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長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

札幌市北区ボンベ爆破事件同北区在住の51歳の女・名須川早苗容疑者を逮捕へ!

2014年04月30日 19時36分33秒 | 日記




札幌・北区ボンベ事件 51歳女(同市北区屯田6条3丁目・名須川早苗容疑者(51))が関与供述 逮捕状を請求(04/30 19:26)
 札幌市北区で相次いでいるカセットこんろ用ガスボンベの爆発事件で、同市北区の女(51)が一部の事件への関与をほのめかしていることが30日、捜査関係者への取材で分かった。札幌北署捜査本部は、重要参考人として任意で事情を聴いており、激発物破裂容疑で逮捕状を請求した。

 捜査関係者によると、一連の事件のうち1件で、現場近くの防犯カメラが捉えた映像を詳しく分析したところ、付近に不審な人物が写っていた。容姿が似ていたことから、この女が浮上したという。

 捜査本部は何らかの事情を知っている可能性があるとみて、26日に女の自宅を家宅捜索するとともに、任意の事情聴取を開始。当初、関与を否定していたが、聴取5日目の30日、一転関与をほのめかす供述を始めたという。

 同市北区では1月以降、札幌北署駐車場に止めたワゴン車の下でボンベが爆発したのを皮切りに、大型ホームセンターや警察宿舎など半径約3キロ圏内で同様の事件が5件発生。事件の合間に、犯人を名乗る人物から、次の爆発を予告するなどの内容の手紙4通が、北署や北海道新聞社、北海道文化放送(UHB)に届き、捜査本部は同一犯とみて捜査していた。


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<テレビ朝日池上彰の解説塾>2014年4月21日放送分Ⓒ池上彰

2014年04月29日 16時53分28秒 | 日記






『テレビ朝日池上彰の解説塾』番組内2014年4月21日放送分Ⓒ池上彰
<配偶者控除>→103万円以内(一年間の年収が103万円を超えると控除対象外で税金がかかるというのが今までの仕組みだった)<女性の生き方の問題>と直結していて、配偶者がいればまけてもらえて、結婚してなきゃダメなのか?配偶者控除103万円以内を控除ゼロにして『女性の社会進出の促進』というが、果たしてそうなのだろうか?赤ん坊の子供を預けられず、働けない女性だって沢山いる。両親の介護などで配偶者控除を打ち切られるのが困る女性だって多いのが実情だ。もう少し、日本社会が日本国民に優しい社会じゃないと、何処が「美しい国・日本」なのか?ということになる。
<ウクライナ問題>歴史的にロシアは必ず「反ロシア国」「非ロシア国」との間に緩衝地帯(バッファーゾーン)をつくりたいという考えがある。ソ連時代の東欧、ウクライナの場合も、ロシアが「ウクライナの連邦制度賛成」といっているのも、ウクライナを(アメリカの50州の合衆国みたいな)連邦制度にしてロシア拠りの州を緩衝地帯にしたいが為だ。
<捕鯨問題>貧しいころの日本は牛肉豚肉より鯨肉の方が安かったのだという(「鯨ベーコン」等)。私は食べたことない世代だが、今や鯨肉は高級品である。だが、今やふぐや高級牛肉並みの高級鯨肉も、はるか昔は牛肉や豚肉より安かった。今回、IWCにオランダのハーグの国際司法裁判で敗訴したことは『調査捕鯨・食用鯨肉』の終焉を意味する。ちなみに、ハーグの国際司法裁判は一回で終了であり控訴したり、裁判のやり直しもできない。さて、捕鯨国は39か国もある。IWC加盟国88か国。捕鯨国(日本、ノルウェー、アイスランド、韓国、中国等)、反捕鯨国は49か国(米国、オーストラリア、イギリス、イタリア、*ルクセンブルク、*チェコ、*スイス、*オーストリア、*スロバキア、*ハンガリー、*サンマリノ(*は海を持たない国で、数合わせの為にアメリカの反捕鯨団体が集めた))である。だが、アメリカの反捕鯨団体は「鯨を食べる日本人と話しない」とピシャットすぐバリケードを掲げるが、昔はアメリカ人もイギリス人も鯨油(鯨から採れる油・ランプや燃料など)の為に積極的に捕鯨していた。ペリーの黒船が浦賀沖にやってきたのも元々は日本近海の鯨を取る為の港としてつかいたいということだった。その後、鯨油に代って安価な石油や灯油が登場し、西欧人は捕鯨をやめたに過ぎない。誰も日本の『調査捕鯨』を批判できないのだ。ちなみに捕鯨国の代表格は<アイスランド、フェロー諸島(デンマーク領)、ノルウェー、ロシア(チェクチ領)、インドネシア、日本(北大西洋)(南南極海)、カナダ、ワシントン(マカ・インディア)、アラスカ(エスキモー)、カナダ、セントビンセント、グリーンランド(デンマーク領)>の9か国である。
1982年にIWCが『商業捕鯨禁止』を全世界に勧告、三パターンに分かれた。①先住民生活捕鯨(エスキモーなど)②商業捕鯨(ノルウェー、アイスランド)③調査捕鯨(日本)→ノルウェーとアイスランドのように商業捕鯨を日本がするためには多数派工作と莫大な準備資金が必要で、無理である。国際司法裁判所はオーストラリアの主張を認めて、南極海沖での調査捕鯨を禁止したのだ。だが、夜郎自大も甚だしい。ミンククジラは増えすぎて大量のマグロやメカジキなどを捕食し、食物連鎖がめちゃくちゃなことになっているという。でも、「鯨やイルカは頭がいいから食べちゃ駄目」と欧米諸国はステレオタイプな価値観をがんがんぶつけてくる。日本側も最強の布陣(国際法に詳しい弁護士や論客・国際的な討論者)で臨んだが、それでも敗訴した。人間は感情論や欲に弱い。裏金も相手方は大量に流し込んだに違いない。かくして、日本の調査捕鯨は裁判で敗れ去った。いと哀れ。<ネット通貨ビットコインbitcoin>ネット通貨である、ビットコインとはインターネット上にしか存在しないお金の名称である。日本にあったマウント・ゴックス社が破綻した。課題は世界通貨として使えるか?信用度の問題。投機の対象。などである。貨幣流通量を見て観よう。アイルランド通貨 約8600億円、ビットコイン通貨 約8000億円、アルバニア通貨 約6800億円、ナミビア通貨 約6600億円……。何故、ビットコインに注目が集まるのか?は儲かるのではないか?という投機目的だ。例えばあるひとが数年前に1ビットコイン(1札2000円分)買った。4年後忘れていた頃に1800万円に価値があがっていて、それを現金化して新築の家を買ったという本当の話があれば、「いつかは自分も…」という夢見る馬鹿は出てくる。毎年年末に宝籤を大量に買う連中とメンタリティは同じである。いつか…億万長者に…連中は実際大金を手にすると数年で散財し無一文だそうだ(笑)。


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Ⓒフジテレビ番組『報道2001』参照Ⓒテレビ朝日Ⓒ池上彰番組『池上彰の解説塾』より

2014年04月28日 14時18分13秒 | 日記




『フジテレビ報道2001』番組内2014年1月16日放送2014年舛添要一氏「都政改革案 Ⓒ舛添要一」<東京発特区制度活用10大プロジェクト>①スピーディーな法人設定を支援②ベンチャー企業丸ごとサポート③外国企業の人材確保支援④国際標準のビジネス空間づくり⑤創業の拠点形成⑥東京都版PMDA創設⑦外国人居住環境整備⑧東京シャンゼリゼプロジェクト⑨外国人の快適な滞在実現⑩外国人向け安心医療整備の提供
<Ⓒフジテレビ番組内『報道2001』2014年1月16日放送分>
<許認可>→国の基準でつくる保健所
<認証>→都の独自の基準でつくられる保健所
(<母子生活支援センター>→入所率は8割。夫のDVなどで母子が入るアパートのこと。(年々減少))(東京都未使用地→332か所)
<Ⓒフジテレビ 世界の都市総合ランキング 2014年度>
<総合スコア>①ロンドン②NY③パリ④東京⑤シンガポール⑥ソウル⑦アムステルダム⑧ベルリン⑨ウィーン⑩フランクフルト<文化交流>①ロンドン②NY③パリ④シンガポール⑤ベルリン⑥北京⑦ウィーン⑧東京⑨ロサンゼルス⑩イスタンブール
<Ⓒフジテレビ 日本の2014年度国家戦略特区>*沖縄(観光)*福岡市(雇用)*兵庫・堺市(観光)*新潟(農業)*関東圏(先端医療)*東京園(国際ビジネス拠点)

<日豪EPA>(番組『池上彰解説塾』テレビ朝日番組内2014年4月14日放送分Ⓒ池上彰)
日豪(つまり日本と豪州・オーストラリア)のEPAですが、基本的にはTPPよりも少しマイルドなEPA(経済連携協定)です。豪は中小企業は1年目から関税撤廃、大企業は3年目から関税撤廃です。ちなみにオーストラリアの牛肉、つまりオージー牛ですが以下のように締結しました。まずは冷凍牛(牛丼やハンバーグの具)では関税率は19.5%で維持し19万5000tを越えたら38.5%に戻す。冷蔵牛(○○牛、オーストラリア牛、スーパー、食肉)では関税率23.5%で維持し、13万tを越えたら38.5%に戻します。つまりEPAをつかってTPPを優位にする策です。アメリカに「日本の聖域(コメ、小麦、砂糖、牛肉、豚肉、乳製品)を認めない」というなら日本の消費牛肉がオージー牛になると脅す(国産4%オーストラリア産32%アメリカ産21%その他6%)のです。
<消費税 Ⓒ池上彰(同年月月)>
まずは<2014年度の予算の中から社会保障費をみてみましょう>「社会保障費(年金・医療・介護・子育て)社会保障の主な経費=30.5兆円」、消費税収15.3兆円………つまり差額は15.2兆円です。消費増税(年)17%でもトントンというところです。消費税は20%がいい。(OECDが日本国が財政破たんしない為にも20%がいい、と忠告しています)。
<日本の三大税収>①所得税②消費税③法人税(利益がないと払っていない会社30%<シンガポール法人税15%日本の法人税25%>)消費税が一番安定し、幅広く国民からとれるから消費税をあげたのです。また無駄な公共事業のために。利権のために。
<NHK組織2013年度>①経営委員会―監査委員会→会長(第21代籾井勝人会長(慰安婦問題発言で失言))<独立する形で「リスクマネジメント委員会」>→理事会→経営企画局―内部監査室―考査室→<「秘密室」―「総務局」―「人事局」―「経理局」―「関連事務局」―「情報システム局」―「アナウンス局」―「解法委員会」―「編成局」―「製作局」―「報道局」―「国際報道局」―「広報局」―「営業局」―「技術局」>等。
また独立した立場での「NHK経営委員会(定数12人・2013年度)」<浜田健一郎氏(ANA総研会長)><石原進氏(JR九州会長)><上村達男氏(早稲田大学教授)><渡辺恵理子氏(弁護士)><上田良一氏(商社社長)><美島のゆり氏(公立はこだて未来大学教授)><富田亮平氏(東京芸術大学長)><百田直樹氏(作家*アベトモ)><本田勝彦氏(JT顧問・アベトモ・元安倍晋三家庭教師)><長谷川三千子氏(放送大学教授・アベトモ)><中西尚正氏(海陽中等教育学校長・アベトモ)>


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昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説7

2014年04月28日 06時48分58秒 | 日記




「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、勝海舟の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 勝海舟は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 勝海舟は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った勝海舟は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

        
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


  山口に着いた晋作は外国人のように裾を刈りあげ、髪形を洋風にした。彼は死ぬまでその髪形のままだったという。
 毛利父子は晋作の帰郷に喜んだ。
「馬関の守りが破れ、心もとない。その方を頼みとしたい」
 毛利敬親(もうり・たかちか)はそう命じた。
「おそれながら、手前は十年のお暇を頂いております」
「お暇はいずれやる。今は非常の時である」
 毛利元徳(もうり・もとのり)はいう。
「うけたまわりました」
 晋作は意外とあっさり承諾し、騎馬隊をつれて馬関(下関)にむかった。その夜のうちにはついたのだから、まさに「動けば雷電の如し」の疾さである。
 この頃、白石正一郎という富豪が幕末の勇士たちに金銭面で支援していたという。
 …周布政之助、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保一蔵、月照……
 その中で、白石が最大の後援を続けたのが高杉晋作であり、財を傾け尽くした。

「俺は様式の軍隊を考えている。もはや刀や鎧の時代ではない。衣服は筒袖にズボン、行軍用に山笠、足は靴といきたいが草鞋で代用しよう。
 銃も西洋的な銃をつかう。それに弾薬、食費に宿舎……ひとり半年分で一人当たり四百両というところかな」
 ……小倉白石家をつぶす気か…?
「民兵軍の名は『奇兵隊』である」晋作は自慢気にいう。これが借金する男の態度か。 



         5 禁門の変






 のちに『禁門の変』または『蛤御門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。妻の久坂(旧姓・杉)文は二十二歳でしかない。得意の学問で故郷の長州藩萩で「女子・松陰」等とも呼ばれるようにまで成長していた。若者は成長が早い。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん。文。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「にいやーん!にいやーん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。
「文、文、……あいすまぬ!先に涅槃にいく俺を許してくれ……」文……!久坂は鋭い一撃を自分の首に与え、泣きながら自決した。
 享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。長州の久坂文の元に、生前の夫・久坂玄瑞から手紙が届いた。それは遺書のようでもあり、志を示したような手紙でもあった。その手紙は結局、久坂玄瑞が妻・文におくった最初で最後のたった一通の手紙となる。
 のちに久坂文は未亡人となり、杉家に戻り、長州藩邸宅で女中として働くようになる。文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。
 この時期姉の小田村寿こと楫取寿が病死し、文がやがて後妻として楫取素彦と再婚する際に「最初の旦那様・久坂玄瑞の手紙とともに輿入れ」することを条件にしたのは有名な話である。
 楫取素彦は討幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校・明倫館で学んだ。松陰の死後は久坂文とともに松下村塾で塾生たちを指導し、松陰の意思を受け継ぐ教育者として有名になる。
 のちに楫取素彦は群馬県令(知事)となる。当然、再婚した文は群馬までついていく。子供は出来ないなりに、養子をもらうが思春期となった養女は若い男と「かけおち」しようとしたり、素彦が不倫したりと、楫取文の人生はまるで小説自大だ。 

