どうしてたんだろう???
忘れている・・・。

他にも、分別ある大人たちに眉をしかめられるような、大胆な子育てをしていたような、
記憶の断片が次から次へと蘇ってきた。
若い頃は、怖いものなし。
だから、子育てができたんだろう。
よくぞ、無事にたいした怪我もなく、大きくなってくれたと、ヒヤヒヤしつつ、胸をなでおろす。

当時、ご迷惑をおかけした(かも知れない)大人の方々、失礼しました。

・・・

子宝とはよく言ったものだ。
まさに、宝だと感じる。

小さくて可愛いのは、当たり前。
わけがわからないので、手がかかるのは、当たり前。
それを過ぎると、だんだん子育てが難しくなってくるのも、これまた仕方ない。
やがて大人になって、身近にいなくても、遠くで自立して頑張ってくれていたら、それでよし。
自分がこの世を去った後、「あとは頼んだよ」、と、心残りなく、現世からサヨナラできたら幸せ。
孫も曾孫も、いろいろいて見送ってくれたら(家族葬でもなんでもいい)、けっこうこの上ないことだ。
押し付けられるほうは、たまったものではないかも知れないが。

押し付けるものをできるだけ少なく、軽くしたい。
義務と権利。
両方、ライト感覚で。

仏祭りと相続は、めんどくさくて、重くて煩わしいと思われるので、
逃げ出したくない程度に、キレイに片付けていたら、負担も少なくなることだろう。

小さい子どもの時は、わけもわからないけれど、だんだん大きくなるにつれ、
肩に圧し掛かる重圧に押しつぶされそうになることだろう。
子孫に美田を残すな、と、昔の人はいいことを言う。絶妙な表現だ。
この解釈の仕方も、ひとそれそれ、いろいろ分かれると思うが。


・・・

今日のブログは、キーを打つ指が遅いこと、遅いこと。
何度も止まる。
いつもは、一気に、たたたたたっと打つのだが。
自分のブログのあり方に、ちょっと疑問を持っているので、
ふと考えてしまう。


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