長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

経緯を知れば納得…藤岡弘、加藤浩次が共演NG

2017年01月31日 19時30分13秒 | 日記





























経緯を知れば納得…藤岡弘、加藤浩次が共演NG







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タレントの誰々と誰々はコレコレこーいう理由で仲が悪いから同番組でのキャスティングはあり得ない……みたいな「芸能界共演NG」ネタは、ネット上や週刊誌などでよく目にする、「どーでもいい」っちゃあどーでもいい情報なんだがヒマつぶしには最適で、ゲスの勘ぐりさながらについつい最後まで読んでしまう、ある意味テッパンかつ定番なコンテンツである。



さくっとネットで検索してみると、有名なところでは、



・長澤まさみ×上野樹里

(某ドラマの打ち上げで長澤が酔っぱらっての大騒ぎに上野が怒った…との噂)

・堀北真希×宮崎あおい

(某大河ドラマでの扱いの違いが要因…との噂)

・松嶋菜々子×藤原紀香

(同時期ブレイクによるライバル意識から…との噂)

・米倉涼子×菊川怜

(所属事務所が米倉のバーターとして菊川を出演させようとして、プライドの高い菊川が激怒…との噂)

・松本人志×明石家さんま

(芸風が違いすぎるから…との噂)

・木村拓哉×萩原聖人

(萩原が木村の演技を批判。現在は和解済み…との噂)



……あたりが挙げられるが、東スポWebによると、2017年を迎え、テレビ局のキャスティングプロデューサーらを悩ませる「共演NGリスト」が更新され(そんなリストが実在することにまずは驚いた)、なかでも、とあるベテラン俳優と大物MCにまつわる“最新の因縁関係”に話題が集まっているらしい。



ズバリ! その“因縁の2人”とは、あの藤岡弘、(70)と加藤浩次(47)。



きっかけは、昨年末に藤岡が『スッキリ!』に番宣のためゲスト出演したときだった。



「藤岡は、自身が出演するドキュメント番組をPRするため出演したんですが、根がまじめだから、現在の若者に対する熱い思いを語り始めた。ところが、あまりに一方的な内容に加藤がいら立ち始め、話題をそらそうと藤岡の髪型についてツッコミ。しまいには『はい! はい! はい』と加藤は藤岡を遮るほどの大声で相づち。藤岡は『なんにもわかってないよ、彼は』と顔をゆがめ“天の声”役の山里亮太があわててフォローする展開になった」(関係者)



……といった経緯、なのだそう。「なのだそう」ではない。たまたま私は、この事件が起こった放送をリアルタイムで観ていたのだが、たしかにけっこうな緊迫感、一触即発っぽい雰囲気はお茶の間レベルでもヒシヒシと伝わってきて、個人的にはなかなか面白かった……が、同時に藤岡に対する局側の扱い、加藤のぞんざいな態度に激怒した。



そもそも、藤岡弘、を一芸能人として括ってしまうこと自体が間違っているのだ。なぜ「剣豪」「国際武道家」(※←プロフィールに掲載されている正式な肩書き)として、最大のリスペクトを払わないのか? 「剣の豪」なんだから、いったん発言できる場所に出たら最後、「現在の若者に対する熱い思い」とかを延々まくし立てるのは“想定の範囲内”だろ。藤岡弘、に接するなら、それくらいのリスクを背負うのは当たり前であって、その覚悟がなければプロデューサーもMCも失格だと私は言いたい。



番組の終了後、藤岡弘、は「加藤を斬る」と息巻き、スタッフみなを青ざめさせたという。もちろん「斬る」とは「人間関係を切る」だとか「あのタレントを干す」だとかの比喩的な表現ではない。本物の刀を使って得意の居合抜きで「ぶった斬る」という意味だ。なんと高邁で聞き慣れない捨て台詞であることよ。



私は、以前citrusに寄稿したコラム『もっと注目されてもいい藤岡弘、の数々の明言』で、



せめて私だけでも「藤岡弘、」の近況がスポーツ新聞の芸能欄やらネット上やらにひっそりと掲載されたときは、かならず欠かさず、ここcitrusで後追い紹介するよう心がけている。



……と書いた。そして、約束どおりに今日も無事「藤岡弘、の近況」を皆さまにお届けできて大満足、なのであった。



ところで、東スポは「2人の共演NGはしばらく続きそうだ」と、心のこもっていない予測で記事の最後を〆ているが、藤岡弘、と加藤浩次のツーショットをまた観てみたいという視聴者は、はたしてこの日本に何人いるのだろう……?

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ずっと彼氏がいない女子の特徴 “だから一人なんだよ“と思われないために…

2017年01月31日 19時16分02秒 | 日記

























ずっと彼氏がいない女子の特徴 “だから一人なんだよ“と思われないために…






「大丈夫だって! すぐに彼氏できるよ」……そんなふうに周囲から太鼓判を押されながらも“彼氏いない歴”をどんどん更新している人も多いはず。なぜなら、その励ましはただの社交辞令だからだ。人の建前と本音は別モノ! あえて言わないだけなのである。


© Excite Japan 提供
友達も口では「○○ちゃんなら彼氏できるって!」などと力強く慰めながらも、実は心の中では「これじゃムリでしょ」「わかるわかる、だから彼氏いないんだよね~」と感じていたりする……。

つまり、知らないのは自分だけ……いつまで経っても自分に彼氏ができない理由を周りの人間は分かっているのだ。

今回は自分では気がつかない“彼氏がずっとできない理由”をご紹介していこう。

当てはまると思う女子はぜひ気を付けてほしい。


彼氏ができない理由1. 口だけで行動が伴っていない


・「『彼氏が欲しい~~』と公言しながらもなんのアクションも起こさないし、リアルで出会いを求めようとしない子は彼氏ができなくて当然かも。合コンやお見合いパーティに誘っても『……ごめん。行きたいけど、その日はちょっと用事あって……』なんて絶対ウソ。家に引きこもってたら恋愛なんてできるわけないのに」(20代女性・看護師)

・「縁結びの神さまだとかパワースポット巡りなんていい加減にやめて、男のいる場所に行けばいいのにって感じです。きっと少ないお賽銭で『白馬に乗った王子様が早くきてくれますように』『年収が○○以上のハイスペック男子に出会えますように』『ありのままの自分を好きになってくれる人が現れますように』とか拝んじゃってるんでしょうね」(30代女性・教育関連)

――「彼氏ができない」と喚いてる女性ほど、男のいる場に足を運ぶどころか、神社仏閣巡りに余念がなかったりする。


男性と出会える場に行くべし



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自分からはなんの努力もしないで、欲しいものだけ頼むなんて虫が良すぎるというもの。神様への信仰心もないのに白馬に乗った王子だけは信じているなんておかしな話。本当に彼氏が欲しいと思っているのであれば、生身の男のところへ足を運ぼう。


彼氏ができない理由2. 親離れできていない&依存しすぎ


・「社会人になっても親元から離れようとしないで自宅勤務の女子は彼氏ができないオーラがすごい……。自分のお金でアパート借りてちゃんとやってる女性の方が、彼氏いる率高いです」(20代女性・介護)

・「休日は母親とケーキを作っただの、父親とデパート行ってブランドのワンピースをおねだりしちゃっただの、お兄ちゃんとあの映画観に行っただの……なんかそういう『うちは家族仲良しだから』ってオーラをガンガン出してる女子って彼氏がいない人が多い気がしますね」(20代男性・IT)

・「俺が『どんな男性が好み?』と聞いたら『お父さんみたいな人がタイプ』と即答された時は驚きました。いい年して『パパ大好き!!』なんていう女は絶対男できないね」(30代男性・公務員)

――家族が仲のいいことは悪いことでなくとも、親への依存心が強いのは考えもの。母親にベッタリだったり、休日でも父親と行動をともにすると、周りからは「やっぱりね……」と思われてしまうのだ。家族自慢を口にしたらドン引きされるのは確実。まわりへのアピールはほどほどにしよう。


彼氏ができない理由3. 女子会で盛り上がりすぎ



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・「女子会って“モテない女の集まり”って気がする。男の品定めしたり男の悪口言っては盛り上がってバカ笑いして酔っ払っているイメージでいい印象がない……。居酒屋でそんな女性グループを見ると『おまえらなんかに男は声をかけね~よ』って心底思います」(30代男性・営業)

・「女同士の飲み会って楽しいけど、こんなことをしていて彼氏なんかできるわけないと思います。『こないだ出会った男が最悪でさ~』『え~、ヒド~~イ!』『そんな男あり得ない!』ってみんなで吐き出しまくる。毒出しにはなっても、解決にはならない」(30代女性・インテリア)

――愚痴を言いたくなる時も、思い切り酔いたい時もあるだろう。しかし、暴露話で盛り上がる女子会のありさまを男は敬遠する。女子会での傷の舐め合いこそが恋愛を遠ざけてしまうこともあるのだ。


たまには違う人と行動するべし


いつも同じ人といるのは危険。同じ年代や同じ環境の人と毎回つるんでいるのは建設的ではない。恋愛がうまくいくためにはいつも群れていてはダメなのだ。

自分のことを甘やかしてくれる居心地のいいところでなく、耳の痛いアドバイスをしてくれる人のところにいくべきだ。


彼氏ができない理由4. 人の話を聞かない&人のせいにする


・「『ここはこうやるといいよ』『この資料使えば』などとこっちが親切で言ってるのに、『でも……』『いやいや』と聞く耳を持たない頑固な女性社員がいます。自分が一番正しいと思ってるのかなんでも否定的。影で『あれじゃ男いないでしょ』と言われています」(40代男性・貿易)

・「自分の非を認めないでいつも言い訳する同僚の女友達……。仕事のミスも恋愛のミスも『あの部長の言い方が悪い』『あの男がバカだから』となんでも人のせいにする。私が口を挟もうとしても素直に話しを聞いてくれたためしがない。人を受け入れる気持ちがない彼女は、このまま一生一人身だと思う」(30代女性・美容)

――人の意見や忠告に耳を傾けようとしない人は仕事も恋もうまくいきっこない。ビジネスも恋愛も、要は相手と折り合いをつけることなのだから。

仕事ができない、男ができない、モテないのは自分を棚に上げて怠けているから。なのに“できないこと”を周囲や他人のせいにする。それが一番ラクな逃げ道だからだ。


© Excite Japan 提供

彼氏ができない理由5. 人のダメ出しばかりする


・「男へのダメ出しがハンパない職場のアラサーの先輩。時としてそれが笑いのネタになることも確かにあるけど……。人の彼氏にまで『この程度の男で妥協したの?』とか、友達の結婚式では『あの子、あんなので手を打ったの? 信じられない!』と新郎にケチをつける。そんな彼女を見ていて、人へのダメ出しが多い女は売れ残るのだと気づかされました」(20代女性・通信)

・「人のアラ探しが得意な同僚がいる。若い女子社員が上司から褒められると『あの子、男に媚び売るのだけは上手いんだよね』とか、新しい服を来てきた後輩に『それバーゲンで売ってヤツよね』『そのブランドは誰でもスタイルよく見える』とか……。なにかひとことケチつけなきゃ気が済まないみたい。結婚以前に恋愛も難しいでしょうね」(30代女性・保険)

――口が達者で頭の回転がいい女性に多いのが人への「ダメ出し」。あなたは人を褒めるより先に“こき下ろしてしまう”なんてことはないだろうか? 良いところより悪いところばかりに目が向いてしまうのは人を見下したい証拠。揚げ足取りというのは“私のほうが上”と優越感を持ちたいのだ。

また時として毒舌キャラは人気者にもなり得るが、それはツッコミどころを間違えてないからである。毒舌は根底に愛がなければ笑いには変えられないのだ。


「だから彼氏できないんだよ」と思われないために……


・口だけではなく、出会いを求めて行動する

・人に頼るのではなく自立する

・同じメンバーでの女子会より、新しい交流やイベントに目を移す

・人の意見はありがたく聞く

・相手のアラ探しでなく良いところを探す、マイナスでなくプラスに転換

といえるだろう。

そんな努力を見た友達や周囲の人たちは、もうあなたに対して社交辞令などは使わない。「○○ちゃんなら絶対大丈夫だって!」「ちゃんと彼氏できるよ!」と心の底から応援してくれるはずだ。

(神崎桃子)

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小説 打倒徳川家康!風と共に殉死するとも 石田三成【真田丸】石田三成ファンへのギフト!5

2017年01月29日 10時36分19秒 | 日記


























話を少し戻す。
「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は前田慶次(まえだ・けいじ、正しくは慶次郎)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 滝川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた滝川一益(たきがわ・かずます、関東征伐を企てる織田信長の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、益氏!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」滝川益氏(ますうじ、一益の従弟。常に滝川軍の先鋒を務める荒武者である)は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 益氏の次男で前田利家の兄・利久に養子にやられたのが前田慶次である。傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で父益氏の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「そうだ、慶次にやらせよう」
 慶次ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫なら殺せますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして愛馬としたい」
「何だとこの野郎!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
「悪魔?」慶次は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 慶次は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく本当に愛馬にして、「松風」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり前田慶次は凄い男だ。
 滝川軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門に寄る慶次である。
 北条方が鉄砲を撃ちかけると傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が鬼が味方しておる。
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋と申す!貴殿、名は?!」
「前田慶次!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに慶次は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「北条魂、みせん!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 慶次は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。


戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、北陸加賀の前田家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・前田慶次がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。北陸の雄・前田利家は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて前田利家に茶を差し出した。
「で…又左(またざ・利家)殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」利家は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 前田利家、かつて槍の又左と呼ばれ豪遊の武将であったが今は秀吉の軍門にくだり、加賀百万石の大大名、又左(又左衛門)は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの甥の慶次とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 利家は絶句した。
 あの傾奇者・慶次が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せれば前田家の加賀百万石の家禄も危うい。
 そして歴史に詳しいひとならご存知の通り、慶次は秀吉の前で猿踊りをしてみせるのである。
 太っ腹な秀吉は笑って手を叩いて「われの前でおそれもなく「猿踊り」をするとは慶次、あっぱれなやつである!」と評価して「天下の傾奇者」と評して、慶次が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 慶次もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。
前田利家の正室はおまつ(もしくはまつ)である。美貌で知られたが慶長四年九月、利家の死後その子利長に家康暗殺のもくろみがあるとして家康が加賀に大軍を派遣しようとした時、まつは自ら人質第一号として江戸に下ることにより、前田家を救ったほどの肝の座った女丈夫である。
 まつは十二歳で利家の妻になった。清純な少女のとき、慶次はまつが石垣の花束を摘んでいるのに見とれていた。
 ………麗しき女子じゃ。十一歳も離れた叔父に嫁ぐのか。もったいない。
 まつが石垣の高嶺の花を摘もうとして石垣から落下した。
 慶次と助右兵衛門はまつを救った。
 まつは釈迦如来のような神々しい微笑を浮かべ「かたじけぬ。まあ、ひどい顔、はいご褒美」花をまつは差し出した。「これからもわれをまもってたも」
 慶次はそのときまつに惚れたのだ。

  話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
 慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
 普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
 だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
 さすがは「傾奇者」である。
 籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。
 面白いのは慶次の行動である。
 恩賞を媚びるでもなく、加賀の城(尾山城・金沢城)で例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けてケツをむき出し、オナラをして「屁でも食らいやがれ!」という。
 かつて秀吉が賤ヶ獄で籠城する柴田勝家に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
 利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
 そのまま加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京で「天下の傾奇者・前田慶次」と畏怖されるまでになるのである。

 慶次はやはり傾奇者らしい服装を注文し、普通の三倍は厚いのではないかとも思われる短刀を、手にした。
 ………まさか?本当に秀吉を?馬鹿な?冗談だろう?捨丸はびくびくものである。
 一方で、京都奉行職の前田玄以は嬉しくて仕方ない。あの自分に恥をかかせた慶次が、関白殿下の前で馬鹿な事をやって処刑されるのは九分九厘確実である。
 前田慶次はこれでおわり、だ。何が傾奇者だ…何が天下無双の傾奇者だ! この玄以さまに恥をかかせおって!
 そして、いよいよ、聚楽第で、秀吉と天下無双の傾奇者・前田慶次とのお目見えの日となった。
 巨大な馬に乗り、慶次は門前で降り立った。「髑髏(しゃれこうべ・どくろ)の紋所に…虎皮の裃とは………!!」「そのような姿で御前に出るなど不謹慎な!」家臣たちは反発した。
「そうですか?」
 しかし、前田玄以は心の中で………”ふふ、いいぞ。それがお前の死に装束だ”…とほくそ笑んでから言葉では次のように言った。
「いやいや、殿下には当節はやりの傾奇者が見たいとの所望でござる。本日ばかりは多少無礼な服装でも差し支えござるまい」 
「それはありがたきお言葉、さればとくとご覧(ろう)ぜよ!」
 慶次は背中を向けた。そして両足の股を開くと、陣羽織の隙間から、ぽん!、といえばいいのか尻に”猿の赤いケツ”があしらわれている。
「そ…それはサルのケツ……!!」玄以は戦慄した。冷や汗と体の震えが止まらない。
「はい!いや~~玄以殿にそのようにほめていただけるとは」
 玄以は愕然とした。恐怖で失禁しそうだった。「い…いかん、いかん!それはいかん!」
 ………こやつ…わしを道連れにする魂胆か!!
「いやあ~~玄以殿にお許しを頂き安心しもうしたぞ!!」慶次は顔を振り向いてウインクをした。どこまで豪胆な男なんだ?!
やがて聚楽第の謁見の間である。
 間には全国の有力大名20名はどが勢ぞろいしていた。
 そこには落ち着かぬで冷や汗をかいている前田利家の姿もあるのである。秀吉はにやりとした。……ふん、わしのことを”サルサル”いっていた”槍の又左”もこれでおわりか?くくく、こりゃあいい。立場はもう逆転してるんだぎゃあ!
 やがて慶次がやってきた。「前田慶次にござりまする!」大男なので鴨居(かもい)で頭が隠れている。
 ………ほおっ。大男とは聞いていたが、おおきすぎて頭が鴨居に隠れている。ぬう、慶次が頭をさげて鴨居をくぐる。ぽん!
 慶次は髪の毛を右片方に思い切り片寄せ、髷(まげ)を結っていた。そのためまるで顔がひきつった様な錯覚をおこさせた。
 当然、見物人の大名たちは両横に列して座っている。……何だ?天下無双の傾奇者ときいていたが? こけおどしか? 恰好だけは派手だが、たいしたことないな。
 う…何い?!
 慶次が平伏するとともに首をまげ顔を右に向けて、平伏した。「!?」「ああっ!」「なっ!」
 この時、全員が初めてこの髷の意味がわかった。見事な傾きぶりだった。たしかに、髷は秀吉に正対している。頭を見る限り慶次は平伏して見えるのである。だが、顔は横を向いている。
 つまり、慶次は秀吉に頭をさげることを平然と拒絶したのだ。これは歴史上の実話であり、漫画的表現や小説的架空話でもない。傾奇者にとって天下人など何者でもない。この髷はその思いを露骨に示していた。
 髷だけは平伏するが、本当の俺はそっぽを向いているんだよ。そういっているのである。見事な根性であった。大名たちは寂(せき)として声も出ない。正直の所、度肝を抜かれていた。
 だが、秀吉もまた一箇(こ)の傾奇者である。そんな慶次の気持ちなど一目でわかっていた。ならばこそここで怒るような秀吉ではなかった。
「うわはははは」秀吉は大笑いした。大名たちは冷や汗ものだが、つられて笑った。顔がひきつった。
「面白いな。こんな趣向は初めて見た。なんとも変わった髷ではないか…ははは」
 慶次は頭を挙げてにこりとした。と、同時に聚楽第の謁見の間が広すぎて秀吉を刺し殺すのは無理だと悟った。
 ならば、と、慶次は猿踊りをはじめた。ひとりで猿回しの踊りを踊ったのである。それは滑稽だが笑いをさそう芸でもあった。
 秀吉が猿面冠者(さるめんかんじゃ)と呼ばれるほど猿に似ていたのは周知の事実である。あの尻を関白殿下に見せたら大変なことになる。大名たちは戦慄し、全員の顔が顔面蒼白である。
 そして慶次は赤い”サルのケツ”を秀吉に見せた。
 秀吉は笑い続けたが、……なんでこいつはわざわざわしを怒らせようとしているのか?死にたいのか?と疑問に思っていた。
「はははは」「うきぃ!うきぃ!」……しかしこの猿芸は行き過ぎじゃ!笑い転げて見せるのも限度がある。いつまでも馬鹿にされ続けては関白の沽券(こけん)に関わる。
 秀吉が隣の小姓の刀にすすっと手をそっとのばすと家康が驚愕と戦慄の顔をした。
「ふかははは」……家康のやつなにに驚いておったのか……?まさかあの舞いにはなにか理由が……!!
「はははは」……試すか……秀吉は鮮やかな絵柄の扇子をひろげ、何尺もの遠きにいる慶次へゆっくり投げてみた。
 ばしっ!慶次が扇子をばしっとつかんだ。ぐく!……今、見たのは確かに殺気!この男、死ぬ気どころか、わしを殺す気なのだ!!きゃつはわしを誘い出そうとしておったのだ!
 ……ちい! ばれたか!狒々親爺(ひひおやじ)がいくさ人(にん)の顔になったわ!
「どうも!」慶次は今にも飛びかかろうという感じだが、遠い。届かないだろう。
 猿踊りで誘い込もう、そして斬り殺そうとしたがダメだ。
「まずは座れ!」慶次は諦めて深いため息を吐くとどかりと不敵にその場に座った。
「……で、なぜだ?」
 ……そうだ。なんでわざわざ猿芸など……するのだ? そんなに死にたいのか信じられん奴だ。
 居並ぶ諸大名たちはこの言葉の意味をとり違えていた。これは、なぜ自分を殺そうと決意したのかという意だ。慶次と家康だけがその真の意味を悟った。
「……さて~~」
「何びとかのためか!?」
「まさか!ははは」慶次は笑った。そして本当に考えた。おまつのため……ではないなあ。本当は、何故、なんだろう……
 とうとう秀吉が怒鳴った。「理由(わけ)がない筈はあるまい!よく考えろ!」……理由もなく殺されてたまるか!
 大名たちは……よく考えろとは異な仰せ……!と戦慄する。
「あ……」慶次は思いついた。「左様……強いて申さば……意地とでも申しましょうか」
「?! 意地だと?! ……傾奇者の意地と申すか」
「人としての意地でござる!」
 慶次はいった。
 そ……そうかわかった!! 関白であろうと牢人であろうと同じ人である。面白半分に人が人を呼びつけて晒し者にしていいわけがない。慶次は秀吉を刺すことで、秀吉もまた一人の人であるということを証明し、その思い上がりに鉄槌を下そうとしたのだ。
 この男……絶対に飼い慣らぜぬ獣…殺すか!! 秀吉のこの反応は恐怖に対する最も自然な反応である。そして、一座の諸大名もこの息の詰まる状態を抜け出すために秀吉が慶次を斬ることを期待していた。
 だが、秀吉もまた一箇の傾奇者である。当たり前の反応に身を委せることを嫌う性癖がある。ゆえに、大名たちの思い通りに振る舞うのは癪だった。それに、自分がこの男に恐怖を抱いたことを知られたくなかった。
「…………その意地……あくまで立て通すつもりか……?!」
「やむを得ませんな」
「……立て通せると思うか!!」
「手前にはわかりませぬ」慶次は悪戯小僧のようなほわっとした笑みで答えた。
「!」……こやつなんとも素直な男じゃ。なんとも素直な含羞(はにかみ)の微笑み……秀吉は、昔、浅井朝倉軍に追い詰められた信長軍の殿(しんがり)をつとめて信長公を助けた時の、加勢してくれた若き家康のような人物を見て、惚れた。惚れこんだ。
「見事にかぶいたものよ。大義であった!」
「はっ!」慶次は「大義であったとは家名を背負わぬ一傾奇者に仰せられておるのか?」
「ん?」
 自分の振るまいは利家とは関係ないと大名たちの前で明言することによって、前田家に非を及ばせぬように秀吉に釘を刺しているのだ。それは、まさしく慶次がおまつに対する思い以外の何ものでもなかった。
「ふ……無論だ。わしは傾奇者を見たいと所望した。それが叶い、もう用は済んだ」
 慶次は微笑してまた顔を横にして平伏する。「手前にはとうてい真似ができません。天下人たるもの思い通りに振る舞えぬことさぞや難儀でござりましょう」
 見破られたか。ふっ。秀吉は何故か爽快な気分になった。
 慶次が去る。
 と、秀吉は「誰か舞わぬか?」と所望した。
 諸大名たちは躊躇した。慶次のあとに下手な踊りを舞えば首が飛ぶ。
「ならばこの家康が百姓踊りを」家康は頭巾を頭に巻いて、百姓踊りをしたという。極端な短足にでっぽりと家康は肥えている。
 百姓踊りは笑いをさそう滑稽さであった。秀吉は腹を抱えて笑った。そして「慶次を呼び戻せ!褒美をやるのを忘れた」という。
 慶次は「半刻後に出頭する」と伝えてくれ、といい、きっちり半刻後慶次は現れた。
 今度はちゃんとした鮮やかな色どりの裃姿である。おお!なんと見事な!「可観小説」にあるこのくだりの描写を引用して見よう。
「今度(このたび)は成程くすみたる程に古代に作りし、髪をも常に決直し、上下衣服等迄平生に改め、御前進退度に当り、見事なる体也。」
 秀吉は「何故その恰好を?」と訊いた。
「傾奇者はもう用がないと申されたので、こたびはひとりの武士(もののふ)として前田慶次郎利益(とします)まかりこしました」
 そしてちゃんと平伏した。礼儀をちゃんと守った、げにもゆかしい武者ぶりであった。古典はおろか古今の典礼にも通じ、諸芸能まで極めたと噂される当代稀有の教養人の姿がそこにはあった。
 大柄な躰がいっそう涼しげで匂うような男ぶりである。とても半刻前の『傾奇者』とは思われなかった。
「気に入った!今後どこでもその意地を立て通せ、余が許す!」秀吉の傾奇御免の御意は慶次に今後どこででも誰が相手でも勝手気ままに振るまっていい、ということである。

 そしてこの『傾奇御免の令』のおかげか慶次はあらゆる武者たちに命を狙われることにもつながる。
 眩しすぎる陽の光は無能ものにとって無性にムカムカするものだ。凡人は天才の心の苦労がわからず、天才の血反吐の努力も判断もできず、ただ嫉妬して、嫌味や悪罵やいやがらせや罵倒や批判をするのみである。
 慶次が「この男は凄い」という男がいた。
 それは秀吉政権の五大老のうちの会津百二十万石もの大大名の上杉景勝と、執政・直江兼続である。
 上杉謙信の名声からだけではなかった。上杉の人間が骨の髄まで義、仁義で出来ている、と理解したからだ。
 上杉の義、忠義は質素倹約だけではなく、家臣も領民も心優しく、温かい。
 慶次は『上杉家』に『上杉の義』『上杉謙信』『上杉景勝』『直江兼続』に、漢(おとこ)として惚れたのである。
 だからこその、上杉家への仕官であったのだ。


