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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

老婆の、わたし

2019-11-08 | 老い
おばあさん。老婆と書くと、すごいイメージ。
ニュースで65歳の老女と報道されると、ん?と、なる。
老齢か、、、?
ひと昔前と、明らかに実態は違う。
自分が老齢になりつつあるため、多少、ひいき目ではあるが。

個人差はある。
本格的に老婆になったら、一日、日が長いと感じるかどうか?
雨戸を開けるのに、仮に1時間かかったとする。
閉めるにも1時間。
発想を変える。
開けなければ2時間ゲット。
このゲットした2時間、神様からの時間のプレゼントを何に使うか?
プレゼント代償は、暗いままの部屋。
得るものは時間、犠牲になるものは、日中の明かり。
さあ、どうする?
得た2時間で読書をしたとする。
暗いなか、目が悪くなる。
刺繍は?編み物は?
目を酷使するものはダメ。
テレビは、暗くても見えるが、ちょっとどうかと。
絵を描く。
室内が暗いと色合いがわからない。
目を使わなくてもよいものならオッケー。
音楽を聴く。
運動をする。
運動は、老婆にはキツイ。
残るものは、、、音楽かなあ、、、と。
マッサージ器でモミモミとか、青竹踏みとかも暗くてもできる。
あ、それに、音楽は聴くだけでなく、奏でることも出来る。
最後の砦かなあ。

しかし、雨戸の開け閉めに2時間かけて、生活のリズムを作るのも良い。
いわゆる日課。
わたしなら、2時間減ってもいいから、日課をこなしたご褒美コーヒーを2回飲む。
手に入れた明かりで、もはや点字に近いノリで、ブログを書く。
それでいいかなあ、と。
雨戸を閉めた後は、好きなものを食べ、ニュースを見て、それで一日、おしまい!
結構、満たされているだろうと自分で想像する。
わたしの老後。
健康で、さらに欲を言えば、室温が好みの温度であれば、それで十分である。



20歳も老けているわたしに、一言

2019-02-21 | 老い
わたしは、母より20歳、老けている。
計算がおかしい、前からおかしかったが、ついにアタマが決定的に狂ったか、と思われそうだが。

母がわたしの年齢の時は、がんがん元気で活発で活動的だった。
まだ父も存命だったし、夫婦ともに現役バリバリだった。
「女性の50、60歳は、一番気力も体力も知力も備わった時期だから、なんだってパワフルに、やりたいことができる黄金期」と、母はわたしにハッパをかけて言っていた。
ハッパをかけられても、別に何をするでもない、へんにおとなしい、わたしだった。

80歳を超えている頃の母の体力、気力が、ちょうど今のわたしぐらいである。
つまり、わたしは実質、80歳超えというわけだ。
体力、気力ともに。
わたしは、母より20歳も心身ともに、早く弱っている。
あと20年すると、「寝たきり」とは言わないが、「座りきり」になっているのではなかろうか。「スマホ持ちきり」か。

母は85歳まではシッカリしていた。
ということは、わたしも65歳までは、それなりにシッカリしていることだろう。

今の母は、最近、体力が落ちて、昼寝をすることが多くなったようだ。
母は今、90歳超なので、母の姿は、わたしの70歳超え未来図かといえば、そうでもないと思う。
70歳超えのわたしは、たぶん、今の母よりシッカリしてそう。
100歳超えになった時の母は、80歳超えのわたし。
わたしは、今とあまり変わらないと思う。
では、110歳超えの母と、90歳超えのわたしは?
そのあたりの年齢では、ボケぶりも大まかには変わらず、だんだん帳尻が合ってきそうだ。

書いていて、だんだん眠くなってきた。
なんとまあ。
このまま、萎れて枯れていくのか。
・・・

ここから下↓に、半分居眠りしながら、たらたら、だらだら長文を綴っていた。
が、ラインが入り、いったん下書きに保存したつもりが、保存されていなかった。
つらつら書いた内容は、ますます眠りへ誘うような意味のない駄文だった。
なので、消えてちょうど良かった。

