goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

妬み嫉み&ヒガミ、これの繰り返し

2015-08-17 | 趣味

あんなに行っていた、お気に入りSNS、最近は、ちっとも面白くない。
なので、日記を書く気もしない。

興味がすごい勢いで、ざざざ~っと引いていっている。
なぜなんだろう??

多くの会員たちが日記をアップし、コメントが並ぶ、その、日記に書かれている行動内容や、やり取りを見て、
自分の大嫌いな人が、いる。
ひとり出てくると、全体的になんだか伝染していくかのごとく、いっぱい出てきた。
嫌いというのは、おそらく、自分の出る幕がないと感じるのだろう。
自分が居たいのは、ここじゃない、と感じた。

すると、す~っと体温が低くなった。

まるで、新勢力に圧倒され、すごすご逃げ出して行く、旧勢力のよう。
敗退、撤退。

わたしが登録しているのは、社交ダンス・カテゴリーである。
リアルな人物が、リアルな会場で顔を合わせたり、踊ったり、オフ会の報告や、試合の結果など、
アップされていることが多い。
活動エリアは、北は北海道から南は九州まで。
仲間内の巨大サークルのようなものだ。
わたしは、リアル実像は明かさない主義。
だから、決してオフ会にも参加しないし、実際にもSNSリアル人と踊らないので、
読む人も、表舞台に出てこない人の日記など、面白くもなんともないと思う。
情報や交流の一方通行では、とうぜん、限界がある。

わたしが見聞きしたリアルな人が、日記に書いている内容と、実物とが、乖離していることが時折ある。
美辞麗句の日記と、実像が、違う。
そして、許せないような、もろに嫌な面を目撃したこともある。
その人は、ダンス歴は非常に短いが、ご自分の武器を最大限に活かし、華としてイキイキ活躍されている。
ノリが、とてつもなく軽く、人類、みな、きょうだい、といったフランクさ。
何人でも、出会ったら、今日、ハグしたその瞬間から熱いお付き合いだよ、というスタンスは、
いくら「社交ダンス」というジャンルだからといっても、わたしの価値観とは、とても相容れない。
わたしは、どちらかと言うと、コツコツ黙黙・地道な技量練習・積み重ね派。
地味で武器のないわたしは、それしか出来ないし。

人見知り非社交人と、ラテン系との、違いか?

たんなる、ネタミ、ヒガミか?

しかしながら、気持ちのよいものではない。
自分が優位に立てないどころか、自分は多くの人々の価値観とは違う価値観をもっている。
そんな価値観が渦巻く中で、卑屈な、いじけた負け宣言的な、恨み節日記を書く気にもならない。
共感を得られないことが、わかりきっていることを前提に書くと、
全文がそういうトーンになる。
もう、前々から、わたしのページには、そういう日記が並んでいる。

 

同じSNSに属し、会員の中から事務局に選ばれてコラムを持ち、活躍されている、
別の文章系のカテゴリーに登録している、文章のしっかりした、文筆力のある方から、ちょっとしたお褒めをいただいた。
彼女は、4年制・男女共学大学・文学部出身(おそらく国立大学)の、団塊の世代。
たいそうマジメな方である。
褒められると、かえって恐縮を通り越して、真っ赤になる。

じつは、その人の、とある日記に反感を抱き、
かなり長い時間を使って、書いたり消したりを繰り返し、自分の考えをまとめつつ、コメントをしたためていた。
が、結果的には、コメントを送らなかった。
そういう経緯があるだけに、彼女はそんなことはもちろんご存知ないので、
わたしを、単純に明るく褒めてくださった。

コメントは、よく吟味して送るべきであり、たいして考えもせず、反感を感じたからといって、感情的に
その勢いで送るということは、しなくてよかった、と、つくづく思った。


と、それと、最初の体温低下はと、まったく違う次元のことであるが・・・
最初に書いた話。

自分の棲家、居場所がなくなったと感じる場所には、とうぜん、魅力を感じない。
嫌いな人や、ことを排除する力がない場合、自分が逃げるしかない。
いつもわたしは、この、超・消極的な方法を取る。
闘わない、省エネ派。
負けてもいいのだ。無駄なエネルギーを使いたくない。

かくして、またもや、多くの人々が集まる場所から、わたしは身を引き、
自由な、不特定多数の交流の場から姿を消すことになる。
膝を抱えて三角座り、定位置が確保されているので、大丈夫だ。

この定位置こそ、この、蝶ブログではないかと、今、書きながら気づいた。

負けて傷ついて、帰る場所が、ここなのだろう。
元気になれば、また、自分勝手な思いばかりを強気に綴る。
というか、ここまで書いた次の行から、一瞬で復活、いつもの調子で、さらさらと書きそうだが、
またまた長くなって、わたしのいい加減さが露呈されるので、やめておきます。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


定番。負け犬

2014-06-19 | 趣味
とある人、Kさん。
趣味の社交ダンス分野で自分はどんなに頑張っても、スタートが遅れ、その差は縮まらない。
要領よく、アタマとお金を駆使し工夫してショートカットし、普通の人よりは多少速く習得しているとしても。
持ち前の負けん気で、頑張るのだが、どうしても思うようにならない。

で、すっぱいブドウ作戦。

なんだい、あんなの。
あんな趣味。
そもそも、自分は現役時代は仕事仕事で、趣味どころでなかった。
一番仕事が忙しい40代ぐらいの、比較的若い時代から
ちんたらこんたら、社交ダンスなどという、そんな趣味に明け暮れることができるなんて、
第一、そんな時間が日常に取れるなんてことは、出世コースからは脱落している証拠、
仕事が出来ない人間に決まっている。
仕事に活かせる趣味といえば、ゴルフしかない。
ゴルフは、お得意さんや社外、社内、その他の接待に十二分に交際力、営業力、影響力を発揮できる。
仕事の出来る人間は、ゴルフ以外にはない。
(Kさんは、ゴルフはシングル・プレイヤー)
ダンスが出来る人間は、仕事が出来ないという証明みたいなものなのだ。

