男の目の前に女が倒(たお)れていた。なぜ、こんなことに……。男にはまったく分からない。直前(ちょくぜん)の記憶(きおく)がないのだ。でも、自分(じぶん)の手には首(くび)をしめたような感覚(かんかく)が残(のこ)っていた。
男は我(われ)に返ると、女のそばにひざまづきその身体(からだ)にそっと触(ふ)れてみた。すると、まだぬくもりがあった。男は慌(あわ)てて女の身体(からだ)をゆすり、声をかけ続(つづ)けた。――何の反応(はんのう)もない。男は女の顔を覗(のぞ)き込んだが、まったく見覚(みおぼ)えのない顔だった。
突然(とつぜん)、女の瞼(まぶた)が開いた。それを見た男は、恐怖(きょうふ)で後ろへ飛(と)びのいた。女の瞼の下に…、あるべきはずの眼球(がんきゅう)がないのだ。そこには何もない暗闇(くらやみ)が…、底知(そこし)れぬ闇(やみ)が二つの穴(あな)の奥(おく)にあった。女は起き上がると、眼球のない目で男を見つめて言った。
「あたしのこと、思い出したでしょ。……いとしい人……」
男は一瞬(いっしゅん)、意識(いしき)を失(うしな)った。再(ふたた)び起き上がった男の目には、あるべきはずの眼球がなくなっていた。女と同様(どうよう)に、二つの暗闇が、そこにはあった。男は答(こた)えた。
「ああ、君(きみ)か…。迎(むか)えに来てくれたんだね。ずっと待っていたよ」
女は嬉(うれ)しそうに微笑(ほほえ)んで、男の身体をきつく抱(だ)きしめる。二人はしばらく抱擁(ほうよう)して、手を取り合って部屋を出ていった。
外(そと)は薄暗(うすぐら)く、とても寒々(さむざむ)としていた。空(そら)には太陽(たいよう)も、月も、星も、雲(くも)すら見えなかった。灯(あか)りのない街(まち)を大勢(おおぜい)の人々(ひとびと)が歩いている。どの人の目にも、暗闇の穴があるだけだった。
<つぶやき>この男、別の世界へ迷(まよ)い込んでしまったのか…。それとも、これが現実(げんじつ)の…。
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