自分の人生もそんなものかも知れない。
熱心に取り組んでも、夢中になって時間を消費しているだけのこと。
浦島太郎のごとく。
一瞬で歳が行く。

夢中に消費できる時間が、あと20年もある。
とても幸せなことだ。
持ち時間を使ってしまえばそれで終わり。
これ、自分の持ち時間だと気付いただけでも、儲けもの。
病気になったりする可能性も大いにある。
使い古された新鮮味のない言葉だが、まさに「今を大切に」である。

笑顔になりたい

2018-10-02 | 老い
刹那しか覚えていない母。
兄のところにも母は度々訪れる。
兄が、ぽつりと言った。

「俺もDNAを受け継いでいるはずやから、ああなるんやな」

そう呟き、すべて忘れてしまう母を責めるでもなし。
わたしも、まったく同じ思いである。

わたしも、ああなる。
いずれ、ああなる。


家のお向かいさん。
50歳をとおに超えた独身息子とお母さん。
今日も息子の怒鳴り声が聞こえる。
かわいそうなお母さん。
認知症が出ているのだろう。
罵声に近い。ガミガミと。
かと思えば、同じ人物なのに、どこからそんな声が出るのかと思うような猫なで声。
彼の愛犬に話しかけている。
マーバラスな見目美しい小型犬である。
いつも愛しみながら散歩に連れ歩いている。
おそらく、メス犬だと想像する。
ああやって感情や愛情を分散しているのか。
愛すべき女性は、母でも妻でも恋人でも妹でもなく、ペット。
まあ、わからないでもないが。

母親の言動に耐えられないのだろう。
もう普通の脳ではない人と、毎日、生活を共にしていると大変だ。
強い意志を持たなければ、自分も壊れてしまう。

で、話を戻す。
わたしも、やがてはそうなる。
1秒1秒、近づいているような気がする。
認知症を発症している人には、人並みはずれた優秀な脳や経歴を持っている人もいる。
なので、過去や現在のIQには関係はないとすると、あんまり気にすることもないのかなあと。
自然にまかせるしかない。

母のように、いつも大きな声で笑っているのも悪くない。
一昨々日は、一心不乱に計算ドリルに取り組んでいた。
国語や算数は好きなのだろう。
その後ろ姿だけ見て、声を掛けずに帰ってきた。(事情があって)

楽しい老後は、なんにも考えずに毎日笑って暮らすことだとしたら、それも悪くないと思う。
ただし、家族に負担をかけないよう、自分の老後費用をプールしておかなければならない。

今も老後みたいなもので、あまり、わたしは、しゃかりきにならない。なれない。
いつもの日常が毎日継続して、穏やかに自然にスローダウンしていけばいいかなあと願う。
死と向かい合う恐怖も、神様からのプレゼントで軽減されることを期待する。
わたしの現在の精神年齢は、85歳、脳年齢は、5歳。
内臓や運動能力を含めた肉体年齢は、たぶん、実年齢ぐらいだろう。
それより、少し上かも?

わたしは、老人と幼児が同居するシニアである。

笑えん話

2018-08-21 | 老い
お出かけ日。
ノースリーブ紺色ロングワンピースに、真珠のロングネックレス。
着てみる。
ドレッシー、正統、正式。
まるで結婚式の二次会か、パーティみたいだ。
明らかに行き先、用途から外れている。
やりすぎ。
パールを人工に変えてみる。
たったそれだけで、安っぽいトータルバランスに包まれ、全体がニセモノらしくなる。
ドレッシーで正統派の服装に正統派デザインのシンプル・ニセモノ真珠。
これは、いかん。
ダンスパーティーではないのだから。
上の羽織ものも、やたらドレッシー。
どこのパーティ?
なにを勘違いしている?

で、できるだけ普通っぽさを出す工夫を。
サンダルもカジュアル過ぎず、堅すぎず、、、。
汗びっしょり。
バスに一本乗り遅れた。
またもう一本、乗り遅れるわけにはいかない。
タイムオーバーに、切迫感。
その後もドタバタ汗ポタポタ。

、、、で、バス停で、定期、ピタパ、回数券、持っていく用意していた新鮮なブドウ、、、全てを忘れていたことに気づく。
オーマイガーと嘆く暇もなく、準備対策モードへ。
バス内、降りるまでに席から出向いて両替機で小銭。
さらに、駅で発車時間がギリギリなのに、回数券を焦って買う。
が、降りる時に、何故かない。
どこ行った?