なんていう論理を打ち立てた。

無理やりそれで納得していたが、
負けず嫌いの性格を親しい趣味仲間に指摘され、ショックを受けた。
競争して人と比べて勝たなくても、それぞれによければ、自分は納得できるのでは?
自分の存在価値として、勝つことでしか、優劣を判断してこなかった企業戦士だった、その人は、
新しい価値観を持つことにした。
それは、自分を救うためだ。
自分の余生に安らぎを保つためだ。
だが、急にはそれまでの人生を覆すような価値観には変換できない。
やはり、あいかわらず、負けん気が付きまとう。


さて、わたし。
その人、Kさんと同じような症状に苦しんでいる。
どんなに頑張っても頑張っても、20歳の頃から始めている人と比べると、雲泥の差。
絶対に、差は縮まることはありえない。

で、同じく、すっぱいブドウ論。
なんだい、わたしは・・・若い頃は、・・・あれ?
(趣味分野には)なんにも打ち込んでない・・・
中年になって忙しい頃は・・・あれ? 
(趣味分野には)たいして、頑張ってない。
子育ては、ある意味、自分の出来る限りのことは全力投球した。
(手抜きではあるが、要所は抑えたつもり)
子育てと同時進行で、家族に迷惑かけて仕事に追われていた。


あれれ、あれれ。
なんだい、わたしは、これこれこんなことをしていたせいで、そんな優雅な時間が取れなかった、
という、堂々たる大義名分みたいな申し開きができない。

あんまり頑張ってなかったのか・・・。
でも、これは趣味の分野。
よおく考えると、先述のKさんのように、趣味にまで手が届かず、
その場その場の課題を一生懸命乗り越えることで精一杯だった。
ひとつずつの課題は繋がっていないために、趣味を始める年齢が遅れた。
スタートが大きく違う人と、いくら頑張って競っても、無理。

自分は自分なりの、人生のステージの課題をこなしてきたのだから、まあいいか。
今だって、趣味を続ける障害はたくさんあるが、工夫して時間を確保しようと努力している。
趣味分野の人と、人生の課題ごとの結果、成果を比べて、わたしのほうが上だ、などとは、さすがに言えないし、
この人生の課題は、人それぞれ、状況が違うので、安易に比べられるものではない。
ただ、一生懸命やってきた、という自負だけはある。
趣味にまでは余裕がなかったが、課題はこなしてきたように思う。
趣味分野で遅れは取っても、代わりに得たものは、代替しようがないものであり、悔いはない。

ということで、すっぱいブドウ思考は、Kさんと同じではないか。

・・・

自分の歩んできた道に、後悔はないということは、悪いことではない。
ただ、現実的に、目の前にある、自分が劣っている現状を突きつけられると、
後悔がどうこう、自負がどうこうという、理論的な冷静な見方より、感情のほうが勝ってくる。

で、鬱陶しいので、すっぱいブドウをまたもや持ち出す。
自分をマインドコントロールしようとする。

いいの、いいの、わたしは、わたし。わたしは、幸せなんだから、いいじゃないの。
無理やり、そう思うようにする。
だが、相手の弱点をことごとく発見し、なあんだ、どおってことないわね、と、にやり、安心。
一見、良さそうに見えても、一長一短。決して光ばかりではない。あの人の難点は・・・と、分析、推測。
それに、わたしのほうが、(趣味以外は)ずっと幸せなんだから・・・。気にしない、気にしない。

そういう思考。これって、完全に負け犬。

わたしは、やはり、負け犬の遠吠えが、切っても切っても離れない。
同じ土俵で、堂々と相撲が取れない。
負けそうになると、あるいは、負けると、
「あら、相撲なんて、本気でやるスポーツじゃないわよ。あなた、まさかと思うけど、本気だったの?」と逃げる。
真正面から向き合わず、自分の負けを快く思わない。
でも、土俵から降りるつもりがないので、へばりついて、陰で練習したりして努力を続ける。
踏まれても不屈の根性。かっこ悪く、あがく。
あああ、なんか、みっともない。


いつもこれ。
どんな分野においても、勝ったことがない。
しかし、勝たない(勝てない)ことは、ある意味、幸せへの近道かも知れない。
勝てるかも知れないことを夢見れるのだから。
勝ってしまうと、あとがたいへん。

維持する努力、落ちていく苦しみ、目指すもののない虚無感、・・・


なあんて、自分に言い聞かせても、もやもやはやはり治まらない。
欲を張るとろくなことがない。
そこそこにしないと、幸せは逃げていく。

無いものを嘆くのではなく、有るものに感謝し、享受しよう。
マイナス思考ではなく、プラス思考に。
変換スイッチ。かしゃゃゃっ。



今日のブログは、自分を少し救った。
マインドコントロール、ちょっとだけ、成功。
やれやれ。
難儀な人である。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ




2014-01-23 | 趣味
女性は怖い。
とっても。
女性同士の足の引っ張り合いをする。

これは、あるダンスホールでの話。
男性が少なくて、女性が多いせいで、熾烈な男性争奪戦が行われる。
とくに競技ダンスをしている男性は、女性をとっかえ、ひっかえする人もいる。
ある人、Aさんは、いつも、最悪のタイプの女性をお相手に選んでいるそうだ。
今のパートナーさん、前のパートナーさん、前の前のパートナーさん・・・
捨てられた歴代の女性たちが、うようよいる。

彼女たちには共通点があるそうだ。
全員が全員とも、性格がめちゃめちゃ悪いらしい。キツイ。
前に更衣室で、定価50万円のドレスを買った話を誇らしげにしていた女性は、現、パートナーさんだとか。
なるほど・・・答え合わせとしては、ばっちり。

