蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログ

2014-04-13 | 日々のこと
あるリアル人は、来る日も来る日も、毎日の生活で撮った写真をブログにアップしていた。
わたしも、レストランで給仕されたものを、毎度毎度、ケータイで撮ったり、
旅先では、日記メモ代わりに、食べたものを写真に収めた。
場所や日時を忘れていても、その前後に挟まれる食べたものを見ると、
けっこうしっかり記憶がフラッシュバックする手助けになる。

わたしは、ブログに日記代わりの写真をアップするのは、いつの日からか、やめた。
だが、自分のケータイや、デジカメのデータには、それらの写真が保存されている。
ケータイの写真は、電車の待ち時間などで、
すべてのケータイ系の用事(メール、サイト閲覧、交通検索など)をすませてしまった後、ときおり、帰路に見ることもある。

バスの時刻表を写真画像で保存しているので、時刻をチェックするために、写真をぱらぱらと探すときに、
ついでに撮り溜めた写真を見ることもある。

自分のため、自分の楽しみに。
人に見てもらう、見せる、その手の趣味は卒業した。

趣味ではなくても、毎日、歯を磨くかのごとく、日記のごとく、習慣になってしまって、
特に意味や意義はないが、ブログにアップするケースもあるだろう。
ブログにアップしないでも、記事を書き溜めるだけで、投稿しないということもできるだろう。
でも、わたしは、記事(テキスト)は、アップする。
歯磨きと似ているが、最近は、少し傾向が変ってきている。

以前なら、たとえ数行の、自分にとっても、人にとっても、無意味なものでも、なんでもかんでもアップしていたが、
今は、違う。
そうすると、ばたばたとブログを短時間でアップできなくなった。
ある程度のかたまった時間が必要になる。
10分や15分のすき間時間、短時間を利用して、ということはなくなった。
そういう場合は、更新はあきらめる。

・・・

なにを書きたいか、書き始めないと、わからない。
それが、厄介だ。
書きたくなくても、書き始めると、なにかしら、書きたいことが出てくる。
わたしがブログを更新しないときは、時間が取れないときだけである。
書く気がしない、気が乗らないということは、一日もない。
日常とは違うスケジュールで動いて、ブログタイムが確保できないときは、書けない。
無理やり書くことは、しなくなった。

無理やり書く意味が、自分にはなくなった。
ブログの向こうの皆さんを意識してはいるものの、迎合しすぎる必要を感じなくなった。

・・・

自分のこころの声を聴く。
それをすくい取って文字にする。
すると、すっと気持ちが落ち着く。
読経タイム。

人に聞いてもらうことに、必要性を感じるかというと、
必要性はないものの、読経は声を出して読まなければ、黙読では意味がない。
なので、わたしは、おそらく自分が書いたものをアップするのだろう。

・・・

じつは、これ、本日の助走。序章、プロローグ。
今から、なにを書こうか、考えている。長い長い前置きだ。
で、もうしき、ブログタイムは、終了しなければならない。時間が来ている。
ああ、困った。なにもまだ書いていないのに。
こういうときに、困るわけだ。
(ブログだけにとどまらず、助走だけで終わるなんてことは、よくある)

日曜日なのに、日常とは別のスケジュールが迫ってきているという現実。
それなりに忙しい生活を送っているということだ。
緊張感や役割感を持つ生活そのものに、自分の意義があると感じる。

自分時間と、他との調和を図る。
微妙なバランスである。

自分だけでは生きていけない。
他との関わりで生きている。
「他」といっても、見ず知らずの他人だけに限らない。自分以外の人のこと。
それは、家族であっても、「他」である。

かけがえない愛する家族であっても、「他」である。
核は、自分。
自分の中の芯の存在があって、自分は動いている。


さて、そろそろ切り上げる時間になりました。
アタマが温まるのに、時間がかかりすぎた。
脳内・作動装置、故障気味。バッテリー切れか?

中途半端ではあるけれど、なにかと忙しい季節に突入している。


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