「旦那!石田三成様がおいでになりました」
 慶次のかまえる京の屋敷に三成が訪ねてきた。しかも武装兵に屋敷を取り囲ませて。
「きっと旦那が京に戻ったことを嗅ぎつけてきたんでしょう。どうしますか?」
「かまわんさ!とおせ!」
 慶次は言った。部下は、慶次が京のキリシタンの木像を磔にしたのを見て、昔、「へいへい!これが治部だ!こせこせしていて滑稽でしかも残忍極まる。とても人間の類とは思えんな!」と大声で罵倒して、京を去ったのを思い出していた。
 今や石田治部は豊臣天下の大宰相である。
 そのことで三成が現れたのは明白であった。
「慶次殿、京での暴言、堺沖での大騒動…これはもはや太閤殿下に対する反駁以外の何ものでもない!」
「………で、手前にどうしろと?」
 三成はにやりとした。「なにも追放にしようと言っている訳ではありません。ただ………朝鮮に行ってもらいたい。そして現地で朝鮮の内情をつぶさに調べ、太閤殿下に見たままをご報告して頂きたい…この戦がいかに無益であるかを…」
 同席していた直江兼続は、三成ほどの男がわざわざ一介の浪人である慶次のところまで来た意味を悟った。
 三成たちはこれまで秀吉に対し、朝鮮・明国の状態を隠し、秀吉が知らないのをいいことに嘘の情勢を知らせてきた。しかし、これ以上嘘をつき通せなくなったときに慶次に真実を語らせ、これまでの嘘をごまかそうと。三成はただ莫大な戦費を費やすことによって豊臣政権の基盤が弛むのが心配だった。そのため慶次を使って時間かせぎをしたかったのだ。
「返事は?」
「…まずは茶でも飲め」
 三成はお椀のお茶を飲み「さすがは天下無双の傾奇者、茶もうまい」と褒めた。
「だろう、馬のしょうべんをまぜたからな」慶次はにやりとした。慶次のいたずらぶりは有名である。三成は「貴様!」と怒鳴り、お茶碗を投げつけた。
 慶次は三成をボコボコにする。
「治部、貴様のやることはいちいち手が込みすぎておる!石田三成ともいわれる者が首一つ失うのがそれほど恐いか?命が惜しいのか!」
 三成は顔面蒼白である。
「そんなにこの”いくさ”を止めたければ命懸けで太閤に掛け合えばいいではないか!わざわざ俺を使ってまわりくどいことをするな!自分でまいた種は自分で刈りとれ!死してこの”いくさ”を止めてみろ!」
 慶次は喝破した。兼続は………確かにその通りだが、それは慶次殿だからこそ言えること…並の人間にはそれは出来ぬのだ………「前田殿、この男は仮にも治部少輔(じぶしょうゆう)、それまでになされ、さっ、三成殿手をかしましょう」
 三成は醜態を見せた。
「うう………うるさい!うるさい!馬鹿!阿呆!鬼畜!天魔!」涙を流し「貴様に何が…何がわかる!天下百年の計のかけらも判るまい!」
 醜態は続く。「だいたい貴様は今まで何をした!?この無益で無謀で残忍な”いくさ”を避けるために一体何をしたというのだ!?古今未曾有の”いくさ”が迫るのも知らず、知っても止めようとせず太平楽に、だらだらと生きてきた貴様たちにわしらを裁くどんな資格がある!言ってみろ!どんな資格があるんだ!」
 前田慶次は号泣しながら迫る三成に懐から洟紙を取りだし、
「洟(はな)をふかれよ」といった。
 三成は洟をふいた。直江山城は「治部殿、今日のことは見なかったことにしまする。いきましょう」といった。
「そうだな」
 三成は意味深な顔で頷いたという。
(劇画・漫画『花の慶次』隆慶一郎著作(原作)原哲夫作画(漫画・絵)新潮社コミックス参考文献参照)



 三成や吉継のような官僚が堺奉行として当時の経済地堺を運営したことで経済がよくなります。豊臣政権での太閤検地とは年貢や銭を集めやすくして経済を豊かにするものでした。堺は自治地域という認識は正しくない。三好党や足利将軍家など支配した時期があるし、信長にも支配されている時期がある。大阪湾で発展したのはさらに堺だけでなく兵庫津、尼崎、渡辺津、などがあるという。
まずは経済を豊かにする…それが秀吉や豊臣政権の経済政策の一丁目一番地でした。
また焼け野原の博多を復興させた(太閤町割)のも三成であり黒田如水でした。
また、何度も書きますが石田三成のイメージで、冷血漢で「へいくわい」(横柄な)というのは徳川時代の創作です。そんな人物ではありません。
領地佐和山でも名君としていまだに尊敬されている「人格者」です。
領民の苦情や意見をよくきき、領民のために骨を折り、贅沢などせず、佐和山城は貧乏城であったとか。三成=冷酷というイメージは徳川時代の創作です。


 豊臣秀吉がまだ木下の姓を名乗り、長浜城主の当時召し抱えたのが、後年五奉行の一人として徳川家康に対抗した関ヶ原の立役者、石田三成その人である。この三成の推挙によって秀吉の近習となり、秀吉の一字をもらって吉継と名乗り、秀吉から次第にその才能を認められ、越前敦賀(つるが)城主となって五万石の大名となったのが大谷吉継である。吉継は九州豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治の子と伝えられ、はじめ紀之介と称した。
 加藤清正や福島正則のように、一番槍の武勇でならす武闘派と、石田三成や大谷吉継のような官僚肌の二極に豊臣政権は分裂していた。
 石田三成はやりたくもない朝鮮侵略で、武功をあげたい福島正則や加藤清正らに恩賞も与えられず、武闘派らの憎しみを秀吉にかわって一身にかぶった。
 明治以前の日本の不治の病がふたつある。明治以前の日本にはひとつに労咳(ろうがい・肺結核)という不治の病と、天刑の病とされる癩病(らいびょう・ハンセン病)である。
 大谷吉継は父親と同じく、癩病にむしばまれており父親は全身不随になって死ぬのだが、息子の吉継も癩病で身体中に膿が出来、殆ど歩けず眼もほとんど見えない状態まで病状は悪化する。そこで或る時の数奇屋(すきや)での秀吉主催の茶会である。大谷吉継も三成も共に招かれて出席した。すでに癩病が進んでいた吉継は、その頃の会合にはめったに出席しなかった。おそらく秀吉は、そんな吉継を慰めようとして招いたらしい。その席での茶は回し飲みであった。
 自分の所に回ってきた茶碗に口を当てた時、吉継の緊張は極度に高まっていた。丹田に力を込めて、吉継は作法通りに茶を啜った。その途端、なにやら鼻水のようなものが一滴、茶碗の中にしたたり落ちてしまった。はっとする吉継は気も転倒する思いであった。列席の武将たちの目は、血膿のはいった茶碗に注がれた。さすがの吉継も手がふるえ、次席の小西行長に茶を回すことができない。不気味な沈黙が一座を支配した。気の毒そうに目を伏せる者もいた。列座の大名たちは成り行きいかんとかたずを飲んで見まもった。その時、かたわらに進み出た石田三成は、刑部の手からとっさに茶碗を受け取ると、並み居る人たちに無礼を詫びた後一息に茶をすすり飲んでしまった。吉継の目には、きらりと涙が光った。この世における二人の友情はこの一瞬、底知れぬ深さに結ばれた。
 関ヶ原での合戦に「お主には人望がないからやめておけ」と何度も諌めた大谷刑部吉継は、佐和山城に三成に呼ばれて駕籠でやってきた。この時、癩病にむしばまれた義継の身体は血膿にまみれ、眼は視力を全く失った姿であった。そこで三成は、家康挟撃の大事をはじめて打ち明けたのである。驚いた吉継は、時期尚早であるとして三成を諌め、この企てを思いとませようとした。しかし、三成の計画はすでに引き返せぬところまで進んでおり、吉継の諌めを聞くことは出来なかった。見えぬ目に涙を流しながら、翌日もまた翌日も、三成を諌め続けた。
 こうして一六〇〇年七月十一日、刑部は意を決して、三成に命を捧げるため佐和山城に入った。迎えに出た三成は吉継の手を取って「刑部」とただ一言、声は涙につまった。
(小説『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店6~12ページ参考文献参照)



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【執筆推敲中人物島田清次郎】【大正時代の中二病】若き天才作家 島田清次郎

2017年01月26日 19時01分32秒 | 日記




























【大正時代の中二病】若き天才作家 島田清次郎
中二病という言葉が生まれるずっと以前の大正時代に中二病を患った作家がいた

更新日: 2013年10月17日


tame2000さん









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「中二病」とは





中学2年生(14歳)頃の発達途上の段階にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄した言葉。「中2病」「 厨二病」とも。



出典
中二病とは - はてなキーワード



















「自分は選ばれた特別な存在」という自己愛が暴走し、周囲の感覚を超越した自分になろうとする病。現実的に不可能な世界に憧れたり、逸脱的な趣味・嗜好を顕示したりする。



出典
中二病とは - はてなキーワード























出典
note.chiebukuro.yahoo.co.jp















若き天才作家、忘れられた作家 島田清次郎





わずか二十歳で上梓したデビュー作『地上』が空前の大ベストセラーとなり、有名批評家もこぞって絶賛。一躍文学青年たちのカリスマとなっていく。



出典
【読書感想】島田清次郎 誰にも愛されなかった男











「地上」は大正8年に刊行された全4部作。







天才作家の登場ともてはやしたのは、あの新潮社でした。「時代の劈頭を飾る一大宝玉現る」と大きな新聞広告で売り出し、大儲けして社屋を新築したそうです。



出典
踊らされた元祖「天才と狂人」 めい展・じゃあなる/ウェブリブログ
























Amazon

地上―地に潜むもの







デビュー作の「地上-地に潜むもの(1部)」。
芸者屋が出てきたり、年上の女学生との恋ありの社会派青春小説は、またたくまにベストセラーとなり50万部売れました。デモクラシーにわく大正8年(1919年)、島清20歳の時でした。







アメリカ、ヨーロッパを外遊し、アメリカではクーリッジ大統領、イギリスではH.G.ウェルズとも面会



出典
【読書感想】島田清次郎 誰にも愛されなかった男 - 琥珀色の戯言



















今ではほとんど忘れ去られています



出典
精神界の帝王 島田清次郎 on the Net



















島田清次郎という人と『地上』という作品は、近代日本文学の「忘れられた、あるいは忘れたい大ベストセラー」として、いろいろなところで言及されています



出典
【読書感想】島田清次郎 誰にも愛されなかった男 - 琥珀色の戯言




















嶋田 清次郎(しまだ せいじろう)


出典
psychodoc.eek.jp




嶋田 清次郎(しまだ せいじろう)


1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日
日本の小説家。
文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。

大正11年の欧州旅行後は精神をやみ,療養中の昭和5年4月29日死去。32歳。石川県出身。金沢商業中退。







「究極の一発屋作家」









出典
www.asahi.com















無名の文学青年が書いた『地上』が、当時としては異例の大ベストセラーになり、時代の寵児となった



出典
【読書感想】島田清次郎 誰にも愛されなかった男 - 琥珀色の戯言



















名声の高まるにつれて,作者自身の実生活における傲慢な言動が,周囲の反感を買い,しだいに支持者を失った。



出典
島田清次郎 とは - コトバンク



















ファンレターを送ってきた海軍少将令嬢と結婚しようとして、仲人を依頼する相手のいる逗子まで無理やり連れて行く。すると、誘拐・強盗・監禁・脅迫・氏名詐称の疑いで、警察に拘留されてしまう



出典
恋愛下手、DV、統合失調症そして天才作家『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース























出典
psychodoc.eek.jp















以降、奇矯な行動が目立つようになり、25歳で早発性痴呆(統合失調症)と診断され精神病院に収容され、31歳で肺結核により死去



出典
恋愛下手、DV、統合失調症そして天才作家『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース



















島田清次郎という男





天才か、狂人か。ベストセラー作家から地に堕ちた男。



出典
【読書感想】島田清次郎 誰にも愛されなかった男 - 琥珀色の戯言



















大手出版社が20歳の”天才”を作り上げ、スキャンダルになると新聞、雑誌が”色魔・狂人”として醜聞をあばいて没落させる。



出典
踊らされた元祖「天才と狂人」 めい展・じゃあなる/ウェブリブログ























出典
54153788.at.webry.info















現実を自分にとって都合のいいように捻じ曲げて描く傾向が、『地上』で脚光を浴びてしばらくすると、目立つようになる。



出典
恋愛下手、DV、統合失調症そして天才作家『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース



















失敗を作品に何らかの形で生かせばいいのに、我が身のかわいい清次郎は、格好悪くて情けない自分をさらけ出そうとはしなかった。



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恋愛下手、DV、統合失調症そして天才作家『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース



















作品の中や言動に中二病的発言が満載





清次郎の文章や言動からは、どうしてもこの「中二病」という言葉を連想してしまう。



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【読書感想】島田清次郎 誰にも愛されなかった男 ☆☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言























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www.city.hakusan.lg.jp















自分の都合と自慢ばかり書かれたラブレターを送る



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恋愛下手、DV、統合失調症そして天才作家『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース



















「精神界の帝王」「人類の征服者」と自称



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【読書感想】島田清次郎 誰にも愛されなかった男 - 琥珀色の戯言











【大正時代の中二病】若き天才作家 島田清次郎
中二病という言葉が生まれるずっと以前の大正時代に中二病を患った作家がいた

更新日: 2013年10月17日


tame2000さん









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日本全体が己れに反対しても世界全部は己れの味方だ。
世界全部が反対しても全宇宙は己れの味方だ。
宇宙は人間ではない、だから反対することはない。
だから、己れは常に勝利者だ。



出典
精神界の帝王 島田清次郎 on the Net











まさに中二病の典型的な思考







本当に男の中の男になろうとしてゐる自分を愛さない女は女であるまい



出典
恋愛下手、DV、統合失調症そして天才作家『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース



















島田の作品は現代ではほとんど読むことができない





現在一般の書店で入手可能なのは『地上』第一部のみ。



出典
精神界の帝王 島田清次郎 on the Net



















『地上』全六部が1986年に黒色戦線社から復刻されていますが、その他の著書は大正以来、一度も復刊されていません。



出典
精神界の帝王 島田清次郎 on the Net



















作家別作品リスト:島田 清次郎


http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person595.html#sakuhin_list_1