そんな性格が悪い人たちを、次々にチェンジする男性は、いったい、どんな性格なのだろうか。
Aさんの顔は知っているが、話したことはない。
が、別SNSの彼の日記を読むと、前のパートナーさんの悪口を散々書いて、こき下ろしていたりして、
しかも、彼や元パートナーさんたちを知る人が悪口に同意したりして盛り上がっている。
わたしは、そのようなタイプの人は好かない。
類は友を呼ぶということか。

・・・

他にも、自分は上手いと思っている女性がいて、わたしごときの「へたっぴ」が、
数少ない男性と踊っていると、露骨にイヤミったらしい態度をとってくる。
こわい~。
なので、「ワタシ、ニホンゴわからないよ~」というかんじで、関わらない、知らぬ存ぜぬを貫き通す。
どうでもいい。

・・・

言葉でなく、態度で示す輩もいる。
じ~~~っと、穴が開くほど、見つめられる。
男性にならよいが、女性に、である。
しかも、二コリともせず、無表情に近い、こわい顔でこちらを見続ける。
あれも、いい気分はしない。
なんですか? わたしの顔になにか付いてます?

・・・

わたしは、逆の立場の場合、そんなことはしない。
が、ダンスの場を離れた、例えば、フードコートや電車の中など、大勢いる場で、やたら騒いでうるさい人たちなどには、
じ~っと見て、無言の抗議をする。
ということは、わたしは、あの、じ~っと見られる行為は、無言の抗議をされているというわけか。
わたし、なにか、悪いこと、しました?

・・・

女性には、なるべく近づかないほうが賢明。もちろん、男性にも。
世の中、人がいっぱい集まるところには、いろんな種が落ちている。
紛争の種を拾ってこないようにしないと、ろくなことはない。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ







負傷兵

2013-11-08 | 趣味
趣味のことをここ、蝶ブログで書かなくなった理由。
それは別の、趣味に特化したSNSで、書いているから。
趣味リアル世界でブリッコしている自分の裏側を吐露している。
ここ蝶ブログに書いても、読み手はおもしろくもなんともない。
趣味の世界のことは、同じ趣味、同好の人のほうが、実情や内情は、手に取るようにわかっていただける。

リアル趣味社会では、自分でも胸が悪くなるほど、わたしは、いい人を演じていて、げげげっとなる。
なにしろ、社交ダンスなもので、男性と女性の世界。
男性優位らしいので。

まあ、立てる立てる。男性を立てまくる。ゴマも、すり放題。
なにわの商人(あきんど)名物か。
それって、自分に実力がないからである。

その鬱憤を、趣味SNSで、ぶちまける。
すると、どう?
男性は、すすすすすす~と、気持ちいいぐらいに、潮が引くように去っていく。
女性は、やたら元気になる。
そうだ、そうだ、もっとやれ!!みたいな。
自分の手は汚さず、人にやらせる。
わたしは汚れ役か?!

オフ会とか、リアル社会には絶対に顔を出さない、
もし仮に出しても、今のハンドルを消滅させてからしか出ない、という強い思いで、
本音をぶちまけている。

パーティ主催者の方とかは、お客さんに来ていただかないといけないので、
たとえ、本音があっても、すべてを出すことはできない。
その人の発言を読んでいると、それが、ようくわかる。

男性は、かわいい女性がお好みだ。
自分が優位になれる女性。
しかも、若くてキレイでスタイルがよく、気立てがよい女性。
ダンスは自分のほうが少し上手で、というオマケつき。
それが、痛いほどわかっていて、かわいこブリッコしていたら、円形脱毛症になりそうになる。

コップに「不満」という名の液体は、徐々に、日に日に溜まり、増え、
ある日、コップからあふれ出した。
キレた。


・・・

いま、わたしは、レッスンは受けているが、パーティには顔を出していない。
しばらく、治癒するまでお休み。休養タイム。
パリも、自分と向き合う、いい自分時間となった。

やはり人間、無理はよくない。
かといって、あからさまに闘志むき出しで、牙をむいて突進するのも、いかがなるものか。
闘牛の牛なら、適職かも知れないが。

ちなみに闘牛の牛は、闘う牛なので、筋肉もしっかりしているし、闘ったその瞬間、壮絶な最後を迎えるため、
体の硬直状態がよく、テール(尻尾)は美味として絶賛される。
普通の牛ではなく、「闘牛のテール」として、煮込み料理にされていたが、スペインで賞味した。

人間であれば「闘う女性」のテールは、美味か?
人間は食肉としては不適合だろうから、パス。
では、闘う女性の何が、美点として評価されるか?
わたしごとき、裏(自分のブログ)で、ぶちぶち言って、
闘いに負けて、負傷して、きゃいんきゃいんと屋根裏部屋で傷が治るのを待っているような、
そんな女性は、ちっとも闘う女性でもなんでもない。
強いていうなら、「負ける女性」だ。

それを尻目で見て、
男性は、「ふん、男に逆らうとそうなるんだ!」と反逆者を二度と光の当たる場には出られないように痛めつけ、
女性は、「男性に逆らうと、ああなるのね」と怯えた目で遠巻きに見る。
遊郭から逃げ出した遊女への見せしめみたいだ。
最近、週刊誌で読んだ記事にあった、売られた女性が逃げた挙句のお仕置きのごとく。
そこに、男前の救世主が颯爽と現れ、救い出だしてくれると、かっこいいのだが。
日の当たらない屋根裏部屋で、パチパチ、キーを打ちながら、
時折、いたたた、と、痛む傷に、顔をしかめる。

・・・などという図。
ああ、かわいそうで、ぶざまで、マヌケなわたし。

(いちいち説明するのもナンなんですが、生真面目な方がお読みになると誤解を招くので、
・・・これ、心象風景です)

