緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

札幌市北区ボンベ爆破事件同北区在住の51歳の女・名須川早苗容疑者を逮捕へ!

2014年04月30日 19時36分33秒 | 日記




札幌・北区ボンベ事件 51歳女(同市北区屯田6条3丁目・名須川早苗容疑者(51))が関与供述 逮捕状を請求(04/30 19:26)
 札幌市北区で相次いでいるカセットこんろ用ガスボンベの爆発事件で、同市北区の女(51)が一部の事件への関与をほのめかしていることが30日、捜査関係者への取材で分かった。札幌北署捜査本部は、重要参考人として任意で事情を聴いており、激発物破裂容疑で逮捕状を請求した。

 捜査関係者によると、一連の事件のうち1件で、現場近くの防犯カメラが捉えた映像を詳しく分析したところ、付近に不審な人物が写っていた。容姿が似ていたことから、この女が浮上したという。

 捜査本部は何らかの事情を知っている可能性があるとみて、26日に女の自宅を家宅捜索するとともに、任意の事情聴取を開始。当初、関与を否定していたが、聴取5日目の30日、一転関与をほのめかす供述を始めたという。

 同市北区では1月以降、札幌北署駐車場に止めたワゴン車の下でボンベが爆発したのを皮切りに、大型ホームセンターや警察宿舎など半径約3キロ圏内で同様の事件が5件発生。事件の合間に、犯人を名乗る人物から、次の爆発を予告するなどの内容の手紙4通が、北署や北海道新聞社、北海道文化放送(UHB)に届き、捜査本部は同一犯とみて捜査していた。


<テレビ朝日池上彰の解説塾>2014年4月21日放送分Ⓒ池上彰

2014年04月29日 16時53分28秒 | 日記






『テレビ朝日池上彰の解説塾』番組内2014年4月21日放送分Ⓒ池上彰
<配偶者控除>→103万円以内(一年間の年収が103万円を超えると控除対象外で税金がかかるというのが今までの仕組みだった)<女性の生き方の問題>と直結していて、配偶者がいればまけてもらえて、結婚してなきゃダメなのか?配偶者控除103万円以内を控除ゼロにして『女性の社会進出の促進』というが、果たしてそうなのだろうか?赤ん坊の子供を預けられず、働けない女性だって沢山いる。両親の介護などで配偶者控除を打ち切られるのが困る女性だって多いのが実情だ。もう少し、日本社会が日本国民に優しい社会じゃないと、何処が「美しい国・日本」なのか?ということになる。
<ウクライナ問題>歴史的にロシアは必ず「反ロシア国」「非ロシア国」との間に緩衝地帯(バッファーゾーン)をつくりたいという考えがある。ソ連時代の東欧、ウクライナの場合も、ロシアが「ウクライナの連邦制度賛成」といっているのも、ウクライナを(アメリカの50州の合衆国みたいな)連邦制度にしてロシア拠りの州を緩衝地帯にしたいが為だ。
<捕鯨問題>貧しいころの日本は牛肉豚肉より鯨肉の方が安かったのだという(「鯨ベーコン」等)。私は食べたことない世代だが、今や鯨肉は高級品である。だが、今やふぐや高級牛肉並みの高級鯨肉も、はるか昔は牛肉や豚肉より安かった。今回、IWCにオランダのハーグの国際司法裁判で敗訴したことは『調査捕鯨・食用鯨肉』の終焉を意味する。ちなみに、ハーグの国際司法裁判は一回で終了であり控訴したり、裁判のやり直しもできない。さて、捕鯨国は39か国もある。IWC加盟国88か国。捕鯨国(日本、ノルウェー、アイスランド、韓国、中国等)、反捕鯨国は49か国(米国、オーストラリア、イギリス、イタリア、*ルクセンブルク、*チェコ、*スイス、*オーストリア、*スロバキア、*ハンガリー、*サンマリノ(*は海を持たない国で、数合わせの為にアメリカの反捕鯨団体が集めた))である。だが、アメリカの反捕鯨団体は「鯨を食べる日本人と話しない」とピシャットすぐバリケードを掲げるが、昔はアメリカ人もイギリス人も鯨油(鯨から採れる油・ランプや燃料など)の為に積極的に捕鯨していた。ペリーの黒船が浦賀沖にやってきたのも元々は日本近海の鯨を取る為の港としてつかいたいということだった。その後、鯨油に代って安価な石油や灯油が登場し、西欧人は捕鯨をやめたに過ぎない。誰も日本の『調査捕鯨』を批判できないのだ。ちなみに捕鯨国の代表格は<アイスランド、フェロー諸島(デンマーク領)、ノルウェー、ロシア(チェクチ領)、インドネシア、日本(北大西洋)(南南極海)、カナダ、ワシントン(マカ・インディア)、アラスカ(エスキモー)、カナダ、セントビンセント、グリーンランド(デンマーク領)>の9か国である。
1982年にIWCが『商業捕鯨禁止』を全世界に勧告、三パターンに分かれた。①先住民生活捕鯨(エスキモーなど)②商業捕鯨(ノルウェー、アイスランド)③調査捕鯨(日本)→ノルウェーとアイスランドのように商業捕鯨を日本がするためには多数派工作と莫大な準備資金が必要で、無理である。国際司法裁判所はオーストラリアの主張を認めて、南極海沖での調査捕鯨を禁止したのだ。だが、夜郎自大も甚だしい。ミンククジラは増えすぎて大量のマグロやメカジキなどを捕食し、食物連鎖がめちゃくちゃなことになっているという。でも、「鯨やイルカは頭がいいから食べちゃ駄目」と欧米諸国はステレオタイプな価値観をがんがんぶつけてくる。日本側も最強の布陣(国際法に詳しい弁護士や論客・国際的な討論者)で臨んだが、それでも敗訴した。人間は感情論や欲に弱い。裏金も相手方は大量に流し込んだに違いない。かくして、日本の調査捕鯨は裁判で敗れ去った。いと哀れ。<ネット通貨ビットコインbitcoin>ネット通貨である、ビットコインとはインターネット上にしか存在しないお金の名称である。日本にあったマウント・ゴックス社が破綻した。課題は世界通貨として使えるか?信用度の問題。投機の対象。などである。貨幣流通量を見て観よう。アイルランド通貨 約8600億円、ビットコイン通貨 約8000億円、アルバニア通貨 約6800億円、ナミビア通貨 約6600億円……。何故、ビットコインに注目が集まるのか?は儲かるのではないか?という投機目的だ。例えばあるひとが数年前に1ビットコイン(1札2000円分)買った。4年後忘れていた頃に1800万円に価値があがっていて、それを現金化して新築の家を買ったという本当の話があれば、「いつかは自分も…」という夢見る馬鹿は出てくる。毎年年末に宝籤を大量に買う連中とメンタリティは同じである。いつか…億万長者に…連中は実際大金を手にすると数年で散財し無一文だそうだ(笑)。


Ⓒフジテレビ番組『報道2001』参照Ⓒテレビ朝日Ⓒ池上彰番組『池上彰の解説塾』より

2014年04月28日 14時18分13秒 | 日記




『フジテレビ報道2001』番組内2014年1月16日放送2014年舛添要一氏「都政改革案 Ⓒ舛添要一」<東京発特区制度活用10大プロジェクト>①スピーディーな法人設定を支援②ベンチャー企業丸ごとサポート③外国企業の人材確保支援④国際標準のビジネス空間づくり⑤創業の拠点形成⑥東京都版PMDA創設⑦外国人居住環境整備⑧東京シャンゼリゼプロジェクト⑨外国人の快適な滞在実現⑩外国人向け安心医療整備の提供
<Ⓒフジテレビ番組内『報道2001』2014年1月16日放送分>
<許認可>→国の基準でつくる保健所
<認証>→都の独自の基準でつくられる保健所
(<母子生活支援センター>→入所率は8割。夫のDVなどで母子が入るアパートのこと。(年々減少))(東京都未使用地→332か所)
<Ⓒフジテレビ 世界の都市総合ランキング 2014年度>
<総合スコア>①ロンドン②NY③パリ④東京⑤シンガポール⑥ソウル⑦アムステルダム⑧ベルリン⑨ウィーン⑩フランクフルト<文化交流>①ロンドン②NY③パリ④シンガポール⑤ベルリン⑥北京⑦ウィーン⑧東京⑨ロサンゼルス⑩イスタンブール
<Ⓒフジテレビ 日本の2014年度国家戦略特区>*沖縄(観光)*福岡市(雇用)*兵庫・堺市(観光)*新潟(農業)*関東圏(先端医療)*東京園(国際ビジネス拠点)

<日豪EPA>(番組『池上彰解説塾』テレビ朝日番組内2014年4月14日放送分Ⓒ池上彰)
日豪(つまり日本と豪州・オーストラリア)のEPAですが、基本的にはTPPよりも少しマイルドなEPA(経済連携協定)です。豪は中小企業は1年目から関税撤廃、大企業は3年目から関税撤廃です。ちなみにオーストラリアの牛肉、つまりオージー牛ですが以下のように締結しました。まずは冷凍牛(牛丼やハンバーグの具)では関税率は19.5%で維持し19万5000tを越えたら38.5%に戻す。冷蔵牛(○○牛、オーストラリア牛、スーパー、食肉)では関税率23.5%で維持し、13万tを越えたら38.5%に戻します。つまりEPAをつかってTPPを優位にする策です。アメリカに「日本の聖域(コメ、小麦、砂糖、牛肉、豚肉、乳製品)を認めない」というなら日本の消費牛肉がオージー牛になると脅す(国産4%オーストラリア産32%アメリカ産21%その他6%)のです。
<消費税 Ⓒ池上彰(同年月月)>
まずは<2014年度の予算の中から社会保障費をみてみましょう>「社会保障費(年金・医療・介護・子育て)社会保障の主な経費=30.5兆円」、消費税収15.3兆円………つまり差額は15.2兆円です。消費増税(年)17%でもトントンというところです。消費税は20%がいい。(OECDが日本国が財政破たんしない為にも20%がいい、と忠告しています)。
<日本の三大税収>①所得税②消費税③法人税(利益がないと払っていない会社30%<シンガポール法人税15%日本の法人税25%>)消費税が一番安定し、幅広く国民からとれるから消費税をあげたのです。また無駄な公共事業のために。利権のために。
<NHK組織2013年度>①経営委員会―監査委員会→会長(第21代籾井勝人会長(慰安婦問題発言で失言))<独立する形で「リスクマネジメント委員会」>→理事会→経営企画局―内部監査室―考査室→<「秘密室」―「総務局」―「人事局」―「経理局」―「関連事務局」―「情報システム局」―「アナウンス局」―「解法委員会」―「編成局」―「製作局」―「報道局」―「国際報道局」―「広報局」―「営業局」―「技術局」>等。
また独立した立場での「NHK経営委員会(定数12人・2013年度)」<浜田健一郎氏(ANA総研会長)><石原進氏(JR九州会長)><上村達男氏(早稲田大学教授)><渡辺恵理子氏(弁護士)><上田良一氏(商社社長)><美島のゆり氏(公立はこだて未来大学教授)><富田亮平氏(東京芸術大学長)><百田直樹氏(作家*アベトモ)><本田勝彦氏(JT顧問・アベトモ・元安倍晋三家庭教師)><長谷川三千子氏(放送大学教授・アベトモ)><中西尚正氏(海陽中等教育学校長・アベトモ)>


昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説7

2014年04月28日 06時48分58秒 | 日記




「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、勝海舟の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 勝海舟は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 勝海舟は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った勝海舟は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

        
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


  山口に着いた晋作は外国人のように裾を刈りあげ、髪形を洋風にした。彼は死ぬまでその髪形のままだったという。
 毛利父子は晋作の帰郷に喜んだ。
「馬関の守りが破れ、心もとない。その方を頼みとしたい」
 毛利敬親(もうり・たかちか)はそう命じた。
「おそれながら、手前は十年のお暇を頂いております」
「お暇はいずれやる。今は非常の時である」
 毛利元徳(もうり・もとのり)はいう。
「うけたまわりました」
 晋作は意外とあっさり承諾し、騎馬隊をつれて馬関(下関)にむかった。その夜のうちにはついたのだから、まさに「動けば雷電の如し」の疾さである。
 この頃、白石正一郎という富豪が幕末の勇士たちに金銭面で支援していたという。
 …周布政之助、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保一蔵、月照……
 その中で、白石が最大の後援を続けたのが高杉晋作であり、財を傾け尽くした。

「俺は様式の軍隊を考えている。もはや刀や鎧の時代ではない。衣服は筒袖にズボン、行軍用に山笠、足は靴といきたいが草鞋で代用しよう。
 銃も西洋的な銃をつかう。それに弾薬、食費に宿舎……ひとり半年分で一人当たり四百両というところかな」
 ……小倉白石家をつぶす気か…?
「民兵軍の名は『奇兵隊』である」晋作は自慢気にいう。これが借金する男の態度か。 



         5 禁門の変






 のちに『禁門の変』または『蛤御門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。妻の久坂(旧姓・杉)文は二十二歳でしかない。得意の学問で故郷の長州藩萩で「女子・松陰」等とも呼ばれるようにまで成長していた。若者は成長が早い。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん。文。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「にいやーん!にいやーん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。
「文、文、……あいすまぬ!先に涅槃にいく俺を許してくれ……」文……!久坂は鋭い一撃を自分の首に与え、泣きながら自決した。
 享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。長州の久坂文の元に、生前の夫・久坂玄瑞から手紙が届いた。それは遺書のようでもあり、志を示したような手紙でもあった。その手紙は結局、久坂玄瑞が妻・文におくった最初で最後のたった一通の手紙となる。
 のちに久坂文は未亡人となり、杉家に戻り、長州藩邸宅で女中として働くようになる。文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。
 この時期姉の小田村寿こと楫取寿が病死し、文がやがて後妻として楫取素彦と再婚する際に「最初の旦那様・久坂玄瑞の手紙とともに輿入れ」することを条件にしたのは有名な話である。
 楫取素彦は討幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校・明倫館で学んだ。松陰の死後は久坂文とともに松下村塾で塾生たちを指導し、松陰の意思を受け継ぐ教育者として有名になる。
 のちに楫取素彦は群馬県令(知事)となる。当然、再婚した文は群馬までついていく。子供は出来ないなりに、養子をもらうが思春期となった養女は若い男と「かけおち」しようとしたり、素彦が不倫したりと、楫取文の人生はまるで小説自大だ。 

 会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。 銭はあればあっただけよい。
 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。
 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 勝海舟は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。



  雨戸を叩く音がした。
「誰だ?」
 我に返った晋作の声に、戸外の声が応じた。
「山県であります」  
 奇兵隊軍監の山県狂介(のちの有朋)であった。
 秋のすずしい季節だったが、夜おとずれた山県は汗だくだった。しかし、顔色は蒼白であった。晋作の意中を、すでに察しているかのようだった。
 晋作は自ら農民たちを集めて組織していた『奇兵隊』と縁が切れていた。禁門の変のあと、政務役新知百六十万石に登用されたのち、奇兵隊総監の座を河上弥市にゆずっていたのである。しかし、そんな河内も藩外にはなれた。三代目奇兵隊総監は赤根武人である。 しかし、奇兵隊士は晋作を慕っていた。
 ちなみに松下村塾生の中で、久坂玄瑞は医者ながらも藩医であったため、二十五石の禄ながら身分は藩士だった。山県狂介は中間、赤根武人は百姓身分。伊東俊輔(のちの博文)は百姓だったが、桂小五郎に気にいられ、「桂小五郎育」であった。

「おそうなってすんません」
 襖が開いて、鮮やかな色彩の芸者がやってきて、晋作の目を奪った。年の頃は十七、八くらいか。「お糸どす」
 京の芸者宿だった。
 お糸は美貌だった。白い肌、痩体に長い手足、つぶらな大きな瞳、くっきりとした腰周り、豊かな胸、赤い可愛い唇……
「あら、うちお座敷まちがうたようどす」
 晋作は笑って、
「お前、お糸というのか? いい女子だ。ここで酌をせい」
「……せやけど…」
「ここであったのも何かの縁だ」晋作はいった。
 高杉晋作はお糸に一目惚れした。しかし、本心は打ち明けなかったという。
 恋というものは、「片思い」のほうが素晴らしいものだ。
 いったんつきあえば、飯の世話や銭、夜、いろいろやらねばならない。しかし「片思い」ならそんな余計なことはほっておける。
 そんな中、徳川幕府は長州に追い討ちをかけるように、三ケ条の要求をつきつけた。
 一、藩主は城を出て寺院に入り、謹慎して待罰のこと。
 一、長州藩が保護する五名の勤王派公家の身柄を九州に移すこと。 
 一、山口城を破毀すること。
 どれも重い内容である。
 この頃、幕府は第二次長州征伐軍を江戸より移動させていた。
 その数は十五万だった。

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。
「よし! これで侍どもを倒すんだ!」
「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ十五万は長州にむけて出陣した。
  元政元年十一月二十一日、晋作はふたたび怒濤の海峡を越え、馬関(下関)に潜入した。第二次長州征伐軍の総監は、尾張大納言慶勝である。
 下関に潜入した晋作はよなよな遊郭にかよい、女を抱いた。
 そして、作戦を練った。
 ……俺が奇兵隊の総監に戻れば、奇兵隊で幕府軍を叩きのめせる!
「このまま腐りきった徳川幕府の世が続けば、やがてオロシヤ(ロシア)が壱岐・対馬を奪い、オランダは長崎、エゲレス(イギリス)は彦島、大阪の堺あたりを租借する。フランスは三浦三崎から浦賀、メリケン(アメリカ)は下田を占領するだろう。
 薩摩と土佐と同盟を結ばなければだめだ」
 晋作の策は、のちに龍馬のやった薩長同盟そのものだった。
  高杉晋作はよくお糸のところへ通うようになっていた。
「旦那はん、なに弾きましょ?」
「好きなものをひけ」

 ……三千世界の烏を殺し
     お主と一晩寝てみたい…
    
 後年、晋作作、と伝えられた都々逸である。

  薩摩の西郷吉之助(隆盛)は長州にきて、
「さて、桂どんに会わせてほしいでごわす」といった。
 あの巨体の巨眼の男である。
 しかし、桂小五郎は今、長州にはいなかった。
 禁門の変や池田屋事件のあと、乞食や按摩の姿をして、暗殺者から逃げていた。
 消息不明だというと、
 今度は、「なら、高杉どんにあわせてほしいでごわす」と太い眉を動かしていう。
 晋作は二番手だった。
「高杉さん、大変です!」
「どうした?」
 高杉は酔っていた。
「西郷さんがきてます。会いたいそうです」           
「なに? 西郷? 薩摩の西郷吉之助か?」
 高杉は驚いた。こののち坂本龍馬によって『薩長同盟』が成るが、現時点では薩摩は長州の敵である。幕府や会津と組んでいる。
「あの西郷が何で馬関にいるのだ?」
「知りません。でも、高杉さんに会いたいと申しております」
 高杉は苦笑して、
「あの西郷吉之助がのう。あの目玉のどでかいという巨体の男が…?」
「あいますか? それとも斬り殺しますか?」
「いや」
 高杉は続けた。「西郷の側に”人斬り半次郎”(中村半次郎のちの桐野利秋)がいるだろう。めったなことをすれば俺たちは皆殺しだぜ」
「じゃあ会いますか?」
「いや。あわぬ」
 高杉ははっきりいってやった。
「あげなやつにあっても意味がない。幕府の犬になりさがった奴だ。ヘドが出る」
 一同は笑った。

  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。


  幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
 坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
 龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」
「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。
「なんでもええきに。それ次は頬づりじゃ。抱き合え」
「……頬づり?」桂こと木戸は困惑した。
 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。
 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。
 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
 龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出、龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。この縁で龍馬とおりょうは結婚する。そして、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。「WHY?何故です?」グラバーは首を傾げた。「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」晋作はそういうのみである。そして、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」と志を叫んだ。
 龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。






 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。
 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は勝海舟と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

  十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひかれた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。      浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
 さっそく余を供にしていけ」といった。
 勝海舟は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」勝海舟は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
 勝海舟は答えた。
 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…


 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
  勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
  小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」

  勝海舟は相撲好きである。
 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。
 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。
  慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。
 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのる筈だが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」



