長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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維新の風と 龍馬伝「薩長同盟・大政奉還・維新回天の土佐の英雄」ブログ連載小説3

2013年12月26日 06時53分33秒 | 日記
         3 脱藩と寺田屋事件




 上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
 高杉は思考が明瞭である。
 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
 即座に手にいれた。
 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
 高杉の二十三歳の若さがみえる。
 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
 ……壤夷以外になにがあるというのだ!
 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。

  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
 藩命は冷ややかなものだった。
 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
 晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
 といって晋作の話しをとめた。
「は?」
 晋作は唖然とする。
 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
 ……長州は口舌だが、実がない!
 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」
 といった。
 そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
 晋作は江戸についた。
 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。
 ……壤夷で富国強兵をすべし!
 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
 ……この国を回天(革命)させるのだ!
 晋作は血気盛んだった。
 が、藩世子は頷いただけであった。
貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
 そういっただけだ。
 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
 たしかにその通りだった。
 晋作は早すぎた天才であった。
 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
 ……わかってない!
 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
 晋作はよく女を抱いた。
 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
 晋作は走った。
 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
 ……ちくしょう!
 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。


  龍馬は一八六一年に「土佐勤王党」に参加したが、なんだか馬鹿らしくなっていた。「土佐だけで日本が動く訳じゃなかが。馬鹿らしいきに」
 龍馬は土佐の田舎で、くすぶっていた。
 ……わしは大きなことを成したいぜよ!
 龍馬は次第に「脱藩」を考えるようになっていた。
 ……藩の家来のままじゃ回天(革命)は成らぬがぜよ。
 兄・権平の娘(つまり姪)春猪はいつも「叔父さま! 叔父さま!」と甘えてくる。利発な可愛い顔立ちの娘である。
 春猪には計略があった。龍馬叔父さんと知り合いの娘とを交際させる…という計である。その計は九分まで成功している。
 げんに春猪は、ともかくも龍馬叔父さんを五台山山麓の桃ノ木茶屋までおびきよせたではないか。龍馬が遠くから歩いてくる姿を確認してから、
「ほら!」
 と、春猪は「きたわよ」とお美以にいった。
 お美以は下を向いて恥かしがった。
「お美以さん、だまっていてはだめよ。ちゃんと叔父さんに好きだっていわなきゃ」
 春猪はにこりといった。
「ええ」
 お美以は囁くようにいった。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
 九つのとき、お美以は龍馬に連れられて梅見にいっている。あのころ、龍馬は江戸から一度目にかえってきたときである。龍馬は、お美以の手をひいたり、抱き抱えたりした。しかし、なにしろ十一歳も年上である。九つのお美以としては龍馬は大人である。
 しかし、女の子は九つでもおませである。龍馬を好きになった。
 まあ、これは「はしか」みたいなものである。年頃の女の子は年上の男性を好きになるものだ。まだ子供であるお美以は母に、
「わたくしは、龍馬おじさまのお嫁様になります」といってあわてさせた。
 今、お美以は十代の美少女である。
 しかし、龍馬は彼女を子供扱いした。「お美以ちゃんはいつまでも子供の頃のままじゃきにな」といった。
「そんな……」お美以は泣きそうな顔をした。
「龍馬おじさまは、お美以さんに御無礼ではありませんか?!」
 それを知って春猪は叔父龍馬に食ってかかった。
 龍馬は「子供は子供じゃきに」と笑ったままだ。
 そののち龍馬は源おんちゃんにめずらしく怖い顔をして、
「春猪に、人間の娘をおもちゃにしちゅうなといってくれ」といった。
「おもちゃに?」
「いえばわかるきに。わしは忙しいので出掛ける」
 龍馬は出掛けた。
 春猪は複雑な気持ちでもあった。じつは春猪は龍馬叔父に好意をもっていたのである。 ……初恋……? そうかも知れない。私は龍馬おじさんのお嫁さんになりたい!
 しかし、当の龍馬にはそんなことは知らない。