 会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。 銭はあればあっただけよい。
 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。
 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 勝海舟は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。



  雨戸を叩く音がした。
「誰だ?」
 我に返った晋作の声に、戸外の声が応じた。
「山県であります」  
 奇兵隊軍監の山県狂介(のちの有朋)であった。
 秋のすずしい季節だったが、夜おとずれた山県は汗だくだった。しかし、顔色は蒼白であった。晋作の意中を、すでに察しているかのようだった。
 晋作は自ら農民たちを集めて組織していた『奇兵隊』と縁が切れていた。禁門の変のあと、政務役新知百六十万石に登用されたのち、奇兵隊総監の座を河上弥市にゆずっていたのである。しかし、そんな河内も藩外にはなれた。三代目奇兵隊総監は赤根武人である。 しかし、奇兵隊士は晋作を慕っていた。
 ちなみに松下村塾生の中で、久坂玄瑞は医者ながらも藩医であったため、二十五石の禄ながら身分は藩士だった。山県狂介は中間、赤根武人は百姓身分。伊東俊輔(のちの博文)は百姓だったが、桂小五郎に気にいられ、「桂小五郎育」であった。

「おそうなってすんません」
 襖が開いて、鮮やかな色彩の芸者がやってきて、晋作の目を奪った。年の頃は十七、八くらいか。「お糸どす」
 京の芸者宿だった。
 お糸は美貌だった。白い肌、痩体に長い手足、つぶらな大きな瞳、くっきりとした腰周り、豊かな胸、赤い可愛い唇……
「あら、うちお座敷まちがうたようどす」
 晋作は笑って、
「お前、お糸というのか? いい女子だ。ここで酌をせい」
「……せやけど…」
「ここであったのも何かの縁だ」晋作はいった。
 高杉晋作はお糸に一目惚れした。しかし、本心は打ち明けなかったという。
 恋というものは、「片思い」のほうが素晴らしいものだ。
 いったんつきあえば、飯の世話や銭、夜、いろいろやらねばならない。しかし「片思い」ならそんな余計なことはほっておける。
 そんな中、徳川幕府は長州に追い討ちをかけるように、三ケ条の要求をつきつけた。
 一、藩主は城を出て寺院に入り、謹慎して待罰のこと。
 一、長州藩が保護する五名の勤王派公家の身柄を九州に移すこと。 
 一、山口城を破毀すること。
 どれも重い内容である。
 この頃、幕府は第二次長州征伐軍を江戸より移動させていた。
 その数は十五万だった。

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。
「よし! これで侍どもを倒すんだ!」
「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ十五万は長州にむけて出陣した。
  元政元年十一月二十一日、晋作はふたたび怒濤の海峡を越え、馬関(下関)に潜入した。第二次長州征伐軍の総監は、尾張大納言慶勝である。
 下関に潜入した晋作はよなよな遊郭にかよい、女を抱いた。
 そして、作戦を練った。
 ……俺が奇兵隊の総監に戻れば、奇兵隊で幕府軍を叩きのめせる!
「このまま腐りきった徳川幕府の世が続けば、やがてオロシヤ(ロシア)が壱岐・対馬を奪い、オランダは長崎、エゲレス(イギリス)は彦島、大阪の堺あたりを租借する。フランスは三浦三崎から浦賀、メリケン(アメリカ)は下田を占領するだろう。
 薩摩と土佐と同盟を結ばなければだめだ」
 晋作の策は、のちに龍馬のやった薩長同盟そのものだった。
  高杉晋作はよくお糸のところへ通うようになっていた。
「旦那はん、なに弾きましょ?」
「好きなものをひけ」

 ……三千世界の烏を殺し
     お主と一晩寝てみたい…
    
 後年、晋作作、と伝えられた都々逸である。

  薩摩の西郷吉之助(隆盛)は長州にきて、
「さて、桂どんに会わせてほしいでごわす」といった。
 あの巨体の巨眼の男である。
 しかし、桂小五郎は今、長州にはいなかった。
 禁門の変や池田屋事件のあと、乞食や按摩の姿をして、暗殺者から逃げていた。
 消息不明だというと、
 今度は、「なら、高杉どんにあわせてほしいでごわす」と太い眉を動かしていう。
 晋作は二番手だった。
「高杉さん、大変です!」
「どうした?」
 高杉は酔っていた。
「西郷さんがきてます。会いたいそうです」           
「なに? 西郷? 薩摩の西郷吉之助か?」
 高杉は驚いた。こののち坂本龍馬によって『薩長同盟』が成るが、現時点では薩摩は長州の敵である。幕府や会津と組んでいる。
「あの西郷が何で馬関にいるのだ?」
「知りません。でも、高杉さんに会いたいと申しております」
 高杉は苦笑して、
「あの西郷吉之助がのう。あの目玉のどでかいという巨体の男が…?」
「あいますか? それとも斬り殺しますか?」
「いや」
 高杉は続けた。「西郷の側に”人斬り半次郎”(中村半次郎のちの桐野利秋)がいるだろう。めったなことをすれば俺たちは皆殺しだぜ」
「じゃあ会いますか?」
「いや。あわぬ」
 高杉ははっきりいってやった。
「あげなやつにあっても意味がない。幕府の犬になりさがった奴だ。ヘドが出る」
 一同は笑った。

  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。


  幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
 坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
 龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」
「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。
「なんでもええきに。それ次は頬づりじゃ。抱き合え」
「……頬づり?」桂こと木戸は困惑した。
 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。
 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。
 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
 龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出、龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。この縁で龍馬とおりょうは結婚する。そして、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。「WHY?何故です?」グラバーは首を傾げた。「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」晋作はそういうのみである。そして、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」と志を叫んだ。
 龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。






 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。
 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は勝海舟と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

  十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひかれた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。      浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
 さっそく余を供にしていけ」といった。
 勝海舟は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」勝海舟は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
 勝海舟は答えた。
 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…


 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
  勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
  小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」

  勝海舟は相撲好きである。
 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。
 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。
  慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。
 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのる筈だが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」



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破綻処理決定一元化(国境越え経営悪化監視)<欧州「銀行同盟」?>毎日新聞Ⓒ坂井隆之氏

2014年04月27日 13時39分28秒 | 日記




破綻処理決定を一元化(国境越え経営悪化監視)<欧州で発足する「銀行同盟」の役割は?>2014年4月27日毎日新聞記事(坂井隆之氏記事)(バックグラウンド→欧州危機ではギリシャ、アイルランド、ポルトガル、スペイン、キプロスの5か国が自力で対処できず、ユーロ圏諸国と国際通貨基金(IMF)から総額約4500億ユーロ(約63兆円)の支援を仰いだ。現在は、危機は収束しつつあり再防止策が焦点。EUの欧州議会は2014年4月15日、銀行の破たん処理を一元化する法案を可決し、銀行同盟発足が確定した)*欧州で「銀行同盟」を作ろうという動きがある。欧州でユーロという同じ通貨を使っている18か国は、銀行の経営に目を光らせ(監視・検査)、経営が著しく悪化した銀行はつぶす(破綻処理)ことを各国ばらばらに行ってきた。これらを統一(一元化)し、破綻処理などに必要なお金を一緒にしようとしています。何故必要か?欧州で2010年以降深刻化した経済危機の教訓から、各国任せでは危機の再発を防げないと判断したためです。危機のきっかけは08年のリーマン・ショック後の不況で銀行の経営が相次いで悪化したことでした。各国政府は多額の公的資金(税金)を投じて銀行を救済しましたが、政府の懐(財政)は急激に悪化。それらの国が借金するために発行する国債は信用を失って、価格が暴落した国債を大量に保有する銀行の経営がますます悪化するという悪循環に陥りました。危機の原因は?リーマン・ショック前に欧州の銀行は不動産投資などに巨額のお金を投じたり貸したり(投融資)していました。ユーロという同じ通貨が使える為、銀行は手間や費用をかけずに国境をまたいで活動でき、不動産などへの投融資をどんどん増やしていきました。リーマン・ショック後に不動産などの価格が暴落し、銀行は多額の損失を抱えましたが、監督が各国ばらばらだったため、国境を越えた投融資の行き過ぎをきちんとチェックできませんでした。このため国境を越えた監視の網をかぶせます。具体的には?第一の柱として、国境をまたいで活動する大手銀行の監視・検査権限を、欧州中央銀行(ECB)に2014年11月から一元化します。第二の柱は、欧州連合(EU)に「単一破綻処理委員会」を2015年に新設することです。ECBが監督・検査を通じて、経営が悪化した銀行を把握し、破綻処理が必要と判断した場合、委員会に警告します。委員会は破綻処理するかどうか判断し、必要なら破綻処理します。処理費用を賄う為、全銀行がお金を出す550億ユーロ(約7・7兆円)規模の基金も設けます。銀行がつぶれたら預金者は大変だ?EUのルールでは銀行が破たんしても10万ユーロ(約1400万円)までの預金は全額払い戻されます。これを預金保護制度と呼びます。が、払い戻し財源の負担するのかといった制度の内容は各国まちまちです。第三の柱として、預金者制度を今年度(2014年)前半にも一元化します。安心して預金できるよう財源の規模や払い戻し手続きを統一する作業が進められている。再建が見込める銀行には、ユーロ圏諸国がお金を出し合う機関「欧州安定メカニズム(ESM)」が直接お金を入れ(資本注入)て、経営を支援します。課題は?最大な問題は即効性に欠ける恐れがあることです。経営が悪化した銀行を破綻処理とESMの大規模な資本注入で迅速に一掃できる仕組みが期待されていました。しかし、国民のお金を他国のために使われたくないドイツなどの反対で大幅に後退し、ESMの資金総額5000億ユーロのうち直接資本注入枠は600億ユーロにとどまりました。また破綻処理の判断は、とりわけ大きな銀行の場合、破綻処理委員会(ユーロ圏各国の代表者18人らで構成)の多数決に委ねられています。ちゃんと機能するの?危機対策が前進したことは間違いありません。ただ、ドイツなどの各国の利害が前面に出過ぎると「銀行同盟」が形だけになってしまいます。そこですね。


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<富岡製糸場(群馬県)など世界遺産へ 「絹産業革新に役割」イコモス、登録勧告>

2014年04月27日 11時47分48秒 | 日記




ホリエモンと小室哲哉と新垣結衣ブログ

<富岡製糸場(群馬県)など世界遺産へ 「絹産業革新に役割」イコモス、登録勧告>2014年4月27日毎日新聞参照。日本が世界文化遺産に推薦していた「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県富岡市など)について文化庁は26日、世界遺産への登録の可否を調査する「国際記念物遺跡会議」(イコモス、本部パリ)が「登録が適当」と、国連教育科学文化機構(ユネスコ)に勧告したと発表した。世界の絹産業の発展と絹消費の大衆化をもたらした普遍的価値が認められた。2014年6月にカタールの首都ドーハで開かれる第38回ユネスコ世界遺産委員会で、正式決定する。「富岡製糸場」が正式に登録されれば、日本の世界遺産は昨年(2013年)に次いで14件目。世界自然遺産も含めた世界遺産では国内18件目となる。近代産業遺産では国内初。他に、「富岡市・富岡製糸場」(明治政府が1872(明治5)年に設立した日本初の官営機械製糸場)、「伊勢崎市・田島弥平旧宅」(蚕の飼育方法を確立した田島弥平が1863(文久3)年に建設)、「藤岡市・高山社跡」(蚕の養蚕法「清温育」を完成させた高山長五郎の生家。1891年建設)、「下仁田町・荒船風穴」(1905(明治38)~1914(大正3)年に最大規模の蚕種貯蔵所)などである。まずはおめでたいことで観光客誘致に役立つ。
「財務省の嘘・カラクリ」について
今回は皆様の見識を高める為にいわゆる「日本の財務省の嘘・カラクリ」について触れたい。日本の財務省は「日本の国民負担率は主要国に比べると10~20%低い」と訴えている。「日本の国民負担率4割は低すぎる。5割にすれば社会福祉費用も出せるし、財政出動で雇用も増える」という。国民負担率とは、毎年の国民所得(個人や企業など国民全体が得る所得の総額)に対して、所得税や法人税、消費税などの社会保険料(社会保障負担)が占める割合を示したもの。家計や企業が、所得から税や保険料をどれだけ払っているか?その数字だけを比較すれば「日本は低負担」で「ヨーロッパは高負担」である、ということになる。が、それは毎年の財政赤字が考慮されていない。税金や社会保障に加え、財政赤字は将来の国民負担に他ならない。その借金分を(財政赤字対国民所得比)を合わせた国民負担率を「潜在的国民負担」と呼ぶ。それで比較すると2013年度は日本53.2%、アメリカ42.2%、イギリス60.4%、ドイツ55.9%、スウェーデン58.9%、フランス69.5%。日本の国民負担は50%を超え、各国と差はほとんどなくなる。それでもまだ相対的に低い、というので増税するのは大間違い。よく知られるように北欧は「高福祉・高負担」だ。国民に還元される割合やサービスでいえば、日本は「低福祉・高負担」である。例えばスウェーデンで100万円の所得のうち64万円とられても43万円が戻ってきて、残り21万円が政府の運営費(本当の負担率)としてつかわれる。「本当の負担率」は、日本19.2%、アメリカ16.8%、イギリス28.1%、ドイツ19.1%、スウェーデン20.9%、フランス26.9%となる。教育制度にも日本とヨーロッパは大きな差がある。フランスでは3~5歳まで通う幼稚園が無料で、同じく公立なら高校まで授業料はただ、エリート育成の為の大学(グラン・ゼコール)は授業料がないうえ、学生に公務員並みの給与まで支給される。スウェーデンでも保育料も高校までも授業料はただ、大学も無試験で通える。授業料もただで大学生に手当まで支給される。日本は高速道路が有料だが、アメリカなどや欧州はただ。「なんでもただならいい」という話ではないが、「嘘をつくな」ということだ。