● トップ ● インデックス / 全 ●作家リスト: 公開 / 作業 / 全 ● 作家別作品リスト 作家別作品リスト:No.595 作家名: 島田 清次郎 作家名読み: しまだ せいじろう ローマ字表記: Shimada, Seijiro 生年: 1899-02-26 没年: 1930-04-29 人物について: 「 島田清次郎 」 [ 公開中の作品 | 作業中の作品 ] 公開中の作品 地上…


青空文庫で「地上」ほか3作品をよむことができます








島田清次郎 誰にも愛されなかった男



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島田清次郎 誰にも愛されなかった男




島田清次郎 誰にも愛されなかった男


嶋田 清次郎(しまだ せいじろう)
1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日
日本の小説家。
文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。

大正11年の欧州旅行後は精神をやみ,療養中の昭和5年4月29日死去。32歳。石川県出身。金沢商業中退。







狂人となつた島田清次郎君を精神病院の一室に訪ふ記














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貧乏人かお金持ちか、「人生の明暗を分ける習慣」5つ

2017年01月25日 19時13分58秒 | 日記




























貧乏人かお金持ちか、「人生の明暗を分ける習慣」5つ





貧乏人かお金持ちか、「人生の明暗を分ける習慣」5つ© 株式会社メディアジーン 提供 貧乏人かお金持ちか、「人生の明暗を分ける習慣」5つ

Inc.:お金持ちは豪邸に住み、贅沢な休暇を取り、毎晩高級レストランで食事をしていると思う人は多いかもしれませんが、そうしたイメージは実際とはかけ離れています。中にはそんな暮らしをしている富裕層もいるかもしれませんが、ベストセラー『隣の億万長者(Millionaire Next Door)』の著者であるトーマス・スタンレー氏とウィリアム・ダンコ氏は、アメリカの最高額納税者のほとんどは、所得がそこまで高くない人たちと一見何ら変わらないつましい生活をしていることを同書の中で指摘しています。

今回は、お金持ちが日々実践しているお金にまつわるちょっと意外な5つの習慣をご紹介しましょう。




1. つましい生活をしている


所有する車は安価な中古車で、修理工とファーストネームで呼び合うぐらい親しくなるほど何度も修理しながら乗り続けます。家はミドルクラス住宅地のごく平均的な家です。割引クーポン券を集めています。食事は外食でなく自炊です。洋服は既製品をバーゲンで安く買います。シャンパンよりビールを飲みます。そして何より重要な点は、収入より支出が少ないことです。収入以下の生活を上手にして、余ったお金は自分にとって大切なことに投資して、長期的に健康で幸福に暮らせるようにしています。


2. 見栄の張り合いをしない


金持ちは目立とうとしません。会員制のクラブの会員になったり豪華なパーティを主催することもありません。社交クラブかスポーツクラブに所属している場合は、ネットワークを作ることが目的だったり、ビジネス上の利点があるためです。こうした活動をするときは、それに投資しただけの見返りがあるからです。人目を引くような家を買ったり、高級車を乗り回したり、高い洋服を着るようなライフスタイルは資産を脅かすことになりかねないとわかっています。


3. 人に雇われずに働く


お金持ちは退屈でも堅調な業界で起業する傾向があります。雇用されて搾取されるばかりの仕事をして暮らしても、自分の財産は増やせないとわかっているからです。自分のビジネスを所有して堅実な需要のあるところに製品やサービスを提供できればきっと成功して、収入を気にする必要が無くなることを知っています。


4. 他人に経済的な支援をしない


ここで取り上げているお金持ちは、自分で一生懸命働いてお金を稼いだ人たちで、財産を相続したわけでも宝くじに当たったわけでもありません。働かずにお金を誰かからもらったわけではないので、自分も簡単に人にお金をあげるべきでないと思っています。家族や友人から借金を申し込まれたら、自分が貸したお金で借り手が教育を受けたりベンチャービジネスを立ち上げるなど実になることをするという条件で承諾することが多いでしょう。


5. お金をしっかり管理運用する


お金持ちの倹約の仕方といったら宗教といってもいいぐらいです。必ずリタイヤしたときのために投資します(リタイヤと関係ないことにも投資しますが)。いくら入ってきていくら出ていくか、どうしたら最高収益を得られるか、しっかりトラッキングすることで自分で自分のお金を管理運用しています。

結局のところ、稼ぎが多いせいでお金持ちになる訳ではなく、日々の習慣を通してお金持ちになるのです。そしてその習慣は誰でも見習えるものです。


5 Money Habits That Separate the Rich From the Poor (Most May Surprise You) | Inc.

Rhett Power(訳:春野ユリ)
Photo by Shutterstock.

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「夢を引き寄せる人」に共通する30の特徴

2017年01月25日 19時12分25秒 | 日記



























「夢を引き寄せる人」に共通する30の特徴




© TABI LABO 提供



一度きりの人生。夢を叶えられるかどうかは、あなた次第です。そして、その夢に向かって努力する過程で必要なのが、何よりポジティブな心構えだと教えてくれるのは、「Elite Daily」のライター、Kylie Kennedyさん。

彼女が綴る「夢を叶える人たちの30の心構え」を参考にすれば、考え方の切り替え次第で、より早く、より確実に自分の夢に近づけるかもしれません。



01.

ポジティブさを忘れない


© TABI LABO 提供

周りとコミュニケーションをとるときはもちろん、どんなことがあっても前向きに。ネガティブなことを考える暇なんてないはず。



02.

すべてのことに感謝する


感謝するべきは、家族や友だちだけではありません。住む家があること、食事ができること、冒険心を持っていること。あなたの日常は当たり前ではないのです。決して、そのことを忘れてはいけません。



03.

夢は信じたほうがいい


やりたいことは、とことん追いかけましょう。あなたが手に入れたいと思っているものは、意外と届く範囲にあるのかもしれません。



04.

直感を信じて行動してみる


頭に思い浮かんだアイデアを現実するのは、他の誰でもなく、あなたがやるしかないんです。心の声に耳を傾け、引き寄せられるものはカタチにしていきましょう。



05.

「思い切り」が大切


© TABI LABO 提供

正しいと思ったら、決断する。そうすれば、今後の人生につながる貴重な経験ができるかもしれません。たとえ残念な結果に終わっても、落ち込む必要なんてありません。一歩踏み出した勇気こそが、次のステップに進む原動力となるでしょう。

誰かにネガティブなことを言われても、気にしなければ大丈夫。あなたを理解してくれて、お互いに支え合える仲間と一緒にいればいいんです。



06.

相手の言葉を鵜呑みにしない


価値観は、人それぞれ。相手と意見が違った場合も、流されないように注意しましょう。



07.

人に優しく


「自分がされてイヤなことを、相手にしてはいけません」。よく聞くフレーズですが、これは人生で本当に大事にするべき心構えです。誰もが思いやりを持って相手に歩み寄れたら、この世はもっと住みやすくなります。



08.

旅には刺激が待っている


何よりも優先したい「旅する時間」。新しい地へ足を運ぶことで、未知の世界を感じることができ、あなたの視野は何倍にも広くなるでしょう。それに「こんな世界もあるんだ」と知るだけでも、人生は鮮やかに彩られるものです。



09.

楽しいことには時間を費やす


私たちは「自分が欲しいものを引き寄せる」そうです。心から楽しめることには時間を割きましょう。「時間がない」なんて言い訳は、勝手に自分が決めつけているだけです。



10.

言い訳を言わない


© TABI LABO 提供

「でも…」「どうだろう…」と言い訳をして、できない理由をつくっていませんか?それでは、何もできません。



11.

心を開いてみる


本心をさらけ出してくれない人には、壁を感じてしまうもの。自分が心を開かないと、相手だって本心で話してくれません。上辺だけの関係にならないためにも、失敗は認め、思いやりを持ってアプローチしましょう。



12.

「口だけ」の人間にならない


発言には責任を持って、行動に移していきましょう。そして、周りに「不可能なんてない」と見せつけるのです。人に優しくするべきだと思うなら、まずは自分がそうしなくてはいけません。



13.

想像できるものは現実になる


「引き寄せの法則」によれば、想像できるものは、必ず実現できます。ということは、自分の夢を叶えるためには、毎日想像することが大切なのです。そうすると、夢に対する想いが燃え上がり、突き進む努力を怠らなくなるでしょう。



14.

「興味のあること」にとことんハマってみる


興味があると思ったら、好奇心のままに行動を。本当にしたいことであれば、ちょっと無理をしてでも時間はつくれるはずです。



15.

失敗に負けない


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人生は、失敗の繰り返し。それなのに、いちいち気を落としていたら、もったいないと思いませんか?失敗しても笑顔を忘れずにいれば、きっと成功に近づけるでしょう。



16.

不安やストレスは気にしない


ネガティブな感情があると、どこにも進めなくなります。不安な気持ちはどこかへ置いて、ポジティブでいることが大切。冒険心を持って未知の世界に突き進めば、きっと楽しいことが待っているはず。



17.

どんなことにも「意味」がある


日常で起こるすべてのことが、あなたを成功に導いてくれます。そう考えると、人生がもっと楽しく、魅力的に思えませんか?



18.

嘘をつかない


自分がした失敗を、恥ずかしがらずに素直に認めましょう。間違っても誰かのせいにしないこと。



19.

毎日目覚めるだけで「奇跡」


明日があるという保証はありません。だから毎日、夢を叶えようと努力しましょう。そうすることで、自然と人生は鮮やかになっていくはずです。アインシュタインもこう言っています。


「生き方には次の二通りが存在する。どんなことがあっても奇跡ではないと考えて生きるか、どんなことでも奇跡であると考えて生きるか」



20.

視野はできるだけ広く


© TABI LABO 提供

何かを手に入れようとするならば、さまざまな視点から物事を捉えることが大切。それだけは欠かさないようにしましょう。



21.

勉強は学校じゃなくてもできる


学校で学ぶ知識だけでなく、経験したことから能力を培うことも同じくらい貴重なのです。



22.

周りにいる人たちからも学ぶことは多い


それぞれ少しずつ考え方が違う人間。そう思うと、周りから学べることはたくさんあるのでは?



23.

人の長所に目を向ける


相手のいいところを見つけようとすれば、相手も自分のいいところを知ろうとしてくれます。これもまた「引き寄せの法則」。相手のことを信頼して、優しい気持ちで接しましょう。だからといって、向こうが同じように接してくれないこともありますが、それはそれです。



24.

縛られず、もっと自由に


自分を縛り付けているものから解放されると、もっとたくさんのモノや経験に触れられるはず。自分が自由になれば、周りを縛ることもなくなり、取り巻く環境が豊かになるでしょう。



25.

「必要なもの」だけに集中する


© TABI LABO 提供

必要としているものさえ明確にわかっていれば、欲しかったものも後で回ってくるはず。



26.

やっぱりお金で幸せは買えない


お金で買えるのは、モノだけ。夢、感動、成功、そして生きる意味は、お金とは引き換えられないのです。



27.

いつだってやり直せる


この世に完璧な人間なんていませんし、自分が望んでいる能力が生まれつき備わっているとも限りません。だから、勉強して手に入れるしかないのです。大切にしたいものがあるなら、まずは行動に移してみましょう。



28.

ぜったいに諦めない


物事に終わりなんてないんですから。



29.

忍耐強く待つ


夢への近道があれば、どれだけラクなことか…。しかし、そんなに簡単にいかないのが人生。なかなか上手くいかないときも、楽しむことを忘れないで。



30.

刺激的な人間になる


© TABI LABO 提供

あなたが勢いに乗っていると、周りはそんなあなたに感化されて、いい刺激になるはず。人生とは、一種の冒険。想像力を働かせて、毎日一歩ずつ、夢へ歩み寄っていきましょう。夢へ挑むなら、「今日が最後かもしれない」と、全力投球で。

だって、誰もが最高な人生を歩むべきでしょう?


Licensed material used with permission by Elite Daily

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良い人生を送るために覚えておきたい「100のリスト」

2017年01月23日 20時05分19秒 | 日記




























良い人生を送るために覚えておきたい「100のリスト」









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一年は365日。つまり、8,760時間もあります。これだけの時間があるなら、ずっと夢見ていた目標を達成することも、大好きなあの人と付き合うのも、夢じゃありません。

今年1年を最高の年にするためにも、覚えておきたい100のことを紹介しましょう。まとめていたのは「Elite Daily」の人気ライター、Paul Hudsonさん。プライベートはもちろん、仕事においても役立ちそうなアドバイスです。


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01.

騎士道は死んだだって?それはあなた次第だ。



02.

人生はやり直しが効かない。よく考えてから決断すべきだ。



03.

気が乗らないデートには行かなくていい。焦る必要はない。



04.

あなたの視点はあなただけのもの。まったく同じ視点の人は存在しない、ということを理解しよう。



05.

諦めなければ、失敗なんてない。


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06.

誤った判断が、正しい答えに導いてくれることもある。



07.

人生を「簡単」だと感じるのは、全力で生きていないから。



08.

「運命の人」はひとりではない。何人も存在する。



09.

自分を安売りすると、相手からも求められなくなる。



10.

あなたの人生にとって「プラス」じゃない人は、むしろ「マイナス」になっている。



11.

人生において取捨選択は大切だ。なぜなら、すべてを手に入ることはできないから。



12.

健康こそすべて。



13.

知識は、大学の費用よりも安く買える。


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14.

アメリカが世界一ではない。



15.

宗教とは、良い面と悪い面がある。



16.

それぞれの宗教は、それぞれの理論を持っているだけであり、ひとつの宗教がほかより「劣っている」ということは決してない。



17.