・・・

しかしまあ、ブログは、自分を救う。
救世主は現れなくても、自分で自分を救う。
だってぇ~、誰も救ってくれないし~。
人はアテにできない。

自分のことは自分でする。
自分で落とし前をつける。
人を頼っていては、救われないってことだ。

屋根裏部屋で始まる、自立の第一歩。
まだまだ先は遠い。



にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村人気ブログランキングへ





たわいないこと

2013-09-02 | 趣味

わたしは、どーでもいいことを、ちまちま、延々と、自分が納得できるまで考え尽くす。
で、納得できれば、ああよかったね、となり、納得できなかったら、明日に課題を持ち越す。
あるいは、考えている途中に眠たくなったら、次の日、また、一から考える。
つまり、・・・実は、なにも結んでいない。

実を結ばないことを、いかに自分で納得するか、自分を納得させるか、
虚しくも、ばかばかしい作業。
でも、好きだからしかたない。哀しい習性。

あーでもない、こーでもない症候群。

例えば・・・

自分がシャカリキになっていることがある。
その分野で、どうしても自分の思いや理想と、現実がかけ離れている。
理想のパターンをすいすい涼しげにやっている人を見ると、悔しい。
(実際は、目に見えない血の滲む努力をしていたとしても。いえ、努力しているに違いないとしても)
なにくそ~となるのだが、自分は、頭打ち。追いつける見込みは、まったくない。
(おそらく、器が違うのだろうけれど)

で、どうなるか・・・。
自分を肯定し、それ以外を否定する。

なんだい、あんなの。
お金と時間をたっぷりかけた、暇人、ブルジョワの道楽じゃないか、
だとか、
遊びほうけているから、家庭や子供が、迷惑、被害を被(こうむ)っているに違いない、
他の義務(仕事や家事など)をおろそかにしているんじゃないか、
だとか、
趣味の面は素晴らしいけれど、他の分野は、たいしたことないね、
だとか、
負けている分野ではない方面のケチをつける。あら捜しをする。

・・・・・

ネガティブ・キャンペーン。

自分より上の人を引き摺り下ろして、ちょっとは、せいせいした気分になる。
一点にでも秀でていることは、とてもアッパレなことなのに、
他の並レベルの方面を引き合いに出して、イマイチだね、と、いう。

例えば、
文芸に秀でている人に、スポーツがダメね、だとか、
見目麗しい美男、美女に、でもアタマが、ね~・・・、だとか、
眉目秀麗・才色兼備な人には、でも性格がね~・・・だとか、家庭が不幸だね~、だとか、
体が弱いみたいだね~、だとか、
仕事のデキル人に、でも家庭がね~・・・、だとか、
なんでもいいから、ありとあらゆる、重箱の隅をつつくかのごとく、マイナス点を発見し、
拡大する。
いわゆる、出る杭は、打たれる、というもの。
このあたりの有名人レベルになると、打つ牽引役は、マスコミの仕事になるのだろうけれど。

一般人で、自分の生活圏の範囲内で生活している人は、そこまで、思われることはないにしても。

相手を引き摺り下ろすしか手がないのは、自分が上がれないとわかりきっている場合だ。
自分は頭打ち、歴然とした差は、埋めようがない。
そういう時は、目標を変えることだ。
しかし、目標を下げる、となると、またまた自己嫌悪に陥り、いかにも敗北感が強く、プライドが許さずムカつくので、
方向転換という、聞こえのよいものに変える。

まあまあ、たかだか趣味のことで、そんなに目くじらを立ててどうする?
プロじゃあるまいし。
楽しければ、いいじゃない。
という声が聞こえる。
が、その声は、負けた人間が、レース外から、試合を放棄し、努力まで放棄し、
一生懸命頑張っている人も、試合中止をさせるかのごとく、
まだ進行形で、緊張感で張り詰めている舞台を、シラケさせ、
結果的には、自分のところにまで、頑張っている人を引き摺り下ろしていることになる。
自分は脱落していても、同じ条件にリセットしてしまえば、勝ち負けがはっきりつかず、気持ちは、楽になることだろう。

そういう人は、試合に参加せず、応援席にいるべきだ。
選手と同じ目線、空間にいるべきでない。

・・・・・

つまり・・・
自分は、負けたんだから、応援席に回るか、あるいは、種目変更をして出直すか、だ。
種目変更しても、また厚い壁。
その時は、舞台を降りて、別の舞台に移る。
すると、そこには、似たような、元(もと)落ちこぼれの人がたくさんいて、
「おい、あんたもかい・・・」と、
お互いの挫折感もよくわかり、和やかに、おだやかに、過ごせるかも知れない。
あるいは、元選手も、リタイアして、その舞台に降りてきているかも知れない。
どっちみち、第一線ではなく、なんらかの、わけありB級品以下の集まりだ。
そこが、自分にとって、抵抗なく気持ちいいものであるなら、それはそれでいい。
だが、落ちこぼれ軍団、と、自分で思っているなら、気持ちは決してよくないだろう。

ゆるやかに、自分の力に沿って、目標や課題を下降させる。
この潔さがないと、いつまでもしがみついているだろう。
そして、枯渇感、虚無感、不満足感、充実できない日々を悶々と送るだろう。
それを耐えて、見事乗り越えて、目標を達することができるのならまあよいが。
乗り越えることができず、目標を無理やり変更する羽目になる屈辱感に、自分が耐えられるかどうか。

二度とその舞台には近寄らないか、
冷却期間を置くのか、別の方面に切り替えるのか、
あるいは、吹っ切れて、にこやかに、楽しくやっていくか。

・・・・・

ま、各自それぞれに、やっていけばいいのでは。

(いきなりの、結論。
突き詰めるのが、面倒になってきた・・・ああ、疲れた)