「今度は本当に引退します」と頭をかきながら記者会見する宮崎駿監督=東京都武蔵野市で2013年9月6日午後2時3分



 公式引退の辞

              宮崎駿

 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作ってきた人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。“風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果されてしまいます。長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること--例えばジブリ美術館の展示--も課題は山ほどあります。これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。

 ありがとうございました。

              以上

                       2013,9,4
「ベネチア映画祭で引退を発表する」。映画「風立ちぬ」の関係者の一人は同映画祭の開催直前に宮崎駿監督(72)の引退を耳にしていた。宮崎監督は「もののけ姫」(1997年)の作品の頃から、作品の度に引退が囁かれていた。近年も作品は4-5年に1作品のペースだった。どれも「最後の作品と思って」と、全力で制作にのめり込んだという。こうした作品への思いが、引退説が再三浮上する理由となり、毎回「これが最後」と見られていたという。「風立ちぬ」を「命がけで制作してきた」のは明らか。試写を観た宮崎監督は自分の映画を観て、初めて涙を流した。70歳を過ぎた宮崎監督にとって、本作にかけた思いがアニメーション監督として終止符を打つことにつながったという。宮崎駿監督は1941年、東京都生まれ。学習院大学卒業後の1963年、アニメ製作会社の「東映動画」に入社し、71年に退社した。初の劇場版アニメ監督作品は1979年の「ルパン三世 カリオストロの城」で、1984年「風の谷のナウシカ」でアニメ作家として広く知られた。1985年にスタジオジブリを設立し、「天空の城ラピュタ」(1986年)、「となりのトトロ」(1988年)で、ファン層を拡大した。「魔女の宅急便」(1989年)、で人気を確立し、「もののけ姫」などヒット作品を手がけた。2001年の「千と千尋の神隠し」は興行収入304億円で、日本映画史上最高の新記録となった。2002年のベルリン国際映画祭で、アニメ映画で、アニメ映画として史上初の金熊賞を受賞、2003年にはアカデミー賞の長編アニメーション部門で受賞した。続く「ハウルの動く城」(2004年)も大ヒット。2005年にはベネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞した。最近では憲法改正に反対を表明するなど社会的発言で注目された。「風立ちぬ」は、実在の零戦設計者・堀越二郎の半生をモデルに、文学者・堀辰雄の名作小説「風立ちぬ」の要素を盛り込んだ作品である。飛行機作りの夢を追い続けた男と病弱で純真な妻との愛を描いている。公開から大ヒットしている。(毎日新聞2013年9月2日記事参照・鈴木隆氏・小松やしほ氏)。日本政府観光局が発表した2013年上期の訪日外国人数は495万5000人で、前年同期比で23%増加し、過去最高となった。円安や格安航空会社(LCC)の就航拡大を追い風にアジアの客数が過去最高を記録した。そんな中、中国人客数は主要国で唯一減少が続いており、きめ細かい対応が求められている。今年上期だけで500万人近い外国人が日本を訪れたということで、年間1000万人という政府目標に一歩近づいた。日本政府は2003年に「2010年までに訪日外国人1000万人」を目標に掲げており、3年遅れで目標が達成されるかもしれない。実は順調にいっていれば、2010年に1000万人という目標は達成されるはずだった。ところが、2008年にリーマンショックが起き、その直後の超円高も影響して、2009年には訪日外国人数が大幅に減少してしまった。さらに、2011年3月の東京電力福島第一原発事故の影響により、回復するかに見えた訪日外国人数は激減した。2012年にも、日中関係、日韓関係の悪化により、訪日外国人数は伸び悩んでいる。2012年9月の尖閣問題以降、中国からの訪日外国人数は激減している。一方、韓国も減らしたが、最近は円安の影響もあって大きく回復している。いずれにせよ、韓国やASEAN(東南アジア諸国連合)6カ国から訪日する人が増えていることにより、1000万人という目標が達成されそうなこと自体は喜ばしい。このランキングは、2000万人以上の外国人旅行者を受け入れている10の国々、つまり2012年に外国人が多く訪れたトップ10を示している。第1位がフランスの8302万人、第2位が米国の6697万人、そして第3位が中国の5773万人となっている。アジアでは、中国のほかにマレーシアの2503万人がランクインしている。外国人旅行者受け入れ数が1000万人強以下の国々を並べてみたものだ。これを見ると、韓国に1114万人の外国人旅行者が訪れており、シンガポールのような小さな国でも1039万人に上っているのがわかる。こうした国際比較をしてみると、1000万人という日本の目標は、あまりに控えめなものだと言わざるを得ない。こんな小さな目標ではなく、英国、ドイツ並みの3000万人くらいの目標を掲げるべきだろう。別の目標を立てるとすると、北海道と九州でそれぞれ500万人、関西と東京は1000万人。この地域別の数字に目線を移すと、やらなくてはいけないことが見えてくる。やはり、中国から1500万人くらいの旅行者を受け入れることだ。日本の各地域がそのパイを巡って奪い合いをするためにきめ細かな戦略を立てて行く必要がある。というのも、中国と言っても地域の文化的な違いから20くらいの国があると考えなければならない。南部と北部では文化が全然違うのだから、それぞれの文化にあった旅行プランをつくり、日本の魅力を宣伝していくことが重要だ。冬になると上海周辺から北海道に来る人が増えるが、これは雪のない地域から最短距離にあるからだ。中国南部からは夏の北海道や軽井沢が避暑地として魅力的だ。航空路線、便数などもこうしたことを配慮すれば経済的にも成り立つ。一方、日本に来るのが初めての人は3泊4日で5万円くらいのパッケージツアーが主力であるが、内容は栃木県や群馬県の落ち目の温泉地を渡り歩く強行軍で、日本を好きになって「また来たい」と思わせるようなものではない。台湾や香港などの常連はパッケージではなく自分で好きな温泉や料理屋に行くケースが増えているが、そこまでたどり着けば、さらに頻繁に日本に来るようになる。日本へは常連になればなるほど、ますます頻繁に来るようになっている。つまり、安売りパッケージで人数だけ増やすのは将来的には良い結果を生まない、ということにも留意しなくてはいけない。中国人旅行者の1人1回あたり旅行消費単価は18万8000円と非常に高い水準となっている。5万円のパッケージ旅行で18万円のお土産を買うというのは、30年くらい前の日本人のハワイ旅行と似ている。ただし、いまは滞在にカネをかけてお土産を減らすようになっている。量だけでなく質の面からも、中国人旅行者の重要性はきわめて大きく、安易に魅力の薄い安旅館に詰め込んで引っ張り回す今の旅行会社のやり方を修正していかなくてはならない。米国とフランスは外交上の対立が先鋭化していた時期もあったが、双方向の観光客は減らなかった。日本も中国や韓国の国民レベルの往来は政治に影響を受けないように工夫する必要がある。巨大な中国人旅行者市場の先行指標は台湾や香港の常連であろう。とすれば、中国人が(安物の団体旅行ではなくて)あるがままの日本を自分で発見していくことを好むようになる日も近いと思われる。現に検索サイト「百度(バイドゥー)」などを頼りに軽井沢などで自転車をレンタルし、地元の人しか行かないような料理屋で器用にメニューを注文する中国人の姿をここ2、3年多く見かけるようになった。軽井沢の場合、バスの団体旅行では草津の安い旅館に泊まった翌日、アウトレットモールに来て3時間ショッピングをして、埼玉県秩父の長瀞などに寄って東京に帰る、というのが普通だ。しかし、個人となるとスマホを頼りに「自分の旅」を楽しむというパターンになり、地元の日本人と触れ合う機会も増えてくる。外交のぎくしゃくした関係も付け入る隙がないくらいの思い出を持ち帰ってもらいたいものだ。10年前には中国人はほとんど生魚を食べなかった。ビールも室温で飲むのが普通だった。が、いまでは鮨や懐石料理を好むようになっているし、ビールも冷やして飲む人が増えている。台湾や香港の“通”が先行指標になっている、というのはこうした事例を見れば数限りなくある。温泉など無縁であった中国でも、いまでは雲南省で温泉が見つかったと言って、日本の温泉業者に開発を依頼してきているほどだ。訪日外国人数を観光先進国並みに高めていくためにも、3000万人を受け入れる構想と仕掛けを作っていかなくてはいけない。その第一歩は、おそらく半数を占めると思われる中国人に対して地域別、訪日回数別、可処分所得別などのよりきめ細かなプログラムを開発し、ネットなどで訴求していくことであろう。(観光客訪日3000万人目指す戦略を2013年8月7日大前研一レポート)2017年度までに成長戦略の工程(国が運営するハローワークの求人情報を14年から民間企業に開放することや、高い技能を持つ外国人の3年間での永住権獲得など)を決めるそうです。が、大前研一先生は「「国家成長」をわかっていないひとがつくったプラン」といいます。何故「リースをつかった資格支援」で自己資金による投資のリスクを補填するのか?なぜに企業の無謀な投資に対して国民の税金をつかうのか?「社外取締役原則化」もソニーの例で成長に関係ないことがわかっている。子供を3歳まで無償で育児とは正しいし、いいことだが「成長戦略」とは関係ない。「ネット医薬品販売」も国民が病気になって薬を3倍多く買うのか?ということ。「特区」とは役人・官僚が大嫌いで政治家のもの。小泉政権でも「なんとか特区」だのあったが広がらなかった。同じ轍を踏んでいる。「対内直接投資を35兆円に」など実現不可能です。よく経済がわかっていない連中が「なんとか競争力会議」で発表して発言しているだけです。もっとまともになろう。また日本維新の会・民主党・自民党・マイナンバー法案と高校授業料無償化について考えよう。日本維新の会の石原共同代表は2013年5月7日、「党の旬が過ぎ、賞味期限が近づきつつある」として、橋下共同代表の参院選出馬を打診したという。橋下氏は「(国会議員と自治体首長を)兼任できるなら挑戦もありうるが、大阪市長を辞任してまで参議院選挙には出ることは出来ない」ときわめて慎重です。石原氏は無責任だと思います。橋下氏が参議院選挙に出たらせっかく進んでいる「大阪都構想」が無駄になってしまいます。橋下徹氏は出馬するべきではありません。まだ44歳と若いのですから国政はもっと後でもいいのではないでしょうか。

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<フジテレビ『報道2001』番組内「東京都知事の課題」2014年1月26日Ⓒ野村修也教授>

2014年04月25日 14時45分27秒 | 日記






<フジテレビ『報道2001』番組内「東京都知事の課題」2014年1月26日中央大学法科大学院教授・野村修也教授案Ⓒ野村修也氏>(1)オリンピック・パラリンピックの成功*道路などのインフラ整備*セキュリティーの強化(テロ防止等)*外国語表示・標識の整備*横田基地の軍民共同化*大型クルーズ客船ふ頭の整備*オリンピックレガシーの残し方に関する計画(2)国際競争力の向上と海外企業の誘致*国家戦略特区としてのアジアヘッドクオーター特区の推進*カジノ解禁に伴う総合リゾート(IR)の推進*地下鉄一元化の推進*羽田空港の更なる国際化*東京港の物流等の強化(3)高度な防災都市の実現*高速道路の老朽化対策*木造家屋密集地の防火対策*ヘリサインの整備*帰宅困難者対策(一時滞在施設確保など)*PF1(住宅の1Fにコンビニやスーパー)(4)高齢者対策・子育て支援*地域包括ケアシステムの構築*訪問介護の充実・認知症患者に対応できる医療機関の充実*介護施設の安全確保*子ども子育て新制度に関する施設の充実*待機児童対策の充実*(5)抜本的な電力対策*電力システム・改革の推進*分散型電源の普及拡大*再生可能エネルギーの普及拡大(6)教育の充実*公立学校の教員定数の充実*私立学校助成の充実*就学支援制度の充実*教育委員会制度の見直し*いじめ対策(7)美しい景観・環境の整備*無電柱化*街路樹の倍増*公園の整備促進*水辺空間の緑化促進*河川の水質浄化*東京湾の水質改善*ヒートアイランド対策*地球温暖化対策*自動車排ガス対策(8)地方分権の推進*法人事業税の暫定措置の撤廃(地方税としての還元)*法人住民税の一部国税化案の撤回要求(法人税・贈与税・相続税・所得税等の大幅減税)*ハローワーク事業の経営



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昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説4