破綻処理決定一元化(国境越え経営悪化監視)<欧州「銀行同盟」?>毎日新聞Ⓒ坂井隆之氏

2014年04月27日 13時39分28秒 | 日記




破綻処理決定を一元化(国境越え経営悪化監視)<欧州で発足する「銀行同盟」の役割は?>2014年4月27日毎日新聞記事(坂井隆之氏記事)(バックグラウンド→欧州危機ではギリシャ、アイルランド、ポルトガル、スペイン、キプロスの5か国が自力で対処できず、ユーロ圏諸国と国際通貨基金(IMF)から総額約4500億ユーロ(約63兆円)の支援を仰いだ。現在は、危機は収束しつつあり再防止策が焦点。EUの欧州議会は2014年4月15日、銀行の破たん処理を一元化する法案を可決し、銀行同盟発足が確定した)*欧州で「銀行同盟」を作ろうという動きがある。欧州でユーロという同じ通貨を使っている18か国は、銀行の経営に目を光らせ(監視・検査)、経営が著しく悪化した銀行はつぶす(破綻処理)ことを各国ばらばらに行ってきた。これらを統一(一元化)し、破綻処理などに必要なお金を一緒にしようとしています。何故必要か?欧州で2010年以降深刻化した経済危機の教訓から、各国任せでは危機の再発を防げないと判断したためです。危機のきっかけは08年のリーマン・ショック後の不況で銀行の経営が相次いで悪化したことでした。各国政府は多額の公的資金(税金)を投じて銀行を救済しましたが、政府の懐(財政)は急激に悪化。それらの国が借金するために発行する国債は信用を失って、価格が暴落した国債を大量に保有する銀行の経営がますます悪化するという悪循環に陥りました。危機の原因は?リーマン・ショック前に欧州の銀行は不動産投資などに巨額のお金を投じたり貸したり(投融資)していました。ユーロという同じ通貨が使える為、銀行は手間や費用をかけずに国境をまたいで活動でき、不動産などへの投融資をどんどん増やしていきました。リーマン・ショック後に不動産などの価格が暴落し、銀行は多額の損失を抱えましたが、監督が各国ばらばらだったため、国境を越えた投融資の行き過ぎをきちんとチェックできませんでした。このため国境を越えた監視の網をかぶせます。具体的には?第一の柱として、国境をまたいで活動する大手銀行の監視・検査権限を、欧州中央銀行(ECB)に2014年11月から一元化します。第二の柱は、欧州連合(EU)に「単一破綻処理委員会」を2015年に新設することです。ECBが監督・検査を通じて、経営が悪化した銀行を把握し、破綻処理が必要と判断した場合、委員会に警告します。委員会は破綻処理するかどうか判断し、必要なら破綻処理します。処理費用を賄う為、全銀行がお金を出す550億ユーロ(約7・7兆円)規模の基金も設けます。銀行がつぶれたら預金者は大変だ?EUのルールでは銀行が破たんしても10万ユーロ(約1400万円)までの預金は全額払い戻されます。これを預金保護制度と呼びます。が、払い戻し財源の負担するのかといった制度の内容は各国まちまちです。第三の柱として、預金者制度を今年度(2014年)前半にも一元化します。安心して預金できるよう財源の規模や払い戻し手続きを統一する作業が進められている。再建が見込める銀行には、ユーロ圏諸国がお金を出し合う機関「欧州安定メカニズム(ESM)」が直接お金を入れ(資本注入)て、経営を支援します。課題は?最大な問題は即効性に欠ける恐れがあることです。経営が悪化した銀行を破綻処理とESMの大規模な資本注入で迅速に一掃できる仕組みが期待されていました。しかし、国民のお金を他国のために使われたくないドイツなどの反対で大幅に後退し、ESMの資金総額5000億ユーロのうち直接資本注入枠は600億ユーロにとどまりました。また破綻処理の判断は、とりわけ大きな銀行の場合、破綻処理委員会(ユーロ圏各国の代表者18人らで構成)の多数決に委ねられています。ちゃんと機能するの?危機対策が前進したことは間違いありません。ただ、ドイツなどの各国の利害が前面に出過ぎると「銀行同盟」が形だけになってしまいます。そこですね。


<富岡製糸場(群馬県)など世界遺産へ 「絹産業革新に役割」イコモス、登録勧告>

2014年04月27日 11時47分48秒 | 日記




ホリエモンと小室哲哉と新垣結衣ブログ

<富岡製糸場(群馬県)など世界遺産へ 「絹産業革新に役割」イコモス、登録勧告>2014年4月27日毎日新聞参照。日本が世界文化遺産に推薦していた「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県富岡市など)について文化庁は26日、世界遺産への登録の可否を調査する「国際記念物遺跡会議」(イコモス、本部パリ)が「登録が適当」と、国連教育科学文化機構(ユネスコ)に勧告したと発表した。世界の絹産業の発展と絹消費の大衆化をもたらした普遍的価値が認められた。2014年6月にカタールの首都ドーハで開かれる第38回ユネスコ世界遺産委員会で、正式決定する。「富岡製糸場」が正式に登録されれば、日本の世界遺産は昨年(2013年)に次いで14件目。世界自然遺産も含めた世界遺産では国内18件目となる。近代産業遺産では国内初。他に、「富岡市・富岡製糸場」(明治政府が1872(明治5)年に設立した日本初の官営機械製糸場)、「伊勢崎市・田島弥平旧宅」(蚕の飼育方法を確立した田島弥平が1863(文久3)年に建設)、「藤岡市・高山社跡」(蚕の養蚕法「清温育」を完成させた高山長五郎の生家。1891年建設)、「下仁田町・荒船風穴」(1905(明治38)~1914(大正3)年に最大規模の蚕種貯蔵所)などである。まずはおめでたいことで観光客誘致に役立つ。
「財務省の嘘・カラクリ」について
今回は皆様の見識を高める為にいわゆる「日本の財務省の嘘・カラクリ」について触れたい。日本の財務省は「日本の国民負担率は主要国に比べると10~20%低い」と訴えている。「日本の国民負担率4割は低すぎる。5割にすれば社会福祉費用も出せるし、財政出動で雇用も増える」という。国民負担率とは、毎年の国民所得(個人や企業など国民全体が得る所得の総額)に対して、所得税や法人税、消費税などの社会保険料(社会保障負担)が占める割合を示したもの。家計や企業が、所得から税や保険料をどれだけ払っているか?その数字だけを比較すれば「日本は低負担」で「ヨーロッパは高負担」である、ということになる。が、それは毎年の財政赤字が考慮されていない。税金や社会保障に加え、財政赤字は将来の国民負担に他ならない。その借金分を(財政赤字対国民所得比)を合わせた国民負担率を「潜在的国民負担」と呼ぶ。それで比較すると2013年度は日本53.2%、アメリカ42.2%、イギリス60.4%、ドイツ55.9%、スウェーデン58.9%、フランス69.5%。日本の国民負担は50%を超え、各国と差はほとんどなくなる。それでもまだ相対的に低い、というので増税するのは大間違い。よく知られるように北欧は「高福祉・高負担」だ。国民に還元される割合やサービスでいえば、日本は「低福祉・高負担」である。例えばスウェーデンで100万円の所得のうち64万円とられても43万円が戻ってきて、残り21万円が政府の運営費(本当の負担率)としてつかわれる。「本当の負担率」は、日本19.2%、アメリカ16.8%、イギリス28.1%、ドイツ19.1%、スウェーデン20.9%、フランス26.9%となる。教育制度にも日本とヨーロッパは大きな差がある。フランスでは3~5歳まで通う幼稚園が無料で、同じく公立なら高校まで授業料はただ、エリート育成の為の大学(グラン・ゼコール)は授業料がないうえ、学生に公務員並みの給与まで支給される。スウェーデンでも保育料も高校までも授業料はただ、大学も無試験で通える。授業料もただで大学生に手当まで支給される。日本は高速道路が有料だが、アメリカなどや欧州はただ。「なんでもただならいい」という話ではないが、「嘘をつくな」ということだ。

「今度は本当に引退します」と頭をかきながら記者会見する宮崎駿監督=東京都武蔵野市で2013年9月6日午後2時3分



 公式引退の辞

              宮崎駿

 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作ってきた人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。“風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果されてしまいます。長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること--例えばジブリ美術館の展示--も課題は山ほどあります。これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。

 ありがとうございました。

              以上

                       2013,9,4
「ベネチア映画祭で引退を発表する」。映画「風立ちぬ」の関係者の一人は同映画祭の開催直前に宮崎駿監督(72)の引退を耳にしていた。宮崎監督は「もののけ姫」(1997年)の作品の頃から、作品の度に引退が囁かれていた。近年も作品は4-5年に1作品のペースだった。どれも「最後の作品と思って」と、全力で制作にのめり込んだという。こうした作品への思いが、引退説が再三浮上する理由となり、毎回「これが最後」と見られていたという。「風立ちぬ」を「命がけで制作してきた」のは明らか。試写を観た宮崎監督は自分の映画を観て、初めて涙を流した。70歳を過ぎた宮崎監督にとって、本作にかけた思いがアニメーション監督として終止符を打つことにつながったという。宮崎駿監督は1941年、東京都生まれ。学習院大学卒業後の1963年、アニメ製作会社の「東映動画」に入社し、71年に退社した。初の劇場版アニメ監督作品は1979年の「ルパン三世 カリオストロの城」で、1984年「風の谷のナウシカ」でアニメ作家として広く知られた。1985年にスタジオジブリを設立し、「天空の城ラピュタ」(1986年)、「となりのトトロ」(1988年)で、ファン層を拡大した。「魔女の宅急便」(1989年)、で人気を確立し、「もののけ姫」などヒット作品を手がけた。2001年の「千と千尋の神隠し」は興行収入304億円で、日本映画史上最高の新記録となった。2002年のベルリン国際映画祭で、アニメ映画で、アニメ映画として史上初の金熊賞を受賞、2003年にはアカデミー賞の長編アニメーション部門で受賞した。続く「ハウルの動く城」(2004年)も大ヒット。2005年にはベネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞した。最近では憲法改正に反対を表明するなど社会的発言で注目された。「風立ちぬ」は、実在の零戦設計者・堀越二郎の半生をモデルに、文学者・堀辰雄の名作小説「風立ちぬ」の要素を盛り込んだ作品である。飛行機作りの夢を追い続けた男と病弱で純真な妻との愛を描いている。公開から大ヒットしている。(毎日新聞2013年9月2日記事参照・鈴木隆氏・小松やしほ氏)。日本政府観光局が発表した2013年上期の訪日外国人数は495万5000人で、前年同期比で23%増加し、過去最高となった。円安や格安航空会社(LCC)の就航拡大を追い風にアジアの客数が過去最高を記録した。そんな中、中国人客数は主要国で唯一減少が続いており、きめ細かい対応が求められている。今年上期だけで500万人近い外国人が日本を訪れたということで、年間1000万人という政府目標に一歩近づいた。日本政府は2003年に「2010年までに訪日外国人1000万人」を目標に掲げており、3年遅れで目標が達成されるかもしれない。実は順調にいっていれば、2010年に1000万人という目標は達成されるはずだった。ところが、2008年にリーマンショックが起き、その直後の超円高も影響して、2009年には訪日外国人数が大幅に減少してしまった。さらに、2011年3月の東京電力福島第一原発事故の影響により、回復するかに見えた訪日外国人数は激減した。2012年にも、日中関係、日韓関係の悪化により、訪日外国人数は伸び悩んでいる。2012年9月の尖閣問題以降、中国からの訪日外国人数は激減している。一方、韓国も減らしたが、最近は円安の影響もあって大きく回復している。いずれにせよ、韓国やASEAN(東南アジア諸国連合)6カ国から訪日する人が増えていることにより、1000万人という目標が達成されそうなこと自体は喜ばしい。このランキングは、2000万人以上の外国人旅行者を受け入れている10の国々、つまり2012年に外国人が多く訪れたトップ10を示している。第1位がフランスの8302万人、第2位が米国の6697万人、そして第3位が中国の5773万人となっている。アジアでは、中国のほかにマレーシアの2503万人がランクインしている。外国人旅行者受け入れ数が1000万人強以下の国々を並べてみたものだ。これを見ると、韓国に1114万人の外国人旅行者が訪れており、シンガポールのような小さな国でも1039万人に上っているのがわかる。こうした国際比較をしてみると、1000万人という日本の目標は、あまりに控えめなものだと言わざるを得ない。こんな小さな目標ではなく、英国、ドイツ並みの3000万人くらいの目標を掲げるべきだろう。別の目標を立てるとすると、北海道と九州でそれぞれ500万人、関西と東京は1000万人。この地域別の数字に目線を移すと、やらなくてはいけないことが見えてくる。やはり、中国から1500万人くらいの旅行者を受け入れることだ。日本の各地域がそのパイを巡って奪い合いをするためにきめ細かな戦略を立てて行く必要がある。というのも、中国と言っても地域の文化的な違いから20くらいの国があると考えなければならない。南部と北部では文化が全然違うのだから、それぞれの文化にあった旅行プランをつくり、日本の魅力を宣伝していくことが重要だ。冬になると上海周辺から北海道に来る人が増えるが、これは雪のない地域から最短距離にあるからだ。中国南部からは夏の北海道や軽井沢が避暑地として魅力的だ。航空路線、便数などもこうしたことを配慮すれば経済的にも成り立つ。一方、日本に来るのが初めての人は3泊4日で5万円くらいのパッケージツアーが主力であるが、内容は栃木県や群馬県の落ち目の温泉地を渡り歩く強行軍で、日本を好きになって「また来たい」と思わせるようなものではない。台湾や香港などの常連はパッケージではなく自分で好きな温泉や料理屋に行くケースが増えているが、そこまでたどり着けば、さらに頻繁に日本に来るようになる。日本へは常連になればなるほど、ますます頻繁に来るようになっている。つまり、安売りパッケージで人数だけ増やすのは将来的には良い結果を生まない、ということにも留意しなくてはいけない。中国人旅行者の1人1回あたり旅行消費単価は18万8000円と非常に高い水準となっている。5万円のパッケージ旅行で18万円のお土産を買うというのは、30年くらい前の日本人のハワイ旅行と似ている。ただし、いまは滞在にカネをかけてお土産を減らすようになっている。量だけでなく質の面からも、中国人旅行者の重要性はきわめて大きく、安易に魅力の薄い安旅館に詰め込んで引っ張り回す今の旅行会社のやり方を修正していかなくてはならない。米国とフランスは外交上の対立が先鋭化していた時期もあったが、双方向の観光客は減らなかった。日本も中国や韓国の国民レベルの往来は政治に影響を受けないように工夫する必要がある。巨大な中国人旅行者市場の先行指標は台湾や香港の常連であろう。とすれば、中国人が(安物の団体旅行ではなくて)あるがままの日本を自分で発見していくことを好むようになる日も近いと思われる。現に検索サイト「百度(バイドゥー)」などを頼りに軽井沢などで自転車をレンタルし、地元の人しか行かないような料理屋で器用にメニューを注文する中国人の姿をここ2、3年多く見かけるようになった。軽井沢の場合、バスの団体旅行では草津の安い旅館に泊まった翌日、アウトレットモールに来て3時間ショッピングをして、埼玉県秩父の長瀞などに寄って東京に帰る、というのが普通だ。しかし、個人となるとスマホを頼りに「自分の旅」を楽しむというパターンになり、地元の日本人と触れ合う機会も増えてくる。外交のぎくしゃくした関係も付け入る隙がないくらいの思い出を持ち帰ってもらいたいものだ。10年前には中国人はほとんど生魚を食べなかった。ビールも室温で飲むのが普通だった。が、いまでは鮨や懐石料理を好むようになっているし、ビールも冷やして飲む人が増えている。台湾や香港の“通”が先行指標になっている、というのはこうした事例を見れば数限りなくある。温泉など無縁であった中国でも、いまでは雲南省で温泉が見つかったと言って、日本の温泉業者に開発を依頼してきているほどだ。訪日外国人数を観光先進国並みに高めていくためにも、3000万人を受け入れる構想と仕掛けを作っていかなくてはいけない。その第一歩は、おそらく半数を占めると思われる中国人に対して地域別、訪日回数別、可処分所得別などのよりきめ細かなプログラムを開発し、ネットなどで訴求していくことであろう。(観光客訪日3000万人目指す戦略を2013年8月7日大前研一レポート)2017年度までに成長戦略の工程(国が運営するハローワークの求人情報を14年から民間企業に開放することや、高い技能を持つ外国人の3年間での永住権獲得など)を決めるそうです。が、大前研一先生は「「国家成長」をわかっていないひとがつくったプラン」といいます。何故「リースをつかった資格支援」で自己資金による投資のリスクを補填するのか?なぜに企業の無謀な投資に対して国民の税金をつかうのか?「社外取締役原則化」もソニーの例で成長に関係ないことがわかっている。子供を3歳まで無償で育児とは正しいし、いいことだが「成長戦略」とは関係ない。「ネット医薬品販売」も国民が病気になって薬を3倍多く買うのか?ということ。「特区」とは役人・官僚が大嫌いで政治家のもの。小泉政権でも「なんとか特区」だのあったが広がらなかった。同じ轍を踏んでいる。「対内直接投資を35兆円に」など実現不可能です。よく経済がわかっていない連中が「なんとか競争力会議」で発表して発言しているだけです。もっとまともになろう。また日本維新の会・民主党・自民党・マイナンバー法案と高校授業料無償化について考えよう。日本維新の会の石原共同代表は2013年5月7日、「党の旬が過ぎ、賞味期限が近づきつつある」として、橋下共同代表の参院選出馬を打診したという。橋下氏は「(国会議員と自治体首長を)兼任できるなら挑戦もありうるが、大阪市長を辞任してまで参議院選挙には出ることは出来ない」ときわめて慎重です。石原氏は無責任だと思います。橋下氏が参議院選挙に出たらせっかく進んでいる「大阪都構想」が無駄になってしまいます。橋下徹氏は出馬するべきではありません。まだ44歳と若いのですから国政はもっと後でもいいのではないでしょうか。

昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説6

2014年04月27日 02時39分38秒 | 日記




 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
 勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
 しかし、何の返答もない。
 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
 一同の目が勝海舟に集まった。
 ”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
 勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
 勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。

3 艱難辛苦



 


  上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
 高杉は思考が明瞭である。
 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
 即座に手にいれた。
 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
 高杉の二十三歳の若さがみえる。
 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
 ……壤夷以外になにがあるというのだ!
 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。

  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
 藩命は冷ややかなものだった。
 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
 晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
 といって晋作の話しをとめた。
「は?」
 晋作は唖然とする。
 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
 ……長州は口舌だが、実がない!
 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」
 といった。
 そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
 晋作は江戸についた。
 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。
 ……壤夷で富国強兵をすべし!
 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
 ……この国を回天(革命)させるのだ!
 晋作は血気盛んだった。
 が、藩世子は頷いただけであった。
貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
 そういっただけだ。
 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
 たしかにその通りだった。
 晋作は早すぎた天才であった。
 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
 ……わかってない!
 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
 晋作はよく女を抱いた。
 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
 晋作は走った。
 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
 ……ちくしょう!
 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。勝海舟は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を勝海舟は思った。勝海舟は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
 勝海舟は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
 勝海舟は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
 勝海舟は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝海舟は悔しい顔で頭を振った。
 赤坂の勝海舟の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、勝海舟の傍らにつきっきりで世話をやく。勝海舟は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも勝海舟には妾がいた。勝海舟は絶倫である。
 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。

 京は物騒で、治安が極端に悪化していた。
 京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。
 なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。
「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」勝海舟はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。
 そんな時、「生麦事件」が起こる。
 「生麦事件」とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。
「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」
 勝海舟は幕府の無能さを説く。
「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」
 五日には大阪の宿にもどった勝海舟は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。
 宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、勝海舟は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。
「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」
 龍馬はにやりと笑って、
「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」
 岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、
「喜んでいきますきに!」といった。
 勝海舟は幕府への不満を打ち明ける。
「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」
「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。
 勝海舟は「そうだ」と深く頷いた。
「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」
「その通りだ」
「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」
「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」
「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。

  京で、勝海舟は長州藩の連中と対談した。
「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」
 桂たちは、勝海舟の意見にことごとく同意した。
 勝海舟はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、勝海舟は出世を辞退している。「偉くなりたくて活動してるんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。
 そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。

「暗殺か…」
 晋作は苦い顔をする。
 壤夷のために行動する晋作であったが、暗殺という陰湿な行為は好きではなかった。
 そのくせ、長井雅楽を暗殺する!、といいだしたりしたのも晋作である。
 しかし、計画企画はするが、実行はしていない。
 いつも言い出すのは晋作だったが、暗殺を成功させたことはない。一件も遂行に至っていない。
「よし、俺たちも生麦やろう!」
 大和弥八郎が甲高い声をあげた。
 ……高杉は江戸で豪遊している。
血気盛んな者たちが、集まってくる。寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人……
 計画だけは着々とすすんでいた。
 暗殺目標は米国公使タウンゼント・ハリス、場所は横浜、決行日は十一月十三日と決めた。その日は日曜日で、ハリスはピクニックにいくことになっていたという。
「井上、百両用意してくれ。軍資金だ」
「しかし……」
「なんだ?」
 井上聞多は困った顔をして「百両などという大金は俺には用意できん。どうすればいいのだ?」という。
 高杉は渋い顔になり、
「それは俺もわからん」といった。
 だが、その暗殺計画も瓦解してしまう。
 しかし、「外国の公使を殺せば国が滅びる」といわれていた時代に公使暗殺を思いつく晋作は、ずばぬけていたともいえる。
 久坂は晋作が暗殺犯とならないかったのを見てほっとした。
 と、同時に「俺が暗殺する。公使の館を焼き討ちするのだ」と心の中で思った。
 久坂玄瑞は盟約書を作成した。
 長州藩士たちの革命分子をひとつにまとめる規則とリストである。
 その数は二十二人……
 高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義、野村和作、白井小助、堀真五郎、佐々木男也、滝弥太郎、滝鴻二郎、佐々木次郎四郎、伊藤俊輔(博文)……
 長州藩の中核を担う連中が名をつらねた。
「藩内に三十人の死士が得れば、長州藩を掌握できる。長州藩を握れば天下の事は成る」 晋作の持論だという。
 しかし、晋作の思い通りになるほど世の中は簡単には動かない。
「晋作は何を始める気だ?」
 久坂玄瑞は晋作に疑問をもった。

  吉田松陰が死罪になってから三年がたつ。
 晋作は江戸を発して長州にもどっていった。師の墓に手をあわせ、涙した。
 以後、晋作は死ぬまで江戸の地を踏むことはなかった。