性格や考え方、生き方、
時間配分、エネルギー配分、ひとそれぞれ。
好きにやればいい。


 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村
人気ブログランキングへ


こっちの水は、甘いよ~

2013-08-16 | 趣味

別SNSでの日記を、アップすると、手ごたえのある反応が、どんどんあって、おもしろい。
ある程度溜めて一気にコメント返しをするので、疲れるが、
翌日、読み返すと、なかなかいいことを書いていて(自分が、です)、これまた、ほほぉ~っと自己陶酔している、
かなり隠れナルシスト(良く言いすぎ)なわたしだ。

同じ趣味を持つと、ピンポイントに興味が絞り込めるし、論点が明確であるし、
その道での経験や意見、考え、悩みが、各自それぞれあって、共通するものが、わかりやすい。
しかも、年代もほぼ似たり寄ったり。

あーだこーだと、意見や感想を多くの人と戦わせ合うのって、とても楽しい。
しかも、どうでもいい、趣味のことなので、罪がない。結論なんか、いらない。
お茶のみ縁側的な場でもある。

どんな世界も、本音と建前があって、一見、良く見えても、どこも同じだ、という人もいるが、
趣味の世界に、本音と建前を使い分けて、なにをしようというのだ?
そんなものは、いらない。
意見が違えば、「人それぞれ」で片付ける。
「プロじゃあるまいし。所詮、お遊び。各人、ご自分の道を突き進んで楽しめたらいいですね」に、なる。

自己顕示欲の強い人や、結果主義の人、競技絶対主義の人がいても、
「競技に価値をおかない」という価値観で、勝負は、勝ち負けなしになる。
競技の人は、競技の人だけで、つるんでもらえばいいわけで、その他の人に価値観を押し付けるのなら、
自分たちの世界から一歩も出なければいい。
でも、ちょろちょろ出てくるので、そこは、社交の世界。
自分たち競技者の実力を認めろ、と、しゃしゃり出てくるのなら、そちらの世界内だけでどうそ、と、お帰りいただく。
出てくるということは、こちらの世界(競技ではない世界)に魅力があるからに他ならない。
こっちの水は、甘いのだ。
修行僧が、ふもとの街に、ふらふらと舞い降りてくるようなものだ。

ただし、本音と建前を使いわけている、と、わたしは思わない。
相手に合わせる必要はない。喧嘩をする必要もない。

価値観は、人それぞれであり、共通するところだけで、接点を持って、楽しめばいいのだ。

趣味の世界は、どれが正しいとか、こっちにしなさい、とか、そんなのはない。
笑われるようなカッコ悪いことをあえてしたい人は、すればいい。
上達が著しく遠くなるような道をあえて選びたい人は、選べばいい。
向上、努力、精進を極めたい、一生、終わりはない、という人は、そうすればいい。
サボってる、とか、生真面目すぎるとか、柔軟性がない、とか、人の選んだ方法に口を出す権利はない。

ただし、あくまでのこれは趣味の世界のこと。
仕事や、生活面で、ノールールで好き勝手、それぞれにしていたら、社会は混沌とする。
日常生活が苦しくて辛くて、趣味の世界で、ほっと息抜きをする人もあるだろう。
趣味で、救われる。
そんな人に趣味の厳しさを説いて、どうする?
気が晴れて発散するタイプと、のめりこみ、追求するタイプがある。
あるいは、優位をお金で買おうとするタイプ。
努力の工程をショートカット。
これは、自慢げにされると、じつに鼻につく。
経済的にゆとりがない人は、自分のできる範囲のことで頑張っているのに。


しかし、趣味を持つことは、本当に、いいことだと思う。
熱くなりすぎて、トラブルを起こさないように。
日常生活に、支障を来たさないように。
それこそ、本末転倒である。

 

 にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ


黒い腹の透明人間

2013-07-24 | 趣味

このごろ・・・

旅のことは、旅グログに(といっても、せいぜい1ヶ月に1回ぐらいアップ)
社交ダンスのことは、別のSNSに書いている。
そのSNSは、毎日チェックし、つぶやきや、日記を、気が向いたらアップし、
他の人のつぶやきに目を通し、時にはコメントしたりしている。

同じコミュ二ティに参加している人から、友だち申請されるままに、顔も知らないが友人になった。
で、現在、二人だけ友人になっているが、どうも、そのうちの一人は、リアル社会で顔も知っているようだ。
しょっちゅう姿を見かけるし、先日は、挨拶っぽい会話もした。

「暑いですね~」ぐらいだけならいいが、
もし、「あなた、○○さんですよね?」と話題を振ると、
「わたしは、○○で、あなたと友人なんです」なんて自己紹介するはめになる。
なので、その点には触れずにいた。
天候のハナシ、これは、無難でよろしい。

友人の友人たちにも、プロフィールに顔を載せている人が複数いて、
その中で、知っている顔も、踊ったこともある人も、何人もいた。

でも・・・
わたし・・・この蝶ブログをお読みになればおわかり通り、
わたしは、毒舌・辛口・えせ評論家なのだ。
自分は、できもしないくせに、すぐ、斜め目線で、批評家になってしまう。

なので、そのSNSのわたしのところに来てもらって、わたしの日記やコメントを読まれると、
とても嫌なのだ。
腹黒が、バレバレ。

社交ダンスは、にっこりスマイル、楽しく踊る場を共有する。
見るからに、おとなしそうなわたしなのに、
そんな、憎ったらしい人間だと思われると、わたし自身、やりにくい。

でもでもでも・・・
ついついコメンテイター癖が出てしまい、やぶにらみ日記、つぶやきを書いてしまう。
書かずにはおられない。

なので、どのパーティに行っても、「○○さんですか?」と、もし聞かれたら、
「はあ? なんのことでしょう?」と、とぼけようと思っている。

一方通行の透明人間のようなもの。
そのSNSでのわたしの友人は、あいかわらず、2人のまま。

自分がつぶやいたり、日記を書いても、読んでくれる機会に恵まれないのが、
ちょっと寂しいけれど、自分の病気のせいなので、いたしかたない。


それにしても・・・・・
実際に見て知っている人々が、自分のページで、つぶやいたりしていることって、
自分目線なんだなあ・・・とある意味、当たり前なんだけど、おもしろい。
すごい!! どんなにステキなんだろう、素晴らしいだろう!!というイメージも、
実際を知っていると、「昼間に見る、夜の商売の人」みたいなかんじで、ちょっとちがう。