『脱藩の準備』を龍馬はしはじめた。
 とうぜんながら脱藩には金がいる。刀もほしい。
 龍馬の家は土佐きっての裕福な武家だけに、名刀がしまってある。だが、兄の権平が脱藩を警戒して、刀箪笥に錠をして刀を取り出せなくしていた。
「どげんするきにか…」
 龍馬は才谷屋を訪ねた。才谷屋は坂本家の分家である。坂本家のすぐ裏にあって、こちらも商業を営んでいる。北門が坂本家、南門が才谷屋の店口となっていた。
「伯父さんはいるきにか?」          
 龍馬は暖簾をくぐり、中にはいった。
「ああ、坂本のぼんさま」
 番頭は用心深くいった。というのも、権平に、”龍馬が金か刀の無心に来るかもしれぬが、あれのいうことに応じてはならんぞ”と釘をさされていたからだ。
「あるじはただいま留守でごります」
「伯母さんは?」
「いらっしゃいますが、何やら気分が悪いとおやすみでございます」    
「なら、刀蔵の鍵をもってきてくれんがか」
「……それは」
「本家のわしが頼むのだぞ。わしは奥で酒飲んじゅるきに、持ってきとうせ」
 どんどん入りこむ。
 やがて夕方になった。
「おや、めずらしい。龍馬じゃないかが」
 お市おば(龍馬の祖父の従弟の妻)がいった。その姪の久万、孫の菊恵をつれて朝から遊びにきていたが、龍馬をみつけると笑顔になった。
 しかし、お市おばも龍馬の算段を知っている。……脱藩はなりませぬ!
 散々説教するが、龍馬は(何を寝言ば、ゆうちゅるがか)と思いながら頷いているだけだ。やがて伯父の八郎兵衛が帰ってきた。
「伯父さん。刀ば見せとうせ」
「あっ、龍馬がか」
 龍馬をみただけで顔色を変えた。本家からの情報をすでに掴んでいたからだ。
「刀は駄目だ。それより、家の娘を嫁にしちゅうがかか?」
「嫁などいらん。それより刀みせとうせ」
「これという、刀はないきに」
 嘘だった。豪商だけあって名のある刀が蔵にたんとある。
 しかし、本家との約束で、龍馬には刀を渡さなかった。    
 ……鈍刀だけもって発つか
 龍馬が帰宅すると、兄の権平が「龍馬、才谷屋に何しにいったがぜよ?」といった。
「ほんの、遊びじゃ」
 こんなに警戒されては策も尽きたか……龍馬は部屋で寝転がり一刻ばかり眠った。
 手蝋燭をもってくる人物がいる。それを龍馬の部屋にいれ、行灯に火を移した。
「あぁ、なんだお栄姉さんか」龍馬はほっとした。
 坂本家には女が多い。
 一番上の姉が千鶴で、これは城下の郷士高松家に輿入れして二男一女の母である。三番目の姉が龍馬を育ててくれた乙女で、これも輿入れしている。
 二番目の姉がこのお栄であるが、このお栄は不幸なひとで郷士の柴田家に嫁いだが離縁されて坂本家に出戻ってきていた。
 ……坂本の出戻りさん。
 といえばこのお栄のことで、お栄は出戻りらしくせまい部屋で慎ましく生活していた。華奢な体で、乙女とくらべれば痩せていて、本当に姉妹なのか? と思いたくなる女性だ。「存じてますよ、龍馬。あなたの脱藩がどれだけ家族に迷惑をかけるかかわらないのですか?」
「そげんまでのんきじゃないき」
「脱藩したら二度とお国にもどってこれませんのよ」
「弱ったな」おとなしいお栄姉さんからこんな説教をうけるとは思ってなかった。
「じゃきに、わしは男じゃきに。野心をかなえるためには脱藩しかないんぜよ」
「野心って何?」
「回天ですき。日本をいま一度洗濯するんじゃき」
「……わかりました」
「ほな、姉さん勘弁してくださるのんか」
「勘弁します。それにあなたが欲しがっている陸奥守吉行もわたくしからの贈物としてさしあげます」
「え? なんきに姉さんが陸奥守吉行もっちゅう?」
 龍馬は半信半疑だった。……陸奥守吉行というのは名刀である。
「これはわたくしが離縁したとき、前の夫(柴田義芳)からもらったものです。坂本家のものでも才谷家のものでもありません。あたくしのものです」
 龍馬はお栄姉さんより名刀をもらった。
 これが、お栄の不幸となった。
 龍馬の脱藩後、藩丁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらったことが判明し、柴田義芳は激怒した。坂本家まできて、
「なぜそなたはわしの形身を龍馬にやったのじゃ?!」とお栄をせめた。
 お栄は、そのあと自殺している。
 天命としかいいようがない。天がひとりの姉を離縁とし刀を英雄に授け、そして自殺においこんだ。すべては日本の歴史を変えるために………