 少し話を戻す。
弘化二年(1845年)吉田松陰は十六歳で、山田亦介(またすけ、羽田清風の甥)について長沼流兵学術を学んだ。亦介は世界情勢に明るく、松陰はこの男によって「本物の世界」を体感した。亦介は「これが地球儀だ。我が国は何処だと思う?」ときく。松陰は初めて地球儀を見たのだわかる訳はない。ちなみに最初に丸い地球儀を見たのは織田信長である。400年前に信長は「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解したのだからさすがは「戦国時代の天才」である。
 吉田松陰はおくらばせながら「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解した。「我が国はこんなに小さいのですねえ。まいりました」松陰は唖然という。だが、キツネ目の眼光は「世界への興味心」でギラギラ輝いている。この感動がのちの「草莽掘起」「外国船への亡命」へと繋がる。
 弘化三年(1846年)17歳となった松陰は外患に深い関心をもち、海防のことを論究している。「我が国は海で囲まれている。あのペルリ(ペリー)と申す舶来人が乗る黒船艦隊をやぶるには海防を徹底的に考慮せねば我が国は夷狄により瓦解する」
 吉田松陰が「尊皇攘夷派」というのは間違いだ。「草莽の志士」とやらは「外国の軍事力」を軽く観ていたが、あの松陰が「外国軍と長州藩・薩摩藩・徳川幕府軍との格差」がわからなかった訳はない。吉田松陰が「尊皇思想」というのも嘘だ。
 もしその(尊皇思想)考えがあったにせよ、のちの「官軍」つまり薩長同盟軍が「錦の御旗」や天皇を利用したように「将棋の王将の駒」「天皇という名の道具」としてからの思想だろう。吉田松陰は日本共産党や皇民党ではないのだ。
  嘉永元年(1848年)19歳となった吉田松陰は1月、初めて独立の師範となった。
  そんな松陰だから黒船浦賀来航の報を江戸でえた彼の心は躍った。
「心甚だ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」(六月四日、瀬能吉次郎宛)
 それと同時に、この黒船を目の前に見た松陰は、来るべき天下の動勢を予見した。
「敦れ天下の瓦解遠からざるべし。方今天下疲弊の余、江戸に大戦始まり、諸候これの役に駆使せられれば必ず命に甚へざらん。且つ又幕府天下の心を失ふこと久し」(七月二十六日、杉梅太郎宛)
 外圧を前にして当面のことを糊塗(こと)しようとする幕府、幕臣の中では「夷狄排除論」的な意見が多い。その中で勝麟太郎(勝海舟)と佐久間象山だけが「世界情勢」を見抜いている。吉田松陰は佐久間象山や勝麟太郎に文をよせるとともに独自の政治思想「草莽掘起(そうもうくっき)」を発案して長州藩を「草莽の志士たち」でまとめようとした。
 だが、「外国にいきたい! 外国の文化・経済・政治・言語…それらを自分の眼で見たい」という感情、いやもう欲望であり夢であり。それを叶えたいと門人の金子重輔(じゅうすけ、重之助)と共にとうとう小舟で黒船に近づき「プリーズ・オン・ザ・シップ!(黒船にのせてくれ)」と嘆願するに至る。しかし、外人さんたちの答えは「ノー(駄目だ)!」である。
 なら銭金を見せたが「そういう問題ではない」という風に外国人たちは首を横にふるばかりだ。かくして吉田松陰の外国への亡命は瓦解した。なら幕府や長州藩にそのことを「秘密」にすればまだ松陰にも「勝機」はあったかもしれない。ジョン万次郎というラッキーな輩もいたのだから。だが、くそ真面目な松陰はこの「亡命失敗」をカクカクシカジカだ、と江戸の奉行所にいい自首してしまう。こうして彼は囹圄(れいご)の人となった。
  ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂………
 吉田松陰は自己を忠臣蔵の赤穂浪士の已むに已まれぬ魂と重ねた。
「馬鹿なやつ」江戸の侍や町民はかわら版やかぜの噂できき、嘲笑した。「一体何をしたかったんだ?、その馬鹿」 
奉行所で吉田松陰と弟子の金子を取り調べたのは黒川嘉兵衛という「いいひと」であった。黒川はよく「いいひと」「物腰が柔らかい」「聞き上手」といわれる。人間というものは大体にして「自分のこと」は話すが、「他人のこと」には注意を払わないものだ。
 だが、黒川はまず他人の話を粘り強く聴いてから、「なるほど。だがこういうこともあるんではないかい?」と反駁した。しかし、吉田松陰はどんなことがあっても「師匠の佐久間象山に密航をそそのかされた」ことだけは話さない気でいた。
 徳川幕府にとって「攘夷など無理、すみやかに開国して外国の武力、文化、教育を取り入れろ!」という開国派な象山は「目の上のたんこぶ」であり、「俺は日本のナポレオンだ!」と豪語する傲慢チキな佐久間象山は幕臣にとって「恥」でしかない。
「俺にどんどんと腰の強い女をよこせ! 俺の子供は「天才」だろうから俺の子供たちで日本を改革する!」象山は確かに天才学者だったのだろうが、こんなことばかりゆうひとは幕府にとっては邪魔であり、死んでほしい人物である。
「なんのために外国船にのりこもうとしたのだい?」
「外国にいって外国の文化、教育、軍事力、外交力など学びたかったのです」
「…この英文の紙は佐久間象山の筆跡のようだが」
「いいえ。確かにぼくは先生に書いてもらいましたが密航はぼくのアイデアです」
「アイデアとは何だい?」
「アイデアとは発想です」
「あくまで佐久間象山は関係ないと申すのかい?」
「オフコースであります」
「今度は何だ?」
「オフコースとはその通りという英語であります」
「佐久間象山の関与さえ認めれば罰しない。それでも佐久間象山の関与を認めないのか?」
「オフコース」
 黒川は吉田松陰という男が哀れに思えた。別に密航くらい自首しなければ罰せられない。なんでこの男は自首したのか?佐久間象山は許せないが、この男は許したい。弟子の金子重輔という長州の足軽という男も…。だが、江戸町奉行・井戸対馬守は「死罪」を命じた。
 対馬守の眼は怒りでぎらついていたが、その怒りは吉田松陰や金子にではなかった。
「死罪」は裏で糸を引いているであろう奸物・佐久間象山へのあてつけであった。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
 松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
安政元年(1854年)、25歳になった吉田松陰は上陸した米軍に「投夷書」を渡し、夜、門人・金子重輔とともに小舟で黒船に向かった。港では、「やめてください、先生!」と止める桂小五郎と友人の坂本龍馬がいた。龍馬は松陰の「異国への熱い思い」を知り、
「吉田松陰先生、わしも黒船に乗りたいがです!」という。
「馬鹿者!」
 吉田松陰は龍馬の頬を平手打ちした。「異国に行く道は僕と金子の道だ。君は自分の道をいけ!」
「…じゃきに。わしも世界をば観てみたいががです!」
「そうか。ならあとで来なさい。メリケン(アメリカ)で待っておるぞ」
「…先生!駄目です!幕府に見つかれば死罪ですよ!」
 桂小五郎は止めるが、松陰は聞かず沖にでてしまった。そして前述の通り、世界漫遊の夢はもろくも瓦解、松陰は江戸の奉行所に自首した。4月、江戸伝馬町牢獄に、やがて野山獄に移された。金子重輔は獄中で病死した。松陰は金子の獄死に号泣したという。元々、金子重輔は染物屋の商人だった。それを足軽として「藩士」へと推薦したのが吉田松陰である。ぼくのせいで金子くんが…ぼくのせいだ。だが、牢獄には高須久子という女と富永有隣らと同囚となった。高須という女は知識に明るく、吉田松陰も驚く程の「博学」で「歌詠み」であった。個人的につまり、女性として懸想(けそう・ラブ)したかどうかは知らない。
  吉田松陰は男であり、男色(ホモ)ではなく、しかも「絶倫であった」ときくから、懸想くらいはしたのであろう。久子がデブスなら話は別だが。
 歴史記には高須久子は相当「美人」であったとされている。
 そのうえ「博学」「薄幸」であれば惚れない方がどうかしている。吉田松陰は囚人たちの間で「獄内俳句の会」を結成していく。どこまでも「学問」のひとである。
  ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂……
  ……親思ふこころにまさる親ごころけふの育ずれ何ときくらん………

   しかし、松陰は諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
 …吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
「何をいうのだ?その吉田松陰とやらは…」
 井伊直弼大老は「草莽掘起論」を長州藩の過激派が主張する「尊皇攘夷論」と勘違いした。
「この国の為にならぬ尊皇攘夷派は一掃(皆殺し)してしまえ」
 井伊大老の「安政の大獄」とは一言で言えばそういうことで、ある。
「何故に私の志がわからぬ! 徳川幕府は開国しかないと知りながら只、今あることに糊塗するだけだ。このまんまではこの国が瓦解して、外国の植民地にされてしまう!」
「黙れ! 何が草莽掘起じゃっ?! 攘夷など出来ると思うとるのか、おまはんは!」
 吉田松陰は牢獄で拷問を受け、痣や傷だらけになりながら「攘夷ではない! 開国だ! 外国の軍備や知識をとりいれ、開国するのが「草莽掘起論」です!」
「せからしか!」
 後ろ手で縄縛りにされ、木刀で殴られた松陰は気絶した。しかし、容赦なく冷水が浴びせられる。「おまはんは危険分子じゃっ! どうせ死罪じゃ!」
 気絶した松陰は悪夢を見た。いや、実際「悪夢」は「現実」であるのだ。今度ばかりは、毛利公も「助け舟」を出せない。奉行所の裁きは、当たり前のように「死罪」であった。
 吉田松陰は白い囚人服のまま、その夜、此の世で最後の夜月をみた。涙が溢れてきた。ああ、この思いをいったいこの広い世界で、誰が、誰が、理解できるだろう。
 …桂くん、久坂くん、高杉くん、佐久間さん、文、勝さん、殿、天子さま……
  吉田松陰はそのときはじめて「自己の完成」を知った。「成程、ひとしらずして憤らず、とはこういうことか、孔子とはこういうことで語ったのだな?」
 思わず、口元が緩んだ。最期だからこうなったんだ。なるほどな。
  
  安政六年(1859年)、30歳の吉田松陰は牢獄にいた。10月27日の朝があけると靄が晴れ、満天の青空になった。虹まで架かっている。「これは…」吉田の心はもう昇天していた。
 もう何の憂いもない。只、自分なきあとの長州藩、日本国、天子様、いや憂いはある。だが、もうおわりなのだ。「もうおわりなのだ」言葉にすると楽になった。
 だが、松陰は斬首になるときに涙を流した。
 命惜しさからではない。日本の行く末を憂いての涙だった。
 ……草奔掘起を! 桂くん…久坂くん……高杉くん……伊藤くん…文…
 さらばじゃ!
  柵外では涙をいっぱい目にためた伊藤俊輔(博文)と妹の文が、白無垢の松陰を見守っていた。「せ…先生!」「にいやーん」松陰はいった。「至誠にして動かざるもの、いまもってあらざるや」
  首がはねられる。すべてはおわった。少なくとも吉田松陰が生きていたなら、維新はもっと早くに終り、明治政府も円滑に動いたろう。西郷隆盛の内戦もなかったろうし、朝鮮や清国(中国)との軋轢や、露国や米国との関係もかわっていたろう。
 しかし、すべては無能の徳川幕府の罪である。
 歴史は動く。
 少なくとも、死んだ彼の弟子たちは動かさなければと思っていた。
 十月二十九日、桂小五郎らが吉田松陰の遺骸を受け取りに奔走し、小塚原回向院大屋敷・常安寺に葬った。享年・三十歳……それは壮絶な最期で、あった。

   話を元に戻す。


 嘉永二年(1849年)、20歳となった吉田松陰は6月、藩命で、日本海沿岸から赤馬が関(下関)にかけて海防の事情を調査してこんな感想を歴史に残している。「余遠(おとこ)に於いて懐を発し食を忘れ、辺防を論究す「講孟余話」「講孟箚記」」
 嘉永三年(1850年)、21歳となった吉田松陰は九州に遊学し、長崎・平戸で「海外情報」「国際情報」を生で体感したという。この経験が、吉田松陰の一番最初の伝記本では「ここで「草莽掘起」という革命思想に至った」と書いているが、本当のところは?でしかない。
 寛永四年(1851年)、22歳となった吉田松陰は兵学のため藩主らと江戸に向かった。若き藩主・毛利敬親公にとって松陰は「便利な懐刀」である。頭が切れ、世界情勢に詳しい。
「知恵袋」
 と言っても過言ではない。そんな「知恵袋」は江戸で安穂良斎、古賀茶渓、山鹿楽水、佐久間象山、勝麟太郎(勝海舟)らに学んだ。島山新三郎、宮部県蔵らとも友好な関係になりさらに「知恵」と「徳」を積んだ。しかし、吉田松陰は感情を抑えるのは苦手である。
 不当手形で、諸国漫遊し、全国を観て回り、南は薩摩の諸島から北は東北の奥までひとりで「視察」に行ってしまう。当然、幕府や長州藩にも内緒の「諸国漫遊」であるから、当時は許されざる大罪人である。でも、松陰は「諸国漫遊」が何故「幕府の許可・藩の許可」が必要なのか?わからない。だから東北の小さな小藩に「亡命したい」と申し出た。
 その藩も「なんだか胡散くさい輩がきたな」と思い、幕府に通報した。
 幕府は最初酷く怒った。
 しかし毛利公が庇い、死罪はまぬがれた。が、結局、江戸に戻ったところを「藩命」がきて、松陰は渋々ながら長州藩に帰った。毛利公は「泣いて馬謖を斬る」思いで、家禄を没収して、一家離散、松陰は杉家の育(はぐくみ・居候)となる。
 だが、長州藩には吉田松陰あり、である。彼の学識はいまや国士無双とまでになっている。こんな重要な人物を長州藩は「捨てる」訳はない。「捨てる」というより「殺してなくそう」とするとすれば、それは徳川幕府だろう。井伊大老の「安政の大獄」の前夜、時期なら今だ。
    話を戻す。

4 奇策謀策






  伊藤博文と井上聞多が「岩倉使節団(団長・岩倉具視)」に参加したのは阿呆でも知っている。伊藤はアメリカ春蔵ことジョセフ・ヒコとアーネスト・サトウと知り合った。高杉晋作は天才であり、天才特有の破滅型の高飛車な面もある。自分より偉いと思ったのは結局・師匠・吉田松陰だけだったろう。仲間は兄貴分の桂小五郎と同期の久坂玄瑞だけであったろう。
 西郷吉之助(隆盛)も天才ではあったろう。が、この「鹿児島のおいどん」は維新後は大コケ、元武士らの神輿にのせられて「西南戦争」など起こしている。訳のわからぬ人物である。     
  長州藩(山口県)に戻るとき、高杉晋作は歩くのではなく「駕籠」をつかった。
 歩くと疲れるからである。
 しかし、銭がかかる。
 が、銭はたんまりもっている。
 ここらあたりが高杉らしい。
 駕籠に乗り、しばらくいくと関所が見えてきた。
 晋作は駕籠を降りずに通過しようとして、
「長州藩士高杉晋作、藩命によりまかり通る!」
 と叫んで通過しかけた。
 関所での乗り打ちは大罪であり、小田原の関所はパニックになる。押し止めようとした。 晋作は駕籠の中で鯉口を切り、
「ここは天下の公道である。幕府の法こそ私法ではないか! そんな法には俺は従わなぬわ!」といって、関所を通過してしまった。
 晋作が京に到着したのは三月九日であった。
 ……学習院御用掛を命ずる。
 晋作のまっていたのはこの藩命だった。
「……なんで俺ばっかなんだ」
 晋作は愚痴った。
 同僚は「何がだ?」ときく。
「俺ばっかりコキ使われる。俺の論文はロクに読まなかったくせに…」
「まぁ、藩は高杉くんに期待しておるのだろう」
「期待? 冗談じゃない。幕府の顔色ばかり気にしているだけだよ」
 同僚は諫めた。
「あまり突出するのはいいことじゃないぞ。この国では出る杭は打たれるって諺もある」 とってつけたような同僚の言葉に、晋作は苦笑した。
 ……俺は出る杭なのだ。何もわかっちゃいねえ。
 徳川家茂は「公武合体」によって、京にいき天皇に拝謁しなければならなくなっていた。 ……将軍に天皇を拝ませる。
 壤夷派は昴揚した。将軍が天皇に拝謁すれば、この国の一番上は天皇だと国民に知らしめることができる。
 それを万民に見せようと、行幸が企画された。
 晋作より先に京に入った久坂は、得意満面だったという。
 将軍上洛、行幸扈従は、長州藩の画策によりなったのである。いや、というより久坂の企画によって決まったのである。
 ……馬鹿らしい。
 晋作は冷ややかだった。
 学習院集議堂はうららかな春の暖かさに満ちている。
「もったいない。それだけ金を使う余裕があるなら軍艦が買えるじゃないか」
「お前に軍艦の話をされるとは思わなかった」
 久坂は苦笑した。晋作が船酔いするのを知っている。
 家茂上洛による朝廷の入費は長州藩の負担だった。計画したのが長州藩だから当然だが、その額は十万両を越えたという。
 久坂は、
「この行幸は無駄ではない」といい張る。
「義助よ、天子(天皇)にもうでただけで天下が動くか?」
「動くきっかけにはなる」
 久坂玄瑞は深く頷いた。

  行幸では、将軍の周りを旗本が続いた。天皇御座の車駕、関白は輿、公家は馬にのっていた。後陣が家茂である。十七歳の色白の貴公子は白馬の蒔絵鞍にまたがり、単衣冠姿で太刀を帯びた姿は華麗である。
 行列が後陣に差し掛かったとき、晋作が
「いよっ! 征夷大将軍!」
 と囃して、並いる長州藩士たちの顔色を蒼白にさせた……
 というのは俗説である。
 いかに壤夷の敵であってもあの松陰門下の晋作が天子行幸の将軍を野次る訳がない。
 もし、野次ったのなら捕りおさえられられるだろうし、幕府が発声者の主を詮議しないはずがない。しかし、そうした事実はない。
 京にきて、晋作は予想以上に自分の名が有名になっていることを知った。有名なだけでなく、期待と人望も集まっていた。米国公使暗殺未遂、吉田松陰の改葬、御殿山焼討ち、壤夷派は晋作に期待していた。
 学習院ではみな開国とか壤夷とか佐幕とかいろいろいっているが、何の力もない。
 しかし、晋作とてこの頃、口だけで何も出来ない藩士であった。
 この頃、西郷吉之助(隆盛)は薩摩と会津をふっつけて薩会同盟をつくり、長州藩追い落としにかかる。長州藩の大楽源太郎は「異人が嫌い」という人種差別で壤夷に走った狂人で、のちに勝海舟や村田六蔵(大村益次郎)や西郷隆盛や大久保一蔵(利道)らを狙い、晋作や井上聞多まで殺そうとしたことがある。
 大楽は頭が悪いうえに単純な性格で、藩からも「人斬り」として恐れられた。
 維新後までかれは生き残るが、明治政府警察に捕まり、横死している。
 晋作は何もできない。好きでもない酒に溺れるしかなかった。
 晋作は将軍家茂暗殺の計画を練るが、またも失敗した。
 要するに、手詰まり状態になった。
「誰だ?」
 廊下に人の気配があった。
「晋作です」
「そうか、はいれ」
 説教してやらねばならぬ。そう思っていた周布はぎょっとした。
「なんだその様は?!」
 晋作は入ってきたが、頭は剃髪していて、黒い袈裟姿である。
「坊主になりました。名は西行法師にあやかって……東行法師とはどうでしょう?」
「馬鹿らしい。お前は馬鹿だ」
 周布は呆れていった。

「晋作どうすればいい。長州は手詰まり状態だ」
 久坂はいった。
 すると晋作はにやりと笑って、
「戦の一字、あるのみ。戦いを始めろ」
「幕府とか?」
「違う」晋作は首を横にふった。「外国とだ」
 この停滞した時局を打破するには、外国と戦うしかない。
「しかし……勝てる訳がない」
「勝てなくてよい。すぐに負けて幕府に責任をとらせろ」
「……悪知恵の働くやつだな、お前は」
 久坂は唖然としていった。
「おれは悪人だよ」晋作は笑った。


  大阪より勝海舟の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。
 何事であろうか? と勝海舟は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持ってるって話さ」
「何を考えているんだか」
 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 勝海舟は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。

<フジテレビ『報道2001』番組内「東京都知事の課題」2014年1月26日Ⓒ野村修也教授>

2014年04月25日 14時45分27秒 | 日記






<フジテレビ『報道2001』番組内「東京都知事の課題」2014年1月26日中央大学法科大学院教授・野村修也教授案Ⓒ野村修也氏>(1)オリンピック・パラリンピックの成功*道路などのインフラ整備*セキュリティーの強化(テロ防止等)*外国語表示・標識の整備*横田基地の軍民共同化*大型クルーズ客船ふ頭の整備*オリンピックレガシーの残し方に関する計画(2)国際競争力の向上と海外企業の誘致*国家戦略特区としてのアジアヘッドクオーター特区の推進*カジノ解禁に伴う総合リゾート(IR)の推進*地下鉄一元化の推進*羽田空港の更なる国際化*東京港の物流等の強化(3)高度な防災都市の実現*高速道路の老朽化対策*木造家屋密集地の防火対策*ヘリサインの整備*帰宅困難者対策(一時滞在施設確保など)*PF1(住宅の1Fにコンビニやスーパー)(4)高齢者対策・子育て支援*地域包括ケアシステムの構築*訪問介護の充実・認知症患者に対応できる医療機関の充実*介護施設の安全確保*子ども子育て新制度に関する施設の充実*待機児童対策の充実*(5)抜本的な電力対策*電力システム・改革の推進*分散型電源の普及拡大*再生可能エネルギーの普及拡大(6)教育の充実*公立学校の教員定数の充実*私立学校助成の充実*就学支援制度の充実*教育委員会制度の見直し*いじめ対策(7)美しい景観・環境の整備*無電柱化*街路樹の倍増*公園の整備促進*水辺空間の緑化促進*河川の水質浄化*東京湾の水質改善*ヒートアイランド対策*地球温暖化対策*自動車排ガス対策(8)地方分権の推進*法人事業税の暫定措置の撤廃(地方税としての還元)*法人住民税の一部国税化案の撤回要求(法人税・贈与税・相続税・所得税等の大幅減税)*ハローワーク事業の経営



昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説4

2014年04月25日 05時54分39秒 | 日記




  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。

 三計塾において、全国のあらゆる名士と交わり、精一ぱいの遊学を続けていた龍雄は、慶応二年(一八六六)の四月、藩命によっていよいよ帰国することになった。四月九日江戸を発ち、日光街道を通り南会津を抜け、檜原峠を越えて同月十七日に米沢に帰着した。
米沢に帰った龍雄は、しばしば藩の執政(しっせい)に対して、時局の急迫を警告し、自務を論じたという。
「徳川幕府は腐りきった糞以下です!」
「これ、声がでがい!いがに京や江戸より遠く離れた米沢でだんべども………危険な思想だべした!」
「幕府は馬鹿です。戦に長けた長州藩を会津藩や薩摩藩と徳川で滅ぼそうという点……ぼくから言わせればそれこそ夷人(えびすじん・異人のこと)の思う壺!このままではこの日の本の国はエゲレス、メリケン、フランス、オロシアの植民地に…清国(中国)やインドのような西欧列強の奴隷国家となってしまいます」
「んだがら…」家臣たちは困った。理解できない。雲井龍雄のように黒船をまじかに見た訳でもなく長州藩士や土佐藩士、薩摩藩士にさらには幕臣だが勝麟太郎(勝海舟)や勝海舟の弟子と称する坂本竜馬の話を訊いた訳でもない。佐久間象山先生や吉田松陰先生の話を訊いた訳でもない。とにかく「田舎者」「井の中の蛙」である。
「おじづげず雲井!」
「今はやれ長州だ会津だ薩摩だ、と内輪もめしている状態ではないのです!倒幕です!倒幕しかありません!西洋列強国の奴隷国に日本がなってもいいのですか?!」
「んだげんじょ………」
確かに米沢藩は徳川幕府に恩はない。というか越後(新潟)から会津(福島)そこから出羽米沢(山形県米沢市)に転封されたのは徳川幕府のせいである。だが、歴史通のひとならご存知だろうが保科正之公への恩はある。
つまり、上杉家の世継ぎでお家断絶の危機の時、当時の会津藩主(初代)の保科正之公の取り計らいにより、謙信から四代目、藩祖・景勝から三代目の上杉綱勝が病死して、会津公のとりなしで綱勝の妹と結婚していた吉良上野介義央の、息子・吉良三郎(のちの綱憲)を四代米沢藩主につけて上杉家米沢藩は「お家断絶」を免れたのである。
「倒幕です!勤王攘夷だの馬鹿馬鹿しい!ただちに開国して西洋列強の知恵や技術を文化を学ぶことです!」
「だまれ雲井! んだなごどでぎるが?!ここは米沢じゃぞ!謙信公の米沢藩上杉家の城下町だぞ!異国なんぞにまげるが!」
「……んだげんじょ!なら僕に茂憲公の上洛のお供を!直江兼続公・謙信公みたいに………鷹山公みたいになりたいのです!」
「馬鹿が!雲井!」
 当時の米沢藩では、龍雄を江戸から呼び戻す少し前、幕府の要請を受け入れて、世子(世継ぎ)の上杉茂憲に、兵八百をつけて京都の治安を分担させていた。
 幕府では、米沢藩の歓心を買う為に、今まで委任統治の形で米沢藩に任せていた屋代郷三万七千石を、この年六月、正式に米沢藩領地に加えた。米沢藩主・上杉斉憲の世子・茂憲も在京しており、徳川幕府に接近していた。が、雲井龍雄は天下の計を示し、「徳川幕府討つべし」という結論にいたった。坂本竜馬や勝海舟や西郷隆盛より、誰よりも幕府の腐り具合を見ていた。さすがは雲井龍雄だ。坂本竜馬の人気や知名度には遠く及ばないが、さすがは天才的英雄だ。「滅びの美学」等とほろばされたままではもったいない。
世子がいたずらに大軍を率いて京に滞在すれば、いつ政争にまきこまれるか分かったものではない。それはおおいに危険だ、と雲井は意見を通した。もっともである。茂憲が米沢に帰着すると、これに代って執政(家老)千坂太郎左衛門高雅(たかまさ)が上京し、これに呼応して、龍雄をはじめ上(かみ)与七郎・小田坂盛之進・宮嶋誠一郎などが、おいおい京都探索方(たんさくかた)として用いられることになった。
(参考文献「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作 遠藤書店57~60ページ)


坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
 この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親(もうり・たかちか)に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。
 吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。
 そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
 世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をしてしまう。井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。
 当然、松門門下生は反発した。「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。
 桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
 この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
 文は兄が好きな揚げ出し豆腐を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋(といっても牢に鍵は掛っていない)にもっていく。 
「この揚げ出し豆腐は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」
「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。
 こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。
 そして病床の身であった母親・杉瀧子が、死ぬのである。


                            

明治新政府は慶應四年正月十七日、言論陳情を目的に「貢士(こうし)対策所」を設け、各藩から貢士を選抜した。また、これよりさき、政府は同じ目的で「徴士(ちょうし)」を選抜している。徴士も貢士も、歴史的には立法府の前身をなすもので、徴士は貴族院議員(現在の参議院議員)、貢士は衆議院議員の前身にあたる。貢士にくらべて徴士は、政府の宦官的性格が強かった。
当時は政府も創成多忙のさいで規則通りにはいかなかった。米沢藩は中藩なので、貢士二人を推薦できるが、龍雄ひとりが「米沢藩代表」の貢士となっている。
何故か?そこは坂本竜馬や木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治改め)との縁なのである。
坂本竜馬が生前に『雲井の倒幕論』を桂小五郎に話し、「米沢藩に雲井龍雄あり!」としてくれたので、木戸孝允に拾われたのである。だが、雲井龍雄はしかし「ただでさえ財政難のとき、無名の軍を起こすことの非をつき、徳川氏討伐、会津討伐のくわだては、公費無駄遣いの最大のモノ」と決めつけた。まあ、明治政府の官軍ぶりが気にくわないということである。私利私欲に明け暮れる薩長政府を呪った。慶應四年五月、三度目の意見書を政府に提出した龍雄は、盟友二十名の盛大な送別会に臨み、さらに翌三日、公議所に休暇届を出すと、再び他藩の盟友二十余名と別宴を張り、このあと夜隠にまぎれて京都を脱出、東海道を下った。
こうして京都を脱出した龍雄は、雨の中を徹夜で桑名まであるいた。従う者は同志の大津山譲介(後の中村六蔵)ただ一人、龍雄たちは薩摩の追手を受けるおそれがあるので、少しでも早く京都から遠ざからなければならなかった。豪雨の年で河川の洪水に悩まされながら追手をかわし、三計塾で同門の鈴木陸二の岳父、陸平の邸に駆け込んだ。
「くそう!僕は討幕派なのに薩摩の馬鹿め!あいづらの魂胆はみえでるず!幕府も糞だが薩長官軍も糞だべした!」雲井は天を呪った。

(参考文献「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作 遠藤書店66~70ページ)

 和宮(かずのみや)と若き将軍・家茂(いえもち・徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(てんしょういん・薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。

  伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。                明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
 家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。


         2 維新前夜





  伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 

 若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると藩校明倫館小学部に入学した。のちの博文こと伊藤俊輔もここに在席した。
 伊藤は井上聞多とともに高杉の親交があった。
 ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
 悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
 いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
 晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
 しかし、いくらやっても強くならない。
 桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
 桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
 桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
 晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
 ……俺は詩人にでもなりたい。
 ……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
 高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
 晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
 自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
  晋作には親友がいた。
久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
 久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
 久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
 その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
 その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
 明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
 と、玄瑞にきいたことがある。
 久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
 晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
 晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
 晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
 久坂は正直にいった。
「なに?!」
 晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
 晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
 久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
 晋作は興味をもった。(注・実際には高杉晋作は少年期から松門門下生である。ここでは話の流れの為後述のようにした)
 しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもって吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
 吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
 晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
 晋作はにやにやしている。
 ……俺の才能を知るがいい。
 吉田松陰は「わかりました」
 といってかなりの時間をかけて読んでいく。
 晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
 吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
 そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
 といった。
 高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
 ……審美眼がないのではないか?
 人間とは、自分中心に考えるものだ。
 自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
 松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
 高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。

             
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
  松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
 しかし、感覚と学問は相反するものではない。
 きみには才能がある」
 ……この人は神人か。
 後年、晋作はそう述懐しているという。

  松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
 晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
 わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
 松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
 しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
 晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。

              
 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…

 高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
 吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
 久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。
 久坂の妻となった久坂(旧姓・杉)文は苦手な料理や洗濯などかいがいしくこなしていたが、やがて久坂との大事な赤子を死産してしまう。ふたりは号泣したという。この事がきっかけでかはわからないが、文は「子供が産めない体」になるのだ。が、それは後述するとしよう。
  安政五年、晋作は十九歳になった。
 そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
 おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
  松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ(プリーズ、オン・ザ、シップ!)、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
  松陰は江戸に檻送されてきた。
高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
 松陰もまた高杉に甘えきった。
 かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
 晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
 松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
  晋作は官僚の息子である。
 そういう環境からは革命はできない。
 晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
 松陰は晋作に期待していなかった。
 松陰は長州藩に疎まれ「幽閉」される身となる。それでも我儘坊ちゃん高杉晋作の豪遊癖は直らない。久坂義助は玄瑞と号し、長州藩の奥医師の立場から正式な侍・武士になろうと奮起する。
 だが、そうそう自分の思い通りにいく程世の中は甘くない。酒に逃げる久坂を文は叱り、そして励ました。まさに内助の功である。
 松陰が幽閉されたのは長州藩萩の野山獄である。しかし、幕府により松陰は江戸に連行され殺される運命なのである。文やのちの伊藤博文となる伊藤俊輔らは江戸の処刑場までいき「吉田松陰の斬首」を涙を流しながら竹柵にしがみつきながら見届けた。  
 幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
 「先生!せ……先生!松陰先生!」
 「寅次郎にいやーん!にいーやーん!」
 このとき久坂文が号泣したのは当たり前だ。が、あまりに激怒したため幕府の役人を「卑怯者!身の程をしれ!」と口汚く罵った為に一時期軟禁状態にされ、高杉晋作か誰かが役人に賄賂金を渡して久坂文が釈放された、というのは小説やドラマのフィクションである。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
…吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

  晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
 晋作は反発した。
 回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
 高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
 革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
 その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
 ……しかし、まだ嫁はいらぬ。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。

「萩軍艦教授所に入学を命ず」
 そういう藩命が晋作に下った。
 幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
 長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
名を丙辰丸という。
 小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
 乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
 松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
 ……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
 松島は帆をかかげて、船を動かした。
 航海中、船は揺れに揺れた。
 晋作は船酔いで吐きつづけた。
 品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
 松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
 晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
 ……俺は船乗りにもなれん。
 晋作の人生は暗澹たるものになった。
 品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
 その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。
 粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
 ……疲れているからいい。
 ふたりはふとんにぐったりと横になった。
 ……また藩にもどらねば。
 晋作には快感に酔っている暇はなかった。

           
 この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
 勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
 勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 久坂玄瑞や真木和泉(まき・いずみ)ら長州藩士・不貞分子ら一大勢力や三条実美ら公家が京の都で、「天子さま(天皇陛下のこと)を奪還して長州藩に連れ出し政権を握る」という恐るべき計画を立てていた。当然ながら反対勢力も多かったという。
 のちの木戸孝允こと桂小五郎も「私は反対だ!無謀過ぎる!」と反対した。「畏れ多くも御所に火を放ち鉄砲・弓・矢を向けるなどとんでもないことだ」
 当たり前の判断である。だが、長州藩は追い込まれていた。ほかならぬ薩摩藩・会津藩にである。
 窮鼠猫を噛む、ではないが長州藩危険分子は時代に追い込まれていた。この頃、久坂文は亡き兄の忘れ形見でもある松下村塾で教える立場のようなものにもなり、久坂玄瑞はたんと嫁自慢をしたという。
 だが、乱世は近づいていた。文は子供の産めない体になり、文は号泣しながら崩れる夫・久坂玄瑞に泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けた。それが今生の別れとなるとは、誰も考えられなかったことだろう。
  勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 

昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説4

2014年04月23日 05時15分23秒 | 日記



 雲井は約束した。
 母は労咳(肺結核)であった。ごほごほと病床で咳をして、喀血して、自分でも驚いたろう。そして、雲井の母親はまた、紅葉のように早逝するのである。
龍雄は泣いた。そして、母との別れで心の中で「母上、かならずお約束お守りいたします。母上、おしょうしな(ありがとう)!」と誓った。
雲井龍雄の本名は小島守善だが、辰の年うまれであるからと龍三郎・龍雄と自分で名前を変えたという。さらに付言すれば、龍雄の生まれたのは、明治維新の二十四年前であり、紀州の陸奥宗光と同年である。長州の伊藤博文よりは三歳年少、肥前の大隈重信よりは五歳年少、土佐の板垣退助よりは六歳の年少であった。
また、自称変名として用いたものに遠山翠(とうやまみどり)、一木緑(いちきみどり)、桂香逸(かつらこういつ)などがあるが、雲井龍雄の名前が広く知られる。龍雄の郷里米沢の西に連なる斜平山(なでらやま)のふもとが遠山という部落である。
龍雄の生家の近く桂の大樹があり、よい目じるしになっていたという。桂といい、一木というのは、この老樹に因んだものと思われる。雲井龍雄の名は、二十五年の慶応四年(一八六八)七月頃から使用し、晩年は好んでこの名を使用した。本名の龍三郎(または守善)に因んで、「雲龍昇天」の活躍を望んだものである。次男に生まれた龍雄は母の死後、十四歳の安政四年(一八五九)五月、同藩の小島才助の養子となった。
 龍雄が初めて勉学の手ほどきを受けたのは、生家の北隣に住む上泉清次郎という人であり、龍雄八歳の時である。清次郎は、龍雄の教育わずか一年という短さで病死した。そこで龍雄は、曽根俊臣(そね・としおみ)という人の私塾に入った。まあ、前述した寺子屋であり、前述したエピソードのようなものがあったり、なかったりする。
俊臣の本名は宮地敬一郎、俊臣は幼くして神童の誉れ高く、二十一歳で藩校・興譲館(こうじょうかん)の助読に挙げられ、さらに読長になった。一代に門弟三千人と称せされ、郷学の中心的学者であった。惜しいのは戊辰戦役に志願して従軍、越後大黒の夜戦に斬込隊の先頭に立ち、敵弾で戦死した。現在の上杉神社(米沢城址・松が岬公園)の西堤上にその慰霊碑が建っている。次いで龍雄は、遠山の里(米沢市遠山町)に住む山田蠖堂(ようだかくどう)の私塾に移り師事する。
14歳からは藩校「興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学。
興譲館は主に官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場であった。
が、龍雄は「優秀」に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けた。
好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破し、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達する。
18歳のとき、叔父・小島才助の養子となり、丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶る。
20歳のときに才助が死去したため小島家を継ぎ、21歳で高畠の警衛の任に就いた。
慶応元年(1865年)、米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒(やすいそっけん)の三計塾に入門。息軒は昌平黌においても朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせた。こうした学風を受け龍雄は経国済民の実学を修め、執事長(塾頭)にも選ばれており、息軒から「谷干城(たにたてき・元農商務大臣)以来の名執事長」といわしめたという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。
同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがいる。またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助と出会った。

(「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作・遠藤書店39~53ページ参照)
[雲井龍雄の参考文献]
• 角田恵重「片品村と雲井龍雄」(「片品の民族-群馬県民俗調査報告書」1960年)
• 安藤英男「雲井龍雄全集」1982年
• 安藤英男「雲井龍雄研究」明治書院
• 猪口篤志「日本漢詩新訳漢文大系」同上
• 童門冬二「雲井龍雄」新人物往来社
• 藤沢周平「雲奔る・小説雲井龍雄」文春文庫
• 安藤英男『雲井龍雄詩伝』(明治書院)
• 高島真『雲井龍雄 謀殺された志士 また蒼昊に訴えず』(歴史春秋社)
• 村上一郎「雲井竜雄の詩魂と反骨」(「ドキュメント日本人 第三巻 反逆者」(学芸書林)所収)
• 高木俊輔『それからの志士―もう一つの明治維新』(有斐閣選書)
• 夏堀正元『もう一つの維新』(東邦出版社)
• 吉川英治「明治秋風吟」(吉川英治全集第44巻(講談社)所収)
• 須藤澄夫『幕末残照 雲井龍雄との対話』(新人物往来社)
• 松本健一「遠山みどり伝」(「幕末畸人伝」(文藝春秋)所収)
• 八切止夫『明治奇談・爆裂お玉 雲井龍雄の妻』(昭和シェル出版)
• 田宮友亀雄『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』(遠藤書店)
• 雲井龍雄手抄『王陽明傳習録』(杉原夷山註解)(東京・千代田書房&大阪・杉本梁江堂)
• 有馬卓也「雲井龍雄研究序説 : 慷慨と隠逸をめぐって」(「徳島大学教養部紀要 人文・社会科学」 vol.28)
• 有馬卓也「自由民権運動下の雲井龍雄の一側面:『土陽新聞』記載記事をめぐって」(徳島大学国語国文學 vol.6. vol7)
• 山崎有恒「「公議」抽出機構と崩壊―公議所と集議院」(『幕末維新論集 六巻』(吉川弘文館)所収)
• 黒江一郎『安井息軒』(日向文庫刊行会)
• 鈴木富夫「知られざる英傑 「雲井龍雄」小伝 四幕」 (『戯曲春秋』第22号、2007年)
関連項目
• 討薩檄
討薩檄
「討薩檄」(とうさつのげき)は、戊辰戦争に際し、米沢藩士・雲井龍雄が全軍の士気を鼓舞するために起草した檄文。この文章の内容と政治思想が、明治政府のしゃくに触り、「危険分子」として雲井龍雄は罪名も不明のまま斬首され、この世を去るのである。まるで関ヶ原のきっかけをつくった直江山城守兼続の「直江状」のようだ。
内容

その文章の迫力や訴える力において、数ある古今の檄文の中でも名文と言える。実際の戦闘においては物量や人的資源にはるかにまさる主に薩長率いる新政府軍に奥羽越列藩同盟は敗れることになるが、「討薩の檄」は、薩長を中心とした視点とはまた別の視点を今日にも訴えるものとも言える。
なお、雲井は、大政奉還に協力・尽力した人物であり、必ずしも佐幕派ではなかったが、薩長の武力討幕方針に反対して奥羽越列藩同盟に身を投じた。雲井は戊辰戦争期間中、薩長の離間を画策し、「二毛作戦」と呼ばれる、遊撃隊を率いて上野・下野方面から官軍を撹乱する作戦を採ったが、作戦は失敗に終わった。戊辰戦争終結後、雲井は米沢藩から推挙されて新政府の集議院に勤めるが、のちに戊辰戦争期間中の言動が理由で集議院を追われ、その後、帰順部曲点検所を設立し失業士族の救済に奔走するが、謀反を企てているとして処刑された。
この物語とこの物語の大河ドラマでは、家の強い絆と、雲井龍雄の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」で、吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族として描かれた。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者が予想されます。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は瀧子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。このエピソードは大河ドラマでやる事でしょう。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念しているという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村氏伊之助→小田村氏文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマ「花燃ゆ」(2015年度作品放送)。大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な、杉文が主人公ではある。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描くという。なら大河ドラマ「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代」では米沢藩を描いてほしい。
 多分、大河ドラマ「八重の桜」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだ。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。

米沢藩の藩校・興譲館に出勤して家学を論じた。次第に龍雄は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。親戚の妹にとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという兄・雲井龍雄(遠山翠)の存在は誇らしいものであったらしい。龍雄は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」龍雄は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで龍雄は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら龍雄はきいた。
「板谷峠にお住まいの与力某様でござります」
 龍雄は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると龍雄は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、龍雄は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い雲井龍雄でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  龍雄は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 龍雄の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、龍雄は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。龍雄は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。龍雄は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  龍雄は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により雲井龍雄の名声は世に知られるようになっていく。龍雄はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 親戚の妹は幼少の頃より、龍雄に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という龍雄の考えで学問を習うようになる。雲井龍雄は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいしてその親戚の妹なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。雲井龍雄のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「んだげんじょ、なしで、守善(もりよし)にいちゃんは、考えだすと私の声まできこえないんだず?」親戚の妹が笑う。と雲井龍雄(本名・小島守善(もりよし))は「んだな、学者だがらだんべと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の親戚の妹は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。

話は長州藩の天才思想家・吉田松陰の話に変えよう。 
あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「馬鹿らしか」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。この物語では松下村塾に久坂玄瑞にならって高杉晋作が入塾するような話になっている。
 が、それは話の流れで、実際には高杉晋作も少年期から松陰の教えを受けているのである。
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
 
のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。
 文や寅次郎や寿の母親・杉瀧子が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに鈴木家と斎藤家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の鈴木某や斎藤某の御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?先生」
 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「昇り竜の如く 雲井龍雄とその時代」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
  