文字、活字による想像って、自分で勝手に膨らませて、どんどん大きくなったりする。

社交ダンスなので、べつに、そんなことは、どうでもよく、
実際に踊って楽しんで、それでいいので、活字やイメージなどは、二の次。
パーティやイベント告知のために、有効活用しているようなもの。

それでいいと思う。

ただし、
わたしは、自己紹介する日は、来ないなあ・・・

と、自業自得的な予感が、日に日に膨らんでいる。

 

理想と現実を調整しそこなって、仲間の輪に、すんなり溶け込めない、分裂人間になっている。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

 


あなた、何歳?

2013-04-27 | 趣味

よそさまで、崇高なおハナシを拝読させていただいた後、あらら・・わたしは・・・??
わが身を振り返り、がくっとなる。

魂が、あきらかに澄んでいない。
おそらく、神経が図太く、無神経で、厚顔無恥なせいだろう。
そして、たいした人生経験をしていないので、壮絶な経験から培われた高質ダイアモンドを人に語れない。
(ダイアモンドなんぞはなく、せいぜい、出来損ないの炭ぐらいか)

さほど苦しい、悲しい思いをしていないので、人の苦しみ、悲しみが、我がごとのようにわからない。
しかし、想像することはできる。
これをノーテンキというのだろうか。
ただ、ひとさまに迷惑かけたり、悲しい思いをさせたりすることは、極力避けたいと願うだけ、
わたしのノーテンキぶりが伝わって、不快な思いをされないよう注意する、
という、消極的なスタンスになる。

つまり、ひっそり息を殺して、あたりが明るくなるのを待つだけ。
明るいところでは、ビーチバレーをしても、よほど常識を逸する方法でもないかぎり、
そう、神経は逆撫でしないことだろう。


・・・ちなみに、ハナシは、まったくころっと変わって・・・

わたしは社交ダンスを始めて、6年。
つまり、ひよっこである。
ぴーぴー、ぴよぴよ、いっている。

始めて(たった)2年の人もいて、
(飛び抜けて若いので、まわりからチヤホヤされることもあるからなのか、どうだか知らないが)、
その人は、けっこう大きな口をきいている。
「○○さんとは、友だちなんです」とか、平気で競技ダンス・プロの名前をあれこれ出す。
その人のいう、「友だち」っていうのは、会って挨拶したり、ちょこっと近況を一方的に話すことなのだろうか?
ひょっとして、わたしも、その人の「友だち」ということになっているのかも知れない。
わたしの感覚からすると、・・・ありえない・・・。

また、ある人。
けっこうお上手。
「あなた、始めて何年ですか?」
そう聞かれて、「6年です」とわたしが答えると、「そう。そんなもんでしょうね」
と、あっさり言われた。
「あなたは、何年ですか?」
と、わたしのオウム返し質問に対して、「40年です」と答えが、返って来た。
え?
なるほど・・・
踊っていて、伸び、柔軟性が、違うと感じた。
しなやかで芯がある。
その40年間には、同時に卓球もされていたそうだ。
どうりで、下半身がしっかり安定していて、足腰がぐらつかないはずだ。

で、考えた。
40年ということは・・・仮に20歳で始めても、いま60歳。
社交ダンスなどというものは、若い人にとっては、(競技選手以外は)そんなに早くから始めることはないだろうから、
30歳から始めるとすると、70歳。
いま、目の前にいる人を、まじっとみて、「このひと、70歳?」
とスポーツ歴から年齢を想定する。(加算?)
80歳に見えるとすると、じゃあ、40歳からスタート?
今度は、見た目から、スタート時を逆算する。
いやはや、どっちにしても、若い。
わたしは、到底、ついていけない健脚の持ち主である。
そんな人が、ごろごろいる。
若い頃、登山をしていた、とか、スポーツサイクリングをしていた、とか、ダンスとかけもちをして
カラダを鍛えている人も多い。
年季が入り、脚力が違う。

わたしのように、さっそく膝を痛めている、そんなアマちゃんではない。
キャリアが違う。
恐れ入りました。

そんなキャリアであっても、上手下手はある。
長いから上手とは限らない。
やはり、意識の持ちようである。
上手くなりたいかどうか、計画を立てて、向上にむけて練習するかどうか、が、分かれ目だ。
ただただ、家にいても、だらだら、ごろごろなので、運動になればいい、
と、家から出てきているだけの人もいる。
こういう人は、健康維持はできるが、上手くはない。芸術ポイントは、いたって低い。
運動しないより、したほうがいいに、決まっているが。

ある程度の年齢になると、自分の伸びしろが、なくなってきて停滞、下降となる。
そこで、後輩の指導にまわる。
将来性のある若手を見つけて、指導することで、自分も別の意味で成長する。
ただ、勘違いしている人がいて、たいしたことがないくせに、指導したがる人がいる。
こういうのにつかまると、最悪だ。
でも、すぐに化けの皮がはがれるので、誰も相手にしなくなり、被害は最小限に食い止められる。

こういう人、レベル、性質、・・・これらを見抜くのに、わたしは、1年半かかった。
見る目を養う期間だ。
プロの先生であっても、自分に合った先生かどうか、あるいは、先生のレベルは確かか?
先生を識別する目も必要だ。

自分が、向上したいのであれば、いかなる努力も惜しまない、
そういう不屈の気構えでないと、ほとんどが徒労で無駄な時間だったという気になる。
それこそ、99パーセントの無駄と、1パーセントの実。
わたしには、ダイアモンドはないけれど、無駄な時間ばかり積み重ねているけれど、
せめて、向上したいという思いだけは、持ち続けたいものだ。