  土佐藩参政吉田東洋が、武市の勤王党の手で暗殺された。
 文久二年四月八日、夜、十時過ぎであったという。
 この日は、夕方から雨がふっていた。東洋は学識もあり、剣のうでもすごかった。が、開国派でもあった。そのため夜、大勢に狙われたのだ。
 神影流の剣で立ち向かったが、多勢に武勢、やがて斬りころされてしまう。
「吉田殿、国のために御成仏!」
 東洋は殺された。
  このころ、龍馬は高知城下にはいなかった。
 龍馬の兄の権平は呑気なもので「龍馬はどこいったんぜよ?」などという。武市一派の東洋暗殺にさきだつ十五日前の文久二年三月二十四日、闇にまぎれて脱藩してしまっていた。「いよいよ、龍馬は脱藩したのかのう?」
 もはや公然の秘密である。
 龍馬は神社にお参りしたあと、連れの山村惚之丞とともにふもとの農家にいった。
「龍馬あ、旅支度せい」
「いや、ひょうたんひとつで結構じゃ」
 ふところには金十両があり、ひょうたんには酒がはいっている。腰にはお栄からの陸奥守吉行がある。「よし! いくぜよ!」
 脱藩とは登山のことであるという。
 土佐の北には四国山脈がある。険しい山道、けもの道を駆けていかねば脱藩は成らぬ。山道には関所、人の目があり、みつかれば刑務所行きである。民家にもとまれない。役人に通報されるからである。寝ず、駆けどおしで、闇の中を駆けた。
 ………”武士がかわらなければ日本はかわらんぜよ”…
 ………”国をかえるには自分がかわらんなきゃならぬ”…
 龍馬は、寝ず、駆けどおしで、けもの道を、闇の中を、駆けた、駆けた。
 こうして、龍馬は脱藩したので、ある。


 いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、大久保一蔵(利道)にはそれは知らなかった。
 幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
 のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
  寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
 ほどなく、戦闘がはじまった。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
 志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。  ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
 吉之助(西郷隆盛)はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。
 龍馬は、京の町をあてもなく彷徨っていた。

   文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。
 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。
「さがれ! 無礼ものどもが!」
 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。
 これが『生麦事件』である。




米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説8

2013年12月25日 01時23分03秒 | 日記
        反発




  予想通り、国元からの反発はあった。
 しかし、その反発は治憲の予想外だった。
 なにせ改革どころかその案さえ伝えられてなかったのだ。…二年間も……。

 上杉治憲は千坂らが控える座敷に歩いてきて、上座に腰を降ろした。そして、すぐに、「千坂……江戸で頼んだ改革案を家臣たちに話したであろうな」と尋ねた。
「いいえ」千坂高敦は当然のようにいった。「伝えておりませぬ」
「……なんだと? ……江戸で頼んでから二年間…。まったく伝えてなかったと申すのか」「いかにも!」
「…いかにも?」治憲は動揺した。「では、なぜ伝えなかったのだ?」
「ははっ! なにせその改革案とやらは江戸にいる竹俣らの入れ知恵…そのようなものを藩士たちに伝える訳にはまいりません」
「入れ知恵などではない!」治憲はキッパリと言った。
「確かに、私は改革案を竹俣らに作らせた。……しかし、私が認めた以上、もう改革案は私からの案である」
 しかし、治憲の言葉も千坂には効かなかった。
 千坂は「しかし……江戸では御屋形さまが自ら改革案を告げられたとか……。一方で、国元の家臣たちには私が伝えるのでは……国元を軽くみているともとられかねません。そのようなため、伝えませんでした」とひようひょうといった。
「……直接家臣たちに伝えよ、と私に申しているのか…」
「いえいえ。そういうことのまえに、まず我ら重役たちにご相談なされてからがよろしいかと…」
「いや」治憲は静かに首を横に振った。そして続けて「重役たちには相談しない。したらまた同じことだ」と言った。
 しばらくして、須田満主が口をはさんだ。
「…御屋形さま!」
「……なんだ?」
「御屋形さまに、我ら重役たちより申しあげたいことがあります!」
「申せ!」
「ははっ」須田は言った。「板谷宿では火をたいて野宿されたとか……。まったくもってあってはならぬ振るまい。藩主が民に軽んぜられるのは何より軽い行いでござります!
 しかも、そうそうと賀籠を降り、大沢宿からご乗馬なされたよし。…これはとんでもないこと! 賀籠から降り、馬に乗り換えるのは城から一里の羽黒道からが決まりであります。米沢には米沢のしきたりがあります。以後、お気をつけを」
 芋川が続けて、余裕の笑みを浮かべつつ言った。
「御屋形さまは日向高鍋藩三万石からの養子ゆえ、米沢十五万石の家風がわかりますまい。郷にいっては郷に従え、という諺があります。これからは私どもの申す通りに行動していただければ間違いはないかと……」
 治憲はしばらく愕然としてしまった。このような反発はある程度は予想してはいた。しかし、これほど酷いとは…。なんということだろう……。だが、茫然と黙っている訳にもいかない。治憲は気を取り直してから、
「……お前たちの意見はわかった。過ぎたことは咎めまい…」といった。そして続けた。「明日。藩士たちに私自ら改革案を話す。明日、広間に藩士たちを集めよ! 足軽たちもすべてだ!」
「…足軽も?」
「そうだ。足軽たちも侍とともに藩を支える大事なものたちだ」
 須田は反発した。「謙信公以来、広間に足軽たちをいれたことはありません。米沢藩のしきたりに反します!」
「……ならばそのしきたりを破ろう。必ず呼ぶように!」
 治憲はそういって少しだけにこりとした。とにかく藩士たちに改革案を話せばなんとかなるだろう。なんとか…なる。きっと…なる。藩士たちの心に火をつけるのだ。
 それはきらきらとした微かな希望だった。火をつけるのだ……藩士たちに…。