  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。


<池上彰の「池上彰解説塾」テレビ朝日番組2014年4月14日Ⓒ池上彰>

2014年04月22日 13時59分51秒 | 日記




<池上彰の「池上彰解説塾」テレビ朝日番組内2014年4月14日放送分Ⓒ池上彰>
<沖ノ鳥島>沖ノ鳥島は1968年に占領していた米国から小笠原諸島とともに日本に返還されました。1988年には岩が(日本政府としてはあくまで島)ちょっとだけ満潮時も干潮時も出ている状態であった。それから岩が(あくまで島(笑))なくならないように約300億円をかけてテトラポッド等で囲み島(笑)を維持していました。ちなみに沖ノ鳥島はグアムより南にあります。EEZでだと日本の領海領土排他的経済水域で世界6位の国土ですが、島や日本列島だけなら国土は60位です。島とは<国連海洋法条約(海の憲法)第121条(島の制度)[第一項]島とは、自然に形成された陸地であって水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるものをいう>ということです。島から12海里(22km)が「領海」。島から200海里(370km)が排他的経済水域(EEZ)さらに大陸棚(350海里(650km)もEEZも同じ)
岩は領海のみ。排他的経済水域(EEZ)はつかない。だから「岩」ではなく「島」にしようと工事中に事故がおこった。だが、中国は「あれは岩だ」と主張する。根拠は<国連海洋法条約第121条(島の制度)[3項]人間の居住又は独自の経済的生活を維持することの出来ない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない>という条項で文句を言っている。とにかく、はやめに工事ミスをリカヴァ―して早く島状態にしなくてはね。
<STAP細胞問題>論文とは二つのパターンがあります。①学会で発表②学術誌で発表、です。ちなみに「STAP細胞の論文」は英国のネイチャー誌に掲載された。ちなみに世界三大学術誌があります。①1869年創刊英国「ネイチャー」誌(週刊誌)②1880年創刊米国「サイエンス」誌(週刊誌)③1974年創刊米国「セル」誌(隔月誌)(山中伸也氏の)iPS細胞論文はセル誌)。さてSTAP細胞問題でペテンではないか?捏造ではないか?写真や文章がコピペではないか?という問題には「インパクト・ファクターImpact Factor 論文をどれだけチェックするか?どれだけ引用されているか」例えば*過去二年で10本論文掲載*去年論文が100回引用された*→100÷10=10<インパクトファクター>=10となる。
ネイチャーの掲載まで→(年一万件論文投稿)→①編集者一次選考で7、8割落とす②専門家が審査(300件1年間で掲載)*論文取り下げ(あらゆる雑誌に100万件掲載されているもののうち、論文撤回は190本のみ(0.01%))これは無断盗用やコピペを見破るソフトが開発されたからだという。ちなみに私の書いている小説などはちゃんと参考文献・資料文献も明かして記載している。無断盗用・盗作ではない。「文章が似ている」=「盗作」などという単純なものではそもそもないのだ。
<ウクライナ情勢>まずは<EUの主要貿易国>をご覧頂きたい。一位アメリカ14.3%二位中国12.5%三位ロシア9.7%四位スイス6.8%五位ノルウェー4.3% 他。EUにとってロシアとの西側の欧州は巨大マーケットであり、各国がロシアへの制裁に及び腰なのはそのためだ。また米国も同じようにロシアへの経済制裁はシリアのときのような「また口だけのリップサービス」になりそうだ。<各国のロシアへの制裁>*アメリカ→ロシア政府富裕層や企業などの資産凍結や渡航禁止*EU→ヴィザ自由化渡航の凍結→ロシア政府高官などの資産凍結や渡航禁止*その他→G8への参加停止………とにかく日本はアメリカに義理立てすることなく、いいように誤魔化してロシアへの経済制裁に加わらずロシアに恩を売っておくことだ。どっちみち欧米がしかけた政変劇で、日本は関係もない。クリミア半島のほとんどの住人はロシア人である。現在、ウクライナ政府が経済破たん状態であり、ロシアに編入すれば年金がもらえる、とロシア系住民がいわれれば、人間は貪欲だ、ということだ。歴史をみてみよう。1667年ウクライナ西側(ポーランド領)東側(帝政ロシア領)。1958年ウクライナ全国ソ連領土に。但し、ウクライナのクリミア半島自治共和国をウクライナ領土へ(当時のフルシチョフが)。1991年ソ連崩壊のときにウクライナのクリミア半島はウクライナ領へ。だが、クリミア半島はロシア領土とウクライナ大統領(当時)が認めた。2014年ウクライナ・ヤヌコビッチ大統領が「EU加盟を辞退してロシア領土に」という意向を示し、EU派(西側住人)が暴動を起こし、政権転覆、その後ロシア派の東側住人が暴動を起こし「内戦状態」になった。ソ連時代に不凍港ウクライナのセバストポリに黒海艦隊の軍事基地があったが、ソ連崩壊後、ウクライナ領とロシア領の半分にわかれた。<各国の思惑>を見てみよう。*ロシア→軍事的に重要だからクリミアを編入する→ロシア系住民が多く元ソ連の思い強い*EU→ロシア軍事行動による領土拡大に抗議→天然ガスの輸入に影響がある(ロシアからの安価なパイプライン全体の依存度三割)のであまり表だって反対や抗議・制裁しにくい。*アメリカ→軍事行動による領土拡大に抗議→ロシアに睨みを効かせたい。EUのロシアの安価な天然ガスパイプラインは全体の3割。ウクライナは国としては料金22兆円未払いで止められている。ウクライナ大統領選挙は2014年5月に投票される。だが、またシリアのときみたいに誤魔化しになるに決まっている。それがいいのか悪いのかは、歴史家が後年決める事であり、米国欧州に同調する必要はない。こういうときこそ独自外交である。2014年5月のウクライナ大統領選挙後にでも動けば間に合う。その程度の問題でしかない。


「ビジネスレポート」「「ワクワクするソニー」は帰って来るのか」永井隆氏&小学館SAPIO編集部

2014年04月21日 12時16分47秒 | 日記



ここで小学館SAPIO誌2014年5月号の特集「SAPIOビジネスレポート第18回」「「ワクワクするソニー」は帰って来るのか」ジャーナリスト永井隆氏とSAPIO編集部の記事を引用し、参考にしたい。
「自分を開発し、発展していくためには、他人と同じ考え、同じ行動をしてはいけない」ソニー創業者・盛田昭夫氏の言葉だ。2014年3月期、円安によって電機各社が増益を確保する中でソニーは「一人負け」だった。結局、VAIOという看板商品まで売却せざる得なくなった。それは、創業者の言葉に反して「他社と同じ行動」を取っていたからではなかったのか。「ソニーらしさが失われた」と言われて久しいが、いま少しずつ社内の空気が変わり、新たな尖った商品が世に出つつある。かつてのウォークマンや、犬型ロボットAIBO、液晶テレビ「ブラビア」やトランジスタラジオを生んだソニー魂は復活するのか。
<スマートフォン>15年度に「現在の2倍」という野望「カメラにこだわって”尖った”商品にXperia「トップ3」への挑戦」「苦渋の決断だった」ソニーから看板商品が一つ失われた。2014年2月の第三四半期決算説明会で、平井一夫社長兼CEOは厳しい表情でそう語り、「VAIO」ブランドで知られるパソコン事業を投資ファンドの日本産業パートナーズに売却することを発表した。同時に、14年3月期で10期連続赤字が見込まれるテレビ事業はこの2014年7月を目途に分社化。さらに国内外で5000人規模の人員を削減するという。VAIOは、ソニーが育てた大型ブランドだった。96年に発売され、「軽量・薄型」の代名詞になり一世を風靡。高いデザイン性を武器に10年度には870万台を売った。ところが最近は中国・レノボ等に押され、年間530万台(13年度見込み)に低迷。撤退が決まった。
 ソニーは主力のエレクトロニクス部門は赤字続きで苦境にある。前述したように10期連続の赤字となっているテレビ事業は、累算で7000億円の赤字を出すなど厳しい状況だ。ここまでエレキが苦しくなったのは一言でいえば「ソニーらしさ」の喪失だろう。デザインや音、商品に触れた時の質感など、消費者の琴線に触れる商品。いわばそれは五感を刺激するアナログな部分である。80年代に大ヒットしたウォークマンはその代表であり、ソニーは携帯音楽プレーヤーという市場を開き、人々のライフスタイルそのものを変えた。振り返れば、トランジスタラジオ、家庭用VTR、高画質なトリニトロンカラーテレビ、ハンディカムなど消費者がワクワクするような商品を世に出し続けてきたのがソニーだった。
 VAIOは、後追いのデジタル商品であった。それでも売れたのはデザイン力により高いブランド価値を持っていたからだ。剛性感のある手触りや見た目など、ある意味でアナログな要素が、人と違うパソコンを求める層に受け入れられた。「ところがソニーは主に新興国向けに、低価格な普及品を展開しました。質より量を求めた結果、VAIOブランド価値は落ちてしまいました」(ITジャーナリストの本田雅一氏)”ソニーらしさ””ブランド価値”といっても情緒的・抽象的なものではない。多くのデジタル製品が、誰でも部品を組み立てられるコモディティ商品になった時代には、アップルのようにファブレス(工場を持たない・製造は台湾の鴻海社・フォンファイ)になって設計力で戦うか、サムスンのように(技術は日本の盗作だが(笑))数で勝負して競争力・価格決定権を持つか…といった他を圧倒するビジネスモデルが必要だ。
 ソニーの場合は「これは欲しい」「持っているだけでかっこいい」というブランド価値こそ競争力の源泉だったのであり、ソニーらしさの喪失はダイレクトに業績に反映してきた。
  平井社長がエレキ部門の立て直し策おして掲げたのが、「3コア事業」を集中的に強化する方針だ。3コアとは①スマートフォンなどのモバイル事業②平井氏自身の出身母体であるゲーム事業③画像センサーやデジカメのイメージング関連事業ーである。
 まずは「Xperia」ブランドでスマートフォンを展開するモバイルだ。かつてはスウェーデンとの合弁会社ソニー・エリクソンとして運営してきたが、12年にエリクソン社保有の株式を買い取り、100%子会社のソニーモバイルコミュニケーションズとなっている。2013年の世界のスマホ市場ははじめて10億台を超えた。シュアは1位サムスン31・3%、2位はアップル15・3%。3位以降は大きく離され、中国の華為技術(ファーウェイ)4・9%、韓国LG4・8%、中国のレノボ4・5%と続く。ソニーは約4%で、7位に位置していると見られる。ソニーのスマホは4K対応の高画質カメラを動画再生速度と防水性・耐久性・さらに洗練されたデザイン力が武器だ。
<ゲーム>ライバル任天堂は350億円の営業赤字。浮き沈みが激しいPS(プレイステーション)事業で、会員制オンラインが「安定」をもたらすか。『PS4』は昨年(2013年)11月に欧米などで発売され、目標は500万台だったが、日本発売で2014年3月2日時点で600万台に達した。その好調ぶりから「ソニーの救世主」との声が上がっている。ちなみに店頭実態価格は4万2000円前後と決して安くはない商品だ。PSシリーズの売りであるリアルなグラフィック描写能力を進化させたことに加えて、PS4最大の特徴はネットワーク機能を高めた点にある。「ネットを通じて別の場所にいる友人と一緒にプレイ(オンラインマルチプレイ)したり、ストリーミングサービスを使って自分のプレイしている画面を世界中に中継したりすることが簡単にできるのがポイントです」SCE戦略・商品企画次長の菊池修蔵氏(39)はそう説明する。
<カメラ>基幹部品をすべて内蔵する強み。「お家芸の「小型化」と「面白いね、コレ」で2強(ニコン、キャノン(全体のシュア8割))に挑む」収益性が高い一眼レフカメラは、キャノン、ニコンのシュアが全体の8割、そこにどこまでせまれるか。エレキ多難時代をささえたのは映画・金融・保険・土地・建物・株券だった。だが、もうそろそろ限界が見えている。背水の陣で「ソニーらしさ」の復活がどこまでできるかが今後の勝負の分かれ目となるだろう。古巣の米沢NECのNECパーソナルコンピュータのコンシューマ商品企画部・中井祐介氏(30)は世界一軽く薄いノートパソコン『LavieZ』をプロデュースして大ヒットさせた。多分マックブックエアの猿真似(笑)大事なのはソニーみたいに新興国向け安価版等とやらぬ事。ブランド力が落ちるからだ。

昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説3

2014年04月21日 05時03分35秒 | 日記
下級武士
一般的に最下級の足軽以下の階級は技能職分として扱われ、士分階級のように世襲ではなく1代雇用が原則であった。だが米沢藩は足軽(特に鉄砲足軽)は世襲とされ、扶持に関しても手明組などの徒士階級、三扶持方の下士階級とあまり変わらず、場合によってはより高い扶持をもらっていた者もいた。米沢藩では鉄砲の技能を重んじ、その修練を奨励しており、毎年正月には「矩(のり)の鉄砲」と呼ばれる藩主上覧の鉄砲披露があり、家臣が鉄砲の技量を競う晴れ舞台であったためだった。鉄砲は中級武士も撃つことを許されたが、扱うことができたのは10匁筒だけであり、20匁以上の大筒撃ちは専門職の足軽だけに許された特殊技能であり、特別の大筒を操作できる者には30匁撃ちに3石、40匁撃ちに4石、50匁撃ちに5石の加恩給を与えられた。
関ヶ原の戦い後に知行を大幅に削減されて下級武士の生活は困難になったため、米沢藩は会津口の南原、板谷口の山上、仙台口の東原に屋敷割りをして下級武士を住まわせ、藩境警備の任務に当たらせると同時に周辺の荒地を開墾させて半士半農の生活をさせるという屯田兵の暮らしをさせ、この集団は原方衆と呼ばれた。原方衆は下級武士の半数を占める約1900人であり、農民とあまり変わらぬ生活をしていたために「原方の糞つかみ」と蔑まれたが、彼らの中には武士の矜持を忘れずに学問や武芸の修練に励む者も多かったと伝わる。また、自ら開拓した土地はそのまま与えられ、収穫した年貢も一般農民よりは軽減されていたので、城下で暮らす武士階級よりずっと生活は安定していたといわれる。
逆に原方衆を蔑んでいたと伝わる城下集住の下級武士の生活はかなり苦しく、藩財政が逼迫して減俸されると扶持のみでは生計が成り立たなくなった。このため、米沢藩特産品の筆結いなどの内職を行い、それでもなお不足なので職人や日雇い人足になって収入を稼ごうとした。彼らの雇い主である米沢の町人は、日雇い武士に失礼のないようにと「人足様」「大工様」と敬称をつけて呼んでいたといわれ、この遺風は現在まで続いている。
鷹山の改革
1767年(明和4年)、17歳で重定の跡を継いだ養子の治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出した。倹約令発布、農村統制の強化、絹織物の専売制実施等の財政再建と、桑や漆の植樹、縮織技術の導入や黒井忠寄による灌漑事業などの殖産興業政策を行って藩財政を立て直した。また、先述のとおり特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にもあたった。一方で、1773年(安永2年)7月には家老の須田満主や奉行の色部照長や千坂高敦らによる竹俣一派排除訴訟(七家騒動)も起こる。
米沢藩では、藩主上杉家の実質上の祖である上杉謙信が藩祖として祀られ、その遺骸を納めた甕は遠く越後春日山(新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置されていた。上杉謙信崇拝に基づいた藩風は、越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって独特の誇り高い気風を生んだが、その一方で体面を重んじ、頑固で保守的な面があって、そのことが鷹山の藩政改革の障害となったという見方もある。しかし、鷹山隠居後も藩政改革に取り組む名君が続いたため、治憲・治広の代には借財を返済して5千両の囲い金(備蓄)を有するに至る。
最後の藩主茂憲は、戊辰戦後に3万両を新政府に献上して三条実美らによる改易論を封じ込め、また、奥羽越列藩同盟参加の責任を戦死した家老色部久長に転嫁することによって藩存続の危機を乗り切った。廃藩置県の際は、旧藩士らに囲金や備金などから10万両余を分与するなど、沖縄県令としての治績に対する評価も高い。
米沢藩のPLまたはSI(フロー/歳入の部)
=米納高+金納額/年 米沢藩のBS(ストック/資本の部)
=資産-負債
30万石時代…5万石+1万両(綱勝相続時)
15万石時代…3万石+3万両(治憲相続時)
14万7千石時代(列藩同盟処分の削封後)…6万石+15万両 綱勝相続時…13万両
治憲相続時…マイナス20万両余
治広相続時…5千両
斉憲相続時…5万両
• 絹・綿(疋)は米(石、斗)、銀(貫、匁)・銭(文)は金(両、分)に換算(江戸中期には、一両=60匁。1貫文=1000文。ただし、米価は時代により相場変動あり、上記金額は概算)
• (参考文献:「御家建て直し」「上杉鷹山の失敗(成功の誤記ではない)に学ぶ」「日本史地図」「武田一族」「米沢藩」「羽前俗謡抄」ほか)
教育
初代上杉景勝の執政直江兼続は元和4年(1618年)に禅林文庫を創設して足利学校や金沢文庫に匹敵する学問修行の道場とし、家臣の教育を図ろうとしたが、直江が翌年に病死したため実現までには至らなかった。第4代綱憲は将軍徳川綱吉の奨学により学問所を創設したが、以後は米沢藩の藩財政悪化により学問所自体が退廃した。
このため、米沢藩で実質的に藩校が創設されるのは上杉鷹山の改革期である。鷹山は自らの師細井平洲を米沢に招聘し、師の命名で藩校は興譲館と名づけられた。規模や内容は元和や元禄の比ではなく、鷹山や細井は藩校に優秀な指導者となるべき人材の育成の役割を求め、藩校の席次は身分ではなく長幼の序で定められて場合によっては生徒に手当として年1両の手当金、寄宿代の無料などの特典もあり、この藩校の子弟が藩の中枢にあって活躍していくことになる。
福祉
鷹山は仁慈の政治の実現を常とした人物であるが、財政再建が一段落した寛政4年(1792年)には家中・領民を問わずに90歳以上の老人には生涯1人扶持を与えることとする老齢年金制度、15歳以下の子供が5人以上いる家庭では末子が5歳に達するまで1人扶持の手当を支給することとするという子供手当を実施した。ただし、米沢藩では享保13年(1728年)から孝行。貞節などで優れた「善行者」を表彰する制度があり、鷹山はこの制度を推奨して福祉を定め、さらに善行者にはとりわけ模範的な人物に対して生涯家の門柱に名前を記して顕彰したといわれる。
藩法
天正9年(1581年)から弘化4年(1847年)までの歴代藩主の法令を編纂した法令集に『御代々御式目』(全41冊)がある。また、諸役職の沿革については『紹襲録』、勤務規定については『御役成勤式』がある。町奉行の職務手鑑的なものに正徳4年(1714年)の『当官紀事』がある。
米沢藩は刑法典を制定することなく、判例に準拠して処罰を行った。主要な判例集には『御呵附引合』、『中典類聚』、『御裁許鈔』などがあり、それらを繋ぐと江戸時代全期の刑事判決が明らかとなる。それらに記録される刑種は約60種ほどで、中には闇打、郷替、出奉公、定価屋渡など、他藩ではあまり見られないものも含まれる。
歴代藩主
上杉家
外様・国主・大広間 30万石→15万石→18万石→14万7千石
1. 上杉景勝(かげかつ)〔従三位・権中納言、弾正少弼のち越後守、大正11年贈正三位〕 長尾政景の次男。母方の叔父である上杉謙信の養子となる。
2. 上杉定勝(さだかつ)〔従四位下・左近衛権少将、弾正大弼〕
3. 上杉綱勝(つなかつ)〔従四位下・侍従、播磨守〕
4. 上杉綱憲(つなのり)〔従四位下・侍従、弾正大弼〕 吉良義央の長男(定勝の孫)。綱勝の末期養子。15万石に減知。
5. 上杉吉憲(よしのり)〔従四位下・侍従、民部大輔〕
6. 上杉宗憲(むねのり)〔従四位下・侍従、弾正大弼〕
7. 上杉宗房(むねふさ)〔従四位下・侍従、民部大輔〕 同母弟。
8. 上杉重定(しげさだ)〔従四位下・侍従、大炊頭〕 同母弟。
9. 上杉治憲(はるのり)〈鷹山〉〔従四位下・侍従、弾正大弼のち越前守、明治41年贈従三位〕 秋月種美の次男(綱憲の曾孫)。
10. 上杉治広(はるひろ)〔従四位下・左近衛権少将、弾正大弼〕 重定の次男。
11. 上杉斉定(なりさだ)〔従四位下・左近衛権少将、弾正大弼、贈従三位〕 上杉勝煕の長男(重定の孫)。
12. 上杉斉憲(なりのり)〔従四位上・左近衛権中将、弾正大弼、明治22年従三位〕 18万石に加増。
13. 上杉茂憲(もちのり)〔従四位下・侍従、式部大輔、錦鶏間伺候正二位勲二等伯爵〕 14万7千石に減知。伯爵。
• ※米沢藩主としては景勝が初代であるが、上杉家としては上杉謙信を初代と数えるため、上杉家、米沢市の関連文書、サイトでは注意が必要である。
支藩(米沢新田藩)
米沢新田藩(よねざわしんでんはん)は、米沢藩の支藩。外様。柳間詰。代々駿河守を称し、駿府城加番役を務めた。享保4年(1719年)に5代藩主吉憲が弟の勝周に領内の新田分1万石を分与して成立した。藩主は2代勝承以降は男子が生まれず、以後3代は宗藩の歴代藩主の弟を養子に迎えている。新田藩主は米沢藩内では「支侯」と呼ばれた。
米沢城内二の丸に藩庁を置き、居所としていた。武鑑では江戸藩邸は麻布に上屋敷があったとしているが、これは宗藩の中屋敷の一部を与えられたものである。後に上屋敷の所在表記は飯倉片町となる。
また、文政年間の武鑑で新田藩の家老である高梨左近が宗藩の用人を兼務しているように表記されたり、上杉藩の史料「紹襲録」でも文政元年(1818年)に宗藩の側役であった留守善次郎が新田藩主の勝義の用人になっているのが見られる。加えて、米沢城内に新田藩の役所や藩主御殿があり、上杉鷹山の隠居所である餐霞館は元は新田藩主の御殿であったものを流用したものであり、鷹山死去以降に支侯御殿に戻っている。
このように、特定の領地や城地を持たないだけでなく、支配機構や財政、家臣団、居住地、さらには後継者まで全て宗藩の米沢藩に依存しており、江戸幕府の御三卿にかなり近い藩内分家であった。
明治維新後、宗藩の所領削減もあって存続が難しくなり、明治2年(1869年)に宗藩に併合された。なお、廃藩後も子爵家として存続したが、宗家の当主の弟を養子とすることが支藩時代と同様に続いた。
歴代藩主
上杉家
外様 1万石 (1719年 - 1869年)
1. 勝周(かつちか)〔従五位下、駿河守〕 綱憲の四男
2. 勝承(かつよし)〔従五位下、駿河守〕
3. 勝定(かつさだ)〔従五位下、駿河守〕 重定の三男、治広の弟
4. 勝義(かつよし)〔従五位下、佐渡守〕 上杉勝煕の四男(重定の孫)、斉定の弟
5. 勝道(かつみち)〔従五位下、駿河守〕 斉定の四男、斉憲の弟
藩邸及び江戸での菩提寺
江戸藩邸は文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の法務省敷地内)に上屋敷、麻布に中屋敷、芝白金に下屋敷があった。また京都藩邸は柳馬場通三条下ル西側に構えていた。
麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。京都藩邸は一時、森利真(平右衛門)が売却したが、竹俣当綱(美作)が買い戻している。また、1788年(天明8年)の京都の火事で一時焼失した。
江戸における菩提寺は浅草新鳥越にあった(移転して現在は清川に所在)新義真言宗寺院、金知山宝蔵院で、米沢新田藩も同様であった。
藩職
横山昭男の『上杉鷹山』(吉川弘文館)や上杉文書の「紹襲録」による。
【藩主直属】
• 奉行(他藩の国家老に相当、3人)
• 江戸家老(2人)
• 侍頭(5人)
• 役屋将(5人)
• 儒者
• 小姓頭(2人)
米沢藩の首脳部は、奉行(3人)、江戸家老(2人)、侍頭(5人)の計10人で構成される。奉行職は上杉定勝の代に新設され、他藩の国家老に相当した。侍頭は5組編成になっている侍組の各組の番頭である。これらの重職には、藩内の上士階級である侍組の中でも特に家柄の高い家である分領家のみが就任することができる。分領家は全部で14家あるが、謙信・景勝政権下では外様扱いであった揚北衆や信濃衆出身の家が多くを占めている。しかし、奉行職については寛政10年(1798年)に馬廻組出身の莅戸善政が奉行に登用され、慣行が破られることになる。
なお、宝暦元年(1751年)に中老職が新設されたが、一時期廃止される。寛政3年(1791年)に莅戸善政の登用をもって復活する。
小姓頭は江戸の須原茂兵衛版武鑑では『用人』と表記された職で、当初は侍組しか就任できなかったが、与板組出身で侍組に昇格した森利貞(平右衛門)の登用で慣行が破られる。
役屋将は、藩境の高畠(のち糠野目)、中山、鮎貝、荒砥、小国の5箇所の要地に置かれた陣屋の城代を上杉綱憲が改称したものである。侍組から任命され、30~40人の足軽を配下に置き、藩境の警備や旅人・貨物の取締りを担当した。
【奉行配下】
• 大目付
• 仲之間年寄(3人)
• 勘定頭
• 役所役
• 町奉行(2人)
• 郡奉行(2人)
なお、仲之間年寄は3人、町奉行は2人、郡奉行は2人であった。郡奉行は一時期廃止される。仲之間年寄は六老や六人年寄とも言われる。なお、先述の小姓頭同様に江戸中期以降の武鑑では仲之間年寄と大目付は「用人」として表記されている。寛政3年(1791年)年の改革で郡奉行は六人年寄の兼務とし、勘定頭は桜田屋敷将と桜田納戸頭を兼務することになった。
【大目付配下】
• 御使番(8人、寛政3年に5人に減員)
【勘定頭配下】
• 次勘定
【郡奉行配下】
• 代官(5人)
代官は上杉定勝の時に新設されたが、当初は世襲制であった。安永元年(1772年)に代官世襲制が廃止される。
【小姓頭配下】
• 側役
• 近習
【役屋将配下】
• 役屋付
役屋付は、役屋を助けて領内の取締りを強化するために街道沿いの38箇所に設置された口留番所の役人で、三扶持方から各番所に1~2名が配置された。先に設置された板谷、綱木、花沢、糠野目、掛入石中山、小滝、荻野中山、大瀬、栃窪、玉川、蓬生戸、折戸、黒鴨、筑茂、爼柳の15箇所を本口番所、後に設置された梓山、中荒井、荒井、上片子、下片子、矢木橋、新藤台、鉄砲町、芦付、一本松、上窪田、下窪田、外ノ内、福沢、大橋、椚塚、十分一、大洞、金山、高岡、田尻、烏川、平田の23箇所を藪口番所と呼んだ。
【その他の側近職】
• 傳役
• 隠殿用人
• 部屋住用人
• 膳部番
• 手廻番
家臣団
※禄高は15万石時代のもの、侍組の席次は『致知嚢』(天保7年(1836年)作成)による。禄高の後の地名は主な知行地。
上士(侍組)
高家衆(4~5戸)
• 米沢武田氏(席次第1位、藩内500石)
武田信清(武田信玄六男)-勝信=信秀(本庄重長次男)-信安(信秀次男)-信全-信久-信福-信順-信明-信篤-信一
• 能登畠山氏(席次第2位、藩内250石)
畠山景広(上条政繁長男)-政利-政束=政永(二本松国隆長男)-茂知-茂寛=茂輔(色部政長次男)-忠茂-茂卿-義方
• 山本寺氏(席次第3位、藩内250石)
山本寺勝長(山本寺景長の子、山本寺定長の孫)=勝政(長尾景光三男)-勝興-勝安-勝紀-勝称-勝久-勝茂-勝強
• 二本松氏(席次第4位、藩内200石)
畠山氏分家、初め利根川氏を称する。
二本松国隆(畠山政利次男)=国政(利根川正隆次男)-国茂-国雄-国当-国-国審=国潤(国審の弟)
• 山浦氏
山浦景国(村上義清の子)=光則(上杉景勝側室・四辻氏の甥)…(断絶)=康長(色部久長長男)
分領家(14戸)
上杉氏譜代
• 白井長尾氏(席次第6位、藩内1000石:池黒)
長尾景広=景泰(中条三盛次男)-景光-景貞-景将=景風(岩井組織次男)-景好=景明(景好弟)=景保(芋川正令四男)-景敏-景直-景孝-国丸
• 千坂氏(席次第8位、藩内1565石:簗沢、朴沢)
千坂景親=高信(満願寺仙右衛門)-高治(高信次男)-高房-尚親-安親-興親=高敦(広居清応長男、安親外孫)-清高-高容=興高(高容の弟)-高明(興高次男)-高雅-智次郎(高雅次男)
越後衆
• 毛利安田氏(席次第13位、藩内2166石:川井)
後に毛利に復姓。
安田能元(安田顕元の弟)=俊広(那波顕宗次男)-清元-通広-宦元-貞広-毛利雅元(貞広四男)=隆元(芋川正令の弟)-方元-興元-業広
揚北衆
• 本庄氏(席次第5位、藩内1666石:鮎川)
侍頭と福島城代(のち鮎貝役屋将)を兼任。
本庄繁長-充長(繁長次男)=重長(繁長六男)-政長-英長-義長=職長(平林恒広次男)-祗長=精長(職長三男)-為長-寛長-昌長-勝長=孝長(昌長三男)
• 中条氏(席次第7位、藩内900石:山口新地)
中条三盛(中条景泰長男、中条藤資の外曾孫)-盛直-知資=清資(島津通忠次男)-親資-備資-総資=至資(竹俣秀周三男)=達資(色部至長次男)-明資(達資の孫)-宮吉
• 色部氏(席次第12位、藩内1666石:窪田)
屋敷跡は現在、米沢簡易裁判所。戊辰戦争の戦後処理で一旦断絶となるが、明治16年(1883年)に赦免。
色部光長(色部長真長男、色部勝長の孫)=利長(安田俊広次男)=清長(武田勝信次男)=安長(長尾景光次男)-隆長-政長-照長=至長(政長五男)-致長=篤長(香坂好昌次男)-久長-康長
• 竹俣氏(席次第17位、藩内1000石)
屋敷跡は現在、九里学園高等学校。屋敷門が林泉寺の山門として現存。
竹俣利綱(竹俣慶綱養子)=房綱(市川房綱次男)-吉忠=義澄(竹俣義秀長男)-充綱-本綱(不家督)-当綱-厚綱=良綱(竹俣秀賢次男)-紀綱-久綱
• 竹俣西氏(席次第27位、藩内600石)竹俣氏分家、初め保科氏を称する。
竹俣義秀(竹俣房綱次男)-斉秀(竹俣義澄の弟)-森秀=英秀(鮎川近長長男)-寿秀-周秀-忠秀=保秀(周秀弟)=陳秀(本間秀豊次男)-有秀=順助(斎藤篤信次男)
信濃衆
• 須田氏(席次第9位、藩内1000石→200石:高梨)
七家騒動で侍組平侍に降格。
須田長義(須田満親次男)-秀満-義当-義宣-義成=知義-満主-満清-満照=満親(計見伝右衛門次男)-義比-義遥=義道(本間高純次男)
• 市川氏(席次第18位、藩内1066石)
市川房綱-房忠(房綱三男)-房則-房行-英房-兼雄-盛房-英房-房郷-房隆-房煕-慎一郎
• 清野氏(席次第19位、藩内1416石)
清野長範(平田常範の子)-秀範-重範=範佑(長尾景貞次男)-秀佑-祐秀(不家督)-邦秀-秀将-秀貞-秀雅-秀趨(秀雅次男)=秀彪(秀趨弟)
• 芋川氏(席次第20位、藩内985石→200石)
七家騒動で侍組平侍に降格。
芋川正親=元親(芋川守親長男)-綱親(正親長男)-高親-正親-正処-英親-正令-延親-親生-親和=尊親(竹俣秀興の弟)-愛親=憑親(下条親喜三男)-宗親
• 信濃長沼島津氏(席次第21位、藩内1116石→500石→800石:一本柳)
島津忠直-義忠=利忠(岩井信能の子)=通忠(中条盛直次男)-友忠-房忠=行忠(房忠の弟)-昌忠-知忠-親忠-玖忠-教忠-容蔵
• 平林氏(席次第30位、藩内850石→1000石:笹子平、焼平)
平林正恒-正興(正恒次男)-正信-正包-恒広-正相-正村-正在-正賀-正亮-正名-正国
平侍(約70戸)
上杉氏譜代
• 越後斎藤氏(席次第22位、藩内200石:長手)
斎藤景信(斎藤朝信長男)-信成-安信-真信=清信(本庄政長次男)-滋信-尊信-朝安=英信(須田知義次男)-寿信-庸信-篤信
越後衆
• 柿崎氏(席次第16位、藩内250石)
柿崎憲家(柿崎景家の子)-正家-家永=家重(家永弟)-家親(不家督)-家豊-家孝-家斉-家審-家範-家成-家教
• 大国氏(席次第25位、藩内250石)
大国実頼(直江兼続の弟)=光頼(樋口秀兼長男)=頼高(蓼沼恒高長男)-頼屋-頼継=頼端(竹俣充綱三男)-頼泰-頼昆-頼及-頼隣-頼重
直系子孫に大國昌彦(王子製紙元会長)。
• 新津氏(席次第26位、藩内508石)
新津秀祐(赤津弾正の子、新津勝資養子)=続久(山岸尚家の子)-続秀-続興=続柄(宮島家長長男)-続宣-続相-続喬-続宗
• 甘粕氏(席次第41位、藩内250石:谷地)
甘粕景持-重政-忍重-重親-栄重-景豊-景元(景豊次男)-景武-景通-景弘-景任
直系子孫に甘粕正彦陸軍大尉。
• 甘糟氏(席次第81位、藩内200石)
甘糟景継(登坂清高長男)-吉継=安継(甘粕長継次男)=正継(長継三男)-継信=忠公(栗林政盛三男)-継慶=継武(芋川正令の弟)=継光(仁科盛大次男)-継寛-継善-継成
上田衆
• 黒金氏(席次第24位、藩内500石)
後に鉄に改姓。
黒金泰忠(島倉泰明長男、黒金景信養子)=鉄泰利-泰房(泰利次男)-景泰-景雄-景達-景栄-景有-景福-景巍-景安
• 広居氏(席次第37位、藩内500石→850石)
後に侍組分領家に昇格。
広居忠家-忠佳=忠清(広居忠房長男)-忠良-佳康-清応-忠起-忠通=忠良(毛利方元次男)=忠益(松木秀実次男)-忠善=徳丸(本庄昌長次男)
• 樋口氏(席次第42位、藩内250石)
樋口兼豊(直江兼続の父)-秀兼(兼豊三男)-長兼(秀兼次男)-兼久-兼置-兼信-兼喜-兼当-兼通-兼隆=兼利(平林正賀三男)-兼春
与板衆
• 志駄氏(席次第80位、藩内250石:上小管)
志駄義秀-義繁(義秀次男)-義知-義尭-義尉-義貴=義和(岩井央親三男)-和義=義勝(斎藤庸信の弟)=義立(色部篤長次男)-竜雄
揚北衆
• 大見安田氏(席次第14位、藩内416石:若狭)
安田堅親(河田元親三男、安田長秀養子)=家親(福島秀重三男)-信親-秀積-秀精-秀村=栄秀(岩井安親四男)-秀俊-秀政-秀疑
• 黒川氏(席次第15位、藩内500石)
黒川為実(黒川清実の孫)-義周=義実(為実次男)=義忠(春日元忠三男)=義元(本村利盛次男)-義治-義直-義知-義肥-義陳-義真-義住=義質(清野秀貞の弟)-義府=義挙(義府弟)-義道
• 鮎川氏(席次第23位、藩内250石)
鮎川秀定(鮎川盛長養子)=信重(本庄長房長男)=高長(千坂高治次男)-房長-近長-尚長-亮長-朗長=光長(中条至資次男)-輔長=寿長(輔長の弟)
• 下条氏(席次第28位、藩内250石:勧進代新地)
下条忠親(河田元親次男)-正親-守親=繁親(宇留賀忠右衛門長男)-豊親-秀親-富親-親貞=親全(親貞の弟)-親明=親喜(島津知忠次男)-親義-親英
• 水原氏(席次第32位、藩内200石)
後に杉原に改姓。
水原親憲(大関盛憲の子)=憲胤(下条正親次男)=杉原忠親(正親三男)=次親(平林正興次男)=方親(下条繁親次男)=全親(平林正包次男)-親宣=芳親(仁科盛寿三男)=皆親(夏井範風の弟)-親好=美親(莅戸政以次男)-親賢-親徳
• 新保氏(席次第34位、藩内200石)
新保盛喜(新発田重家の弟)-長之(盛喜次男)-重之-定之-正之-村綱-利綱-一綱=光綱(松木秀尋次男)=綱領(色部篤長叔父)=朝綱(篤長三男)
信濃衆
• 高梨氏(席次第11位、藩内250石)
高梨頼清-豊泰-頼章=頼長(頼章の弟)-頼寛-頼通-頼実-頼為-頼立=頼昌(色部久長次男)
• 岩井氏(席次第27位、藩内585石)
岩井信能-相高(信能三男)=元則(相高の甥)-信門-元農-信政-信全-相信-信喜(相信次男)-信興-信賢
• 香坂氏(席次第29位、藩内350石:田沢)
香坂昌能=忠昌(井上達満四男)-高昌-長昌-豊昌-長興(豊昌の孫)-直昌-昌明-克昌=昌象(克昌の弟)-昌邦
• 春日氏(席次第65位、藩内500石)
春日元忠-続元-元重-方元-元直-元著(元直次男)-好元-元聴-元長-元龍-元定
武蔵衆
• 大石氏(席次第35位、藩内200石)
大石綱元-兼扶-兼徳-兼高-兼般=兼豊(長尾景貞三男)-尚綱-綱豊=徳綱(森長延次男)=維綱(清野秀貞次男)-紀綱
その他
• 上松氏(席次第10位、藩内250石)
初め総社長尾氏の名跡を継ぎ長尾氏を称する。
上松義次(木曾義昌外孫、上杉景勝正室・菊姫の甥)-義長=義祗(西条秀明三男)-義局=義蕃(島津知忠の弟)=義豊(知忠三男)-義方-義道-義忠-義近
• 吉江氏(席次第36位、藩内200石)
吉江長忠(吉江景資三男、吉江宗信の孫)-長次=長延(安田清元四男)-長逸-長軌-輔長=長直(栗林政純弟)-長重-長民-長発
• 狩野氏(席次第73位、藩内200石)
狩野秀利(狩野秀治長男)=正朝(吉江景利次男)=友清(吉江景淳四男)-秀厚-秀延-秀直=秀宣(安田貞広四男)=秀豫(貞広五男)=秀興(千坂高豊次男)=秀詮(吉江輔長次男)-秀鋭-実秀=秀朗(清野秀貞の弟)-秀堅
• 上泉氏(席次第90位、藩内250石)
上泉泰綱(上泉信綱の孫)-秀綱=秀富(志駄義秀三男)-秀風-秀就-秀賢(秀就次男)-秀一=秀栄(清野秀秋次男)=秀厚(大国頼端次男)=秀時(毛利隆元次男)=秀寿(毛利方元弟)=秀雅(市川房郷次男)-秀俊
傍系子孫に上泉徳弥海軍中将。
中士
三手組
馬廻組
上杉謙信の直臣で構成、組名は上杉謙信馬前に由来
• 莅戸氏(席次第38位、藩内150石→550石)
後に侍組分領家に昇格。
莅戸秀政-政吉-政長-政共-英政(不家督)-善政-政以-政在-政養-政寛
• 河田氏(藩内25石)
河田貞親(志賀清親の子、河田長親の甥)-吉次-吉重-義慰-達親-胤親-明親=親賢(野呂久寛次男)-信親-親順
五十騎組
上田長尾衆で構成、組名は上杉景勝の直参五十騎に由来
• 山岸氏(藩内50石)
山岸尚家(深沢尚重次男)-家久(尚家次男)-家智=正祐(赤津権左衛門の弟)-光之-光寛-光利-光
• 桜井氏(藩内50石)
桜井吉晴-勘左衛門(不家督)-義直(勘左衛門次男)-義茂=勘兵衛(河田五郎兵衛次男)=義重(山田弥五右衛門の弟)-義知=義孝(吉池貴達次男)-義益-義賢-義昌=義起(下平忠勤次男)
• 泉沢氏(藩内25石)
泉沢久秀=直久(青木左内次男、久秀の甥)-満久=前秀(笹生吉秀次男)-秀浄=尚秀(上山八郎右衛門次男)=秀詮(青木新蔵の弟)=秀就(黒井小源太次男)=秀雄(下平敬政次男)=秀発(鈴木長香四男)=秀成(大石道綱次男)
• 安部氏(藩内25石)
安部政親(岩船忠吉次男、安部政吉の甥)-政次-政高-政乗-政安-政常=政織(林政実次男)=政敏(高梨頼実の弟)=政忠(山宮忠豊四男)
• 黒井氏
黒井繁之-忠寄
• 山吉氏(分家)
山吉盛侍
与板組
直江兼続の直臣で構成、組名は与板衆に由来
• 森氏(後に侍組平侍に昇格、改易)
森直義=利真(森平太夫の次男)
三扶持方
猪苗代組
侍組から漏れた越後の国人衆及び信濃衆で構成、組名は会津移封後に猪苗代で知行地を与えられたことに由来
組外
関ヶ原の戦いの際に集められた浪人で構成
• 前田利益
• 車斯忠
• 岡定俊
組付
侍組・三手組の分家で構成
下士
三扶持方並
訴文組
足軽
• 神保氏(後に五十騎組)
神保忠昭-神保綱忠
上杉家一門
藩士
• 山浦上杉家 犬懸・越後守護家庶流。
• 山本寺上杉家越後守護家庶流。
• 米沢武田家 武田信清(甲斐武田氏武田信玄の六男)の子孫。
• 能登畠山氏 畠山景広(上条政繁の長男)の子孫。
幕臣
• 加賀爪上杉家 犬懸上杉家庶流の譜代大名。
• 深谷上杉家 山内上杉家庶流の旗本。
• 宅間上杉家 宅間上杉家嫡流の旗本。
高家
• 上条上杉家 上条長員(上条政繁の次男)の子孫。
• 能登畠山氏 畠山義真(上条政繁の三男)の子孫。
幕末の領地
• 出羽国(羽前国)
• 置賜郡 - 294村
上記以外に、明治維新後に後志国磯谷郡の一部が所領に加わった。また、越後国岩船郡91村の幕府領を預かったが、全域が村上藩に編入された。
脚注
注釈
引用元
*『シリーズ藩物語 米沢藩』(米沢市立図書館・米沢市文献など)