2014年04月25日 05時54分39秒 | 日記




  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。

 三計塾において、全国のあらゆる名士と交わり、精一ぱいの遊学を続けていた龍雄は、慶応二年(一八六六)の四月、藩命によっていよいよ帰国することになった。四月九日江戸を発ち、日光街道を通り南会津を抜け、檜原峠を越えて同月十七日に米沢に帰着した。
米沢に帰った龍雄は、しばしば藩の執政(しっせい)に対して、時局の急迫を警告し、自務を論じたという。
「徳川幕府は腐りきった糞以下です!」
「これ、声がでがい!いがに京や江戸より遠く離れた米沢でだんべども………危険な思想だべした!」
「幕府は馬鹿です。戦に長けた長州藩を会津藩や薩摩藩と徳川で滅ぼそうという点……ぼくから言わせればそれこそ夷人(えびすじん・異人のこと)の思う壺!このままではこの日の本の国はエゲレス、メリケン、フランス、オロシアの植民地に…清国(中国)やインドのような西欧列強の奴隷国家となってしまいます」
「んだがら…」家臣たちは困った。理解できない。雲井龍雄のように黒船をまじかに見た訳でもなく長州藩士や土佐藩士、薩摩藩士にさらには幕臣だが勝麟太郎(勝海舟)や勝海舟の弟子と称する坂本竜馬の話を訊いた訳でもない。佐久間象山先生や吉田松陰先生の話を訊いた訳でもない。とにかく「田舎者」「井の中の蛙」である。
「おじづげず雲井!」
「今はやれ長州だ会津だ薩摩だ、と内輪もめしている状態ではないのです!倒幕です!倒幕しかありません!西洋列強国の奴隷国に日本がなってもいいのですか?!」
「んだげんじょ………」
確かに米沢藩は徳川幕府に恩はない。というか越後(新潟)から会津(福島)そこから出羽米沢(山形県米沢市)に転封されたのは徳川幕府のせいである。だが、歴史通のひとならご存知だろうが保科正之公への恩はある。
つまり、上杉家の世継ぎでお家断絶の危機の時、当時の会津藩主(初代)の保科正之公の取り計らいにより、謙信から四代目、藩祖・景勝から三代目の上杉綱勝が病死して、会津公のとりなしで綱勝の妹と結婚していた吉良上野介義央の、息子・吉良三郎(のちの綱憲)を四代米沢藩主につけて上杉家米沢藩は「お家断絶」を免れたのである。
「倒幕です!勤王攘夷だの馬鹿馬鹿しい!ただちに開国して西洋列強の知恵や技術を文化を学ぶことです!」
「だまれ雲井! んだなごどでぎるが?!ここは米沢じゃぞ!謙信公の米沢藩上杉家の城下町だぞ!異国なんぞにまげるが!」
「……んだげんじょ!なら僕に茂憲公の上洛のお供を!直江兼続公・謙信公みたいに………鷹山公みたいになりたいのです!」
「馬鹿が!雲井!」
 当時の米沢藩では、龍雄を江戸から呼び戻す少し前、幕府の要請を受け入れて、世子(世継ぎ)の上杉茂憲に、兵八百をつけて京都の治安を分担させていた。
 幕府では、米沢藩の歓心を買う為に、今まで委任統治の形で米沢藩に任せていた屋代郷三万七千石を、この年六月、正式に米沢藩領地に加えた。米沢藩主・上杉斉憲の世子・茂憲も在京しており、徳川幕府に接近していた。が、雲井龍雄は天下の計を示し、「徳川幕府討つべし」という結論にいたった。坂本竜馬や勝海舟や西郷隆盛より、誰よりも幕府の腐り具合を見ていた。さすがは雲井龍雄だ。坂本竜馬の人気や知名度には遠く及ばないが、さすがは天才的英雄だ。「滅びの美学」等とほろばされたままではもったいない。
世子がいたずらに大軍を率いて京に滞在すれば、いつ政争にまきこまれるか分かったものではない。それはおおいに危険だ、と雲井は意見を通した。もっともである。茂憲が米沢に帰着すると、これに代って執政(家老)千坂太郎左衛門高雅(たかまさ)が上京し、これに呼応して、龍雄をはじめ上(かみ)与七郎・小田坂盛之進・宮嶋誠一郎などが、おいおい京都探索方(たんさくかた)として用いられることになった。
(参考文献「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作 遠藤書店57~60ページ)


坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
 この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親(もうり・たかちか)に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。
 吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。
 そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
 世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をしてしまう。井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。
 当然、松門門下生は反発した。「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。
 桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
 この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
 文は兄が好きな揚げ出し豆腐を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋(といっても牢に鍵は掛っていない)にもっていく。 
「この揚げ出し豆腐は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」
「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。
 こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。
 そして病床の身であった母親・杉瀧子が、死ぬのである。


                            

明治新政府は慶應四年正月十七日、言論陳情を目的に「貢士(こうし)対策所」を設け、各藩から貢士を選抜した。また、これよりさき、政府は同じ目的で「徴士(ちょうし)」を選抜している。徴士も貢士も、歴史的には立法府の前身をなすもので、徴士は貴族院議員(現在の参議院議員)、貢士は衆議院議員の前身にあたる。貢士にくらべて徴士は、政府の宦官的性格が強かった。
当時は政府も創成多忙のさいで規則通りにはいかなかった。米沢藩は中藩なので、貢士二人を推薦できるが、龍雄ひとりが「米沢藩代表」の貢士となっている。
何故か?そこは坂本竜馬や木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治改め)との縁なのである。
坂本竜馬が生前に『雲井の倒幕論』を桂小五郎に話し、「米沢藩に雲井龍雄あり!」としてくれたので、木戸孝允に拾われたのである。だが、雲井龍雄はしかし「ただでさえ財政難のとき、無名の軍を起こすことの非をつき、徳川氏討伐、会津討伐のくわだては、公費無駄遣いの最大のモノ」と決めつけた。まあ、明治政府の官軍ぶりが気にくわないということである。私利私欲に明け暮れる薩長政府を呪った。慶應四年五月、三度目の意見書を政府に提出した龍雄は、盟友二十名の盛大な送別会に臨み、さらに翌三日、公議所に休暇届を出すと、再び他藩の盟友二十余名と別宴を張り、このあと夜隠にまぎれて京都を脱出、東海道を下った。
こうして京都を脱出した龍雄は、雨の中を徹夜で桑名まであるいた。従う者は同志の大津山譲介(後の中村六蔵)ただ一人、龍雄たちは薩摩の追手を受けるおそれがあるので、少しでも早く京都から遠ざからなければならなかった。豪雨の年で河川の洪水に悩まされながら追手をかわし、三計塾で同門の鈴木陸二の岳父、陸平の邸に駆け込んだ。
「くそう!僕は討幕派なのに薩摩の馬鹿め!あいづらの魂胆はみえでるず!幕府も糞だが薩長官軍も糞だべした!」雲井は天を呪った。

(参考文献「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作 遠藤書店66~70ページ)

 和宮(かずのみや)と若き将軍・家茂(いえもち・徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(てんしょういん・薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。

  伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。                明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
 家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。


         2 維新前夜





  伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 

 若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると藩校明倫館小学部に入学した。のちの博文こと伊藤俊輔もここに在席した。
 伊藤は井上聞多とともに高杉の親交があった。
 ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
 悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
 いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
 晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
 しかし、いくらやっても強くならない。
 桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
 桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
 桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
 晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
 ……俺は詩人にでもなりたい。
 ……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
 高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
 晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
 自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
  晋作には親友がいた。
久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
 久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
 久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
 その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
 その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
 明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
 と、玄瑞にきいたことがある。
 久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
 晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
 晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
 晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
 久坂は正直にいった。
「なに?!」
 晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
 晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
 久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
 晋作は興味をもった。(注・実際には高杉晋作は少年期から松門門下生である。ここでは話の流れの為後述のようにした)
 しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもって吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
 吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
 晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
 晋作はにやにやしている。
 ……俺の才能を知るがいい。
 吉田松陰は「わかりました」
 といってかなりの時間をかけて読んでいく。
 晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
 吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
 そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
 といった。
 高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
 ……審美眼がないのではないか?
 人間とは、自分中心に考えるものだ。
 自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
 松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
 高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。

             
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
  松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
 しかし、感覚と学問は相反するものではない。
 きみには才能がある」
 ……この人は神人か。
 後年、晋作はそう述懐しているという。

  松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
 晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
 わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
 松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
 しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
 晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。

              
 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…

 高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
 吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
 久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。
 久坂の妻となった久坂(旧姓・杉)文は苦手な料理や洗濯などかいがいしくこなしていたが、やがて久坂との大事な赤子を死産してしまう。ふたりは号泣したという。この事がきっかけでかはわからないが、文は「子供が産めない体」になるのだ。が、それは後述するとしよう。
  安政五年、晋作は十九歳になった。
 そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
 おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
  松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ(プリーズ、オン・ザ、シップ!)、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
  松陰は江戸に檻送されてきた。
高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
 松陰もまた高杉に甘えきった。
 かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
 晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
 松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
  晋作は官僚の息子である。
 そういう環境からは革命はできない。
 晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
 松陰は晋作に期待していなかった。
 松陰は長州藩に疎まれ「幽閉」される身となる。それでも我儘坊ちゃん高杉晋作の豪遊癖は直らない。久坂義助は玄瑞と号し、長州藩の奥医師の立場から正式な侍・武士になろうと奮起する。
 だが、そうそう自分の思い通りにいく程世の中は甘くない。酒に逃げる久坂を文は叱り、そして励ました。まさに内助の功である。
 松陰が幽閉されたのは長州藩萩の野山獄である。しかし、幕府により松陰は江戸に連行され殺される運命なのである。文やのちの伊藤博文となる伊藤俊輔らは江戸の処刑場までいき「吉田松陰の斬首」を涙を流しながら竹柵にしがみつきながら見届けた。  
 幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
 「先生!せ……先生!松陰先生!」
 「寅次郎にいやーん!にいーやーん!」
 このとき久坂文が号泣したのは当たり前だ。が、あまりに激怒したため幕府の役人を「卑怯者!身の程をしれ!」と口汚く罵った為に一時期軟禁状態にされ、高杉晋作か誰かが役人に賄賂金を渡して久坂文が釈放された、というのは小説やドラマのフィクションである。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
…吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

  晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
 晋作は反発した。
 回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
 高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
 革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
 その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
 ……しかし、まだ嫁はいらぬ。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。

「萩軍艦教授所に入学を命ず」
 そういう藩命が晋作に下った。
 幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
 長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
名を丙辰丸という。
 小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
 乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
 松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
 ……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
 松島は帆をかかげて、船を動かした。
 航海中、船は揺れに揺れた。
 晋作は船酔いで吐きつづけた。
 品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
 松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
 晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
 ……俺は船乗りにもなれん。
 晋作の人生は暗澹たるものになった。
 品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
 その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。
 粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
 ……疲れているからいい。
 ふたりはふとんにぐったりと横になった。
 ……また藩にもどらねば。
 晋作には快感に酔っている暇はなかった。

           
 この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
 勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
 勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 久坂玄瑞や真木和泉(まき・いずみ)ら長州藩士・不貞分子ら一大勢力や三条実美ら公家が京の都で、「天子さま(天皇陛下のこと)を奪還して長州藩に連れ出し政権を握る」という恐るべき計画を立てていた。当然ながら反対勢力も多かったという。
 のちの木戸孝允こと桂小五郎も「私は反対だ!無謀過ぎる!」と反対した。「畏れ多くも御所に火を放ち鉄砲・弓・矢を向けるなどとんでもないことだ」
 当たり前の判断である。だが、長州藩は追い込まれていた。ほかならぬ薩摩藩・会津藩にである。
 窮鼠猫を噛む、ではないが長州藩危険分子は時代に追い込まれていた。この頃、久坂文は亡き兄の忘れ形見でもある松下村塾で教える立場のようなものにもなり、久坂玄瑞はたんと嫁自慢をしたという。
 だが、乱世は近づいていた。文は子供の産めない体になり、文は号泣しながら崩れる夫・久坂玄瑞に泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けた。それが今生の別れとなるとは、誰も考えられなかったことだろう。
  勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 

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昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説4

2014年04月23日 05時15分23秒 | 日記



 雲井は約束した。
 母は労咳(肺結核)であった。ごほごほと病床で咳をして、喀血して、自分でも驚いたろう。そして、雲井の母親はまた、紅葉のように早逝するのである。
龍雄は泣いた。そして、母との別れで心の中で「母上、かならずお約束お守りいたします。母上、おしょうしな(ありがとう)!」と誓った。
雲井龍雄の本名は小島守善だが、辰の年うまれであるからと龍三郎・龍雄と自分で名前を変えたという。さらに付言すれば、龍雄の生まれたのは、明治維新の二十四年前であり、紀州の陸奥宗光と同年である。長州の伊藤博文よりは三歳年少、肥前の大隈重信よりは五歳年少、土佐の板垣退助よりは六歳の年少であった。
また、自称変名として用いたものに遠山翠(とうやまみどり)、一木緑(いちきみどり)、桂香逸(かつらこういつ)などがあるが、雲井龍雄の名前が広く知られる。龍雄の郷里米沢の西に連なる斜平山(なでらやま)のふもとが遠山というである。
龍雄の生家の近く桂の大樹があり、よい目じるしになっていたという。桂といい、一木というのは、この老樹に因んだものと思われる。雲井龍雄の名は、二十五年の慶応四年(一八六八)七月頃から使用し、晩年は好んでこの名を使用した。本名の龍三郎(または守善)に因んで、「雲龍昇天」の活躍を望んだものである。次男に生まれた龍雄は母の死後、十四歳の安政四年(一八五九)五月、同藩の小島才助の養子となった。
 龍雄が初めて勉学の手ほどきを受けたのは、生家の北隣に住む上泉清次郎という人であり、龍雄八歳の時である。清次郎は、龍雄の教育わずか一年という短さで病死した。そこで龍雄は、曽根俊臣(そね・としおみ)という人の私塾に入った。まあ、前述した寺子屋であり、前述したエピソードのようなものがあったり、なかったりする。
俊臣の本名は宮地敬一郎、俊臣は幼くして神童の誉れ高く、二十一歳で藩校・興譲館(こうじょうかん)の助読に挙げられ、さらに読長になった。一代に門弟三千人と称せされ、郷学の中心的学者であった。惜しいのは戊辰戦役に志願して従軍、越後大黒の夜戦に斬込隊の先頭に立ち、敵弾で戦死した。現在の上杉神社(米沢城址・松が岬公園)の西堤上にその慰霊碑が建っている。次いで龍雄は、遠山の里(米沢市遠山町)に住む山田蠖堂(ようだかくどう)の私塾に移り師事する。
14歳からは藩校「興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学。
興譲館は主に官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場であった。
が、龍雄は「優秀」に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けた。
好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破し、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達する。
18歳のとき、叔父・小島才助の養子となり、丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶る。
20歳のときに才助が死去したため小島家を継ぎ、21歳で高畠の警衛の任に就いた。
慶応元年(1865年)、米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒(やすいそっけん)の三計塾に入門。息軒は昌平黌においても朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせた。こうした学風を受け龍雄は経国済民の実学を修め、執事長(塾頭)にも選ばれており、息軒から「谷干城(たにたてき・元農商務大臣)以来の名執事長」といわしめたという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。
同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがいる。またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助と出会った。