  こうして、次の日、米沢城の広間に過信や足軽たちか集められた。
 治憲は集まった大勢の家臣たちを前に語り始める。
「藩は今、藩を幕府に返上するか…自滅するかの瀬戸際にたたされている。しかし、私はこの米沢藩を改革したく思う! だが…私の力にも限界がある。私は米沢の生まれではない。九州の小藩の生まれである。私は若輩で、技術も経験も不足している。
 この米沢に来たのも、今日が初めてだ。お前たちとも…今日が初体面た。
 目標は大き過ぎ、私の力はあまりにも足りな過ぎる。その隙間を、皆の協力で埋めてほしい。……頼む。
 そのためにはまず、情報はすべて公にする。各持ち場では、身分、年功、経歴を気にせず、思うように意見をいいあえるようにする。いい意見はかならず私の元まであがってくるように。…また私や藩士たちが決めたことはすべて家臣に行き渡るようにしたい。
 次に、米沢の人口は普通ならば十五万人いるはずだが、今は十万人に減っているという。きくところによると、貧しい家では生まれてきた子を間引きすることが後をたたないときく。命というものは例えどんな貧しい家に生まれようとも等しく尊い。
 改革の目的は、領内にいる病人、老人、子供など、弱い立場にいる人々を救うための政を実現させることだ。そのような改革をするために人事を一新したい!
 まず、竹俣当綱を執政に、莅戸善政を奉行に任命する!」
「ははっ」
 集まった一同にざわざわとした動揺が広がった。治憲にとってそれはあまり手応えのいいものではなかった。しかし、何にせよおわった。改革をするのだ! それしかない!


  治憲と竹俣当綱らが通路を歩いていた時、千坂や須田、芋川らがは背後から声をかけてきた。「御屋形さま!」
「…なんだ? 千坂、須田」
「はっ」”七家”は頭を軽くさげた。そして続けた。「お話…大変関心してききました。なかなかご立派な考えにござりました。しかし……あのような耳に心地好いお話をされたよし。何か、御屋形さまには資金を調達する妙案がおありかと。その案を是非ともお聞かせ願いたい」
「……そのようなものはない」
 治憲は当然のように言った。
「なんと?」
「私は初めて米沢にきたのだ。そのような妙案などあろうはずもない」治憲はそういって笑みを浮かべた。きらきらと白い歯が光る。それはとても魅力的なものだった。
「妙案がない?」
「そうだ。………それは是非お前たちにお願いしたい。私はまだ若輩で、力不足だ。是非、お前たちの協力を願いたい。…頼む」治憲はいった。
「……ご謙遜を」千坂が笑った。
「我々は官職を追われた身……。そのようなことは御免こうむります」
「我々隠居組は……御屋形さまのご改革がうまくいくことを願って…遠くから見学させてもらいます」
”七家”は頭を下げた。そしてそのまま身をひるがえして歩き去った。
 その”七家”の態度に、上杉治憲はただ茫然と黙り込むしかなかった。それに対して、「御屋形さま…気にすることはござりません」
 と、莅戸善政は治憲の耳元で言った。