駅員さんに泣きつく。
「乗った駅でさっき回数券を12枚買ったのですが、手元には11枚しかないんです」
駅員さんは困り顔。
あ〜あ!もう嫌。

あとは、行った先、行った先、全て小銭で切符を購入。
なんとめんどくさい。
運賃いくら、なんていちいち覚えていない。
指先は、嫌な金属(硬貨)のニオイがプンプン。
いつものピタパはなんと便利か。しかも1割引。
朝から最低の現実と向かい合った。

幸せに年を取るのは、たんにアホになるだけなのか?

2018-07-02 | 老い
最近、自分の能力が著しくダウンしている。
アップしているのは、鈍感力と老人力。
げんなり。

本屋で立ち読みした。
「成功する人の考え方」というノウハウ的な本。
全ページ、わたしが無意識でやってきたこと。
どこが、成功する人やねん!
と、自分にツッコミを入れる。

近くに平積みしてあった、漫画家、兼弘憲史が書く、孤独を楽しむ本は、掃除編だけ、ちょっと耳が痛かった。
自宅を掃除するための、モチベーションアップ法が書かれていた。
わたしはもう無理。

長女に昨日、言われた。
自分には、Y(長男)みたいに実家を掃除するボランティア精神はないから、定期的にプロのハウスクリーニング業者に掃除してもらえ、というアドバイスのような、お叱りのような、教育的指導。

弘兼氏のモチベーション法が功を奏しているような掃除がうまく行われない我が家は、お客さんを迎えられない。
せっかく、自分の趣味の限りを尽くした家なのに。
残念。
すべてが、そんなかんじ。
こだわっていたことが、怠慢により、するりと手の指の間をすり抜け、こぼれ落ちる。
それが年を取るということか。

お花畑で遊ぶ哲学者

2018-05-16 | 老い
私は自己チューなので、サービス精神がない。
自分が楽しくなければ、期待されたりしても、しない。
例えば、ブログ。
自分が面白がらなければ、書かない。
これは面白いネタだから、ぜひ書いてみよう、と思っても、絶対ウケるはず、とウケを狙って書くことは卒業した。

かつての記事を読むと、ウケ狙いが臭って、クサイ。
目下、他者は存在せず、自分だけを考えることにした。
と言いつつ、閲覧数は非常に気になる。
矛盾しているが、まあ、よい。
矛盾は、わたしの大親友。常時、ぴったり張り付いている。

と、この長い前置きは、いつもの悪い癖。
エンジンが温まるのに時間がかかる、スロースターターである。
じつに燃費が悪い。

ウケ狙いの「運動する、付けまつ毛」編は、後日、いつになるのかわからないが、まあ、きょうはパス。

さて、本題。
わたしの尊敬する、ある知人、年相応の老化が見られる。
この現象は、わたしの知っている、一定以上の年齢、全ての人に共通するのだが、同じ話をする。
わたしも代表選手の一人。

同じ話をされた場合、どう対応するか。
わたしは、気が弱く、お人好しで温厚な、あかんたれのため、今まで聞かなかったことにして、にこやかに、相槌を打つ。
わたしの受け入れ体勢が整っていない時は、3回目ぐらいには「前にも聞きました」と、とりあえず、伝える。
機嫌が悪い時は「何回目?」と攻撃。
ただし、これは、ごくごく近い身内にしかしない。
娘には、よく「その話、好きよね」と、優しくイヤミを言われるので、最近、わたしは、いささか無口になったかも。(自分比)

まあ、それはそれとして。
頭脳明晰、博学、研究熱心な、わたしの持っていない長所をお持ちの方が、同じ話をする。
1回ならず、2回ならず、3回ならず、4回ならず、、、。