(「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作・遠藤書店39~53ページ参照)
[雲井龍雄の参考文献]
• 角田恵重「片品村と雲井龍雄」(「片品の民族-群馬県民俗調査報告書」1960年)
• 安藤英男「雲井龍雄全集」1982年
• 安藤英男「雲井龍雄研究」明治書院
• 猪口篤志「日本漢詩新訳漢文大系」同上
• 童門冬二「雲井龍雄」新人物往来社
• 藤沢周平「雲奔る・小説雲井龍雄」文春文庫
• 安藤英男『雲井龍雄詩伝』(明治書院)
• 高島真『雲井龍雄 謀殺された志士 また蒼昊に訴えず』(歴史春秋社)
• 村上一郎「雲井竜雄の詩魂と反骨」(「ドキュメント日本人 第三巻 反逆者」(学芸書林)所収)
• 高木俊輔『それからの志士―もう一つの明治維新』(有斐閣選書)
• 夏堀正元『もう一つの維新』(東邦出版社)
• 吉川英治「明治秋風吟」(吉川英治全集第44巻(講談社)所収)
• 須藤澄夫『幕末残照 雲井龍雄との対話』(新人物往来社)
• 松本健一「遠山みどり伝」(「幕末畸人伝」(文藝春秋)所収)
• 八切止夫『明治奇談・爆裂お玉 雲井龍雄の妻』(昭和シェル出版)
• 田宮友亀雄『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』(遠藤書店)
• 雲井龍雄手抄『王陽明傳習録』(杉原夷山註解)(東京・千代田書房&大阪・杉本梁江堂)
• 有馬卓也「雲井龍雄研究序説 : 慷慨と隠逸をめぐって」(「徳島大学教養部紀要 人文・社会科学」 vol.28)
• 有馬卓也「自由民権運動下の雲井龍雄の一側面:『土陽新聞』記載記事をめぐって」(徳島大学国語国文學 vol.6. vol7)
• 山崎有恒「「公議」抽出機構と崩壊―公議所と集議院」(『幕末維新論集 六巻』(吉川弘文館)所収)
• 黒江一郎『安井息軒』(日向文庫刊行会)
• 鈴木富夫「知られざる英傑 「雲井龍雄」小伝 四幕」 (『戯曲春秋』第22号、2007年)
関連項目
• 討薩檄
討薩檄
「討薩檄」(とうさつのげき)は、戊辰戦争に際し、米沢藩士・雲井龍雄が全軍の士気を鼓舞するために起草した檄文。この文章の内容と政治思想が、明治政府のしゃくに触り、「危険分子」として雲井龍雄は罪名も不明のまま斬首され、この世を去るのである。まるで関ヶ原のきっかけをつくった直江山城守兼続の「直江状」のようだ。
内容

その文章の迫力や訴える力において、数ある古今の檄文の中でも名文と言える。実際の戦闘においては物量や人的資源にはるかにまさる主に薩長率いる新政府軍に奥羽越列藩同盟は敗れることになるが、「討薩の檄」は、薩長を中心とした視点とはまた別の視点を今日にも訴えるものとも言える。
なお、雲井は、大政奉還に協力・尽力した人物であり、必ずしも佐幕派ではなかったが、薩長の武力討幕方針に反対して奥羽越列藩同盟に身を投じた。雲井は戊辰戦争期間中、薩長の離間を画策し、「二毛作戦」と呼ばれる、遊撃隊を率いて上野・下野方面から官軍を撹乱する作戦を採ったが、作戦は失敗に終わった。戊辰戦争終結後、雲井は米沢藩から推挙されて新政府の集議院に勤めるが、のちに戊辰戦争期間中の言動が理由で集議院を追われ、その後、帰順部曲点検所を設立し失業士族の救済に奔走するが、謀反を企てているとして処刑された。
この物語とこの物語の大河ドラマでは、家の強い絆と、雲井龍雄の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」で、吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族として描かれた。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者が予想されます。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は瀧子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。このエピソードは大河ドラマでやる事でしょう。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念しているという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村氏伊之助→小田村氏文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマ「花燃ゆ」(2015年度作品放送)。大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な、杉文が主人公ではある。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描くという。なら大河ドラマ「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代」では米沢藩を描いてほしい。
 多分、大河ドラマ「八重の桜」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだ。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。

米沢藩の藩校・興譲館に出勤して家学を論じた。次第に龍雄は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。親戚の妹にとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという兄・雲井龍雄(遠山翠)の存在は誇らしいものであったらしい。龍雄は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」龍雄は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで龍雄は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら龍雄はきいた。
「板谷峠にお住まいの与力某様でござります」
 龍雄は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると龍雄は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、龍雄は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い雲井龍雄でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  龍雄は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 龍雄の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、龍雄は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。龍雄は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。龍雄は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  龍雄は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により雲井龍雄の名声は世に知られるようになっていく。龍雄はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 親戚の妹は幼少の頃より、龍雄に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という龍雄の考えで学問を習うようになる。雲井龍雄は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいしてその親戚の妹なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。雲井龍雄のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「んだげんじょ、なしで、守善(もりよし)にいちゃんは、考えだすと私の声まできこえないんだず?」親戚の妹が笑う。と雲井龍雄(本名・小島守善(もりよし))は「んだな、学者だがらだんべと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の親戚の妹は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。

話は長州藩の天才思想家・吉田松陰の話に変えよう。 
あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「馬鹿らしか」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。この物語では松下村塾に久坂玄瑞にならって高杉晋作が入塾するような話になっている。
 が、それは話の流れで、実際には高杉晋作も少年期から松陰の教えを受けているのである。
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
 
のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。
 文や寅次郎や寿の母親・杉瀧子が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに鈴木家と斎藤家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の鈴木某や斎藤某の御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?先生」
 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「昇り竜の如く 雲井龍雄とその時代」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
  




  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。


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<池上彰の「池上彰解説塾」テレビ朝日番組2014年4月14日Ⓒ池上彰>

2014年04月22日 13時59分51秒 | 日記




<池上彰の「池上彰解説塾」テレビ朝日番組内2014年4月14日放送分Ⓒ池上彰>
<沖ノ鳥島>沖ノ鳥島は1968年に占領していた米国から小笠原諸島とともに日本に返還されました。1988年には岩が(日本政府としてはあくまで島)ちょっとだけ満潮時も干潮時も出ている状態であった。それから岩が(あくまで島(笑))なくならないように約300億円をかけてテトラポッド等で囲み島(笑)を維持していました。ちなみに沖ノ鳥島はグアムより南にあります。EEZでだと日本の領海領土排他的経済水域で世界6位の国土ですが、島や日本列島だけなら国土は60位です。島とは<国連海洋法条約(海の憲法)第121条(島の制度)[第一項]島とは、自然に形成された陸地であって水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるものをいう>ということです。島から12海里(22km)が「領海」。島から200海里(370km)が排他的経済水域(EEZ)さらに大陸棚(350海里(650km)もEEZも同じ)
岩は領海のみ。排他的経済水域(EEZ)はつかない。だから「岩」ではなく「島」にしようと工事中に事故がおこった。だが、中国は「あれは岩だ」と主張する。根拠は<国連海洋法条約第121条(島の制度)[3項]人間の居住又は独自の経済的生活を維持することの出来ない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない>という条項で文句を言っている。とにかく、はやめに工事ミスをリカヴァ―して早く島状態にしなくてはね。
<STAP細胞問題>論文とは二つのパターンがあります。①学会で発表②学術誌で発表、です。ちなみに「STAP細胞の論文」は英国のネイチャー誌に掲載された。ちなみに世界三大学術誌があります。①1869年創刊英国「ネイチャー」誌(週刊誌)②1880年創刊米国「サイエンス」誌(週刊誌)③1974年創刊米国「セル」誌(隔月誌)(山中伸也氏の)iPS細胞論文はセル誌)。さてSTAP細胞問題でペテンではないか?捏造ではないか?写真や文章がコピペではないか?という問題には「インパクト・ファクターImpact Factor 論文をどれだけチェックするか?どれだけ引用されているか」例えば*過去二年で10本論文掲載*去年論文が100回引用された*→100÷10=10<インパクトファクター>=10となる。
ネイチャーの掲載まで→(年一万件論文投稿)→①編集者一次選考で7、8割落とす②専門家が審査(300件1年間で掲載)*論文取り下げ(あらゆる雑誌に100万件掲載されているもののうち、論文撤回は190本のみ(0.01%))これは無断盗用やコピペを見破るソフトが開発されたからだという。ちなみに私の書いている小説などはちゃんと参考文献・資料文献も明かして記載している。無断盗用・盗作ではない。「文章が似ている」=「盗作」などという単純なものではそもそもないのだ。
<ウクライナ情勢>まずは<EUの主要貿易国>をご覧頂きたい。一位アメリカ14.3%二位中国12.5%三位ロシア9.7%四位スイス6.8%五位ノルウェー4.3% 他。EUにとってロシアとの西側の欧州は巨大マーケットであり、各国がロシアへの制裁に及び腰なのはそのためだ。また米国も同じようにロシアへの経済制裁はシリアのときのような「また口だけのリップサービス」になりそうだ。<各国のロシアへの制裁>*アメリカ→ロシア政府富裕層や企業などの資産凍結や渡航禁止*EU→ヴィザ自由化渡航の凍結→ロシア政府高官などの資産凍結や渡航禁止*その他→G8への参加停止………とにかく日本はアメリカに義理立てすることなく、いいように誤魔化してロシアへの経済制裁に加わらずロシアに恩を売っておくことだ。どっちみち欧米がしかけた政変劇で、日本は関係もない。クリミア半島のほとんどの住人はロシア人である。現在、ウクライナ政府が経済破たん状態であり、ロシアに編入すれば年金がもらえる、とロシア系住民がいわれれば、人間は貪欲だ、ということだ。歴史をみてみよう。1667年ウクライナ西側(ポーランド領)東側(帝政ロシア領)。1958年ウクライナ全国ソ連領土に。但し、ウクライナのクリミア半島自治共和国をウクライナ領土へ(当時のフルシチョフが)。1991年ソ連崩壊のときにウクライナのクリミア半島はウクライナ領へ。だが、クリミア半島はロシア領土とウクライナ大統領(当時)が認めた。2014年ウクライナ・ヤヌコビッチ大統領が「EU加盟を辞退してロシア領土に」という意向を示し、EU派(西側住人)が暴動を起こし、政権転覆、その後ロシア派の東側住人が暴動を起こし「内戦状態」になった。ソ連時代に不凍港ウクライナのセバストポリに黒海艦隊の軍事基地があったが、ソ連崩壊後、ウクライナ領とロシア領の半分にわかれた。<各国の思惑>を見てみよう。*ロシア→軍事的に重要だからクリミアを編入する→ロシア系住民が多く元ソ連の思い強い*EU→ロシア軍事行動による領土拡大に抗議→天然ガスの輸入に影響がある(ロシアからの安価なパイプライン全体の依存度三割)のであまり表だって反対や抗議・制裁しにくい。*アメリカ→軍事行動による領土拡大に抗議→ロシアに睨みを効かせたい。EUのロシアの安価な天然ガスパイプラインは全体の3割。ウクライナは国としては料金22兆円未払いで止められている。ウクライナ大統領選挙は2014年5月に投票される。だが、またシリアのときみたいに誤魔化しになるに決まっている。それがいいのか悪いのかは、歴史家が後年決める事であり、米国欧州に同調する必要はない。こういうときこそ独自外交である。2014年5月のウクライナ大統領選挙後にでも動けば間に合う。その程度の問題でしかない。


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「ビジネスレポート」「「ワクワクするソニー」は帰って来るのか」永井隆氏&小学館SAPIO編集部