人間のほうが動物より「優れている」わけではない。ただ、少し利口なだけだろう。



18.

人間の習性とは、経験や育ってきた環境に左右されながら、定着していくものだ。



19.

やり方は、必ず何通りかある。



20.

SEXは美しいもの。でも、性的な関係だけではその美しさを味わうことはできない。



21.

私たちが口にするほとんどのものは、人工の原料がふんだんに使われている。



22.

最悪、水さえ飲めれば、生きていける。



23.

鬱とハッピーな生活の違いは、運動をするかどうかだ。



24.

素敵な「明日」のために「今日」を全力で生きることができれば、人生の輝きはどんどん増す。


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25.

どんなときにも応用できるフレーズがある。それは「シンプル・イズ・ベスト」だ。



26.

そして、シンプルなアイデアが本当に問題を解決するなら、それに従うべきだ。



27.

好きな人がいるなら「好き」と伝えよう。伝えるチャンスすらない人だっているから。


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28.

マリファナで死にはしないけど、人生がめちゃくちゃになる可能性は十分にある。



29.

「違法」なものが必ずしも「間違っている」とは限らない



30.

同じく「合法」だからって、それが「絶対に道徳的な行為である」とも言い切れない。



31.

暴力は、人を突き放すだけだ。



32.

どれだけの大義があろうと、誰か・何かを殺すことは、自己中心的な行為である。



33.

ときに世の中は、私たちを狂気的な生き物にさせてしまう。そしてこれは言い訳ではなく、ただひとつの「説明」である。



34.

いつだって「変化」を起こすことはできる。過去は変えられなくても、過程や結末は、変えられるのだ。



35.

問題の根源は「あなた」かもしれない。



36.

私たちの存在は地球に優しくない。そして想像以上に早いスピードで、地球を破滅に追い込んでいるのかもしれない。



37.

メディアは、売れるビジネスなら、そのカタチを問わないものだ。



38.

あなたが「自慢したい」と思うことは、さして大してことではない。



39.

成功したいのであれば、積極的に行動に出なければならない。


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40.

万人に愛されているのなら、逆に何かが足りないのだろう。



41.

人間は、ポジティブなことよりもネガティブなことを10倍も口にする。それは、人生においても通ずることだ。



42.

みんな意見を持っている。でもその意見は、「事実」ではない。



43.

先へと続く変化を起こすためには、ただひとつの行動だけではなく、「考え方」をガラッと変える必要がある。いま「真実」だと思うことも、50年後には変わっているかもしれないから。


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44.

面白いテレビ番組も、もちろんある。でも、くだらなく、どうでもいいものも多い。



45.

一冊の本が人生を変えることもある。



46.

わからないことは、聞くべきだ。



47.

いまいる環境で、一番賢い人間であることは、心地いいかもしれない。でも自分の為になるのは、成長できる環境に身を置くことだ。



48.

何かを完璧にこなすためには、10年、つまり10,000時間が必要だ。歴史上、何かを成し遂げた人物も、9年以下では傑作は築けなかったのだから。



49.

たまには過去を懐かしむ時間があったっていい。



50.

ビジネスもプライベートも、いま世界にあるものすべてにおいて、完璧なものなど何ひとつない。いつだって、改善の余地はあるから。



51.

成功したいなら、それ相応の努力と知識が必要だ。



52.

「きみにはできない」と言われても、信じてはいけない。


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53.

時間が解決してくれることもある。



54.

世界を変えたいのなら、まずは世界の「見方」を変えなければならない。



55.

生きている限り、誰だってリーダーになることはできる。でも「最高のリーダー」になるためには、努力が必要不可欠である。



56.

夢を叶えることは、そこまで高価なことではない。



57.

多くの人は定年を待ちわびて働き、自分のしたいことをせずに人生を終えてしまうのだ。



58.

せっかく生きているのだから、常に何かを創り出すこと、そして常に進化し続けることに人生を捧げるべきである。



59.

誰かに覚えていて欲しいのであれば、ある程度の威厳が必要だ。



60.

ロマンチックな恋愛は、燃え上がるようにエキサイティングかもしれない。でも本当の「愛」とは、落ち着いていて、奥深いものなのである。



61.

そこまでしっかり考え抜くことはなく、非論理的になってしまうこともあるだろう。



62.

「自由」だからといって、したいことが何でもできるわけではない。


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63.

つまり「自由」とは、常に改善策を模索し、できるだけ「いい人生」を円滑に創り出していくことだ。



64.

人生で出会う大半の人は、いい人だ。でもごくまれに、邪悪な人に出会うかもしれない。



65.

既成概念は、持たないこと。



66.

必要なことにだけフォーカスを当てること。そして、どうでもいいことは手放すこと。


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67.

誰よりも頑張って学べば、必ずスキルを身につけることができる。「生まれ持った才能」なんてないものだと思おう。



68.

動物は、愛を表現することができる。そして、人間と同じように、感情がある。ならば「痛み」だって当然感じるはずだ。それが「自然」な解釈だと思わないか?



69.

アルコールなしで楽しめないのなら、あなたは少しアルコールに頼りすぎなのかもしれない。



70.

女性が男性と同じ給料をもらうのは当たり前だし、スキル次第で、男性の給料を上回ったっていいはずだ。



71.

「女性蔑視」の意味もわからず、言葉を使っている人が多すぎるようだ。



72.

ただ、女性について意見をすることは、そのうちに入らない。



73.

最悪なオトコはいくらでもいる。でもいいオトコだっているのだ。ただ、見つけるのに少し時間がかかるだけだ。



74.

いまあるものを駆使して、上を目指すことだ。



75.

「欲しい」という気持ちが強ければ、きっと手に入るはずだ。それでも届かないのなら、きっとそこまで欲しいものではないのだろう。


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76.

機会を逃すことほど、もったいないことはない。何か機会が巡ってきたのなら、絶対に掴んでおくことだ。



77.

ある程度のリスクを背負わないと、経験は積めない。



78.

人間関係を適当にすると、いつか失うハメになる。



79.

運命の人を見つけるのは、難しいこと。でも、決して諦めてはいけない。


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80.

負けることは失敗のうちに入らない。でも、諦めたらそこでおしまいだ。



81.

いま、あなたと同じ目標を、あなた以上の努力をして、前進している人がいることを理解しよう。



82.

忘れがちだが、何かを決断するときに最も重要なのは「結果」なのだ。



83.

心から「好きだ」と思う人がいるのなら、手離してはいけない。その選択肢があると考えることすら、そもそも間違っているのだろう。



84.

一生相性が合わない人もいるものだ。



85.

「安定」を目指すべきではない。



86.

「無理だ」と思うものを成し遂げ、ようやく「無理じゃない」ことを証明できるのだ。


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87.

いい人と働き、付き合いを深めること。それさえできていれば、あとは流れに身を任すだけでいい。



88.

いまあるすべてのものに感謝し、いつかは失うかもしれない可能性を受け止めよう。いずれ、なくなってしまうかもしれないから。



89.

嫌いな仕事は、やらないこと。



90.

偏見を抱く前に、しっかり考えるのだ。



91.

交流を深めたいのであれば、自分が話す頻度を減らし、相手をよく観察することだ。



92.

終わらせられないことは、始めないことだ。



93.

私たちはみんな、周りと助け合い、この世をより良くしていく「使命」がある。



94.

人間は変われる生き物だ。ただ、少し時間がかかるだけ。



95.

家族と強い絆で結ばれることは、人生において大きな影響を及ぼす。



96.

血縁関係じゃない人のことを「家族」と同じくらい大切に想うこともあるだろう。



97.

自分を卑下する必要なんて、どこにもない。寂しい気持ちになるだけだ。



98.

ほとんどの人は、そこまであなたのことを気にしていない。でも中には、あなたのことをちゃんと思ってくれている人がいる。そういう人を大切にしていけばいいのだ。


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99.

お金持ちになりたいのなら、それに見合った交流関係を取り繕っていくことだ。



100.

最終的な判断を下すのは、あなただ。いまが「ハッピー」なら、その調子を持続すればいい。


Licensed material used with permission by Elite Daily

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五稜郭と榎本武揚と北風と<榎本武揚の戊辰戦争維新回天白虎編>維新の風5

2017年01月22日 19時49分24秒 | 日記




























         3 勝海舟




  兵庫沖に開陽丸があり、江戸に向かっていた。
 艦長は榎本武揚である。年末暮れ二十五日……
「艦長! 薩艦でしょうか?」
 榎本の部下が双眼鏡でみていった。
「なにっ?」沢太郎左衛門は双眼鏡を取りだした。遠くに、一隻の艦船がみえる。
「ありゃ! 釜さん、船だぜ」
「どれ! 薩艦か?」
 榎本武揚は双眼鏡で覗いた。確かに、遠くに艦船がみえる。
 薩艦であれば敵だから撃沈させなければならない。
「よし!」
 武揚は命じた。「警告の空砲を三発撃て!」
 空砲が三発放たれる。轟音が鳴る。すると、薩艦は全速力で逃げ出した。
「やっぱり敵艦か! 撃て! 撃て!」
 今度は空砲ではない。砲弾が薩艦に向けて撃たれる。しかし、敵艦は運がいい。撃沈されることなく、逃げ去った。
 ……てやんでい! 逃げられたか……
  後日、榎本武揚らと薩摩海軍要人は対談した。
「どげんこってごわす?!」
 薩摩の和田彦兵衛は榎本に文句をいった。「幕府と薩長が対立しているとばいえ、わが艦は攻撃せんかったんでごわすぞ」
 薩摩の有川藤太も「どげんこってわが艦を攻撃したとでごわす?」
 と、口々に文句をいった。
「こげんこつ許されてよかばってんか?」
 榎本武揚は苦笑して、
「艦砲弾で撃沈されなかっただけありがたいと思え!」と喝破した。
「どげんこつ……」
 それからは話しにならなかった。
「万国法で三発空砲を打ち、のちに実弾…万国法にのっとっての作戦だった」
「しかし、幕府は大政奉還したではごわさんがか?」
「幕府は幕府!大政奉還は万国法に違反していねえ」
そうである。慶応三年(一八六七)七月十日徳川慶喜は大政奉還をしたのである。
その後の庄内藩などの江戸薩摩藩邸焼き討ちで戊辰戦争が始まった。
 鳥羽伏見では怪我で動けない新選組の近藤勇にかわって、副長・土方歳三が官軍と戦った。しかし、圧倒的な官軍の兵力と銃により、土方は敗れる。
 土方の腕の中で、銃弾が飛び交う中、新選組の井上源三郎は死んだ。
「くそったれめ!」土方は遁走した。
  翌年一月十四日……
 榎本武揚は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、艦隊のある大阪沖へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」

 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。        その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

      
  榎本武揚は薩摩藩の春日丸の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、空砲三発発射。それに薩摩艦が報復攻撃、それぞれつれだっていた汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 薩摩藩は三隻が榎本軍に拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 榎本たちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、榎本たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 榎本艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如く榎本艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 榎本艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
 勝海舟はいう。
「薩摩は開国を望んでいる国だから、榎本がおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。
 しかし、薩摩が負けるとは俺は思わなかったね。薩摩と榎本海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからの榎本の対応が見物だぜ」
  鹿児島では榎本艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。
  薩長軍は天皇を掲げて、官軍となった。
 いままでの歴史になかった「錦の御旗」(天皇の旗)を掲げた。それをみた幕府は「われらは賊軍となる!」とあせった。
有名な話だが、鳥羽伏見の戦いなどで大坂城にいた最後の将軍・慶喜は大坂城よりひそかに脱出。艦長・榎本武揚不在の中、開陽丸にのりこんで沢を艦長に指示して江戸に逃げ帰った。大坂城内にいた榎本や歩兵大将の松平太郎らは驚愕の事実だったことだろう。
「永井尚志(なおむね)さま。将軍閣下はどこにおられる?」
「それが…」
「大坂城の近くで錦旗があがったとか。まだ兵は鳥羽伏見あたりで戦っておいます」
「そうです。早めのご命令をうかがいたい」
永井は苦渋の顔をして、「いやあ。慶喜さまはもう大坂城にはおられん。」
「どこぞに出陣あそばされたのですか?なれば幕軍の士気もあがりましょう?」
「いや。」永井は吐き捨てるように言った。「お逃げになされた…」
榎本も松平も驚愕した。「な?!なんと?!!逃げた…」
「慶喜さまは総大将!まだ幕軍が鳥羽伏見で薩長軍と戦っているのに…逃げた?」
「まさか…」
「そのまさかよ。恐怖でお逃げになられた。」
「……」一同は沈黙するしかない。「しかし、敵陣には錦の御旗が…これでは幕軍が全滅いたしまするぞ。まだ味方が戦っている最中に総大将が逃げるとは…」
「仕方ねい。われらも江戸に帰るしかない」
永井はそういって城からでた。
しばらくして、榎本武揚はハッとした。「大坂城には幕府の金銀がある。火事場泥棒じゃあねえが、頂いてまいろう。幕府のためにも銭は必要だ」
「そうじゃのう。釜さん。全部幕府艦に積み込んで戦費にいたそう。薩長なんぞに渡すか!」
荷車で大坂城の蔵から金銀の銭箱を部下に夜中運ばせていると新選組たちがきた。
「まった!おぬし等は何者ぞ?!」
「われらは会津藩お預かり新選組だ」土方歳三はいった。
「おう。あんたがたが新選組か。そうするとあんたが土方くんだね?」
「そうだ。幕臣の者か?」
「そうだ。」
「総大将はどうした?あたりに幕臣の姿もないが…?」
「う~ん。」榎本は困った顔をしてから、「我ら幕軍は江戸にひきそこで薩長軍と戦うことに決まった。この銭は戦に必要なんだ。新選組で守ってくれ!これからの軍費や幕臣の留学生たちの費用もある。頼むぞ」
「わかりました。あなたはもしや榎本さまでしょうか?」
「そうだ。土方くん。幕臣のこれからの為にもこの銭は必要だ。頼んだよ。幕臣数千人が路頭に迷わないようにするのが幕府の重臣の務めだ」
土方は「まかしてください」と頭をさげた。



  逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。

  大阪に逃げてきた徳川慶喜は城で、「よし出陣せん! みな用意いたせ!」と激を飛ばした。すわ決戦か……と思いきや、かれの行動は異常だった。それからわすが十時間後、徳川慶喜はのちに船で江戸へと遁走しだす。
 リーダーが逃げてしまっては戦にならない。
 新選組の局長近藤勇はいう。「いたしかたなし」
 それに対して土方は「しかし、近藤さん。わずか二~三百の兵の前でひれ伏すのは末代までの恥だ。たとえ数名しかいなくなっても戦って割腹して果てよう!」といった。
「いや」近藤はその考えをとめた。「まだ死ぬときじゃない。俺たちの仕事は上様を守ること。上様が江戸にいったのならわれら新選組も江戸にいくべきだ」
「しかし…逃げたんだぜ」
 近藤は沈黙した。そして、新選組は一月十日、船で江戸へと向かった。
  江戸に到着したとき、新選組隊士は百十人に減っていた。

「開陽丸で江戸へいけ!」
 徳川慶喜は開陽丸に乗り込んだ。しかし、艦長の榎本武揚はいなかった。
 沢が「しかし、榎本艦長がおりませぬ」
「かまわぬ。余の命をまもるため沢、おぬしが艦長となり江戸へいけ!」
「……しかし…」
「いけ!」
 こうして徳川慶喜は江戸へ遁走した。
  十二日、開陽丸を徳川慶喜に乗り逃げ去れた榎本武揚はあっけにとられながらも、気をとりなおし、薩長の砲弾の中をかいくぐり主のいなくなった大阪城へとはいった。
「やあ! 釜さんじゃないか!」
 永井は声をあげた。まだ新選組が大阪城にいるときだった。
 榎本は「上様が逃げたって?」と呆れた。
 城の幕臣たちはパニックになっていた。
 新選組がきた。「榎本さん!」土方はいった。
「これからどうします?」
「そうだな……そうだ! 城の物全部もっていこう! どうせそのうちこの城は薩長の手に陥ちる。蔵から全部銭を頂こう!」
 土方は「いいんですか? そんなことして…」と動揺した。
「なに、どうせ幕府の銭だ! かまうもんか! 薩長にくれてやるこたぁねえ!」
 榎本は部下に命じて、城の蔵から書類、刀剣、古銭(約二十万両)などを運びださせた。「全軍に撤退命令を!」
 榎本武揚は永井に嘆願した。「わかった」永井は承諾する。
「幕府にはまだ海軍があります」
 榎本はどこまでも強気だった。                           
 武揚の兄・榎本武与は感心して「釜次郎! お前のことを誇りに思うぞ」といった。
「兄上!」
 ふたりは肩をよせた。
 残留の新選組と銭などを乗せて、榎本武揚は富士山丸で江戸へと戻った。
「わたしは幕府のためならひとりとなっても戦います」
 土方はいった。榎本も感心して「俺もだ。薩長なんぞに負けるもんか!」と頷いた。
 江戸は慶喜が逃げてきて大パニックに陥った。
 大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。
「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。
 常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。
 そして人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。
 将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」
 外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。
 アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)
 謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。
 あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(安房・麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」
 当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。
「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝夜ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。
 ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。
 城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えてませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。
 というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。
 論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」


  幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」

  江戸から横浜へ、パークスと交渉する日が続いた。勝海舟は通訳のアーネスト・サトウとも親交を結んだ。勝海舟はのちにいっている。
「俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかしさいわい一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるんだ。
 心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。
 こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなどと、あらかじめ見込みをたてておくのが世間のふうだけれど、それが一番悪いよ。
 俺などは何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって、妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。
 すなわち、いわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎすましておくばかりだ。
 こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。
 それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。
 甲の人の意見をきくと、それも暴いように思われ、また乙の人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、ついには自分の定見がなくなってしまう。
 ひっきょう、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるが、人の知恵で動こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」



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トランプ大統領とピコ太郎「おバカな英語」の破壊力

2017年01月21日 15時52分02秒 | 日記




























トランプ大統領とピコ太郎「おバカな英語」の破壊力





「バカでもわかる英語」をバカにするな


トランプ大統領が誕生しました。

昨年は、大方の予想を覆し、大統領選でクリントン氏に勝利しました。日経平均株価も一時的に下落するなど、その衝撃は大きいものがありました。そのトランプ氏、演説やツイッターなどでの表現方法が注目されています。就任演説は、その内容の賛否はさておき、平易かつ丁寧な英語で今後の方針について語っていたように感じられました。

平易さに関しては、カーネギーメロン大学の教授(英語研究)が昨年3月にある発表をしています。それによれば、トランプ氏の文法は小学6年生レベルだ、と(大統領選のネバダ州勝利宣言“We are winning winning winning”は小4レベル)。また、他の大学教授(言語学)は、平易な言い回し(bigやhugeなど)や、意図的な「反復」や「話し言葉」を駆使する点がケネディ大統領に似ているとも解説。極端な物言いや論点のすり替え、誇張表現などとともに、何より平易さがトランプ流のスタイルだと専門家が分析しています(参考:読売新聞2017.1.18付)

そうやってトランプ旋風が巻き起こっている頃、日本国内でも、ピコ太郎のPPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)が流行語として大きなブームになりました。若者だけでなく、会社員の忘年会でピコ太郎のマネを強要されて「ピコハラ(ピコ太郎ハラスメント)」という言葉がネットで話題になるほど、広く知られていました。

さて、ここで質問なのですが、この2人の意外な共通点は何か、分かりますか?

それは、多くの人の心に残る、好かれる言葉は必ず「シンプル」であるということです。言い方を悪くすれば、「バカでも分かる」「子供でも理解できる」というものだということです。


シンプルな英語でなければ受け入れられない


PPAPがそもそもブームになったきっかけは、米国歌手のジャスティン・ビーバーがTwitterでツイートしたことだったそうです。このツイートは現在では12万リツイート以上、動画は1300万回以上も再生されるほど、世界中で観られている動画になりました。

ここで疑問なのが、なぜ英語を母語とするジャスティン・ビーバーが、日本人であるピコ太郎の動画を気に入ったのでしょうか?

それは、ピコ太郎の英語が「誰にでも絶対わかるシンプルな英語」だったからです。実際に登場する英文を見てみると、



I have a pen.

I have a apple. ※正しくはan apple

Ah! Apple-pen!

Pen-Pinapple-Apple-Pen


です。あえて日本語を付けませんでしたが、英単語の意味が分かればもうそのまま理解できるほど、シンプルです。このシンプルさがあったからこそ、英語圏の人や日本の子供であっても、すんなり受け入れることができたのです。

日本でも、英語を知らない子供でもPPAPをマネできたことが、流行の大きな一因になったのでしょう。つい口ずさんでしまう、記憶に残る、これがブームを生むためには大事な要因です。


Make America Great Againはなぜ耳の残るか



トランプ大統領もシンプルな英語にこだわっている


シンプルな英語が大事である。これは、PPAPなどエンタメ系コンテンツだけに限った話ではなく、実は世界で多くの人に受け入れられる英語というものは、必ずと言っていいほどシンプルなものばかりです。

では、トランプ大統領はどういった英語を使っているのでしょうか?

トランプ大統領のキャッチコピーと言えば、

Make America Great Again.

(アメリカをもう一度、偉大に)

ですね。これは音読してみると分かるのですが、一度耳にすると非常に記憶に残りやすいのです。アメリカは日本以上に国内での学力差が大きいので、多くの人に支持され、投票してもらうためには、シンプルで分かりやすい英語を使う必要があるため、こういったキャッチコピーにとてもこだわるのです。これは日本の選挙とは比較にならないほど、いかにシンプルにするか練りに練られています。

では、シンプルなこのキャッチコピーを、あえて難しめの英語で言い直すと、どうなるでしょう?

I will make America the greatest country in the world!

(私は、アメリカを世界で最も偉大な国にする)

などとなります。これは英語的には間違いはありませんが、とてもじゃないですが一度聞いただけでは覚えられそうにありませんね。おそらく、トランプ大統領がこのキャッチコピーを使っていれば、大統領選に勝つことはできなかったでしょう。

大統領で言えば、今年で任期満了となったオバマ大統領の退任演説も話題になりました。彼は“Yes, we can.”というキャッチコピーで、大統領選を闘い勝利しました。ここにも、やはりシンプルな英語が使われています。たった3語なので、英語ができてもできなくても理解できます。

そんなオバマ大統領の退任スピーチがYouTubeで観られますので、最初の3分だけでもご覧ください。英語が苦手な人でも理解しやすい、ゆっくりでシンプルな英語でスピーチをしています。https://www.youtube.com/watch?v=udrKnXueTW0


トランプとピコ太郎に学ぶシンプル英語の鉄則3



スティーブ・ジョブズもシンプルさを重視していた


シンプルさを追求したことで有名なのが、アップルコンピュータ社の創業者であるスティーブ・ジョブズがいます。彼の名言の1つに、こういったものがあります。

Simple can be harder than complex. You have to work hard to get your thinking clean to make it simple. But it's worth it in the end because once you get there, you can move mountains.

シンプルであることは、複雑であることよりもむずかしいときがある。物事をシンプルにするためには、懸命に努力して思考を整理しなければならないからだ。だが、それだけの価値はある。なぜなら、ひとたびそこに到達できれば、山をも動かせるからだ。

スティーブ・ジョブズのプレゼンテーションが世界を動かしたのも、彼の話す内容が極めてシンプルだったからです。洗練されるとシンプルになる、これはビジネスの場でも共感することが多いんじゃないでしょうか。考え抜かれていない言葉ほど、長くて分かりにくかったりするものです。


シンプルな英語を話すための3つの要素


では、シンプルな英語を話すためには、どういった点に気を付けるべきなのでしょうか?大きく3つの要素で説明できます。

1. 簡単な言葉であること

日本語でも英語でもそうですが、同じ意味であるならば、できるだけ簡単な言葉で説明できる方が優れています。

【例】

I have a pen.(私はペンを持っている)

Hillary for America.(ヒラリーはアメリカのために)

※ヒラリーの公式選挙サイトのスローガン

2.短いこと

人の脳が一度に記憶できる量は限られており、3~5語以内であれば、すんなり理解しやすいそうです。なので、長くなりそうな説明は、短くできないか? を考えるのがシンプルな英語を話すために重要です。

【例】



great country → great

President of United States of America → US president


3.記憶しやすいこと


トランプ大統領とピコ太郎「おバカな英語」の破壊力© PRESIDENT Online トランプ大統領とピコ太郎「おバカな英語」の破壊力
韻を踏んでいたり、リズムがあるもの。そして話す内容がストーリーになっていると、人の記憶にとても残りやすくなります。日本でも5・7・5のリズムで読まれる俳句や、韻を踏む、というのもこれに該当します。

Make America Great Again.(AmericaとAgainがAで始まり語感が良くなっている)

Yes, we can.(選挙でよく使われたchangeができる、というストーリーになっている)

英語を話す、というとつい難しいことを話すというイメージを持つ人も多いでしょう。しかし、世界の一流と言われる人ほど、意外なほどシンプルな英語を使っているものです。今年になって英語を勉強しようとしている人は、いかにシンプルな英語で伝えられるか? にフォーカスしてみると、実りのある学びになるでしょう。

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大河ドラマ「直虎」は“時代考証”泣かせ…担当の小和田哲男氏に裏話を聞いてみた!

2017年01月21日 02時07分30秒 | 日記





























大河ドラマ「直虎」は“時代考証”泣かせ…担当の小和田哲男氏に裏話を聞いてみた!