好きな話だと、子供が繰り返し同じ本を読んでもらうのが好きなように、お気に入りの落語や講談のように、何度聞いても楽しい。
あるいは、聞く側(わたし)の記憶力、理解力が悪い場合、何度も話してもらううちに、だんだん飲み込めてくる。

が、そうでもない、日常の、いたってカンタンな話の場合は?
本人に言うべきか?
例えば、昔の手柄話だとか、輝かしい経験、おぞましい体験などは、何度も話すことで、本人のストレス発散になる。
こちらは、うん、うん、そうなんですかー、と、合間、合間に相槌を打つだけ。
だが、知り合いの誰それが、ああした、こうした、という話、何回も何回も聞くと、この人、大丈夫なんだろうか?と思ってしまう。
こんな、賢い、頭脳が売りの人なのに、頭脳が心配。
本人は気づいていないところに、老化の現実味、重さを感じる。

わたしのように、もともと、若い時から天然の場合は、ぼけても、毎日接する、ごくごく近い家族でも、発見しにくいだろう。
しかし、本人もアタマの良さを自負している、神経のとんがった人は、ちょっとでもヘンなことを言うと目立つ。
しかも、プライドが高いため、自分の自然なボケ老化は、絶対に認めない。
結構、厄介である。

この人、他の言っていることも、大丈夫?と、心配が広範囲に広がったりする。
わたしなんぞ、ちょっとマトモなことを言うと「誰からの受け売り?」と言われ、真逆のキャラ。
いつもお花畑、気楽で良いが。

と、、、、そういう、何度も何度も同じ話を賢い人から聞き、時を止めることは誰にも出来ないのだと感じた。
天然お花畑の、自己肯定付き哲学者になっている自分に、感慨深いわたしである。

「過去は未来」という夢を見る

2018-04-04 | 老い
「私、認知症が心配なんです」
と、軽いジョーク混じり、本気半分で言ったら、
「薬飲んでる? 少しでも症状を遅らせる薬、今はあるでしょう?」
「専門の先生に診てもらった?
勇気をもって、診てもらってください」
と、ある人に、背中を押された。

えー?
私、認知症なの?
本気にされたことに、ショックを受けたけれど、まあ、自覚症状もあるし。
でも、30歳代も、あまり変わらないところがあったし。

認知症の人は、自分が認知症だと自覚していないらしい。
だとすると、自覚しているわたしは、認知症ではないということか?
どっちなんだ?
まあ、歳相応の物忘れは、しっかり。
歳より、天然の分だけ、物忘れにも拍車がかかっていると思うが。

バスの中で、お年寄り同士が、
「あんた、認知症の薬飲んだら?」
「何いうてんねん、そんなもん、飲まんでもええわ」
と大声で話していた。
シャレにならないなあ、笑えないなあ、とわたしはジョーク扱い出来なかった。

「北の桜守」の吉永小百合。
美しく気高い、認知症役。
でも、脳のスキャン?MRI?では、深刻な病気ではないような風だった。
(病名は、よく覚えていない。肝心なことなのに。
アルツハイマーではない、とは言っていたような気はするが)
映画の中で舞台を取り入れ「劇中劇」仕立ての、新しい試み、テイスト。
吉永小百合は上手いなあ、立派な役者さんだと思った。
あれで70歳を超えているとは、、、。
今のわたしは、もう気持ちは完全に後期高齢者だ。
涙と鼻水で、またもやハンカチはしっとり、ぐっしょり。
(キャラクター、ケロケロケロッピの、娘が子供の頃のお古ハンカチだ)
嗚咽を堪えるのに必死だった。
わたしの涙腺は、ほぼ故障している。
時代考証として、40〜50年?前の当時のファッションが面白かった。
メガネと靴が、決め手。
役の中での、中村雅俊のシルバーメタルフレームの大きなメガネ、堺雅人のヒール靴、ビートルズ世代と重なる?
車と家も、時代を語る大道具。

と、途中から、映画の感想に移行してしまった。
認知症の自分と出会う、ひとつの試み、体験になった。
自分もやがて歳を取る。確実に。
過去を振り返り、現在があり、未来に繋がる。
果たして未来は?
認知症という神様からのプレゼントを受け、過去に生きた世界での夢を見続けるのだろうか。