 「雲井龍雄へのあこがれ」

私が幼児から、雲井龍雄という名に大きな魅力を持ったのは次の三点である。
 まず第一は、近代国家建設の理想を掲げてようやく成立した明治政府の中核となった薩長など、一部雄藩の独断専行を憂いて、これを予防するために一身を犠牲にして、それを少しでもくい止めようとした、そのたくましい反骨精神と、比類を見ない行動力であった。
 その第二は、雲井龍雄という、その名前である。変名とはいいながら、雲を呼んで龍が昇天するという気概の雄大さ、生まれた年が辰の年(甲辰・きのえたつ)、辰の月、辰の刻であったので、本名龍三郎も自分でつけたという名前の魅力である。
 その生活は貧苦のどん底にありながらも上杉士族であり、かつては農工商の上に立ったという誇りを、昭和のはじめまで保っていた。雲井龍雄の雲井姓は、それまで姓を持たなかった農工商の誰もが自由に名乗れた筈である。置賜地方の電話帳をみても雲井姓が見られないこと。緑川姓、著者の本名姓と同じである。
 その第三点は、雲井龍雄が幼時、北隣の上泉源次郎に師事して勉強して勉強していたころ、師の源次郎龍雄の気骨を愛し、孟嘗君(もうしょうくん)のようだと言ったので、上泉家の子供たちも龍雄を孟嘗君と呼び、誰もほんとうの名を呼ばなかったという。孟嘗君は中国の戦国時代、斉(さい)の宰相で、多くの人材を育成した。龍雄に同じような性格を見て、そう呼んだのもしれない。
(「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作 遠藤書店 参照27~31ページ)
 緑川鷲羽としてのこの作品の執筆動機は、米沢市の「近代幕末維新時代の歴史上に埋もれた無名の「雲井龍雄」」を世の中に知らしめる為に物語としての作品を執筆したい、という動機からである。雲井龍雄は漢詩、詩吟のごく狭い世界で、詩吟の「棄児行(きじこう)」で、ほんの一部のひとに知られているだけである。
これだけの歴史上の偉人が、まるで存在していなかったように思われることの米沢市民としての私の「悔しさ」、は他の都道府県民に理解できるだろうか?また、そのような同じ気持ちで拙著『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』もものした。まだまだマイナーな存在である上杉鷹山公を世界中に「知らしめる」目的でものした。拙著『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』は小説だが、本作『昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代』は純文学小説ではなく歴史エンターテインメントの類である。ドラマ化劇画化の際には、ちゃんとした脚本家が必要になるだろう。文学に純も不純もある訳ないが、私は正直「純文学」は大嫌いである。
もちろん雲井龍雄も上杉鷹山公も、童門冬二さんや藤沢周平さんらが小説としてものしておられる。雲井龍雄の生涯を「小説」として楽しみたいのならこの私の作品と藤沢周平さんの小説がおススメである。だが、米沢市以外で雲井龍雄や上杉鷹山公はまだまだ無名に近い。そこに私は雲井龍雄や鷹山公の大河ドラマ化の新鮮度・歴史的意味の可能性の高さをみる。
 驚くのは東京人とか関西人などに「上杉鷹山公を知っていますか?」「雲井龍雄を知っていますか?」と訊くと未だに八割は「誰ですか?そのひと」と逆質問をされることだ。
さすがに「上杉謙信公」や「直江兼続公」「上杉景勝公」のことは大河ドラマ『天地人』『天と地と』『花の慶次(劇画・漫画)』でご存じの方が多くなった。けれども鷹山公も雲井龍雄も「誰でも知っている」等とはまだいかず、米沢市で真剣に生きている私(著者・緑川鷲羽)は下唇を噛むしかない。やはり『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』『昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代』はテレビドラマ(「上杉鷹山」公に関しては20年くらい前にNHKで単発テレビドラマ化されたが、大河ドラマ『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』でなければ満足しない)、大河ドラマ、映画化映像化しなければ鷹山公も雲井も浮かばれない。
 また同じように緑川鷲羽が前田慶次の小説『絢爛たる慶次 -花の前田慶次郎烈伝―』をものしたのも同じ動機づけからだ。漫画や劇画の『花の慶次』は知っていても「米沢市ってどこにあるんですか?」という人が多い以上、自称米沢市が生んだ天才・平成の上杉謙信・上杉鷹山の緑川鷲羽が米沢市繁栄と栄達の為に粉骨砕身するしか道がない。米沢市の未来や観光産業や震災復興のために私が粉骨砕身する次第しか、他に道がない。いずれは米沢市長になり、米沢市を建て直す野望の緑川鷲羽の志、「上杉の城下町・米沢市への愛」が、この作品なのである。

吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・虎之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉虎次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、この物語「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯」の主人公・杉文(すぎ・ふみ)の13歳年上の実の兄である。
  松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どおり、売春が合法化されていていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公の杉文(すぎ・ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料や写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
 であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか?は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。 


雲井 龍雄(くもい たつお、天保5年3月25日(1844年5月12日) - 明治3年12月28日(1871年2月17日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての志士、集議院議員。本名は小島守善(もりよし)、字は居貞、号は枕月または瑚海侠徒とも。壮志と悲調とロマンテイシズムに溢れた詩人とも評されている。雲井龍雄という名は明治元年(1868年)頃から用いたもので、生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる。また、自称変名として用いたものに遠山翠(とうやまみどり)、一木緑(いちきみどり)、桂香逸(かつらこういつ)などあるが、雲井龍雄の変名がもっとも知られている。
生涯
天保15年3月25日(1844年5月12日)、米沢藩士の父・中島惣右衛門平(勘定(会計)、借物蔵役(倉庫当番)等6石3人扶持)と屋代家次女・八百の2男2女の次男として米沢袋町に生まれる。幼名は豹吉、猪吉、さらに権六、熊蔵などと名前を変えた。
幼い頃は負けず嫌いで腕白な性格であった。8歳で近所の上泉清次郎の家塾に就学し、その優れた才能と胆力を認めた清次郎から孟嘗君と呼ばれた。9歳にて師・清次郎が病死すると山田蠖堂(かくどう)の私塾に移り、12歳の頃には郷学の中心的存在であった曾根俊臣にも師事する。14歳からは藩校「興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学。興譲館は主に官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場であったが、龍雄は「優秀」に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けた。好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破し、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達する。
18歳のとき、叔父・小島才助の養子となり、丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶る。20歳のときに才助が死去したため小島家を継ぎ、21歳で高畠の警衛の任に就いた。慶応元年(1865年)、米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒(やすいそっけん)の三計塾に入門。息軒は昌平黌においても朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせた。こうした学風を受け龍雄は経国済民の実学を修め、執事長(塾頭)にも選ばれており、息軒から「谷干城(たにたてき)以来の名執事長」といわしめたという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがいる。またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助と出会った。


雲井龍雄は本名を小島龍三郎(または小島守善・もりよし)といい、天保十五年(一九四四)正月(一月)二十五日、出羽国(山形県)米沢の藩士、中島右衛門(そうえもん)の次男として、米沢の城西、袋町(現松が岬二丁目)に生まれた。袋町は米沢城の外堀に代わる堀立川を西に、五十騎町を東にして南北に長く、北から入るただ一筋の道が行きどまりで袋のようになっているのでこの名がつけられた。
「おお、でかしたぞ!まるで女子のようにかめんごい(可愛い)顔の綺麗な赤子じゃ」
父親はのちの雲井龍雄となる赤子をあやした。
「まあ、もう親ばかにございますか?旦那様」産後すぐでくたくたな母親が、幸せそうに微笑んだ。確かに生活はあまり余裕のあるものではなく、苦難の貧乏生活である。
だが、文武両道と武門で知られる出羽米沢藩の藩士であり、軍神として城下でも尊敬の的である上杉謙信公を藩祖としている(上杉家としての祖で、米沢初代藩主は謙信の養子・上杉景勝)伝統ある上杉家の家臣で、ある。
 家格で言えば農工商の頂きにいる士族である。
長男がいて、のちの雲井龍雄は嫡男ではないので家督は継げない。だが、父親は何かと聡明な龍雄に驚かされることが多かったという。まず、学問の吸収と栄達が極めて早かった。
俗に『神童』という存在がいるが、のちの雲井龍雄はまさにそれであった。
ちなみに幼名は猪吉(いのきち)といった。やや長じてから養父の名をそのまま継いで権六(ごんろく)、または熊蔵と呼ばれた。もの心ついてからの名前は龍三郎(自分でつけた変名のひとつ、正しくは守善・もりよし)という。肖像写真で見てもわかるように、まるで「美貌の女性」のような端正な顔と華奢な身体で、ある。だから、「女子のような野郎」、「姫様!」と、父親の上司・家臣士族の寺子屋などの同級生たちから『村八分』にされたり、からかわれたりすることもあったという。
投石やからかいのまとになるとのちの雲井龍雄(小島守善)は石を投げ返す。
「女子!姫!姫!」
「馬鹿者!私は女子ではない!米沢藩の昇り竜・雲井龍雄だ!」
 雲井龍雄こと小島守善はいじめを苦に自殺するような心の弱い人間ではない。
復讐のためにと、誰よりも勉学に励んだ。
雲井龍雄は勉強を続けて、眠くなると硬い棒で自分の額を殴った。睡魔を殴ってでも、追い払い、「勉学で知恵によって貧困層から抜け出し「いじめっ子たちより社会的に成功する」」という野心満々の男であった。優しい華奢なやさ男に見える肖像写真からのイメージとはまったくギャップがある性格と野心だ。だが、それが雲井龍雄である。
かつては寺子屋が、藩士庶民たちの学校である。まあ、今でいえば小学校な訳だが、当然ながら「学校給食」などある訳がない。皆「弁当」持参である。のちの雲井らは貧乏だから、米に梅干しのいわゆる「日の丸弁当」である。また「貧乏人」とからかわれる。
のちに雲井龍雄となる小島守善は帯刀を藩に願い出て、許可された。この帯刀は事実上の元服といえる。しかし、のちの雲井龍雄は小柄で華奢で、一目見ると少女のようであった。しかし、その内心には武士の魂が育っていた。このころ雲井少年をいじめていたいじめっ子たちのボス的存在が、家老の佐藤某という息子の大柄な嫡男である。
米沢藩内で雲井龍雄こと小島守善が繁華街を歩いていると、その佐藤某の嫡男やいじめっ子たちが「女子男!女郎!」と囃し立てる。
佐藤某の息子が「女子男にその腰のモノが抜けるのか?それとも飾りか?」と木の枝で龍雄の帯刀をこんこん叩いた。
「無礼者!」
 とうとう龍雄は刀を抜いた。
「おっ………」
野次馬が集まってくる。龍雄少年は「皆様方、この男はこれが飾りと抜かした!飾りならば人の肉に触れても害はないであろう。試してみるので是非ご見物くだされ!」
と、刀を構えた。
「おお~っ!」「試すって?」「まさか斬るのか?」野次馬達がざわざわする。
佐藤某の嫡男は「な…なんだ?本気か?」とびくついた。
「しえええーい!」龍雄は刀を振りぬいた。
ばばっ!佐藤某の嫡男のちょんまげが斬れ、落ち武者みたいになる。
「わわっ…」
「飾りじゃ飾りじゃ、飾りをこわがるなよーつ!」
いじめっ子たちが恐怖で逃げ出した。
「お前の首を血で飾れ!」龍雄が刀を構え、大声で威嚇した。
「わああああぁあ~!」
 佐藤某の嫡男も逃げ出した。
「あははは。飾りがこわくて逃げおった!」龍雄が不敵に笑った。
 だが、しばらくすると家で父親に怒鳴られた。
「馬鹿者!佐藤のおぼっちゃまに抜刀するとは何事か!」頬を平手打ちされた。
そして、「折檻ではないぞ」といい蔵に押し込み「おしおき」のために閉じ込められた。
雲井龍雄少年は「もうしませぬ!もうしませぬ!ええ~ん!」と泣きだした。暗所恐怖症のうえに閉所恐怖症で、さらに高所恐怖症でもある。
病気がちの母親は息子を、助けようとするが、龍雄の父親が、
「甘やかしてはならん!」と止めた。
しばらくして、息子は出された。
雲井龍雄少年は学問にも長け、文武両道であったが、涙もろく、人情に篤かったという。つまり、繊細な性格なわけだ。母は晩秋、鮮やかに色づき次々と秋風に散りゆく光景で、
「守善、何故、紅葉が鮮やかに朱色や黄色に色づき散っていくかわかりますか?」と訊いた。龍雄は「わかりませぬ」と息子は正直にいう。
すると母は「紅葉は御屋形である木を守る為にかわりに燃えるように色づき、御屋形の木を守る為に散っていくのですよ。お前も紅葉のような米沢藩の上杉さまに仕える家臣とならねばなりませぬ。けして学問が上達しても努々「自分が他人より偉い」等と思いあがってはなりませぬぞ」
「はい、わかりました母上」
 雲井は約束した。
 母は労咳(肺結核)であった。ごほごほと病床で咳をして、喀血して、自分でも驚いたろう。そして、雲井の母親はまた、紅葉のように早逝するのである。
龍雄は泣いた。そして、母との別れで心の中で「母上、かならずお約束お守りいたします。母上、おしょうしな(ありがとう)!」と誓った。

殺人鬼・福本清二OUR2010福本清二こと竹井聖寿被告の犯罪とポンコツ人生「ヘタれ殺人鬼ガッキーヲタ」

2014年04月20日 18時54分21秒 | 日記
殺人鬼福本清二1



短編小説
  殺人鬼・福本清二 OUR2010



                ~アイドル・カッキーと首相を殺した男。
                トカゲ!!~
                フィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ




          あらすじ
  福本清二は千葉県に住む高校生であった。2010年頃、関東在住17才の高校生男子で童貞いじめられっこのドコモ携帯所有のアイドル・カッキーのファンのオタク男である。
千葉県で2010年に行われたAPECの凱旋パレードで日本国首相・野原誠彦と飾りの古垣結衣(カッキー)を銃殺したという陰謀に巻き込まれることになる清二であったが…。



1 福本・パンティータオ・パンローファイ・清二


トカゲである。
この物語の主人公、福本清二はまさに「トカゲ」である。トカゲのように目が離れていてまるで捕食天敵から自分を守るような顔である。イケメンでは到底ない。
 ただのトカゲ男だ。
福本清二は本名は福本・パンティータオ・パンローファイ・清二という。パラグアイ系移民4世であり、特技は「悪口をネットに書き込む」ことだけ。童貞で2010年には17歳であった。ドコモの携帯でネットに有名人の悪口を書き込む。只、それだけのカス男だ。
彼は沖縄出身のアイドル古垣結衣(ふるかきゆい・通称・カッキー)の大ファンである。清二はいじめられっこで不良グループの「パシリ」もさせられる。千葉県千葉市のバカげた三流高校3年生であるが、頭が悪い為「トカゲ(清二)は大学生にはなれない」とさえ言われる。
だが、福本清二は「自分は醜い」と自覚していない。
アイドル・カッキーと本気でセックスや結婚できると、本気で思っている。馬鹿なやつ。
清二愛しのアイドル古垣結衣・カッキーは若手俳優・四浦秋馬と同棲して、にゃんにゃんやっていても清二はカッキー写真集手にオナニーに耽るのみだ。
 福本清二はチビで手足が貧弱で細くケンカには弱い。友達もひとりもいないからネットと漫画だけが友達である。
まさにトカゲである。

  2010年某月某日の千葉県千葉市には世界のVIPが集まっていた。
まさにAPEC(アジア太平洋経済会議)で世界中の要人がSPに守られながら千葉県に集まっていた。この日は千葉県出身で内閣総理大臣になった野原誠彦氏(47)がオープンカーで凱旋パレードをする日である。休日午後三時曇りだ。
 だが、清二にとって首相など糞である。
クソッタレ、でしかない。しかし、首相のとなりには憧れのカッキーが座って手を振るそうで、福本清二は興奮していた。広い沿道は人だかりである。
「くそぉ、カス良男め!パンと缶コーヒーだなんて」
福本清二はパンと缶コーヒーをコンビニで買うと、人だかりの近くのビル階段をのぼって屋上にでた。福本清二は地上のひとだかりを感じながら「買ってきました、良男くん」
 ビルの屋上には学ラン姿の不良グループの龍崎良男が冷や汗をたらし、まるで拳銃で狙われているかのように動作もなくぶるぶる震えてひとりで仁王立ちしていた。良男と清二以外誰もいない屋上…。
「どうしたの?良男くん」
 清二は不思議だった。まるで凍結したかのような不良に。「カッキー見たいからもういいでしょ?良男くん」
「…ば……馬鹿…野郎…」良男は小さな声で囁いた。「ほんとにパシリして…んじゃ…ねえ」
「でも、良男くん?」
「トカゲ…お…お前…大きい陰謀に…まきこまれる…ぞ。」
「え?」
 清二が?な顔をしているとしたの道路で歓声が聞こえた。首相とカッキーだ!
やっときた。「逃げろ…トカゲ…オ…オズワルドに…され…んぞ」
 次の瞬間、乾いた銃声が三発響いた。
きやあああーっと悲鳴と怒号…。龍崎良男は遠くの銃から着弾したのか胸から血を流して倒れた。と同時に首相とアイドルも撃たれたようだった。清二は狼狽して戦慄した。不良が目の前で撃たれて死んだのだ。屋上には気付かなかったがライフルセットが置かれていた。銃口はパレード側を向いており、銃口から煙がもあもあして熱い。なんで?なんで?
 地上ではまさにパニックである。迷うことなく警備のSPや警察が見下ろして狼狽している福本清二を指さして近よってくる。もう、犯人は事前に「福本清二」で決まっていたかのように。動作がきびきびしている。さすがはプロだ。
…まさか?この俺様が「犯人」に?福本清二は尻もちをついた。間違いはない。警察は自分を捕まえて「オズワルド」にする気だ。
福本清二は自分のことを「俺様」と呼んでいた。が、一般的には「ぼく」といっていた。「俺様」というのはネット上の時だけでいじめられるから口にはださない。
清二はいじめられて生きてきた。
トカゲみたいに目が離れて、またパラグアイ系移民4世であり、マイノリティである。
そんな「俺様」(笑)が「オズワルド」にされそうだ。
逃げなければ!
トカゲの本性が捕食天敵から逃げろ、と知らせていた。警告の赤ランプがチカチカ光っていた。ひいいいーっ!清二は尻もちをつき狼狽した。とにかく逃げねばならない。ひいいいいいいーっ!清二は失禁した。だが、ぶるぶる震えながらも起きだし階段に急いだ。
 一かゼロか?とにかく警察に捕まれば「オズワルド」にされる!ひいいいいいいーっ!
諤々震える足取りで地上まで階段を下りた。幸いか裏路地は警察官はまだいない。
トカゲ清二は必至な形相で逃げ出した。と、警察官がふたり補食(笑)しようととおせんぼ。もうだめだ、とあきらめたとき奇跡がおこった。
髭顔の俳優のオダギリジョーをチビで痩身にしたような長髪黒衣のオタク中年男が疾風のように現れ、警官をナイフでさした。警官は倒れる。「おにいちゃん、逃げな!」
トカゲ清二に、殺戮者オタク男はにやりと言った。
トカゲ清二はひいいいっ!と囁きにちかい悲鳴のまま狼狽なまま駆け続けた。
ラッキーはその日は福本・パンティータオ・パンローファイ・清二が警察にも捕まらず逃亡に成功したことだろう。
「誰だ、あの髭男?ひいいいいっ!」トカゲは必至に駆けた。もう何がなんだかわからなかった。ひいいいいいいっ!

トカゲは朝まで千葉県内のインターネット・カフェで身を隠していた。
状況は最悪である。インターネットTVではニュース番組で昨日午後の「野原首相とアイドル・カッキーの暗殺」をガンガン流している。トカゲ清二は信じられない顔で涙目で画面を観ながらぶるぶる震えていた。ニュースによると首相とカッキーは銃弾を二発、胸に浴びて射殺され、崩れ落ちりパニックになる動画…なぜか改造ライフルで銃撃した福本清二らしき人物の動画…。福本清二は匿名でもなく未成年なのに本名でがんがん流されている。
トカゲ清二には身に覚えのない改造拳銃や改造ライフルに熱中していたという情報や銃撃のスクープ映像…。また不良の良男の死は福本清二が射殺したことになっていた。それが三発目の銃声だという。暗殺による内ゲバだという。
福本清二の政治家や政治に対する過去の書き込み…カッキー関連の情報……福本トカゲはカッキーを殺すとネットに書き込み…。ひいいいいいいいっ!
 すべて「でっち上げ」「嘘」であるが画像に映る福本清二はそっくりな顔立ち体つきである。何か巨大な陰謀が動いているのは確かであった。ひいいいいっ!ひいいいいっ!
「全国指名手配」であるという。
「おにいちゃん凄いねえ、首相とアイドル殺しだって?」
「え?!」
みるとインターネットカフェのボックスの衝立越しにさっきの髭中年男が顔を覗かせていた。天敵ではないらしい。にやにやしている。トカゲ清二は、
「ぼくはやってない」
と強調した。すると髭中年男も「おいらも警官殺しなんざやってねえぜ」と笑った。
清二は「冗談じゃないんです。ホントに僕やってないんです」と泣きそうになった。
「…ふううん」
髭中年男は「あんちゃん、お金あるの?逃げるのには金いるぜ」といった。
「ない」
トカゲはおどおど言った。



トカゲは髭男についていくしかない。
オプションはそれしかない。「お尋ね者」そうさ!僕は「お尋ね者」だ!何故だかわからないが昨日から「全国指名手配」の「暗殺者」にされてしまった。もう午後の曇り空で髭男は千葉市内の人通りのない安アパートに案内してくれた。「これおいらなんだなあ」髭中年男は「指名手配ポスター」の殺戮魔・福本清二の隣の指名手配男を指指した。田中武雄…通り魔…指名手配…
「でも…顔が…違いますよ?」
「整形したんだよ」
髭男がにやっと微笑んだ。
 「ま、遠慮なくどうぞ。腹へってんだろ?カップラーメンでも食え」
アパートの雑な一室はごみ屋敷のようであった。「あんちゃん、親とかは?」
…このアパートの住人も殺したのか?…そうききたいのを堪えてトカゲは、
「ばあちゃんしかいないです。生活保護中で…」
「そうか、社会の寄生虫か」
…黙れ、人殺し!…トカゲは心の中で呟いた。
「このばあちゃん?」
TVを髭男がつけるとトカゲ清二の祖母が、メディア・スクラムで「孫に伝えたいことは?」
「人殺しの孫にいうことは?」と攻撃される報道が映った。
ひいいいいいいっ!
「首相とアイドル殺しかあ、改造ライフルでバキューン!バキューン!」
髭男は笑った。
…黙れってんだ、人殺し!…トカゲ清二は心の中で髭男を呪った。
「僕には暗殺なんかできないんです!陰謀なんです。オズワルドにされてるんです!」
「オズワルドに?JFK暗殺の?」
「そうです。僕ができるのはネットに悪口を書き込む事だけです」
「…じゃあ、ネットに首相殺すってのか?」
「違います!そんな書き込みしてないです」
「でも…この狙撃スクープ映像はお前だぞ?」
「やってない!やってない!わあああああんん」トカゲは見苦しく取り乱して号泣した。
「まてよ」
髭男はニュースでやる狙撃映像の「福本清二」とそばにいる福本清二を見比べた。あ、違う。そうだ違う。「おい、あんちゃん。この狙撃しているあんたと今のあんた耳の形が違うべ」そうだ、整形した経験が物語る哉で、ある。どんなに整形で似せても耳の形だけは似せられないのだ。「おい、あんたのいうこと本当かもな」
「…え?」トカゲは顔を上げた。涙を腕で拭った。






殺人鬼福本清二2

      2 パンティータオ!