 1月8日にスタートしたNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、時代考証の担当者泣かせであるらしい。理由は、女優の柴咲コウ演じる井伊直虎に関する史料が少ないから。直虎は戦国時代に遠江国(静岡県西部)井伊谷(いいのや)の領主だったが、本人に関する史料は8点しか残っていない。同時代を扱った大河ドラマの時代考証で知られ、「直虎」も担当する静岡大名誉教授の小和田哲男氏に苦心のほどを聞いてみた。

 大河ドラマの時代考証とは、どんなタイミングで、何をチェックするのか? 当然、脚本家は担当者の著書などを含め、さまざまな文献を読み込んでシナリオを書く。小和田氏によると、上がってきたシナリオを読み、セリフやト書きに誤りがないかや、描かれている状況に史実との矛盾がないかなどを検証するのが主な役割だという。

 例えば「直虎」の初回では当初、井伊家重臣・井伊直満のセリフで武田氏に関するくだりがあった。小和田氏が「この時期に武田軍はまだ、井伊家の領地がある遠江国には侵攻していない」と指摘したところ、「武田氏」は「北条氏」に改められた。

 史料が少なく、小和田氏が判断に苦しむケースも少なくないため、「直虎」では戦国史研究者の大石泰史氏との二人体制で時代考証に当たっている。

「今回は(担当者が)1人では心配だった。大石先生は今川氏の研究業績がある同じ分野の後輩。別々にシナリオを読んで疑問を出し合う。一つのシーンでいろんな考え方ができることも少なくない」と小和田氏。すっと読める回もあれば、疑問点が次々と現れ、2人で論議を重ねる回もある。小和田氏は、大河ドラマを制作するうえで史料が少ない点について「マイナス要因ばかりではない」と強調する。史料だけでなく、原作もない「直虎」は脚本家の腕の見せどころが随所にあり、登場人物や事象に対する脚本家の解釈に感心させられることが多いそうだ。

 直虎の生涯でポイントとなるのは婚約者だった亀之丞(井伊直親)が行方不明になった際になぜ出家したか、さらには亀之丞が戻ってきたタイミングで還俗し、結婚できる可能性もあったのに、なぜしなかったかという点である。ドラマでも二つの決断を巡る描写がストーリーのヤマ場となろう。小和田氏はこれらが描かれた回をすでに読み終えている。

「大きな決断を下した直虎の心境について書かれた史料はないが、脚本家の森下佳子氏は主人公の心の葛藤を視聴者が納得できるように書いている」(小和田氏)


井伊直虎を演じる柴咲コウ(c)朝日新聞社© dot. 井伊直虎を演じる柴咲コウ(c)朝日新聞社
 地方の「おんな城主」を主人公に選んだ時点で、史料が少ないことは覚悟せざるを得なかった。著名な武将でなく、男性でもない視点を大河ドラマに求めたということであり、新しい目線で戦国時代を見る点で「直虎」を主人公に据えたことは価値がある。

 ところで、史料がたくさんあれば時代考証担当者は楽なのか? そうとも言えないらしい。小和田氏が過去に手掛けた作品について振り返っていただいた。

「確かに、史料が多い登場人物は楽だ。しかし、原作があると、誤りを指摘してもストーリーに影響がある場合は大きく変えにくい。『天地人』(2009年)では原作者の火坂雅志氏と意見交換しながらシナリオの修正を進めた」(小和田氏)

 史料が多い人物は何度も大河ドラマに登場し、さまざまな人物像が表現されている。徳川家康などがそう。史料が多ければ、イメージする人物像に合わせて、いいエピソード、悪いエピソードを集め、ドラマに生かすことができる。石田三成なども過去の作品では義理堅い人物にも、悪人としても描かれている。

「最も大変なのは、原作者がすでに死去している場合。『功名が辻』(06年)は原作者の司馬遼太郎氏が亡くなっていたため、変更はなかなか認められなかった。史料が豊富で、原作がない場合は最もやりやすい。『軍師官兵衛』(14年)は理想的だった」(小和田氏)

 かつて大河ドラマの多くは時代小説を原作としていたが、「龍馬伝」(10年)以降は原作者のいないオリジナル作品が続いている。小和田氏の話を聞き、「原作者、脚本家、時代考証担当者の意見がかみ合わず、混乱することを避け、原作のない題材を選んでいるのではないか?」と推測するが、どうだろう。ちなみに18年の大河ドラマは久々に原作がある「西郷(せご)どん」に決定している。原作者の林真理子氏と脚本家の中園ミホ氏とは共著もあり、旧知の仲なので心配はなさそうだ。

 ドラマを面白くしようとアイデアを絞り出す脚本家に敬意を表しながらも、史実に沿っているかどうかを見定めてきた小和田氏。時代考証という役割に使命感を持っているため、その目はおのずと厳しくなる。「大河ドラマを見て日本史が好きになったという方は少なくない。テレビの影響力は大きく、小中学生も多く見ている。明らかな嘘を放送してもらっては困る」との思いがある。

 長年にわたって大河ドラマに携わってきた小和田氏に、「今後、最も大河で描いてほしいと思う人物は?」と聞いてみた。「北条五代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)」とのこと。下剋上で戦国時代の幕開けを告げた北条早雲に始まる5人の生きざまに興味が尽きないらしい。「ちょっと地味かな?」と思わなくもないが、小和田氏のイチオシならば、見てみたい気がする。(ライター・若林朋子)

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主役・柴咲コウが出てこない! 大河ドラマ『直虎』子役による“学芸会”に視聴者の不満噴出

2017年01月18日 18時56分07秒 | 日記




























主役・柴咲コウが出てこない! 大河ドラマ『直虎』子役による“学芸会”に視聴者の不満噴出








© Cyzo 提供
 柴咲コウ主演のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』に開始早々、暗雲が立ち込めた。同ドラマの第2話が15日に放送され、視聴率は15.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)と伸び悩んだ。初回は16.9%で、今世紀では井上真央主演『花燃ゆ』(2015年)の16.7%に次いでワースト2位のスタート。その『花燃ゆ』は第2話で13.4%と急降下したが、『直虎』も同じような推移となった。初回19.9%から第2話で20.1%とアップした、昨年の堺雅人主演『真田丸』とは大違いで、先行きが思いやれる結果に……。

 敗因のひとつとして挙げられるのは、初回に続き、第2話でも、主人公・井伊直虎(おとわ)たちの幼少期が描かれており、主役である柴咲がストーリー・ラインにまったく登場せず、視聴者をヤキモキさせている点だろう。

 朝ドラでは定番の手法だが、たいていは1週目のみで、2週目からは本来の主役が本格的に登場する。『直虎』では、脚本家・森下佳子氏の「直虎の子ども時代は重要」との強いこだわりで、なんと第4話まで子役によるストーリーが続くというのだから驚きだ。視聴者としては、早く柴咲と、いいなずけの井伊直親(亀之丞)役・三浦春馬、幼なじみの小野政次(鶴丸)役・高橋一生との絡みを見たいはずなのに、1カ月も待たなければならないのだ。

 ネット上での視聴者の反応は、「おとわ役の子(新井美羽)はかわいいけど、セリフと動きがお遊戯レベル」「子役の演技がわざとらしくて見ていられない」「子役の出番が多すぎ。あまりにもオーバーな演技で、学芸会を見てるようで笑ってしまう」「子どもの鬼ごっこを見させられている感じ」といった調子で、“学芸会”状態に不満が噴出しているようだ。

「子役による演技が第4話まで続くのは大河では異例で、NHKの本意ではありません。ただ、脚本家の強い意向とあって、どうにもならないのです。森下氏は杏主演の朝ドラ『ごちそうさん』を大ヒットに導いた功労者。他局でも『JIN-仁-』『とんび』『天皇の料理番』(すべて(TBS系))などを手掛けたヒットメーカーですから、NHKとしては森下氏に任せた以上、意見するわけにはいかないようです」(テレビ制作関係者)

 柴咲、三浦、高橋以外のキャストでは、杉本哲太、財前直見、小林薫、宇梶剛士、吹越満、ムロツヨシといった演技派がそろっているが、そのメンバーで高視聴率が取れるほど甘くはない。

 子役による演技が第4話まで続くとなると、果たして、そこまで視聴者が待ってくれるのかどうか、甚だ疑問だ。同時間帯では、常時20%前後を弾き出す『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)という強力な裏番組もあるだけに、主役の柴咲が登場する前の段階で、視聴者が脱落する可能性も高そう。NHKとしては、第5話以降、低空飛行を続けた『花燃ゆ』の二の舞いだけは避けたいところだろうが……。

(文=田中七男)

※画像はNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』 - NHKオンライン

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【いじめ自殺は負け】虐められても自殺しないで!いじめっ子が万歳するだけ!生き抜け!!

2017年01月18日 18時36分10秒 | 日記























学校のいじめが過去最多だという。


大事なのは声をあげること。味方がひとりもいない訳ではない。


後はいじめを苦に自殺しない事。いじめっこが万歳するだけだから。

辛かったら学校なんか休んだっていいんだ。


自殺しないで社会的に成功して見返してやれ!


僕も虐められた!苦悩はわかる。死んじゃダメだ!


臥竜  2017/01/18 18:35

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小説 打倒徳川家康!風と共に殉死するとも 石田三成【真田丸】石田三成ファンへのギフト!4

2017年01月15日 05時32分08秒 | 日記





























話を過去に戻す。
  行列が、北からきた。
 武者や女郎、童子などと御輿などである。
 それが左吉の興味をそそった。
 ……御輿の御簾が少しあき、そのものは小さい人物だった。眉をそり、白塗りしていて、あきらかに平氏の「マロ」である。貴族といえばいいのか。
 左吉は「みたい」と思った。
 もっとその人物をみてみたいと思って近付いた。
 すると側近の者や護衛がガキの左吉をとめた。とたんに左吉は手に噛み付いたという。「なにをする! この餓鬼め!」
 ひっぱたかれた。
 餓鬼め! と武者は左吉を手毬のように投げて蹴った。しかし、左吉は逃げない。
 さらにリンチを加えようとすると、年老いた女房殿が                          
「止しや!」ととめなかったら、左吉は殺されていたかも知れない。
 左吉はやっと逃げた。
「あれは誰じゃ?」
「知らぬわ」
 両親はこのことを知ってから「朝廷だから立ち向かったのか……?」と疑問をもった。寺にいれたことは正しかったのだろうか? 自問した。
 答えは出なかった。

  永禄三年(1560年)、石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれた。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を名字とした土豪であった。(幼い頃から観音寺で学習した)
 負けん気は強い。
  七歳となった左吉(のちの三成)は近江の観音寺に預けられた。
 左吉を馬で連れてきた母は、いろめ笠をとって「これからは母は亡いものと思いなしゃれ」といい揃いの笛の一体を渡して、後ろ髪ひかれる思いで去った。「母上!」
 左吉は寺での生活も闇夜も怖くなり、寺から逃げ出した。
 しかし、坊主につかまった。
「離せ! われは京に戻りたい!」
「そなたは京に戻ってはならない身元じゃ! 京は胸の中にある」
「……胸?」
「そう。そなたの胸の中に、森羅万象……すべてある。あれをみよ! 毘沙門天ぞ! われらの守護神ぞ」
 左吉は巨大な毘沙門天の像を眺めた。
 左吉は剃髪せず、坊主にもならなかった。
 そこで十五歳までを暮らすことになる。
 左吉はときどき寺を抜け出して京にいったという。
 観音寺では毎日、早足や飛び越えの稽古にはげんだ。
 剣術の腕も腕も磨いた。毎日、滝にうたれて精進した。散々、滝に叩き落とされる。     
 英雄には此伏のときがかならずあるものだ。
 天狗に兵法を教わったというのはもちろんフィクションである。本当に教えたのは中年の僧侶で、今川の残党の老師である。
 老師には”天狗”の渾名がついていた。奇妙な服装をして、天狗の面をかぶり、木刀で左吉(のちの三成)を何度もコテンパンにやっつける。
「お前はそれでも強いと思うておるのか?!」
「…われは強い!」
「お前は弱い! 弱い! 今日の復習! こいガキ!」
「やああ~っ!」
 左吉がかかっていったが、殴られて滝にどぼんと落とされた。「お前は弱い! 強くなるのだ! 左吉! もっとかかってこんか!」
 いつも酒を呑み、顔を赤くしている。鼻もひとより高い……白髪頭で髭もある。
”赤い酒臭い天狗さまじゃ”
 村人たちは笑った。
 左吉は僧侶に尊敬の念をもっていたので、”天狗さま”のことを『師匠』と呼んでいた。天狗さまの剣はすざまじく、飛ぶのも、走るのも早い。
「われも師匠のようになりとうござりまする!」
 左吉は眉目なハンサムな少年となっていた。走りながら木刀で木々を打ちつける。
 色白で、目がキリリとしていて、面長な顔で、風格さえある。               
 師匠は僧侶だけあって袈裟をきて、念仏もとなえる。天狗の面をとった。
 左吉(三成)は師と泥だらけになりながらも、剣の稽古をする。
「……われは何を求めているのであろう……これが宿命か…」
 あるとき、師匠は両手をパチンと叩いた。
「左吉! 今どちらの手が鳴った?!」
 問うた。
 左吉に答えはなかった。
 只、唖然とした。
「敵を知り、己を知らば百戦危うからずじゃ」師匠は孫子の兵法や三十六兵法を教え、少年の頭と体を鍛えた。少年の吸収は早い。
 しだいに師匠が感嘆することも多くなっていった。
「われは百姓の子なのでしょう?」
 ある時、真実を知った左吉が師匠に尋ねた。
 師匠は、
「やっとわかったか? 今までは武士の子供だと思っていたのであろう?」
「はっ」
「武士の子だとでも思っておったか?」
「……いえ。それは…」左吉は痛いところをつかれて黙り込んだ。
「ならばどうする?」
「われは………信長さまや信玄公のようなものに支えたいと思いまする!」
 左吉は志をもった。
「それでは武士と戦になるであろう?」
「かまいませぬ」左吉は強くいった。「それが義の戦であれば、われは戦うのみでありまする!」
「お前の申す義とは何ぞ?」
「天下国家のための国つくりでござりまする。……いまの朝廷の世は不満だらけです。皆、飢えておるのに一部の貴族や武士一族だけが満腹な思いをしていまする」
「ほう。で?」
「この国を回天させまする!」
 左吉は息巻いた。
「おぬしひとりでできるものか?」
「いえ、実力のある武将につかえて……力を合わせておれば、全国の武士が立ち上がりまする!」
「そんなに甘くいかんぞ! 今や戦国の世じゃ。ちまたでは武士にあらずんばひとにあらず……ともいう」
「それを変えたいのでごさりまする!大一大万大吉でござる」
「そうかそうか」
 師匠は満足そうに笑った。                     
 ……こいつは法螺ばかり吹くやつではない。天才かもしれぬ。軍事の天才じゃ!