家事をする、おじいちゃん

2018-02-21 | 老い
別SNSで、よく日記をアップされる80代後半の元大学教授。
奥さんが重度の圧迫骨折で家事が出来なくなり、代わりに家事を始めたのが84歳。
ご自身も8年前?に癌を発症。
それまでは洗濯機のスイッチ一つ、触ったことがなかったという、この年代には普通の方。
しかし、今まで当たり前と思っていた家事労働の提供がぴたりと止み、初めて家事をしてくれていた奥さんの有り難みを知り、感謝しておられる。

と、ここまではよくある話。
特筆すべき点は、生まれてこのかた、84年間、家事を全くしたことがない、心身共にカチンコチンの高齢男性が、家事に取り組み、悪戦苦闘されている。
泣き事どころか、今までの感謝と、前向きな家事への実践。
わたしは、この方の柔軟性を尊敬している。

コメント欄では、男子厨房に入らずはもちろん、「戦争に駆り出され戦地で国家を支える男性が、家の中で家事? なにを吐かす? でも先生は偉いです。ワシは金儲けはたっぷりしたので家内は不満はないはず」ともおっしゃる、鼻息の荒い、おじいちゃんもおられる。
日本が戦争をしていたのは、何年前?
そんなことを言い出す男性は、、、?
もうとっくにリタイアし、自由人でしょ?
お金は必要条件ではあるが、今の時代、それを振りかざす神経たるや、、、。

団塊の世代より一世代上の戦中派と、戦後生まれの団塊の世代では、大きく違う。
戦中派女性は、早々とご主人を亡くし、今を謳歌されている。(経済的に問題のない人は)
アタマの中身が丸々戦中派のご主人が、いまだお元気でご存命のオクサマは、ご苦労さまである。

時代は流れ、時代の価値観についていけない人は、どうすればよい?
わたしが尊敬する、上述の元教授は素晴らしい。感謝だけではなく、実践が伴っている。

身近な例で蘇るトラウマ氏は、感謝、感謝と口で、免罪符のように唱えるだけで、自分は何もしない。
それなら、口に出すな、と言いたい。
しかも子育て真っ最中の息子の嫁の手伝いに行く妻を見て、年寄りを使うとはけしからん、と不満たらたら。
手伝わせてもらえるうちがハナ。
妻に自分のことをかまってもらう分が減るのが嫌なら、自分で自分のことぐらいすればいい。

一番良くないのは、感謝もせず、実行もしない人。家族にとっては、、、(書かない)
二番目に良くないのは、感謝を口にし、やろうと思えば出来るが、やらない人。
まあまあなのは、文句を言いながら、自分で渋々実践する人。
ベストは、感謝もしつつ、出来る限り積極的に望まれることを前向きに実践する人。
微妙なのは、求められていることと微妙にズレたことを頑張って実践し、感謝を求めること。困った押し付け。

元教授は、感謝し、尚、前向きに実践という「理想のおじいちゃん」ゴールデン賞に輝く。
してもらうと、かえって二度手間で余計面倒、という「微妙なおじいちゃん」は、どうすればいい?
じっくり観察して、求められる中で、出来ることを実践、出来ないことは、練習するなり助けを乞うなりして、それなりにやる。
そんなかんじでどうだろう?
あるいは、感謝のかたまりになり、神様のように神々しく、神格化するかのごとく、
(馬から落ちて落馬した表現。トリプル神、使いすぎ)
他の全てにおいても包みこむ、居てくれるだけで周りを幸せにしてくれる、まあるいおじいちゃんになる?
息はしているのか、していないのか、気になるところだが。

ちなみに、わたしは、自分の分ぐらいの家事は(最低限度)出来るので、普通のおばあちゃんである。

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80歳のコミック本

2018-02-04 | 老い
「傘寿まり子」という、80歳のおばあちゃんが主人公のコミックがある。
面白い。
作者は一世代若い女性だが、母親世代を意識しながら、自分の老後を探っているような、考えさせられるテーマが詰まっている。
老々介護だとか、そちらの面からではなく、人間解放、歳を重ねてからも新しい自分は築ける、みたいな、希望につながるような展開が予想される。
無料お試し読みで、二話しか読んでないから、まだなんとも言えないが。