 しばらくは静穏だった。
だが、通り魔・田中武雄のいうとおり「このままじゃ燻りだされる。警察が狭い千葉県をローラー作戦でしらみつぶしに一軒一軒潰している」袋の鼠!くそう四面楚歌だってんだ!トカゲ清二はまたキモく泣きだした。
「おいらはちょっと用があるんだ」
「…よ…用ですか?」
トカゲは泣きながら聞いた。
「お前友達とかいねえのかい?」
「…いません」
通り魔はにやりと「そんなこたあねえだろう?信用しているやつだよ」
「……いません。でも……バイト先の不良のカス浜田翔太なら金貸しています」
トカゲは嘘を言った。お金を貸しているのではなく「脅し取られた」のだ。
だが、自分に借金のある浜田なら自分に手を貸してくれるかもしれない。
望みはゼロではない。
「とにかく」通り魔は「おいらの携帯に何かあったら連絡せいよ。このアパートだって危なくなる。すぐいけ、いいな?!」
「…はあ」
トカゲは元気もなくいった。「とにかく千葉県外にでないとやられる」
トカゲと髭男はわかれた。


  浜田翔太という不良とトカゲのバイト先はファミレスである。トカゲは皿洗い、不良の浜田は茶髪のピアスで芋や人参の下ごしらえの「下っ端」である。あの暗殺事件から3日後の青天の午後四時に、帽子を深くかぶりトカゲ清二は裏の調理場窓口に侵入した。
 やがて浜田がコック服で生ごみ袋を重そうに抱えて出てきた。
「翔太くん翔太くん」
 トカゲがひそひそ声で近付いた。「げ!トカゲ…お前」「しいいっ!」
「何しに来たんだ、トカゲ?」翔太は迷惑そうにひそひそ言った。
「金」「あん?」「お金だよ、翔太くん」
「金か? わかったよ。返せばいいんだろう? お前やらかしたなあ」
「ぼくは何もしてないよ。できる訳ないでしょう?」
「まあ、トカゲ。警察が周りにいる。俺を信じているなら助けてやる」
「ほんと?」
「ああ」浜田はにゃっとなった。「通町三丁目の工事中止中のビルの屋上にいけ、いいな?」
「ううん、ありがとう」
 トカゲは浜田に金をもらうと帽子を深くかぶり警官をやり過ごしバスに乗った。携帯でビルの事を、助け、のことを髭男に知らせた。通町はバスで二里だ。結構遠い。
 だが、トカゲは自分に降りかかる火の粉のことなど知る由もない。
 警戒しながらバスを降りた。
通町三丁目だ。
 しばらくビルの周りを警戒してから、誰もいない工事中止中のビルに侵入した。すると不思議なことに通り魔・髭男が青い顔して突っ立っていた。「おじさん、助けてもらえることに…」
トカゲはどこまでも馬鹿だった。
「…馬鹿…また殺しちゃったよ」髭男が言った。「殺し屋だ」
トカゲは……あんたが殺し屋の通り魔だっていうのは知ってるよ…と舌うちした。
するとその心を読んでか?髭男が歩きながら「おいらのことじゃねえ。こいつだ」
と指さした。
工事中のビニール袋につつまれた「刺客の死体」である。
「おいらも…もう時間ねえやねえ、オタクあんちゃん…」
髭男は尻もちを付いて痛い顔をした。背中からドバっと流血した。
「この禿げ男…あんちゃんを殺そうとしていた…プロだぜこいつは…あんちゃん本当にオズワルド…だ…」
「ひいいいいいいっ!」
 …禿げ散らかしてんじゃねえ!ひいいいいいっ!
 トカゲは失禁した。
「あ…あんちゃん…」髭男は断末魔のまま「あんちゃんは…どこに逃げても無理…じゃねえ…か?…ならTV局の生放送で全部暴露しちまえ…。生放送なら…放送中…国家も殺せねえ…」といい息絶えた。
「お、おじさん! 人殺しのおじさん!」
 トカゲは本当に恐怖した。
自分を殺して「首相殺し」の幕引きをしようとする陰謀…カッキーまで…。
戦慄のままトカゲはビルを後にした。





「ど…独占報道?」
 千葉さんさかTV(民放テレビ局)の坂戸プロデューサーは携帯で話した。
福本トカゲ、である。
トカゲは地方局に「大スクープ的」な「自首前生放送インタビュー」を申し出ていた。
もう心臓がバクバクだ。もう辺りは暗くなっている。夜は早い。春だというのに。
地方のカスみたいな民放テレビ局には「海老で鯛を釣る」が如しだ。
坂戸Pは内密に報道しようと動いた。
「千葉市の千葉城址公園で今夜に…いいのかい?」
「いいよ。只、警察には内緒に」
トカゲは携帯電話で気弱に言った。
トカゲには自分の運命など知るすべもない。
背伸びするピエロ…ドンキホーテ…。
「報道車一台回せ! 大スクープだぞ!」
坂戸Pは大声で報道クルーに指示した。



 
「俺さ…ま…僕は…僕は清二…福本・パンティータオ・パンローファイ・清二です」
千葉城址公園の人通りのない公園で、スポットライトにトカゲがいた。
まさに独占中継、首相とアイドルを殺した男が、カメラに生放送で映っている。
「僕は誰も殺していません…僕は…」
坂戸Pは「もっと犯人のアップ!カメラマンちゃんとやれや!」
と指示を出す。「僕はカッキーの大ファンだし、……首相なんて…名前も…知らねえし…」
もう必至の形相である。
世界的スクープかも知れん!坂戸Pやクルーは興奮を隠せない。
だが彼らは陰謀の闇など知る故もない。
福本清二…トカゲの声が聴こえなくなった。「おい!何やってるマイク!しっかりしろ!」
坂戸Pは我鳴った。そののち放送が暗転してCMになった。え?
「何やってるんだ!おい!」
 坂戸Pなど、トカゲ清二など、TVなど相手にならない。
トカゲの頭を陰謀の弾丸が撃ちぬいた。TVなど映っていない。ライトが消されて真っ暗になった後、トカゲ清二は「国家」に「消された」…。
警察部隊が大勢きて遺体を回収すると公園やTVクルーを規制しだした。
「本物は消した。贋作も始末だな」
千葉県警長は意味深な言葉を呟いた。
すべてはおわった。福本清二はおわった。このまま国家から抹殺されるのだ。
だが、もはやそれは福本清二の知ることではない。
死んだらおわり、というのはもはやトカゲ清二の知る故もない、のだ。
こうして、福本清二……福本・パンティータオ・パンローファイ・清二の生涯はおわった。誰も悲しまない男の末路、である。


おわり

強盗殺人容疑で男逮捕 「お金を取る目的で人を刺したこと間違いない」2014.3.6 00:51 [殺人・殺人未遂]千葉県柏市の路上で3日深夜、男性4人が相次いで襲われ、2人が死傷するなどした通り魔事件で、県警柏署捜査本部は5日深夜、強盗殺人容疑で、死亡した男性と同じマンションに住む同市あけぼのの自称無職、竹井聖(せい)寿(じゅ)容疑者(24)を逮捕した。捜査本部によると、竹井容疑者は「お金を取る目的で人を刺したことは間違いありません」と容疑を認めている。千葉県柏市の路上で3日深夜、男性4人が相次いで襲われ、2人が死傷するなどした通り魔事件で、県警柏署捜査本部は5日、殺人容疑で、死亡した男性と同じマンションに住む24歳の男の自宅を家宅捜索し、逮捕状を請求した。自宅からは凶器とみられる刃物が見つかった。捜査本部は男を任意同行して取り調べを進めて、容疑が固まり、逮捕した。男は「チェックメイト!」等とクレイジーにカラカラ笑って叫んだという。竹井聖寿の学歴は「中卒」(笑)でニート(笑)で、親の仕送りで殺害された池間さんと同じアパートに一人暮らしをしていた。新聞などが氏名を伏せている所をみるとまた「精神科通院歴のある」「精神異常のクレイジー馬鹿野郎」なのか?ワイドショーでその人物のブログ記事が報道されたが意味不明である。頭がクレイジーで、学歴がないだけでなく社会道徳も大人の見識もないとわかる。こいつが「福本清二」の正体ではないか?と私は今マジで考えている。「福本清二」=「本名」とは限らないからだ。千葉県柏市の住宅街で2014年3月3日深夜に発生した連続通り魔事件。約10分間に市道上のわずか50メートルほどの範囲で、会社員の池間博也さん(31)が刺殺されるなど4人の男性が刃物を持った男に次々と襲われ、男は逃走した。都心の静かなベッドタウンを襲った凶行に、近隣住民には「いつもとはまるで違う街みたいだ」「怖くて外を歩けない」と不安が広がった。「キキーという車の急発進する音と男性の『うあー』という叫び声を聞いた」。現場近くのマンション住民の女性(38)は、事件のあった午後11時半すぎ、異様な音と叫び声を聞いた。すぐにサイレンの音が鳴りひびき、救急隊員が到着。マンションの玄関から見ると、救急隊員が「大丈夫ですか」と大声で呼びかけながら倒れている池間さんに蘇生マッサージをしていた。だが、片側1車線の市道には血だまりができ、救急隊員の呼びかけにもまったく反応せず、ぐったりとした様子だったという。現場の市道には街灯が多く、比較的明るい。近くにJR柏駅があることから夜も人通りはあるという。(MSNニュース速報記事参照)千葉県柏市で3日に起きた連続殺傷事件で、県警は2014年3月5日深夜、現場近くのアパートに住む自称無職竹井聖寿(せいじゅ)容疑者(24)=同市あけぼの4丁目=を、同じアパートに住む会社員池間博也さん(31)に対する強盗殺人容疑で逮捕した。県警によると、竹井容疑者は「金を得る目的で人を刺したのは間違いない」と容疑を認めているという。柏署捜査本部によると、連続して起きた4事件のうち、竹井容疑者はほかの3件についても関与を認める供述をしているという。 県警は現場付近の防犯カメラの映像や市民からの目撃情報などをもとに、竹井容疑者を特定。5日朝から任意で事情を聴き、同日夜に自宅を家宅捜索した。池間さんの財布や犯行時に着ていたとみられる血のついた上着、多数の刃物を関係先から押収したが、凶器は特定できていないという。発表によると、竹井容疑者は3日午後11時37分ごろ、柏市あけぼの4丁目の路上で、池間さんの首や背中を刃物で刺して殺害し、現金1万数千円の入った手提げバッグを奪った疑いがある。池間さんは司法解剖の結果、出血性ショックでほぼ即死の状態だった。事件は同じ市道の約50メートルの範囲で、10分ほどの間に4件が次々と起きた。まず、自転車で通りかかった男子大学生(25)が刃物で切りつけられて左手に軽いけが。続いて池間さんが刺され、さらに、別々の乗用車で現場の路上を通りかかった男性2人が車や財布を奪われたという。車を奪った男はそのまま逃走し、直後に1・3キロ離れた市内のコンビニ駐車場に駐車した。防犯カメラの映像から、車内で数分過ごした後、車を乗り捨てて逃げたとみられる。捜査関係者によると、このコンビニからJR柏駅方面に約900メートルの場所にある国道6号沿いの店舗の防犯カメラに、4日午前0時すぎ、男と似た人物が柏駅方面に向け、自転車に乗っている姿が映っていた。現場で目撃された男の服装と同じ黒のジャンパーとズボン、白色マスク姿だったという。県警に寄せられた男についての目撃情報も、コンビニから柏駅の間に集中していたという。 ■登下校警戒、県外まで 発生後2日間。千葉県柏市で起きた連続殺傷事件。発生以来2日間、近隣自治体まで不安が広がり、集団登下校の動きが相次いでいた。千葉県の周辺市では4日の下校時から集団登下校に踏み切る市立小中学校が相次いだ。柏、流山と我孫子の各市は全市立小中学校(計104校)で集団登下校を実施、部活動も中止した。野田、松戸の両市教委も市内の計96の市立小中高校に同様の要請をした。茨城県教委も県内の全小中高校に、登下校時は児童生徒の安全を確保するよう呼びかけるメールを配信。埼玉県教委も全市町村教委と高校など県立の177校に、東京都足立区教委も全公立小中学校に同様のメールを送ったという。 ■前夜、報道陣に「目撃証言」 容疑者、詳細に語る。 千葉県警が強盗殺人容疑で逮捕した竹井聖寿容疑者(24)は5日、捜索への立ち会いを終えて自宅の部屋を出る際、マスクをずらして顔を出し、報道陣に向かって大声をあげた。 事件翌日の4日夜、竹井容疑者は自宅アパート前で報道陣の取材に応じていた。「部屋の外で殺害の様子を見た」と言い、「目撃証言」を詳細に語った。「『おい、こら』などと男2人がやり合う声で気づいた。1人が長さ30センチほどの牛刀のような刃物を持っていた。もう1人は背中を向けたところで刺され、倒れたところを、犯人は何度も背中を刺していた。『アハハハ』と笑っているようで、常軌を逸しているようだった」。下を見るようにしながら、そう語った。(+朝日新聞記事参照)
第二の酒鬼薔薇聖斗(東真一郎)、第二の加藤智大、竹井聖寿(ペンネーム福本清二又は名無しさん又は名無しさん涙目です。)は逮捕もされた。天罰も受け「ニートの中卒のネット依存の友達も恋人もいない、知能の低いプライドだけは高い馬鹿野郎」として存在していることが判明して馬鹿が事件起こして逮捕された、と思ってざまあみろ!と安心した。天誅を神は福本清二に下した!福本清二というのが本名かと思っていたがペンネームだったのか。それにしても人殺しのおそろしくクレイジーな男であった。警察もよくやった。

<新世界大戦の時代 落合信彦著作>小学館SAPIO誌2014年5月号「レーガノミクスとアベノミクス」

2014年04月20日 16時29分00秒 | 日記





<新世界大戦の時代 落合信彦氏著作>小学館SAPIO誌2014年5月号「名前をパクるだけでなく、今こそレーガノミクスの神髄を学べ!」<減税して国民の力を信じたレーガンと、増税して利権を守る安倍の絶望的な違い>
2014年4月から消費税が5%から8%に引き上げられた。愚かというほかない。今の日本に必要なのは増税ではなく、「減税」である。むしろ世界の優れたリーダーたちは思い切った「減税」によって景気を回復させ、税収を増やしてきた。歴史と経済を真剣に学べばわかることだが、安倍をはじめ自民党の政治家と財務官僚、新聞など大メディアはそれがわかっていない。政府はアベノミクスによって景気が回復したから日本経済は増税に耐えられると主張する。明らかな嘘だ。円安効果によって輸出を増やして日本経済を復活させる安倍の目論見は既に破綻している。為替は円安に誘導できたが、結果として輸出量は伸びず輸入額だけが激増(日本から工場で輸出していた時代はおわっているから。今や日本企業の工場のほとんどは海外にでていったあと。二度ともどってはこない)。貿易赤字が急激に膨らんだ。景気は回復していないのに、円安によって輸入品である燃料(96%火力発電に特化した電気料金はもちろん)や生活必需品の値段が上がる典型的な「悪いインフレ(コスト・プッシュ型インフレもしくはスタグフレーション)」が発生しつつある。日本のマスコミは春闘において一部の大企業で値上げ(ベースアップ)が行われたことばかり強調するが(安倍ポチと化したNHKや民放)、その裏でほとんどの中小企業では賃上げなど夢のまた夢だった。中小企業のおよそ6割はベア要求すらできなかったのだ。また賃上げが行われた大企業さえその水準は平均1%にも満たない。3%増税する家計支出の増加をカバーするにはほど遠い。
安倍政権は増税による経済停滞を防ぐための景気対策を打ち出した。相も変わらず公共事業のオンパレードだ。国の借金が1000兆円を超える危機的な財政事情を増税の理由にしながら、数兆円を公共事業でバラ撒くというのだから理解し難い。本当に国のことを考えるリーダーは、どんなに抵抗が激しくても利権構造にメスを入れる。増税によって政府の裁量を拡大するのではなく、国民の力を信じて小さな政府を目指し、減税によって経済を活性化させる。危機的状況にある日本には、そうした改革を志すリーダーが必要だ。安倍はこれらの条件のうち何一つ満たしていない。
<所得税を70%から28%に引き下げ>安倍が手本とすべきリーダーを一人挙げるとすれば、第40代アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンだろう。アベノミクスとはそもそもレーガンの経済政策である「レーガノミクス」になぞらえて名付けられたものだが、レーガノミクスはアベノミクスとは正反対の政策であった。財政危機のなか思い切って減税を断行し、既得権益集団の抵抗を排して利権を解体していく改革だったからである。レーガンが81年に大統領に就任した時、アメリカ経済は瀕死の状態にあった。2度にわたるオイルショックなどにより不況下のインフレ(スタグフレーション)が起き、失業率は7%を越えた。前任のカーターをはじめ70年代の大統領たちは景気を刺激するためと言っては政府支出を野放図に拡大させ、各種税率を上げていった。またエネルギー資源の価格規制など、政府の権限を大きくして経済をコントロールしようとした。つまり安倍と同じようなことをして、ことごとく失敗したのである。そんな中で登場したレーガンはそれまでの政権とは180度転舵し、減税と行政のスリム化、そして規制緩和を掲げた。議会や専門家の反対に屈することなくレーガンは所得税の最高税率を70%から段階的に28%に引き上げるといった大胆な減税を断行したのだ。その効果は目覚ましい。レーガン政権一期目の後半にはアメリカ経済は復活の軌道に乗り始め、84年に経済成長率を7・2%まで急伸させた(就任時の80年はマイナス成長だった)。またレーガンは8年間の人気を通じて減税という政策の軸を変えなかったが、その間にアメリカ政府の歳入は24%も増加したのだ。逆に日本は97年に消費税を3%から5%に引き上げたが、それ以降で政府の歳入が97年の水準を上回ったことは一度もない。これが世界の常識である。一方でレーガンはソ連に対抗する為に軍事支出を増やしたので財政赤字は拡大してしまった。それだけをもってレーガノミクスを批判するひとがいるが、それはおかしい。「スターウォーズ計画」という計画があればこそのゴルバチョフの「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(刷新)」「ソ連崩壊」であり、90年代にアメリカが「平和の配当」による経済成長(改革の実がみのるには時間がかかる。レーガンやサッチャーの「経済成長政策」は当然ながら初めは大量の失業者がでる。だから、サッチャーやレーガンといった改革の父・改革の母は政権を追われた。だが、アメリカはクリントン時代、英国はブレア―時代に「改革の成果」をこの世の春とばかり謳歌できたのだ)を遂げたことを考えれば、アメリカ国民に多大な利益をもたらしたと言えるだろう。レーガンの改革は単に税率を引き下げただけではなく、税制を簡素化したことで評価されるべきだ。彼は税金を免除したり、安くしたりする様々な特別措置を廃止した。これは仕組みがフェアになると同時に、利権集団の力を削ぐことにつながる。世界中どこでも、行政が決める「特例」は裁量権を持つ政治家や役人によって利権化されがちだ(日本で言えば役所が許可する公益法人は税金が免除されたり安くなったりするが、そのためには法人は役所の顔色をうかがい天下りの温床となっている)。レーガンはそういった利権構造と闘うことを厭わないリーダーだった。就任直後には当時強力な利権集団であった航空管制官組合(PATCO)のストライキに果敢に立ち向かった。管制官1万人以上即座に解雇した。驚くことにPATCOは直前の大統領選挙でレーガンを支持した数少ない労働組合のひとつであった。自民党の古くからの集票・集金マシーンであるゼネコンや農協の顔色をうかがってばかりの安倍とは大違いだ。そして規制緩和である。航空業界や陸運、資源・エネルギー、金融などの分野で価格規制や新規参入規制を次々と緩和・撤廃していった。各業界で強固な既得権を握っていた組合組織の抵抗にも折れることはなかった。その結果、幅広い分野でサービスの値段が下がり、国民が恩恵を受けることになった。また組合の力を削いだことで鉄鋼業や繊維産業の雇用は減ったが、アメリカ全体での失業率は下がった。新たに金融やITグローバル企業などがアメリカで花開いたのもレーガンの「小さな政府・規制緩和」政策のたまもので、あった。レーガンと同時代にイギリスの首相を11年にわたって務めたマーガレット・サッチャー女史も国営企業を次々と民営化し、強力な組合組織との戦いに尽力した。サッチャーによってイギリスが「英国病」と呼ばれた経済停滞から脱したことは何度も紹介してきたことだ。安倍首相が信奉する元英国首相のマーガレット・サッチャーは「英国病」とも呼ばれた1960~70年代の慢性的な不況から脱するためドラスティックな構造改革(サッチャリズム)を断行した。生産性の低かった水道、電気、ガス、通信、鉄道などのインフラ系国営企業を次々に民営化し、規制緩和によって新たな雇用創出に努めた。さらなる大幅な金融規制緩和(ビックバン)政策により外国資本の参入を認め、ロンドンを世界有数の金融市場にした。当初は“国を外国に売り渡す気か”と批判が巻き起こったが、結果的に金融は雇用を生み出す一大産業になった。80年代、日本勢に押されて製造業の衰退が著しかったアメリカは90年代にITと金融を育てた。その2つが富をアメリカにもたらしていることは明白だ。ITの隆盛(りゅうせい)が国全体の景気を押し上げ、サービス業の雇用拡大に寄与した。雇用再生にもっとも大事なのは「職の創造」であることを肝に銘じるべきだ。またあまり知られていないが第35代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディも減税を断行したリーダーだった。残念ながら減税法案成立前に暗殺者の凶弾に倒れたが、彼の尽力によって所得税の最高税率は20%以上引き下げられた。
翻って安倍はどうだろうか。国民の負担を増やし歳出をどんどん拡大させる。日本国民の力を信じず、自らの権限拡大にしか興味がないのだ。アベノミクスの「第3の矢」は規制緩和だといっているが、就任から1年以上経っても何一つ具体的な成果がないことでもそれはよくわかる。レーガンは退任後、アメリカ経済が成長軌道に乗ったことについて、「この成果を自分の手柄にするつもりはない。アメリカ国民が成し遂げたことだ」と振りかえった。安倍や他の政治家、そして官僚たちは、自らが国民に仕える公僕(パブリック・サーバント)であることを忘れてはならない。まとめ緑川鷲羽2014年4月20日 16時12分。