いずれ、必ずやってくる衰えや、続けられなくなる諸々の事情を目の前に、
今しかできないことを今やっておかないと、
という、わけのわからないエネルギー、それが自分を突き動かす原動力である。

あとは、何年かして、すべてが終わったとしてしまっても、
凪のように死んだようになって、のほほ~んとした、老後があれば、それはそれで、理想だ。
向上なんて、どうでもいい、穏やかな毎日があれば、充分だ。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


ざんげ

2013-04-24 | 趣味

執着心やら、嫉妬心やら・・・おどろおどろしいタイトル・・・、
をつけるわりには、内容は、おどろおどろしくなくて、がっかりなさった方も少なくないだろう。

肩透かしをくらわせたかんじになってしまって、ごめんあそばせ、ばせばせ。

人間のこころの闇に迫るもののほうが、訴えるものがある。
青空の下の、わーわーきゃーきゃー、ビーチバレーでもして汗をかいているブログがあったとして
(ほんとうにあったら、ごめんなさい)
同好会の人以外は、あまり興味がないだろう。

人は、闇が好き。
その分、明るい生活も大好き。
スイカに塩、おぜんざいに、塩昆布。
スパイスである。

ただ、ほんとうに、現実に、闇にどっぷり浸かりきって
二度と再び、太陽を拝んだことがないという経験が、わたしにはないので、
やはり、ビーチで、スイカに塩を振りながら、ビーチバレー、ということになってしまう。
苦しみは、当事者でなければわからないことだろう。


日曜日、ピアノを弾いた。
弾きながら、目の老化現象で、楽譜が読めない自分がいた。
音符が小さくて、ぶれて、どこに位置しているのかわかりにくい。
適当に、記憶を辿って、いいかげんに弾く。
音が濁らない場所を複数、探して、指を置く。
インチキっぽく、指をすべらせる。

弾きながら・・・子供たちには、すまないことをした・・・と、胸が痛くなった。
老後(わたしの、いまの年齢的には合ってないが)、じんわり味わえるかもしれない楽しみを、ひとつ、奪ってしまった。
それは、ピアノ。

子供たちには、幼稚園~小学校時代、無理やり、ピアノを習わせた。
家での練習。
わたしが、サボリなもので、子供に教えるのが、大嫌い。
でも、練習していかないと、レッスンを受ける意味がない。
わたし、渋々、嫌々、子供に練習させ、教える→子供、渋々、嫌々、わたしに練習させられ、不機嫌をぶつけられる
これを繰り返しているうちに、3人とも、ピアノ嫌いにさせてしまった。
わたしのせいである。
ピアノの楽しみなんか、まるで知らず、知っているのは、ピアノの練習時の母親の不機嫌だけ。
めったに不機嫌にならないわたしだが、子供たちの練習のときは、ほんとうに、イライラした。

学生時代の友人も言っていた。
「わたしが、娘からピアノを奪った」と。
その人は、ものすごくピアノ熱心な人だった。
厳しすぎて、期待を寄せすぎたようだ。

わたしは、厳しくも期待も寄せていないが、自分がなぜが、イライラした。
子供たちは、発表会も何度か経験させ、学校での行事ではピアノを弾くことになったり、と、
最低限度のピアノは弾けるようになっていたが、
誰一人として、その後、鍵盤のひとつも触れない。
わたしのせいだ。
子供たちは、点滴を打つ血管がつぶれるように、ピアノの血管が、ひとつ、つぶれた。

かくいうわたしも、ピアノ嫌いだった。
大嫌いだった。
嫌々渋々、レッスンを受けていた。
嫌々なので、進行も遅く、長い間、習ったわりには、たいしてうまくない。

でも、いま、ピアノを開けて、弾いてみようという気になって、実際、弾いて遊んだりもする。
子供の頃、弾いていた曲は、ヘタなりに、覚えていて弾くことができる。
我々の世代は、ピアノを習っていることが珍しくもなんともなかった。
先輩や、同級性、姉妹、・・・まわりは、ピアノを上手に弾いていた。
姉は、高校生ぐらいになっても、まだ、専門的な先生について、レッスンを受けていた。
義姉たちも、将来の進路はピアノ方面に進もうか、というぐらいの熱の入れようだった。
だが、偶然、彼女たちは理数系に進んだ。

ピアノと理数系の関係jは?
きっと、右脳と、左脳が、びみょーに刺激しあってよいのだろう。


わたしが芽をつんでしまった、子供たち。
いずれ、時間が出来た頃に、また、鍵盤に触れることがあるのだろうか。
だが、再開しても、わたしのせいで(結果を焦るばかりの、かんしゃく持ち)、
あまり進まないまま、やめてしまったから、名曲レベルの曲は弾けない。
音符が読める程度だと思う。(確認してないが)
弾くとすると、一から、自分で習得しなければいけないと思う。
大人になってから、これをやるのは、たいへんだ。けっこうハードだ。

わたしは、ダメなりに、子供の頃に覚えた、自分の好きな曲を弾いて、楽しむことができる。
(おそらく、わたしの世代では、平均的レベルだと思う)
さすがに暗譜は無理なので、お目当ての曲が入っているピアノ本を買って弾いている。
せめて、そのレベルまで習得させ、ピアノの楽しみを教えてあげたらよかった、と、後悔する。

二兎を追う者は一兎をも得ず。
怪我なく事故なく健康に育ったんだから、それでいいとしなければ。
あれも、これも、と、欲を張っていては、いいことがない。
そして、嫌々でも、渋々でも、どヘタでも、ピアノを楽しめる自分に育ててくれた、親に感謝。

 
蛇足ですが、
ピアノ、じつは、ワルツの曲が多くて、社交ダンスとリンクしている。
へえ~。
意外なところに役に立つことを知り、喜んでいる。

そして、上娘。
子供への情操教育と称して、iTunesで、ピアノ曲だけのクラシック音楽を流している。
この行為、意外で、けっこう、驚いた。
彼女をピアノ嫌いにさせてしまったが、彼女なりに、ピアノはいいものだ、と感じるものがあるのか???