  いつ頃だろう。
 須田の息子の須田平九郎や、芋川の息子の芋川磯右衛門らが、小野川温泉に向かう道を歩いていた。一同は、温泉につかるために道を急いでいた。
 ちなみに『小野川温泉』とは小野小町が発見したといわれる、米沢の温泉郷である。
「なんでも頼み申す、頼み申すと……まったく藩主としての威厳というものがない」
 須田の息子が悪口をいった。続けて芋川の息子が、
「まあ……あれは養子だからな。藩主の威厳というものは一朝夜で身につくものではない…まあしょうがない」
「しかし、御屋形があれではな」
「くそう、俺の親父を首にしやがって!」
「くそったれめ!」
 須田の息子たちはほぞを噛んだ。そして「今にみてろよ!」と心に誓った。


  春がきた。雪深い米沢の春は遅い。
 雪がとけるの頃は、4月頃で、そんな春は誰にとっても待ち遠しいものだ。
 その朝は、とてもいい天気で、きらきらとした朝日が森や山々に差し込んで、すべてのものを白く輝かせていた。米沢に流れる河にも、そのような朝の光が差し込んで、陽の光で、きらきらとハレーションをおこす。それはしんとした静けさと幻想の中にあった。
 治憲は佐藤文四郎だけを連れて、馬に乗り、極秘で領内の視察に出掛けた。
 しかし、視察の情報は事前に漏れていた。
「……一汁一菜……着るものは木綿…などどいっでもよ。結局は、領民がら年貢をしぼりどろうっで考えだべ。その手にのるがっで」
 領民の心は荒んでいた。領民は陰では口々にそう言っていた。まだ誰も治憲の改革の真意を理解するものは、いなかった。
 治憲と佐藤文四郎が馬でやってくるのが見えると、農民たちは平伏した。
「皆、おはよう! 米沢藩主、上杉治憲である」治憲は馬から降りた。そして「何か訴えたいことがあればきこう」と優しくいった。
 しかし、何も、よい意見などはきかれなかった。ただ、領民は、
「御屋形ざまのおかげで、日々、安心して暮らしていげます。まごどに、ありがだいごどで…」とおべんちゃらを言い、頭を下げるだけだった。
 すべてがうわべだった。すべてがおべんちゃらだった。すべてが嘘だった。
「………そうか。畑仕事の手を休ませてすまなかった。仕事に戻ってよい。では」
 上杉治憲は無力感を感じずにはすいられなかった。
 これでは視察の意味がない。…誰かが漏らしたのだ………視察の情報を…。