2014年04月21日 12時16分47秒 | 日記



ここで小学館SAPIO誌2014年5月号の特集「SAPIOビジネスレポート第18回」「「ワクワクするソニー」は帰って来るのか」ジャーナリスト永井隆氏とSAPIO編集部の記事を引用し、参考にしたい。
「自分を開発し、発展していくためには、他人と同じ考え、同じ行動をしてはいけない」ソニー創業者・盛田昭夫氏の言葉だ。2014年3月期、円安によって電機各社が増益を確保する中でソニーは「一人負け」だった。結局、VAIOという看板商品まで売却せざる得なくなった。それは、創業者の言葉に反して「他社と同じ行動」を取っていたからではなかったのか。「ソニーらしさが失われた」と言われて久しいが、いま少しずつ社内の空気が変わり、新たな尖った商品が世に出つつある。かつてのウォークマンや、犬型ロボットAIBO、液晶テレビ「ブラビア」やトランジスタラジオを生んだソニー魂は復活するのか。
<スマートフォン>15年度に「現在の2倍」という野望「カメラにこだわって”尖った”商品にXperia「トップ3」への挑戦」「苦渋の決断だった」ソニーから看板商品が一つ失われた。2014年2月の第三四半期決算説明会で、平井一夫社長兼CEOは厳しい表情でそう語り、「VAIO」ブランドで知られるパソコン事業を投資ファンドの日本産業パートナーズに売却することを発表した。同時に、14年3月期で10期連続赤字が見込まれるテレビ事業はこの2014年7月を目途に分社化。さらに国内外で5000人規模の人員を削減するという。VAIOは、ソニーが育てた大型ブランドだった。96年に発売され、「軽量・薄型」の代名詞になり一世を風靡。高いデザイン性を武器に10年度には870万台を売った。ところが最近は中国・レノボ等に押され、年間530万台(13年度見込み)に低迷。撤退が決まった。
 ソニーは主力のエレクトロニクス部門は赤字続きで苦境にある。前述したように10期連続の赤字となっているテレビ事業は、累算で7000億円の赤字を出すなど厳しい状況だ。ここまでエレキが苦しくなったのは一言でいえば「ソニーらしさ」の喪失だろう。デザインや音、商品に触れた時の質感など、消費者の琴線に触れる商品。いわばそれは五感を刺激するアナログな部分である。80年代に大ヒットしたウォークマンはその代表であり、ソニーは携帯音楽プレーヤーという市場を開き、人々のライフスタイルそのものを変えた。振り返れば、トランジスタラジオ、家庭用VTR、高画質なトリニトロンカラーテレビ、ハンディカムなど消費者がワクワクするような商品を世に出し続けてきたのがソニーだった。
 VAIOは、後追いのデジタル商品であった。それでも売れたのはデザイン力により高いブランド価値を持っていたからだ。剛性感のある手触りや見た目など、ある意味でアナログな要素が、人と違うパソコンを求める層に受け入れられた。「ところがソニーは主に新興国向けに、低価格な普及品を展開しました。質より量を求めた結果、VAIOブランド価値は落ちてしまいました」(ITジャーナリストの本田雅一氏)”ソニーらしさ””ブランド価値”といっても情緒的・抽象的なものではない。多くのデジタル製品が、誰でも部品を組み立てられるコモディティ商品になった時代には、アップルのようにファブレス(工場を持たない・製造は台湾の鴻海社・フォンファイ)になって設計力で戦うか、サムスンのように(技術は日本の盗作だが(笑))数で勝負して競争力・価格決定権を持つか…といった他を圧倒するビジネスモデルが必要だ。
 ソニーの場合は「これは欲しい」「持っているだけでかっこいい」というブランド価値こそ競争力の源泉だったのであり、ソニーらしさの喪失はダイレクトに業績に反映してきた。
  平井社長がエレキ部門の立て直し策おして掲げたのが、「3コア事業」を集中的に強化する方針だ。3コアとは①スマートフォンなどのモバイル事業②平井氏自身の出身母体であるゲーム事業③画像センサーやデジカメのイメージング関連事業ーである。
 まずは「Xperia」ブランドでスマートフォンを展開するモバイルだ。かつてはスウェーデンとの合弁会社ソニー・エリクソンとして運営してきたが、12年にエリクソン社保有の株式を買い取り、100%子会社のソニーモバイルコミュニケーションズとなっている。2013年の世界のスマホ市場ははじめて10億台を超えた。シュアは1位サムスン31・3%、2位はアップル15・3%。3位以降は大きく離され、中国の華為技術(ファーウェイ)4・9%、韓国LG4・8%、中国のレノボ4・5%と続く。ソニーは約4%で、7位に位置していると見られる。ソニーのスマホは4K対応の高画質カメラを動画再生速度と防水性・耐久性・さらに洗練されたデザイン力が武器だ。
<ゲーム>ライバル任天堂は350億円の営業赤字。浮き沈みが激しいPS(プレイステーション)事業で、会員制オンラインが「安定」をもたらすか。『PS4』は昨年(2013年)11月に欧米などで発売され、目標は500万台だったが、日本発売で2014年3月2日時点で600万台に達した。その好調ぶりから「ソニーの救世主」との声が上がっている。ちなみに店頭実態価格は4万2000円前後と決して安くはない商品だ。PSシリーズの売りであるリアルなグラフィック描写能力を進化させたことに加えて、PS4最大の特徴はネットワーク機能を高めた点にある。「ネットを通じて別の場所にいる友人と一緒にプレイ(オンラインマルチプレイ)したり、ストリーミングサービスを使って自分のプレイしている画面を世界中に中継したりすることが簡単にできるのがポイントです」SCE戦略・商品企画次長の菊池修蔵氏(39)はそう説明する。
<カメラ>基幹部品をすべて内蔵する強み。「お家芸の「小型化」と「面白いね、コレ」で2強(ニコン、キャノン(全体のシュア8割))に挑む」収益性が高い一眼レフカメラは、キャノン、ニコンのシュアが全体の8割、そこにどこまでせまれるか。エレキ多難時代をささえたのは映画・金融・保険・土地・建物・株券だった。だが、もうそろそろ限界が見えている。背水の陣で「ソニーらしさ」の復活がどこまでできるかが今後の勝負の分かれ目となるだろう。古巣の米沢NECのNECパーソナルコンピュータのコンシューマ商品企画部・中井祐介氏(30)は世界一軽く薄いノートパソコン『LavieZ』をプロデュースして大ヒットさせた。多分マックブックエアの猿真似(笑)大事なのはソニーみたいに新興国向け安価版等とやらぬ事。ブランド力が落ちるからだ。

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<SPECIAL REPORT>小学館SAPIO誌2014年5月号「アベノミクス礼賛」で日本崩壊・迫る大不況

2014年04月20日 13時30分40秒 | 日記





<SPECIAL REPORT>「アベノミクス礼賛」では日本が沈む「迫り来る「消費増税大不況」「次の一手」はあるか」小学館SAPIO誌2014年5月号SAPIO編集部著作権
<不況の予兆>「自動車は16%減、住宅は10%減、家電は8・6%減、車も住宅も家電も売り上げ急減予測が続々GDP8%減で「経済大国」転落が現実となる」SAPIO誌編集部。
SAPIO誌は安倍政権の「デフレ脱却宣言」は時期尚早だと警告してきた。増税が実行されていよいよ不況転落の危機が現実となりつつある。* 消費増税によって日本経済はどれほどのダメージを受けるか。マクロ経済分析を専門とする宍戸駿太郎・筑波大学名誉教授が政府の「産業連関表」に基づくシュミレーションシステムを用いて試算した結果は衝撃的だ。それによると増税後3年目には、税率が据え置かれた場合と比べて名目GDPがマイナス6・3%となり、10年後には「マイナス8%」まで落ち込むことになる。名目GDPは約480兆円だから、40兆円弱が吹き飛んでしまう計算だ。政府のシュミレーションではそんな数字は出てないが、宍戸氏はその理由をこう説明する。「内閣府は消費税が10%になった場合の影響をGDPで『マイナス1%程度』とする試算を公表しています。これは増税と歳出カットさえすれば国が立ち直るという途上国の財政再建のためのIMFのシュミレーションモデルを使った試算です。日本のように市場規模の大きい先進国で同じことをやれば需要が冷え込んで経済がどんどん収縮してしまう。政府は先進国に適用できないモデルを使って『増税で景気は悪くならない』と言っているだけなのです」実際には日本経済は致命的なダメージを受ける。<新車販売数は1970年の水準以下に>特に大きな打撃が予想されるのは自動車や住宅といった耐久消費財である。日本自動車工業会(自工会)によれば消費税が3%から5%に引き上げられた97年度で国内新車販売台数は628万台で、前年度の729万台から14%も減少した。駆け込み需要があった13年度の販売台数は前年度比プラス8%にすぎず「反動」の方が明らかに大きい。500万台が国内工場の稼働維持の目安とされる。それを割り込むと生産調整→人員削減→さらなる景気悪化と負のスパイラルに陥る危機が大きい。さらに自工会が去年(2013年)8月に公表したリポートでは15年10月に政府が予定通り消費税を10%に増税した場合、翌年度の販売台数は353万台にまで落ち込み<国内販売に致命的な打撃>だとしている。増税の影響は明らかで、既に3月上旬の大手住宅メーカーの受注速報では前年同月比30%以上の大幅減となる社まであった。税率5%が適用されるのは「3月末までに引き渡しの分譲住宅」(4月以降の引き渡しでも去年9月までの契約ならば5%適用)のため、受注ベースでは一歩先に冷え込みが始まっている。業界では既に10%への税率引き上げによるさらなる失速を懸念する声が上がっている。日本電機工業会が3月に公表した14年度の白物家電国内出荷見通しでは、エアコン(13・9%減)
、冷蔵庫(10・9%減)が落ち込むとされた。白物家電全体では8・6%減となる見通しで、13年度の4・7%増が簡単に吹っ飛ぶ。ここ数年でエコポイントや地デジ化といった耐久消費財の需要を先食いを喚起する政策が打ち出されてきたので、一部の商品を除いて97年当時のような駆け込み需要すら起きなかったのだから悲惨である。日常消費財の買いだめと消費傾向の落ち込み(節約傾向が穏やかに続く)で、増税で値札や店内システム全体を見直した億単位の投資が取り戻せなくなる。<中小企業5万社が倒産の危機>増税の影響は第一次産業にも重くのしかかる。とりわけ零細農家への影響が深刻だ。肥料や農薬、設備投資の購入費すべてに消費税がかかる一方、それを価格転嫁しにくい構造がある。コメの買いだめも売り上げの10~15%減を夏まで農協は覚悟してるが、野菜などの生鮮品はセリで値段が決まるから増税分が価格転嫁できない。倒産は中小企業円滑化法(モラトリアム法)の廃止で中小企業5万社が倒産する。これだけの「痛み」があるにもかかわらず税収は増えない。97年度の消費増税後、約54兆円あった政府の税収は13年度で約43兆円。不況をもたらし税収も減るのだから亡国の施策と言えるだろう。
<マーケット>「すでに海外投資家は「売り浴びせ」のタイミングを計っている」「債券市場では「3・13大暴落」が起きていた。バブル崩壊時と不気味な一致で「日経平均9000円」へ」*「株価下落と言っても、一時的なもの。年末1万8000円は堅いだろうね」政府首脳は3月中旬に大きく下落した株価について記者たちに問われて、そう嘯(うそぶ)いた。しかし、市場では、消費税アップに伴い企業業績に懸念が膨らみ、アベノミクスが限界に来ていることを見透かしたように「日本売り崩し」を虎視眈々と狙う動きはある。その日は突然やってくる。岩盤規制、具体的には農業、雇用など抜本的な規制緩和が必要です。農業は参入の自由化や農地取引の自由化。雇用は、正社員を解雇できるようにし労働力の流動化を進める規制緩和。そうして“日本が本当に変わった”と思わせられれば、外国人投機家はまた日本に投資するでしょう」
<所得税>「ベア2700円のトヨタ社員は、本当は1・6%の月給源」「増税ほかで可処分所得月額2万円減のなか、公務員だけ「賃上げ8・5%」に怒り爆発」<気づかぬ増税で所得激減><収入がない人も資産を搾り取られる未来>
<雇用>「ミスマッチと海外シフトに苦しむ労働市場は崩壊寸前」「非正規と復興特需だけでは駄目だ」「「職なき未来」を救うのは「職の創造」しかない」<日本人の職を奪う企業の海外シフト><国内に残る職業はコンビニのアルバイトだけ?>まとめ緑川鷲羽2014年4月20日 13時10分頃。


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昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説2

2014年04月20日 06時27分28秒 | 日記
米沢上杉藩


            
  上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。
 もちろん、上杉家の祖、上杉謙信も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山、鷹山といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉のうま煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。
 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。

 のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種実の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。 高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。
 血筋は争えない。
 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。
 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか?ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!
 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。
 では、謙信公や景勝公や兼続の影響を受けた鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?
 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれているくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。
 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。  当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。
 上杉重定はのちにこう言っている。
「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」

  当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。
 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。…上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。
 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわざるえない。男色(ホモ)だったのではないか?ともいわれる。
 また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。
 そんな時、一五七八年三月、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。 上杉の二代目の候補はふたりいた。
 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、ぐずぐすしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。 ぐずぐずしてられない。
 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。
 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。
 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。
 だが、問題はそのあとである。
 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。
 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。…上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大義に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。
 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。
 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。
 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を抑えてて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したといわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。
 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。
 西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。 そして和平したのである。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。
  当時の米沢は人口6217人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。
 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となったのである。
  人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。
 混乱する訳である。
 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。
 そのような暮らしは長く続くことになる。
 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。
 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。
 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?
 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。
 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざる得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。
 しかし当時は、士農工商とわず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。
 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。

  上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。
 また、有名なのが毒殺さわぎである。
 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。
 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。
 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。
 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。
 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。
 さぁ、上杉藩は大パニックになった。
 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死のまぎわに養子なり後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。
 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。
 まず、
 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。
 だが、
 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べ、女遊びにうつつを抜かし……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?
 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。
 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。
 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。
 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。
 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。
  こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。
  明和三年(1767年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。
 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、
  収入 6万5000両…………130億円
  借金 20万両    …………400億円
 という具合になる。
 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が3倍。………存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民2 .85人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では9人にひとり……だから赤字は当然だった。
 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。
「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう!米沢を生き返らせよう!」
 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。
 そして、改革は五十年ののち開化する。鷹山の意思の、力だった。
 そして、謙信、景勝、兼続、この英雄たちの意思の力、でもあった。
                         


      上杉鷹山公の功績



  関ケ原の豊臣西軍の敗北により、西軍側の上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石(4分の1)まで領地と禄高に減らされた。つまり謙信以来の名門上杉の越後から移転した会津本店が潰れ、米沢支店に全員転がってきた訳だ。4分の1で家臣の禄高は減らされたが、まだ減石が必要だった。そこで直江山城守兼続は、自分の禄高を減らした。
 米沢では兼続は河川工事や紅花や青ソの栽培を奨励する。
 しかし、家康は各諸藩の力を削ぐ為に次々と江戸の開発事業に銭を出させる。只でさえ、上杉家は台所事情が苦しいのにどうするか? 兼続は家康家臣の本多正重の息子を養子に迎え、支出を抑えてもらえるのに成功した。
 また、主君・上杉景勝に数万石の禄高を与えられることになった時、自分の禄高を減らして危機を救った。また兼続は米沢の某所で、鉄砲を隠れて密造し、乱戦に供えたという。 まだ徳川が全国制覇した訳ではなく、まだ豊臣家が大阪におり、そこで戦闘があるだろう……そういう思いだった。大阪冬の陣がいよいよもって開戦されると、上杉は徳川側につき大阪城の豊臣を攻めた。この戦で、上杉の鉄砲が火を噴いた。
 そして、いよいよ大阪夏の陣で徳川の天下となる。
 大阪夏の陣の6年後、直江兼続は病死する。実の子も養子も病死していた。こうして、直江家は断絶した。兼続の死後、上杉・米沢では兼続を称えるのがためらわれていた。関ケ原で上杉家が没落したのは兼続だし……というのだ。
 しかし、兼続の死後200年で兼続は英雄となる。第九代米沢藩主・上杉鷹山(治憲)により直江兼続の業績が見直された。こうして、直江兼続は英雄として見直され、米沢は再び試練を迎えるのである。そして、幕末、雲井龍雄の活躍も話題になるのである。