わたしの、どヘタなピアノより、美しく清らかな、プロのピアノ曲を流すほうが、そりゃあ、耳にはいいだろう。

音楽は、いいものだ、と、この年になって思う、
超・晩生のわたしである。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


キンキラ美、外見と中身

2013-04-14 | 趣味

昨日、とある重要文化財に指定されている重厚なホールで、社交ダンスの正装ミニデモを見た。
出演なさるのは、広く一般の方々。
みなさん、豪華なキンキラ・ドレス。

少し前のわたしなら、その外見だけで判断した。
スタイルや顔、ドレスに惑わされた。
でも、いまは、違う。
しっかり、内容、踊りをチェックする。

ただし、非常に残念な方もおられた。
それは・・・ダンス以前に、踊る前から、ぱっと見が、カッコ悪いのだ。
わたしの美的センスに一致しない。

仮にも大勢の人々の前で、趣きあるホールで晴れやかに踊るという機会、
体育館で練習中じゃないんだから、せめても、そういう意識を持ってほしい。
服装、髪型、身だしなみ。なにも高価なものでなくてもいい。
「どこから来たの?」

まあ、見かけはいいとしよう。
踊りはじめると・・・これまた、・・・「どこから来たの?」

ミニデモは、複数組が同時に踊る。
踊るのは、自分たちだけではない。
いやはや、ちょっと幼稚園のお遊戯・発表会みたいだった。

あと、超セクシーな黒のドレスの、ラテンを踊ったお方。
うーーーん・・・厳しいなあ・・・。
あのドレスなら、どんなにお上手なのかと思っていたが・・・。
決してヘタとかではないのだが・・・。

なかでも、ひときわひと目を引いた、背中がどっか~んと開いた朱のドレスのお方。
この方は、とてもお上手だった。
見とれていた。
足取りがとても軽い。羽根のようで、優雅だった。ダントツ。
競技ダンスの上位者?

そして、洗練された紺ドレスのお方。
会場栄えのするドレスは、ああいう、キラキラ光るもの(ラインストーン? スワロフスキー?)のようだ。
お上手だったが、ドレスと、美人のお顔でポイントアップ、加算要素もありそう。
全体に、スッキリ感があった。

また、美人で、すばらしい白いドレスのお方。
彼女は、ドレスとお顔ほどの踊りでもなかったかも。
そこそこ難なくお上手、という程度。
似たような年齢なのに、不美人で、ダンスヘタのわたしの僻み(ひがみ)もあり、点数はやや辛い。

その他、学生リボンちゃん(有料の学生ダンス・アテンダント)と踊る、
どすこい!!体型の、女性。包み隠さない勇気に、敬意。
ダンスが好きだということに、国境はない。→(註)日本人でしたが。

正装ではないドレス(グレー豹柄)の女性もいたが、地味で目立たなかった。

女性ばかり見て、男性は、ほとんど見ていないのが、片手落ちだ。
同時に何組も踊るので、そんなに一度にたくさん、見ることができないため、
どうしても、わたしの興味をそそる、見る優先順位が高い、女性を見てしまう。

お上手な人は、ドレスでさらにお上手感が際立ち、
お上手でない人は、ドレスで、頑張り感が浮き彫りになる。


日頃、踊っている姿をお見受けすると、きんきらドレスで着飾るのが趣味な人や、
運動ができればそれでいいわ、という人や、
踊り続けないとレベルダウンしてしまう、という人など、
ある程度その人なりのレベルまで行くと(上達がストップしてしまうと)、
各人、それぞれの特徴、傾向が見られる。

いつ見ても違う、うなるほど高級感あふれるドレスを惜しげもなく身にまとう美しいマダムや、
ホール栄えのする印象的なドレスをとっかえひっかえして注目を浴びる、古くからの愛好サークル・主催者の方や、
いつもいつも、お姫様のようなドレスをわんさかお持ちの、特定の相手を同時進行形でころころ変え、楽しんでいる方もおられる。
(特定なのに、複数の相手を同時掛け持ち、ころころ変えるところが、矛盾しているようだが、矛盾していない。
不特定多数ではなく、特定複数)
ただし、ダンスは、たいしたことがない。
まあ、どれもこれも要素を満たすなんていうことは、できないだろう。

(あ、ちなみに、わたしは、これらの方々には悪い感情は持っていません。
目を愉しませてもらっているうちの一人であります)

上達目指して、あっちこっちの会場に日参している人もいる。


それはそうと、
わたしは、ダンスに関しては発展途上人だと、勘違いしている人物である。
じつは、頭打ちであることに気付いていないだけの、楽天家かも知れない。
ノーテンキだけで、生きている。

とりあえず、目下の自分に課していることは、
レッスンを受けること、レッスン指導内容を自分のものにすること、踊り続けること、である。
長い長いトンネルを抜け、ほんの少しやっと上達しても、次の壁はまた目の前にあり、永遠に終わりはない。

もうだめ~、上達は完全ストップ、となったら、それはそれで、
健康のため、踊り続けることだろう。
でも、しぶとく、「枯れた踊り」とかなんとか、自分に都合のいいような負け惜しみキャッチコピーをつけて、
無理やり自己満足しようとするのだろう。
しかし、次から次へと彗星のように現れる、自分より若い、上達見込みのある人々を横目で見ながら、
羨ましく、妬ましく、拗ねながら、踊るのかも知れない。


と想像してはみるものの・・・
そんな、鬱陶しい、近い将来を勝手に予想して嘆いても、無意味である。

人の演技を見ることは、目標や刺激にもなるし、いろんな人がいて楽しい。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