  米沢城に戻ると治憲は、「誰も本当のことをいってくれぬ」と不満を漏らした。
「それはとんだ無駄骨でしたな」千坂は笑った。
 治憲は言った。「領民たちがかたくななのは何のために生き、何のために仕事をするかという目標がないためだ。そこで私はその目標をつくろうと思う」
「……目標?」竹俣が尋ねた。
「うむ。生きることを喜び、働くことを喜べるような目標だ。それにはまず領民たち…自分たちがつくりだしたものが正当な値段で、自分の収入とならねばならない。
 この国では税はすべて米で組まれている。しかし、東北には冷害も多く、米づくりには苦労も多い。米がいま以上の高い穀物となるのは無理だ。そこで東北には東北にあった農作物を植えることが必要だ。
 例えば、漆、こうぞう、桑、藍、紅花……。とくに漆は蝋や塗料の材料がとれて、非常に多きな富を生む。これらの植物を中心に植えてみたらどうだろう?」
「今おっしゃられた植物はすでに……米沢でも植えておりますが」竹俣が言った。
「私がいいたいのは他藩では米沢の産物を原料にさらに別な産物を生んでいるということだ。たとえば越後の小千谷ちぢみ、原料は米沢のからむしだ。奈良のさらしもしかり。さらに上方の口紅やゆうげん染めも米沢の紅花が原料だ。……もったいない」
「御屋形さまは、当米沢でもちぢみをつくれと?」莅戸が尋ねた。
「その通りだ。ちぢみだけではないぞ。原料を他藩に売るだけでは益にならぬ。とにかくこの米沢で手を加えて出来るだけ高く売ることを工夫するのだ。
 生糸からは絹織物、紅花は紅、漆を植えて……漆器をつくろう。米沢には小さな池、沼、川が多い。鯉を飼おう。笹の観音の前で一刀彫りをみた。『笹の一刀彫り』とでも名付ければあれは売れるぞ。また、
 小野川の湯には塩分が多いときく。この山中でも、塩がつくれるかもしれない」
「少し問題があります」竹俣が口をはさんだ。「米沢でちぢみを作ろうにも、職人がおりません」
「ならば、小千谷から職人を招け」
「……は?」
「経費をきりつめるだけが改革ではない。必要ならば投資もやってこその改革だ。それが金の生きた使い道だ」
「はっ。されど…。御屋形さまがおっしゃられることは農民が片手間で出来ることではありません。農民は米造りなどで手いっぱい。人手がありません。不可能です!」
 治憲はにこりと笑って言った。「人手はある。……まずお前たちの家族だ」
「……家族?」
「うむ。中でも老人と子供は鯉を育てるのに興味を示すだろう。なぜなら……老人はいずれ絶える命。子供はこれから長い人生、に向き合っているからだ。鯉を育てて得た収入は、肩身をせまくして暮らしている老人たちの支えとなる。
 蚕を育て、糸をつむぎ、絹などを織るには家臣たちの妻や母がいるではないか。老人と子供とともに女子たちにも働いて何かしらの収入を得れば……家計も潤うであろう。私が人手があるというのはそういうことである」
 竹俣は「お考えよくわかりました。しかし…」と言おうとした。が、その前に千坂の怒りが爆発した。
「わしにはわからぬぞ、竹俣! われわれはすでに領地取り上げなどに甘んじておる! それのみならず今度は藩士の妻や家族に、鯉に餌を与えさせ、はたを織らせるなど言語道断! そんなことを…」
「まあ、千坂さまのご怒りはのちほど。……それより御屋形さま…残念ながら土地がござりません。そのような多種多様な植物を植えるのは……米沢は山国。土地がなく、狭うござりまする」
「……いや土地はある。しかし……これから申すことはいよいよ千坂たちを怒らせる。たとえば、この城や家臣たちの家の庭だ。そこに桑を植えよう。重役五十本、他は三十本……と割り当てる。まず、侍がしてみせるのだ。
 まずこちらが動かなければ領民は動かぬ」
「おそれながら…」木村高広が言った。「武士たるものが庭に桑を植え、ちぢみを織るに至っては……およそ武士としての権威がなくなるかと……」
「武士の権威とは何か? 武士とは何か? …私からみれば民の年貢によって養われているだけに過ぎない。私も同じだ。およそ武士たるものには徳を積み、民の模範となり民を幸せにしてこそ武士の権威といえる。したがって武士には、とくに藩士には徳がいる。
 だが、この治憲、若年にしてまだ徳が足りぬ。だから、領民も本当のことを話してはくれぬ……」
「しかし……御屋形さま…それでは肝心の藩士たちのお城の仕事がおろそかになりはしませんか?」
「木村」
「はっ」
「では、尋ねるが……今、お城の仕事とはなんだ? どんな仕事があるのだ? 武士、役人たちの習わしごとはあろう。しかし、肝心の民とつながる仕事は誰がしているのだ?
 ………そんなお城の仕事より、鯉を飼ったほうが百倍も民の役にたつ…」
 治憲はハッキリと言った。それにたいして千坂や竹俣らは何もいえず、ただ沈黙するしかなかった。……とにかくこれからが治憲の改革の始まりだった。


         籍田の礼


  上杉治憲の行動は迅速だった。
 広間での改革案発表から、つぎの月には、もう米沢城の庭をクワで耕していた。だが、それを手伝うのは佐藤文四郎ただひとり…。他の家臣たちは物陰から、物見遊山…。複雑な気持ちでそれを覗き見ているだけだった。
「文四郎」
「はっ」
「私が植えているのは桑だが……実は桑ではない」
「と……いいますと?」
「私が植えているのは『希望』だ。このように藩主自らが土を耕している光景をみれば、この桑畑を見れば……きっと家臣たちの中にも「自分もやってみよう」思う者もかならず現れるはず……私はそれを信じて植えているのだ」
「……御屋形さま」
「明日、この桑畑を皆に見せよう! そうすればきっと何かがかわるぞ!」
 治憲はにこりといった。そして懐から藁科からもらったお守りを掲げた。改革のために! しかし、反発する連中は許さなかった。深夜、せっかく耕して植えた桑を、根こそぎ引き抜き、めちゃくちゃにした。それは竹俣や莅戸の庭畑も同じだった。
 そのテロルは次第にエスカレートしていく。