(ここでは米沢藩のウィキペディアの紹介です。)
 米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。


江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。
米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万石
前史


伊達政宗
米沢は戦国時代の天文17年(1548年)から伊達家の本拠地であった。当時の伊達家は第14代伊達稙宗と嫡子の晴宗による内紛(天文の乱)が起こっており、その内紛に勝利した晴宗は伊達家第15代となり米沢に本拠を移した。しかし晴宗と嫡子の輝宗も内紛を起こし、輝宗が勝利して第16代となるも、伊達家はそのために勢力拡大が大幅に遅れていた。
天正12年(1584年)10月、輝宗は隠居して嫡子の政宗が第17代当主となる。政宗は相馬家、二本松畠山家、蘆名家など奥州南部の諸氏を攻めて勢力を拡大。天正17年(1589年)6月に摺上原の戦いで蘆名家に大勝して同家を滅ぼし、以後政宗は蘆名家の本拠であった黒川城を本拠とした。さらに二階堂家、石川家や岩城家を滅ぼした政宗は奥羽66郡の内、およそ半ばを支配する奥羽の覇者となった。
しかし天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗は6月に小田原に参陣して豊臣秀吉に臣従した。このため伊達家の存続は許されたが、秀吉の奥州仕置により会津郡・安積郡・岩瀬郡など3郡は秀吉の発令していた奥羽両国惣無事令違反であるとして没収され、政宗は再び本拠を米沢に移した。だが秀吉は奥州仕置に際して厳しい検地を命じたため、10月初旬に奥州仕置で改易された大崎家や葛西家の旧領で一揆を起こした。この一揆は会津の新領主となった蒲生氏郷と政宗によって鎮定されたが、一揆の扇動に政宗があり、また氏郷暗殺の謀略があったとして秀吉は天正19年(1591年)秋に政宗から故地米沢をはじめ、伊達郡や信夫郡などを没収して大崎・葛西の旧領を与えた。これにより伊達家の領地はさらに減少し、年貢収入に至っては従来の半分ほどになった。政宗は岩手沢城を新たな居城と定めて岩出山と改名した。
政宗が移封された後、伊達家の旧領は会津の領主であった蒲生氏郷の所領となり、氏郷は米沢に蒲生郷安を入れた。だが文禄4年(1595年)に氏郷が死去。嫡子の秀行が13歳で跡を継ぐ。しかし東北の鎮守として90万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍いがあって18万石に減封された。
蒲生家に代わって会津に入封したのは越後春日山城主の上杉景勝であった。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であり、これは徳川家康や毛利輝元に次ぐ第3位の石高であった。景勝は家老直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達政宗及び山形の最上義光に対する抑えとした。ただし直江自身の所領は6万石だったといわれ、直江は上杉家全体を執政する立場にあったことから米沢には城代を派遣し、自らは本拠の若松城で景勝を補佐した。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が、慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、徳川家康の勢力は豊臣政権内において抜きん出た立場になり、家康は政宗をはじめとする諸大名との無断婚姻を繰り返した。家康に対抗しようと五奉行の石田三成は直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した。しかしこの軍備増強は、越後の堀秀治や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。
神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた。7月24日、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した。一説に景勝は天下に上杉家の信を失い、恥辱を残すことを恐れて許さなかったとされている。直江兼続は矛先を出羽山形の最上義光に向け、9月3日に直江は米沢に帰城すると、大軍を最上領に差し向けた(慶長出羽合戦)。直江は現在の上山市にあった畑谷城を落としたが、長谷堂城で最上軍の猛烈な反撃を受けて攻勢は停滞、その間の9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。9月29日に景勝のもとに石田大敗の急報が入り、景勝は直江に総退却を命じた。この時、上杉軍と最上軍、及び最上を救援する伊達軍との間で熾烈な追撃戦が行われ、両軍合わせて3000余の戦死者が出た。
景勝は家康と和睦するため、11月に重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させた。自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。こうして上杉家の支配による幕藩体制下の米沢藩が成立した。
藩史
上杉景勝の時代


上杉景勝


上杉家家老の直江兼続
上杉景勝が関ヶ原の戦いで出羽米沢に減移封されたため、直江兼続は米沢城を景勝に譲った。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市、伊達郡、福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣本庄氏を城代として置いた。
米沢は直江兼続の所領であったが、直江は上杉家全体の執政として若松城に詰めていたことが多かったため、内政はほとんど整っておらず、城下は蒲生家の時代に築かれた8町6小路の町人町と数百の侍町があるに過ぎない小さな城下町であった。この小さな城下町に会津に住んでいた家臣団や越後以来の寺社・職人などが大人数で移ってきたため、城下は大混乱した。直江は上・中級家臣は別として、下級家臣に対しては一軒に2、3世帯を共同で同居させてそれでも住居が無理なら掘っ立て小屋を建てたという。また屋敷割りから祖の上杉謙信の霊廟を築いたりした。
大坂の役では徳川方についた。米沢の藩政の基礎を固めた直江兼続は元和5年(1619年)12月に、上杉景勝はその4年後に死去した。
男系断絶と所領の半減
景勝の死後、家督はただ1人の息子であった定勝が継承した。定勝時代の米沢藩は安定しており、事件は寛永17年(1640年)の数百戸を焼失した大火と寛永19年(1642年)の凶作くらいだったとされる。定勝は正保2年(1645年)に死去し、家督は嫡子の綱勝が継いだ。だが寛文4年(1664年)閏5月に綱勝は嫡子も養子も無いままに急死した。このため上杉家は無嗣断絶の危機に立たされたが、綱勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と高家の吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることを訴えて幕閣に認められた。ただし所領に関しては、ペナルティとして信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収されて置賜郡内の15万石のみとされた。
綱憲から重定まで
綱憲の時代に忠臣蔵で知られる赤穂藩浪士の討ち入りがあった。これにより綱憲の実父の吉良義央は討たれ、次男の義周は信濃諏訪藩に流罪とされて失意の内に死んでいる。綱憲は事変の2年後に病気を理由に家督を長男の吉憲に譲って隠居した。
吉憲は在任18年で享保7年(1722年)に死去し、長男の宗憲が第6代を継ぐが、宗憲も享保19年(1734年)に死去し第7代を弟の宗房が継ぐが、これも延享3年(1746年)に死去と、病弱な藩主が相次ぎ短期間で入れ替わった。
第8代は宗房の弟の重定が継ぐ。重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やした。このため、米沢藩の財政は危機的状況に陥り、重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであった。
藩主が頻繁に入れ替わったため、藩政の実権は筆頭奉行の清野内膳が掌握したが、清野は宝暦6年(1756年)に辞職するまで藩政改革に手をつけず、何ら為すところが無かった。重定の時代には与板組の下級武士ながら寵愛されていた側近の森平右衛門利直が出世して実権を握った。森は租税の増収を図り、郷村の統制機構を整備して年貢の増徴を図ったが、一方で自らの親類を側近に取り立てたり人事や賞罰を独断して行うなど専横が強まり、藩政は腐敗したため、宝暦13年(1763年)2月に森は竹俣当綱により誅殺された。
上杉鷹山の時代
詳細は「上杉鷹山」を参照


上杉鷹山
第9代藩主の治憲(鷹山)は日向鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない。明和4年(1767年)に鷹山は家督を継ぐ。前述のように米沢藩は極端な財政難と政治腐敗で藩政が破綻寸前にあった。このため鷹山は、藩政と財政の再建を目指して自らが家督相続した強い決意を示し、さらに大倹約を主旨とした大倹令を発布した。また自らの生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大幅なリストラを行った。他にも殖産興業政策、籍田の礼、世襲代官制度の廃止、備荒20ヵ年計画など改革は次々と実行され、鷹山の時代に米沢藩は息を吹き返すことになった。
だが鷹山の改革は上杉家譜代の老臣らから根強い反対があり、1度は七家騒動において須田満主、芋川正令らが処分されたが、改革も後半になると再び老臣らが鷹山の腹心となっていた竹俣当綱を失脚させるなどした。また天明の大飢饉などで改革が停滞に入ったことも事実であり、鷹山は天明5年(1785年)に隠居し、第10代は重定の四男の治広が継承した。しかし治広と第11代藩主の斉定はいずれも鷹山の後見を望んだため、以後も鷹山の改革が続行されることとなる。
鷹山は停滞した改革を再び再建するため、借財返済の延期懇請と財政支出の大幅緊縮を行った。しかし外国船の日本接近による軍役や家臣が多すぎる問題などから、財政は再び悪化していた。このため鷹山は寛政期に入ると、等級の区別無く有能な人材を大量に召しだして登用した。また財政再建16ヵ年計画を定め、農村復興計画や上書箱の設置、緊縮財政から領民保護など様々な改革を行った。一方、藩財政の悪化から事実上廃絶していた藩校興譲館を再興した。福祉政策も充実させて、滅亡寸前だった米沢藩を再建した名君上杉鷹山は、文政5年(1822年)3月に死去した。
幕末


上杉茂憲
第12代藩主斉憲の時代に、米沢藩は幕末を迎える。斉憲は佐幕派として文久3年(1863年)に上洛して京都警衛を果たし、翌年からは嗣子茂憲が上洛して2年間京都警衛を果たしたため、その功績により慶応2年(1866年)9月に屋代郷3万7248石を幕府より与えられ、米沢藩は19万石近くまで増領した。大政奉還が行われると、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれたが、藩主斉憲は保科正之の旧恩があるとして幕府に味方した。
戊辰戦争では、会津藩の討伐をはかる官軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に努めるが、その行動は官軍から怪しまれた。会津藩を討伐した後に東北の佐幕派諸藩を討つのではないかという風聞を信じて米沢藩は驚き、仙台藩や会津藩と奥羽越列藩同盟に加わることになった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩は故地でもある越後を担当したが、最終的には官軍に敗北を重ねた。羽越国境の大里峠まで迫られたところで、同年10月3日(旧暦8月18日)、藩主の正室の貞姫が土佐藩主山内豊資の娘であったため、東山道先鋒総督府(土佐藩・迅衝隊)の幹部である谷干城・片岡健吉・伴権太夫らからの恭順を薦める書状を受けて、同年10月9日(旧暦8月24日)、米沢藩は恭順した。その後は官軍のために尽忠勤皇し、庄内藩討伐のために兵を出し、会津藩に対してもその非を説き恭順することを諭した。
米沢藩は戦後の処分で、明治元年(1868年)12月に4万石を削減されて14万7000石に減封となった。また藩主斉憲は隠居となり、嫡子の茂憲が家督を継いだ。明治2年(1869年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。
米沢藩は宮島誠一郎の指導のもと、版籍奉還などの明治政府の改革を積極的に支持していくことで「朝敵」としての汚名返上に努力した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって米沢県となり、11月に置賜県を経て、山形県に編入された。
藩主家は明治17年(1884年)、伯爵となり華族に列せられた。なお、上杉茂憲は藩主退任後、沖縄県令として県政の再建に尽力している。
藩政
宗教
豊臣時代の領主である蒲生氏郷がキリシタン大名であった影響から、旧蒲生領は東北地方におけるキリシタンの根拠地のような地域になっていた。米沢も氏郷の家臣の蒲生郷安が城主であり、この郷安が氏郷の影響からキリシタンであったため、米沢にも少なからずキリシタンが存在した。やがて上杉家が米沢に入封すると、慶長16年(1611年)にフランシスコ会の神父ルイス・ソテロによって上杉謙信時代の宿老甘粕景継の子信綱が入信し、以後信綱ことルイス右衛門によって米沢のキリシタンが拡大することになった。
江戸幕府における慶長18年(1613年)の全国禁教令を契機として、厳しいキリシタン弾圧が展開された。この幕府の弾圧で京都・大坂方面のキリシタンは衰退の一途を辿るが、それら迫害されたキリシタンは主に東北地方に逃れたため、かえって東北方面のキリシタンは盛況を呈するようになり、米沢では信綱の熱心な布教活動もあって信徒が1万人を越える勢いだった。このため幕府は米沢にキリシタン弾圧を命じるが、上杉景勝は幕府の命令に形式的には従いながらもキリシタンにはかなり寛容な態度をとった。これは上杉家中にかなりキリシタン武士が存在し、有能な人材を失いたくない景勝の思惑があったためとされる。だが景勝の死後、跡を継いだ定勝は幕府の度重なる圧力に屈して寛永5年(1628年)に甘粕信綱とその家族家臣など14名を処刑したのをはじめ、その後もキリシタン弾圧を続けて殉教者は寛永5年だけで70名以上に上った(米沢寛永5年のキリシタン弾圧)。
島原の乱以後はキリシタン弾圧がさらに強化され、定勝の従兄弟にあたる公家山浦玄蕃(知行1000石)も定勝没後の承応2年(1653年)に幕府の命令で処刑されている。
財政
貢租は蒲生時代以来、半石半永制をとる。これは貢租納入の半分を貨幣で納入するもので幕末まで踏襲された。また貢租の貨幣にあてる分は一定の米や漆、紅花、青苧、真綿といった特産物の買い上げ代金を廻すという方法が採られた。このため、早くから藩の買上制が実施された。米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡銀山などを失って大幅な収入減を受けた。関ヶ原の戦いの際に備えて雇った傭兵や浪人などは解雇したが、越後時代から付き従ってきた譜代家臣、並びに武田家や小笠原家、蘆名家旧臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持した。そのため、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。
また米沢城は、伊達氏時代からの三階櫓を中心とした平城であったがほとんど拡張を行わなかった。また城下町は伊達家・蒲生家時代から手狭だったため、上杉家の家臣や家族が入るに及んで大混乱が起こった。このため上杉景勝・直江兼続らは下級武士を手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせたが、このような下級武士のことを原方衆という。それでも初期の米沢藩は、2代藩主上杉定勝が表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに新田開発を進めたが、寛文4年(1664年)の15万石への半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。これ以降の実高は30万石程度(幕末の18万石への加増時には35万石前後)であるが、依然として家臣団は減らさなかったので、財政はますます厳しくなった。ちなみに、明治初年の史料をもって比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7,077戸、男12,414名、卒族戸数9,474戸、男14,029人であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3,425戸、男7,565名、卒族戸数3,308戸、男11,980人であった。この比較からも、米沢藩の厳しい状況は一目瞭然である。
このような深刻な財政難にもかからず、第3代藩主綱勝は藩士に対して倹約を命じたが自らは大好きな能楽にのめり込み、明暦3年(1657年)の火事では城下の東600戸を焼失したにも関わらず、6000人の家臣を動員して狩りを行い、それに要した費用は代官や商人から借りることで補い、米沢藩の借金生活がこの時から開始された。綱憲は実父吉良義央夫妻の浪費による負債2780両を立て替えた上に、藩主の実父であるとして毎年6000両の援助金を送り、元禄11年(1698年)の鍛冶橋における吉良屋敷類焼では呉服橋に8000両の費用をかけて新邸を造築した上、米沢から大工50人を派遣した。さらに麻布藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行い、藩の貯金を一般会計に流用するまでに至る。
7代藩主上杉宗房の代では領内農村の荒廃がすさまじく、年貢未進もかさんでいたため、元文3年(1738年)には当年分完納を条件に、それ以前7ヶ月の未納分の延納を許可する有様であった。上杉重定の代になると、派手好きで奢侈に走ったことに加え、寛永寺普請手伝いによる5万7千両超の工事費や宝暦5年(1755年)の凶作損毛高7万5800石超の被害も重なって、借財が莫大な額に上ったので、竹俣当綱(美作)の進言に従って幕府に15万石の返上を願い出ることを親族の尾張藩主に相談して、明和元年(1764年)に諭される返答をされる始末であった。
家臣の人数
米沢藩上杉家は他の藩と比較して下級武士の数が圧倒的に多かった。これは関ヶ原の戦いに敗れて所領を4分の1に削減されたにも関わらず、リストラを行わずに米沢に連れて来たからである。大坂の役では上杉軍は2万の軍を率いて出陣しているが、本来は30万石であるから動員できる兵力は多く見ても7500人から9000人(そもそも1万石の動員数が250人から300人)であり、上杉家は倍以上の兵を動員している勘定になる。同じ山形県内にあった庄内藩酒井家14万石の家臣は約1900人であるが、米沢藩は約5000人という数から比較しても、家臣の極端な大人数が財政難の原因のひとつとなったことは確かである。なお、上杉家の上級家臣(高家衆・奉行・家老・分類家)は95人で全体のおよそ2パーセント、中級家臣(上杉謙信の旗本だった馬廻組・上杉景勝の旗本だった五十騎組・直江兼続の与板衆)が930人で全体のおよそ19パーセント、残りが下級家臣でおよそ3900人であった。