わたしは、新しい自分とかに、別に出会ったり、築いたりしなくてもいい。
今までの養分で生きていきたい。
ラクダのコブみたいなかんじ。
自分の滋養で自分を養いたい。
新しく継ぎ足すのは少しでいい。

コミックの主人公のまり子さんのように、新しい風を起こさなくても構わない。
ただ、少しでも歳下の人ともお付き合いしないと、歳上はもちろん、同世代なら、わたしより先にこの世からお別れしてしまう可能性が高い。
なので、自分の方が、先にさよならパターンにしないと、自分だけ後に残されて、一人も友達がいないのも寂しい。
自己チュー的発想だ。

老化すると、キレたり忍耐力がなくなったり、疑心暗鬼になったり、肉体だけでなく、精神的にも老害があるようだ。
極力、老害は抑え、徐々に老いてゆく自分を穏やかに受容したいものである。

※今日の記事〆をバタバタ急いでいる感がある。
じっくり書き加えたいところだが、もうじき、予告時間より早く、娘一家がドタバタやって来るので時間がなくなった。
ちびっ子兄弟げんか、食べ物取り合いバトル時間に突入。
優雅に老いを憂っている余裕がない。
用意しなければ。
バタバタ。

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店じまいを考える

2018-01-16 | 老い
昨日、母から電話があった。
「どうしてるの? また来てちょうだい。待ってるよ」

「昨日、19人も集まって、おばあちゃんを囲んで新年会したやん」
「そんなとこ、行ってない」
・・・
姉2時間、私2時間、目の前にいる、これは誰で、それは誰で、延々と同じことを説明したのは何だったのだ?!
さすがに、言葉を失った。
昨日、涙を流しながら書いたブログは何だったのだ?!

「写真見せてくれなかったら、(そんなことがあったかどうか)わからへん」
と、母。
遠方から母の妹がわざわざ訪れてきてくれたりしても即、忘れる。
食べたことも忘れる。
かなり、進行しているようだ。

美味しいものを食べさせたり色々しても無駄だと悟る。
過去の記憶にあることだけ、しかも気分が良くなったり楽しさが蘇るような話題を選んで、思い出を引き出すような話をするしかないか。
過去は過去、現実は現実。
ノスタルジーに浸っていても現実を変えることはできない。
せいぜい、母も周囲も、最大限、快適に過ごせるよう努力するのみ。
自分も行く道なので、見本があるからわかりやすい。まさに道標。
受け入れるも受け入れないも、生物の摂理。
老化とは酷なものである。

さて、わたし。
あと25年の間、自分という店じまい。
棚卸し。
終活とは少し違う、閉店準備。
いかに楽しんで店を閉めるか、いかにあがかずに店を閉めるか。
赤字、黒字、収支数字によっては閉店日が前倒しになることもあるだろうし、ちょっと延命されるかも知れない。
考えている間に、あっと言う間に過ぎそうだ。
店を閉まってからも、とりあえずはまだまだ生き続ける予想だが、医療費圧迫で若い世代に税金を負担してもらうのは気の毒だ。
わたしだけに関しては、店じまいをしたあとは、毎日、少しずつ、天国の階段を登りたい。(誰でもか)
階段が長すぎるようなら、途中でカット、割愛してもらっても構わない。
が、最後の一歩の後に天国があるのが望ましい。
今から、どこかの宗教に入信するのもヒネすぎた信者だろう。
だから、母の提唱していた「宇宙教」か、自分の都合いいことだけを考える「自分教」の教祖、兼任、第一信者(定員1名、自分だけ)となろうか。

こんなことを考えていたら、時間が瞬時に過ぎるが、(今日に限っては)意外と悟りが早かったので、地下鉄、降車駅より、早めに本日のブログは終了できそうだ。
(むしろ時間が余って退屈。
スマホ、新バッテリーの威力はスゴイ)

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