「犬だと?」
 めちゃくちゃに荒らされた米沢城の桑畑に茫然と立ち尽くしていた治憲は、千坂高敦にそうきいた。…千坂は「犬のしわざ」だと言ったのだ。これはテロでないと…。
「さよう……昨夜、犬が侵入してきて、一本残らず…荒らしていったのでしょう」
「……犬がこのように綿密に、一本残らず桑を根こそぎ抜き取ったと申すのか」
「さよう」
「なぜ?」治憲は怒りを抑えて、心臓が二回打ってから、続けた。「犬が何のために桑畑を……?」
「さあ。……私、生まれてこのかた…犬に生まれたことはござりませんので犬の気持ちは理解しかねます。が、多分…」
「多分?」
「多分…よほど腹が立ったのでござりましょう」千坂はそう言ってにやりと笑った。
 そして、そのまま立ち上がると、どこかへ姿を消した。
 治憲は愕然とした表情のまま、怒りを抑え、ひとり土を耕し始めた。「……抑えろ…怒りを抑えるのだ……怒ったら相手の思う壺だぞ。くそっ!」


   いつ頃だったろう。
 水沢七兵衛が米沢城の治憲のもとを訪ねてきた。
「……おお。水沢。ひさしぶりだな」
「ごきげんうるわしゅう、御屋形さま」水沢が膝をつき、頭を下げた。
「急用とは何だ?」
「はっ」水沢は頭をあげた。そして、真剣に言った。「実は……お暇を頂きたいと思いまして…」
「……無能な藩主・上杉治憲にとうとう愛想をつかして…出ていくと申すのか」
「いえ、そのような」
「では、なぜ?」
「私や家臣どもは、侍をやめまして……小野川近くの遠山村で百姓をやろうと…」
「……私の改革の遅れに我慢がならず協力すると…?」
「いいえ。そのような立派なものでは…。只、一度なくしかけた命なら有効に使いたいと」「水沢」上杉治憲はそのうれしい報告ににこりと笑顔をつくった。「大変に有り難い話しである。私は米沢にきて、初めて協力の願いをきいた。正直、私はいま猛烈に嬉しい。しかし…水沢…。侍の職は解かぬ。そのままの身分で、遠山村の開墾にあたってくれ。それが条件だ」
「ははっ、ありがとうごいます、御屋形さま!」
 水沢七兵衛はもう一度頭を下げた。
 しかし、治憲も竹俣当綱も心配していた。米沢城の庭を荒らした『犬』たちがいる。それらの連中が人里離れた開墾地で……何をするか。
 そうした不安が存在していた。
 そして……それは不幸には現実のものとなってしまった。
 テロリストたちは、深夜、遠山村の開墾地に馬でやってきた。そして、馬で田畑をめちゃくちゃにし、藁葺き住宅群に火を放った。
 ごおっと紅蓮の炎があがる。
「大変だ……火を消せ!」
 遠山村の水沢たちはパニックになった。炎はすべてを灰にしていった…。