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「TPPは怖くない!「農業大国ニッポン」の夜明け「弱い農業」喧伝する農水省農協の利権守り」

2014年04月19日 13時42分59秒 | 日記




<問題提起>「TPPは怖くない!「農業大国ニッポン」の夜明け<「弱い農業」を喧伝する農水省は利権を守りたいだけ>」SAPIO編集部小学館2014年5月号より(緑川鷲羽まとめ2014年4月19日)。
コメや牛・豚肉など農産品重要5分野の関税の取り扱いが焦点になる。これまで農業は自由貿易を論じる際に必ず俎上(そじょう)に載せられてきた。そして「安全保障上、農業を守らなければいけない」「食糧自給率を低下させてはいけない」という農水省や農協などの主張に大メディアも同調してきた。そのため日本の農業は弱いと思っている読者も多いだろう。だが、そこがそもそも大間違いだ。
(1)<数字を見れば明々白々なのに新聞・テレビは報じない「TPPの「被害」も自給率も全部ウソ・農水省の「弱いフリ」を暴く!」>
日本の農業総産出額は8兆5251億円(12年)。内訳はコメが2兆286億円、野菜が2兆1896億円、畜産が2兆5880億円だ。これだけの規模を誇りながら、日本の農業が弱いというイメージが強い。
デマ①「TPPで日本の農業が壊滅する」政府が昨年(2013年)3月に発表したTPPによる関税撤廃の影響は「農作物の生産額が約2・7兆円減少する」というもの。中でもコメは国内生産量の約3割(270万t)が輸入米に取って代わられるという。この試算を「デタラメ」と断じるのは、『日本の農業を破壊したのは誰か』(講談社刊)の著者でキャノングローバル研究所の山下一仁氏だ。「農水省は米国産中粒種をモデルに輸入米の価格を60kg当たり7020円で試算していますが、実際にカルフォルニアから輸入しているコメの価格は8310円(2010年)です。現実より安く設定して影響を大きく印象付けています。しかも国内の価格は減反で高く維持されているので、減反をやめれば同程度に値下がりして影響はなくなります。農水省には前科がある。10年の試算ではTPPによってコメの生産額が1兆9700億円減少するとしたが、それは日本のすべてのコメ生産額1兆8497億円(2011年。農家の自家消費も含む)を上回るという、ありえないものだった。」
デマ②「日本の食糧自給率は世界最低レベル」農水省は「食糧自給率39%」を盛んに唱え、自給率アップのために予算が必要だと言わんばかりだ。しかし、計算方法にカラクリがある。39%はカロリーベースで計算された食料自給率で、農作物をカロリーに換算し[国民一人一日当たりの国産供給カロリー]を[輸入分まで含めた一人一日当たりの総供給カロリー]で割って算出する。気をつけなくてはいけないのは、分子には全国に250万戸以上ある農家(販売しない自給農家を含む)が実家で消費したり親戚・知人に配ったりする、市場に流通しない大量のコメや野菜が含まれていない。さらに外国産のエサで育った牛や豚なども国産にカウントされていない。「実際には日本の農業生産率は高く、生産額ベースの自給率は68%です」(浅川氏)
デマ③「日本の農業は世界から取り残されている」日本国内の農業生産額は約8兆円で世界5位。先進国に限ればアメリカに次ぐ2位だ。「日本野菜の全生産額は、農業大国と言われるフランスの倍。ネギ、ほうれん草、ミカン類など多くの品目が生産額で世界トップ10圏内です。畜産物も卵4位、鶏肉7位、豚肉15位、牛乳20位など多くがトップ20に入る。立派な農業大国なんです」(浅川氏)
(2)<コメ250t輸出、香港バイヤーが惚れた「すだち牛」>「「高いと売れない」は幻想。高品質を武器に海外進出が加速する」①コメ。コメはあきたこまち、ささにしき、こしひかり、つや姫など日本のコメは値段が高くてもおいしいからと中国や東南アジアなどで爆発的に売れている。日本産コメの最大の売りは安心・安全・ハイレベル。価格競争では勝てないので、品質の高いコメを提供することが結局は生き残りにつながります。
②りんご。<濃縮還元ばかりの海外で貴重なストレートジュース>青森県弘前市の農業生産法人「青研」は台湾のWTO加盟を契機に03年からりんごの台湾輸出を開始した。県内の約400戸のリンゴ農家と契約して土壌改良剤を助成したり、りんごの褐変(かっぺん)をとらえるセンサーを導入するなど品質向上を心がけ、現在は台湾の地、香港、中国など6か国に輸出している。「当社は9割以上のりんごを契約農家から直接集荷、24時間以内に0℃の冷蔵庫に搬入するので、市場で買うりんごより鮮度がはるかに高い。集荷後、冷蔵コンテナで輸出しています」(竹内勇勝社長)売りは日本の鮮度のいい果実によるジュースだ。
③野菜。海外に打って出るなら、現地の流儀をきちんと理解する必要がある。熊本の農業生産法人「松本農園」は06年より、ニンジン、ゴボウ、サトイモなどを香港に、07年から切り干し大根をEUに輸出する。プロジェクトマネージャーの松本武氏はこう話す。「海外に進出して、最大の壁は食の安全性だと気づきました。いくら日本流に『減農薬』などと訴えても海外では通用しません。海外進出を本気でめざすなら、食の安全性を客観的に担保する必要があるんです」その指標となるのがヨーロッパ諸国を中心に世界110か国以上に広がる農業生産管理の認証「グローバルGAP」だ。農場や農薬の管理など250項目をクリアすると与えられる国際認証で、松本農園は07年に国内最多品目数で取得し12年には日本で初めて最新版も取得した。
④えのき、しめじ、きのこ類。沖縄県のキノコ・青果販売の「オーダック」は10年からえのきとしめじをタイ、台湾を中心に輸出する。国内では夏場に重要が減るので海外に販路を求めた。「ちょうど沖縄空港がハブにした航空貨物事業が始まってアジア諸国への輸送時間が大幅減となり、海外進出を決めました」(営業本部の上村秀利次長)
⑤牛肉。海外で「WAGYU」として人気の日本の牛肉。徳島県のすだち牛は10年に香港進出を果たした。われらが米沢の米沢牛も続かねばなるまい。日本牛つまり和牛はとにかく安心・安全で高品質である。値段が高くても売れるのは日本の豚肉と同じだ。
⑥種苗。あまり知られていないが、日本は世界屈指の育種大国だ。野菜と花の種苗(たねなえ)で世界ベスト10に入る「サカタのタネ」(本社・神奈川県横浜市)は高い種苗技術を武器に1977年の米子会社設立を機に海外進出を加速させた。約500億円の売上高のうち海外の売り上げは約220億円。「日本の育種力(いくしゅりょく)はアメリカ、オランダと並んで世界有数と称されます。気候の厳しさ、勤勉な国民性に加え、タネは1品種開発するのに10年以上かかるので、従業員が長期間ひとつの会社にとどまる傾向がある日本はタネの開発に適しているんです」(清水俊英・としひで・広報宣伝部長)
(3)<息を吹き返した土地改良事業、見せかけの減反見直し「悪名高き農業補助金は土を耕さない「農政シロアリ」の餌となる(年間1兆円・累計70兆円)」>
*農業をしない土地持ち非農家*コンサルタント料で儲ける(日本の世界一の農業技術や肥料や土地開発のコンサルタント料で儲ける時代。開発途上国はそのノウハウを、大金を払ってでも欲しいと思っている)つまり、今こそ日本の「農業大国」時代だ!ということである。


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大反響!おバカ規制の責任者出てこい!<第19回「出入国法」>政策工房社長・原英史氏

2014年04月18日 12時49分21秒 | 日記








大反響!おバカ規制の責任者出てこい!<第19回「出入国管理法」>小学館SAPIO誌2014年5月号著者・政策工房社長・原英史(はら・えいじ)氏<日本好きの外国人は、日本を嫌いになって追い返される「移民受け入れ」の前に「外国人が和食の料理人になれない」トンチンカン規制を見直せ>
外国人の受け入れに関する議論が政府内で本格化しつつある。きっかけのひとつは建設現場での人手不足の深刻化だ。2020年東京オリンピックに向けて建設需要がさらに高まることを見据え、政府は技能実習制度を見直し、最長3年の受け入れ期間を5年間に延長するといった方針を明らかにした。経済諮問会議の専門調査会(2014年2月24日)では選択肢の一つとして「年間20万人の移民の受け入れ」という大胆な案が出された。事務局の内閣府は2060年の日本の姿を次のように試算した。出生率が現在の1・41のままなら20~74歳人口は約9000万人(12年)から約5200万人に激減、高齢化率は24%(同)から40%にまで上昇。一方、出生率の回復(2030年に2・07まで)と年間20万人の移民受け入れがセットで実現すれば、20~74歳人口は約6700万人、高齢化率も28%で持ちこたえられる。外国人の移民受け入れの問題はしばしば賛否が鋭く対立する。
事情や知識が薄い人間程「外国人移民受け入れ」といっただけで感情的になって集団ヒステリー的に反対デモや、くだらないヒステリーを起こすみたいな日本人は実に多い。外国人移民の賛成派の意見は「もはや避けては通れない」「少子高齢化社会の社会保障を維持するには避けては通れない」といい、反対派は「安価な労働力の流入により、日本人の雇用が奪われる」「文化摩擦や治安悪化が危惧される」などの主張がある。移民にも良質移民と劣悪移民があり、一概に優秀な人だけ受け入れる等制度的にまたシステム的に無理である。ただし、移民を受け入れるとはいっても、経済難民や、発展途上国から学歴どころか母国の文字も読めないような難民を受け入れるのではない。そんな話をしているのではない。まず日本にあるフランス料理店、イタリア料理店などを考えてみると、ちょっとした有名店であれば「シェフが本場に渡り有名店で数年修行」というところは珍しくない。ところが、逆方向、つまり「外国人が本場日本で和食の修行する」という例はあまり見られない。日本で修行したい外国人がいない訳ではない。我が国の出入国管理法の規制で認められていなかったのである。海外赴任先や旅行先のジャパニーズレストランの飯がまずいのもそのためだ。人気を集めるアニメや漫画も、外国人の仕事として(学生時代のアルバイトを除く)規制があり、認められていない。我が国のカルチャーに親しみを持つ「日本ファン」の外国人は、日本の国力にとって重要な人材のはずだ。しかし、そういう日本の和食や漫画・アニメに関する仕事が規制で認められず、才能ある外国人もしかたなく通訳や英語の先生になるしかない。まことにもったいないことである。在留資格に「技能」以外にも「外交」「企業内転勤」「研修」「技術」「人文知識・国際業務」がある。在留資格は一定の専門性や特殊性のある分野に限られ、例えば、店舗での接客業務などの単純業務では認められない(留学生のアルバイトなどは別にして)。不透明な規制運用(「役人の判断次第」という幅のある運用が権力の源)で、もともとは日本が好きだった外国人を「日本嫌い」にしてしまうのはあまりに馬鹿げている。移民受け入れの是非は別として、古臭い発想に凝り固まった規制と運用をまず改めなければならない。(まとめ2014年4月18日緑川鷲羽)


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