  時代は混沌として動くようで、動かない。
 いや、動かすべきだ。
 とおもう男が、地方にいた。場所は関東でも奥州でもなく、険しい山のなかの近江の観音寺にいた。
 天皇が、
「あの地方にはどんな連中が住んでおるのか?」と尋ねたことがある。
「ウイススキ党というものがいるということでごさる」
「ウイススキ……? なんじゃそれは」
 天皇は笑った。
 ウイススキ党などというのは人間なのか。宇井・鈴木党というところだが、なんという馬鹿な名前の人間たちだ。この連中が『天狗』の由来である。
 その族の伝説も怪しげで、熊野権現が摩伽陀(古代、中インドにあった国)からこの地へ飛来したとも、秦の始皇の臣徐福が蓬来島に上陸しようとして難破した者たちの子孫ともいわれる。どちらにしても怪しい家柄だ。
「私は熊野で臥竜をみました」
「……臥竜?」
 秀吉は目が点になった。「それは孔明のようなものか?」
「さようにござる。今、観音寺にいまする」
「……童子じゃと? そんなものがこの国を変えられるのか?」
「ときがくれば……」
 家臣は笑った。


 三成は十四~十五歳から秀吉に支えた。
 その出会いは天正二年……
 秀吉は鷹狩りの帰りに寺により喉が乾いたので、
「誰ぞ、茶をもってまいれ」といった。
 すると左吉が大きな茶碗に七、八分、ぬるく立てて差し上げた。
「うまい。もういっぱいくれぇぎゃ」秀吉はいった。
 左吉は今度は少し熱くして茶碗に半分ほど差し出した。
「うむ、もう一服じゃ」
 秀吉が所望した。
 すると左吉は小さな茶碗に、少し熱いお茶を出した。
 秀吉は大いに感心して、
「小僧、名は何という?」
「左吉です。石田左吉にござりまする!」
 平伏した。
「そうきゃ? 石田左吉! このわしの家来となれ!」
「はっ!」
 石田左吉(三成)はこうして秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の戦いで一番槍の手柄をあげている。秀吉はこうして大切な頭脳をその手にして天下をとれた。三成がいてこそである。 羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城(長浜市)主になった天正二年(1574年)頃から秀吉の小姓として三成(当時・佐吉)は仕えた(天正五年(1577年)の説も)
 秀吉の中国征伐に従軍した。本能寺(1582年)で秀吉が天下人として台頭してくると、三成も秀吉の側近として次第に台頭していく……こんなエピソードがある。佐吉は秀吉に仕えたが、秀吉の妻・寧々が佐吉に「腹がすいているのか?はれ、握り飯でも食べなさい」と優しい言葉を人間として始めて頂いた、と涙をながしたという。秀吉は後年、そういう話を他人にしたがったという。あの冷血漢の三成も「人間らしい所」があるという。
いわゆる三献茶の話は後世の作り話の可能性が強いです。
少なくともそんなエピソードは当時の史料に出てこない。後世の編纂物に散見されるのみです。また太谷吉継の母親は淀殿か寧々に仕えた東殿であり、それは可能性が高いです。またその東殿に伴って子の吉継が出世したというのが自然だそうです。

吉継や三成が歴史上にでてくるのが秀吉の播磨攻略(軍師黒田官兵衛の斡旋)の頃です。
天正五年(一五七七年)くらいでしょうか。同じく秀吉の馬廻りとして福島市松(正則)、加藤虎之助(清正)も出てきます。
ですが、石田三成が横柄で冷酷な人物というイメージは正しくありません。徳川時代の創作であるそうです。「へいくわい」(横柄な)というイメージはその時代には歴史上書状としてもありませんし、また(三成からの手紙が)残っていないのも徳川の世で三成と親しかったら、最悪の場合、お取潰しの危険があるからです。おそらく三成からの手紙は捨てるか焼いたか。秀吉の官僚として指示を忠実に実行する立場の三成が、私情をはさまず、官僚的な冷めた対応で嫌われた可能性は高い。ですが、悪口や陰口とかそんな人物ではなりません。ほとんどの三成の冷酷イメージは徳川時代の創作であるそうです。

話を戻す。
つい前にNHKの大河ドラマ化されるまで「前田利家(まえだ・としいえ)」は日陰者であった。
 秀吉や信長や家康となると「死ぬほど」主人公になっている。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。
 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。
 利家は律義者で、策略はうまくなかったが、うそのつけない正直者で、信長に可愛がられた。秀吉の才能を見抜き、真の友として、一生支えたのもまた利家の眼力だった。
利家が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
 利家の恩人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。
  信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。
質実剛健の家風で知られる上杉家の中で、前田慶次郎は明らかに浮いていた。
紫と白の肩身替りの色鮮やかな小袖に、墨染めの革袴、首には十字架のついた金鎖をじゃらじゃらと下げている。
片手の中指には髑髏の金の指輪を嵌めて、近頃京で流行りのキセルをふかしていた。髪を南蛮人のように赤茶色に染めている。
直江山城守兼続を頼って加賀前田藩から会津の上杉家へきて一千石の家禄を与えられた。衣装や行動が突飛なだけでなく、慶次郎は歌道・華道・茶道・囲碁・将棋・能・笛・太鼓・琵琶・にも通じ、風流人であった。
 前田家を離れ、禄もなく、放浪の暮らしが長く、世話してくれる女房、子供がいないという慶次郎だが「嘘」である。加賀に妻と三人の娘がいる。
 上杉家には最上級士族の侍組の他に、馬廻組(先代謙信以来の直臣団)、五一騎組(上杉景勝の直臣団)、与板組(直江山城守兼続の直臣団)がある。
 あるとき慶次郎は林泉寺(上杉家の菩提寺)の和尚を殴りつけた。和尚は主君・上杉景勝の庇護の元、やや言い過ぎの横柄な態度をとったからだ。だが、家臣団は「和尚を殴るとは何事か!」と青ざめる。が、慶次郎は「主君・上杉景勝公も直江山城守兼続公もそんなことで腹をたてるケツの穴の小さい男ではないわい!」と喝破した。
 上杉家は酒を愛した先代謙信公以来、人との交わりには酒が欠かせない。酒を酌み交わし、はじめて仲間として認める気風である。慶次郎も酒豪であったという。慶次郎には加賀に置き去りにした妻子がいた。前田利家の次兄・安勝の娘を娶っており、三女の娘(長女・坂、次女・華、三女・佐乃)がおるが慶次郎出奔後、残された妻子は加賀金沢の地でひっそり暮らしていた。慶次郎は妻子のことをきかれる度に「忘れた。出奔後は、わしは生涯孤独だ」というばかりだ。
 戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが、技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大阪城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。
 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。
 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、そして前田利家、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、少年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。
 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。
 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。
  信長の生きた時代は下剋上の時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。
 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。
 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
 そして、こんな時代に、秀吉は生まれた。
石田 三成

時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年)
死没 慶長5年10月1日(1600年11月6日)
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
戒名 江東院正軸因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院、高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内
官位 従五位下・治部少輔
主君 織田信長→豊臣秀吉→秀頼
氏族 石田氏
父母 父:石田正継、母:岩田氏(瑞岳院)
兄弟 正澄、三成、女(福原長堯室)
妻 正室:皎月院(宇多頼忠の娘)
子 重家、重成、長女(山田勝重室)、
二女(岡重政室)、荘厳院(三女。津軽信枚室)
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。
関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られている。
秀吉の子飼い[編集]
石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から、父・兄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと『一柳家記』にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下[編集]
石田三成の書状
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。 天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(異説あり)。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。
また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州征伐に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の1つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである。こうした秀吉の軍事機能を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。
九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
文禄元年(1592年)の文禄の役では渡海し、増田長盛や大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件、最終的には秀次は秀吉に切腹を命じられた)。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になる(当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた)。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。
文禄4年(1595年)3月、蒲生氏郷が死亡したが、一部資料にはこれを三成の毒殺とするものがある。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を石田三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた。 しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。
秀吉死後[編集]
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年(1598年)8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
しかし、閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。
なおこの事件時、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた(家康は豊臣家を内部分裂させるため、あえて三成を匿った)」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。
利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども行っている。
関ヶ原[編集]
慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る。その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。
7月12日、兄・正澄を奉行として近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。
7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
8月からは伊勢方面の平定に務めたが家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、当初の予定は狂い、また思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取ったため、14日夕刻、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。 9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
辞世の句[編集]
• 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
 
話を戻す。
「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
最初の御屋形さまである豊臣秀吉(猿)の軍師でもある石田三成は豊臣家の家内の仕事につくことになる。とはいっても政(まつりごと・政治)にあらず。殿様やその女房さまらの世話や江戸藩邸の“世子(次の太閤の嫡男・秀頼)”らの教育係である。
三成は立派な着物を着せてもらい、藩の大奥のようなところでもまれていく。当然、人間関係にも苦労したことだろう。何せ“冷ややかな冷酷官僚”、である。
だが、三成は気丈に振る舞った。豊臣家の二代目は豊臣秀頼(ひでより)で正室は徳川家康の孫娘・千姫さまといった。三成は幼い世子の教育にも力をいれたという。
「さあ、秀頼君。まずは大学の本からはじめまするよ。次に論語、儒教を学びましょう」
「……藩主は民の父・母。天下は天下の天下なり」
「よろしい。では、次の行を」
三成は自らの子供にはあまり恵まれなかったが、幼い世子の教育や養育で、癒された気分になったことだろう。母上の死を受け止められるようになるにはまだまだ時間がかかった。だが、時間が解決してくれそうだった。三成はこうして笑顔をとりもどしていく。


豊臣政権にはおおきくわけて三つの柱がありました。
ひとつは黒田官兵衛のように合戦で策を授ける「合戦・軍師のプロ」、それから清正らのような武闘派「武門の人」、最期が三成や吉継のような「奉行衆」(いわゆる官僚)。計算や兵站・経済・行政機関・政治の運用資金…近江は商業地帯ですから計算高い人物が多くいました。三成も吉継もそんなひとりだったそうです。
 三成も吉継も秀吉からおおくのことを学びました。
味方の犠牲を最小限に水攻め兵糧攻めなど頭で勝つ戦略…兵糧攻めならば、攻める側の犠牲や負担は最小限である。兵糧攻め・水攻め・調略……そういう頭のいいやり方で戦をしたので豊臣秀吉は短期間で天下人になれたのでした。
毛利攻めからの「中国大返し」、対柴田勝家の賤ヶ岳合戦や「美濃大返し」など秀吉だって大量殺戮はしたが、頭のいいやりかたであるため秀吉は天下が取れたのだ。
そこに三成や吉継のような「スーパー官僚」の存在も忘れてはならない。



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【「殺すぞ」?福〇清〇?】藤井隆「殺すぞ」ツイートに神対応 ネットで称賛の声

2017年01月12日 19時25分19秒 | 日記

























藤井隆「殺すぞ」ツイートに神対応 ネットで称賛の声






© シネマトゥデイ 提供
 俳優としても活躍するお笑い芸人の藤井隆が11日、Twitterで「殺すぞ」と脅迫されたことを公式アカウントで明かし、その対応に称賛の声が集まっている。

 この日、藤井は「公式とさせて頂いてる場で余計な事をつぶやくつもりも無いので最初で最後にします」と切り出すと、「殺すぞ なんて一文を親や家族がそばにいる時に目にする悔しさ。スルーが良しだそうですが、そんな品のない言葉に私は慣れるつもりもないです」と毅然と対応。「充分こちらは嫌な気分になっておりますので大成功なさってるんですね」と皮肉を込めた。

 さらに「本来、楽しいはずのものを楽しめなくなるなんて私の本意では無いので。下品な言葉に心を支配される必要も無いので。ツイッターが嫌いにならないように、努めて軽くあしらいます」とし、最後は「今夜は大変失礼しました」とファンを気遣った。

 誰かの心無い言葉を見かけることも少なくないこの時代。ファンからは「藤井さんの言葉選びにいつも感心させられております」「この伝え方。藤井さんらしくてすごく好きです」「藤井さんかっこいい!これみて好きになりました!」など反響が寄せられている。(編集部・中山雄一朗)

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高畑裕太の現在の姿に戦慄! まるで仙人のように、髪もヒゲも伸びっぱなしで…

2017年01月12日 11時11分40秒 | 日記





























高畑裕太の現在の姿に戦慄! まるで仙人のように、髪もヒゲも伸びっぱなしで…





© TOCANA 提供
 昨年8月に強姦致傷容疑で逮捕、その後釈放された元俳優・高畑裕太と母の高畑淳子にとって、2017年は正念場となりそうだ。一連の事件をめぐっては、裕太と被害者の従業員女性との間で食い違いが生じており、暴行部分の同意の有無は現在も定かではないが、裕太は芸能人として再起不能レベルの痛手を負った。母親の淳子も親バカな余り、事件に介入。示談交渉のために敏腕弁護士を雇い、裕太の釈放の際には「それでも私はやってない」と言わんばかりの書面を発表し、物議を醸した。「あの書面が被害者サイドの感情を逆なでした。後日、被害者女性が週刊誌のインタビューに答えたのも、高畑さんにとっては誤算だった」とはワイドショースタッフ。結果、淳子も深刻なイメージダウンを招き、出演していたCMは降板。舞台関係者は「今後もCM起用は当分見送られるでしょう。女優としても清廉潔白な役どころは無理」という。

 事件後、裕太は埼玉県内の病院にしばらく入院していたが、昨年末に退院し、現在は母親と都内の自宅で同居している。一部では海外留学の話も流れているが、事情を知る関係者によると「彼が海外で生活できるわけがない。自宅に戻ったが、世間の目を気にして引きこもっているようだ。いまは姉が主に面倒を見ている」という。週刊誌にとって高畑親子の動向はホットトピックであり、年末年始に自宅周辺を張り込む社が相次いだが「母親の出入りは確認できても、裕太は1度も外に出ていない。廃人のような生活を送っているという情報もある」(週刊誌記者)という。

 近隣住民の聞き込みからは「髪はボサボサ、ひげも伸びっぱなしで仙人のような裕太を見た」という目撃談も飛び出したそうだが…。

「事件を引きずり、今も精神的に不安定な裕太さんをどう立ち直らせるかが、高畑ファミリーの今年のテーマでしょう。淳子さんは事件を機に、自分の目の届くところに裕太さんを置いておきたいようで、自身が役員を務める劇団『青年座』に入れようと準備を進めているそうです」(女性誌記者)。

 ドラマやバラエティー番組への出演は難しいが、制限の緩い舞台ならOK。むしろ、事件を経て役者として深みを増したのなら“怪俳優”として活躍することも可能だろう。裕太が堂々とメディアの前に現れるのを期待したい――。

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