「御屋形さま!」
「……御屋形さま!」
 畑をめちゃくちゃにされ、廃墟のようになった遠山村。その開墾地に愕然と立っていた水沢らは、次の朝、白馬に乗ってやってきた治憲たちに気付いて声を上げた。
 その日は曇りで、どんよりとした天気だった。それは失意の水沢七兵衛の心にも似ていた。しかし、そうした天気も気にせず治憲は、
「皆、ごくろうだった。…これより籍田の礼をとりおこなう」
 といってきらきらとした笑顔を見せた。
『籍田の礼』とは、中国の古い習わしである。土地を神に献上し、田畑を神より借り入れて畑仕事をする、ということを神仏に祈る行事である。
 治憲は白子神社からもってきた神仏を奉り、『籍田の礼』をおこなった。
 そして、それがおわると、
「これで、この開墾地は神仏野も野だ。もはや誰もこの開墾地を荒らすことは出来ぬ」
 と言い、続けて佐藤文四郎に「酒を買ってきてはくれぬか?」という。
「…酒ですか?」
「うむ。皆にふるまう……頼む」
「はっ」文四郎はそう頭を下げると、酒調達のために小野川の湯宿にいき、酒樽を買った。いや、正確には金がないので借りた。
 しばらくして文四郎は酒樽を部下に担がせてやってきた。その傍らには湯宿の若女将もついてきていた。「是非とも御屋形さまに会いたい」と頼んだのだ。
「御屋形さま、もってまいりました」
「おお、文四郎ごくろう。……そちらの美しいひとは?」
「…このお酒をわけて下さった…小野川の湯宿の若女将です」
「紀代と申します」若女将は頭を下げた。
「紀代殿か。酒をすまぬ。皆、酒じゃ、酒がきたぞ!」
「是非、私めにお酌させてください」
「いや、この酌は私にしか出来なぬのだ。私しかしてはならないのだ」紀代の申し出を断り、治憲は言った。そして、酒樽から瓶に移すと、「ごくろうだったな」と水沢たちにお酌をした。そして、自分が非力なためにつらいおもいをさせたことについても謝罪した。 治憲の紳士的な態度や人情に、紀代はたいそう関心するのだった。
 水沢たちも鍬入れを初め、またいつものようなのどかな風景がもどったようにも、見えた。

  明和九年、江戸で大火が起こり、米沢藩の江戸屋敷も焼失した。幕府からは両邸が焼失したので五月に出府するようにいわれた。で、治憲は執政の竹俣当綱を総頭取に任命し、竹俣自らも出向いて一万本の木材伐採が開始された。それらの木材は河を使って新潟に運ばれ、江戸から五百石船を雇い、日本海を北上し、津軽海峡を通って江戸に廻送したが、途中暴風にあい、非常な困難をおかして十二月末に無事に江戸に着船した。

「幸殿……みてください。稲です」
「稲…稲」治憲は江戸で微笑んだ。「米沢の稲です。米沢は生まれ変わったのです」
 もっともっと改革を続けよう。必ず改革を成してみます。治憲は心に誓った。    


米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説7

2013年12月23日 00時25分10秒 | 日記
         改革の狼煙



  治憲が米沢藩主となってから五ケ月後、改革の骨子を発表した。
 九月十六日に、江戸勤番の者一同を集めて、大倹令の骨子が発表された。
 治憲は語り始める。
「当家は大家から小家になり、上下共に大家の古を慕い、家格も重く、重ければ自然身分よりも多くの出費がある。また太平が久しく続いて、世の中が平和になったよし、わが藩だけが六千人もの家臣を抱えて…藩の台所は火の車。まったく嘆かわしい次第である。
 今日では家中が借金まみれであり、もはや誰も金を貸してはくれぬ。
 もしこのようなときに、水害、飢饉、火災…などの災難がひとつでもあれば米沢藩は国が立って行けない。自分は小家から入って大家の後を譲り受け、このまま家が滅びるのを待っていたのでは、国中の人民を苦しめ、謙信公以来のご先祖さまに対して申し訳がたたない。
 それでそれぞれの役筋に尋ねてみたが、誰も立ちいく見込みがないという。しかしながら、私はただ滅びるのを待つより、だめでもいいから大倹約と改革を実行したいと思う。 出来るだけやってみようと思う。
 今はひどくとも、後に国が滅びて難儀をすることを思えば、目の前のことは我慢して、皆も一致協力してくれ。
 まず自分の身の回りから実行するから、もし気付いたことがあるならば、遠慮なく言ってくれ。下々が立ち行かないで、自分だけが立ちいく事は出来ない。藩士も百姓も一致協力して大倹約を守ってくれ。頼む。……では発表する…第一に…」
 こうして治憲により竹俣らの改革案が発表されていった。
 要は、特令の廃止である。伊勢神宮への参拝はわざわざ米沢から使者を遣わさず、京都留守居役に代出させる。年分行事、祝謝事項もすべて中止。
 女中は必要な人数まで減らす(リストラ)、一汁一菜、着るものは木綿、建物の改築はひかえる、奥女中は9人まで。
 ……といった、形式と格式などを重んずる武家社会へ挑戦する12項目だった。
「………以上である」
 治憲は語りおえた。しかし、
 この改革案があまりにも大胆なものであるため、家臣の誰もが沈黙し茫然とするしかなかった。やがて、家臣のひとりがオドオドと江戸家老の色部に、
「色部さま……色部さまは、この改革案に賛成なされたのですか?」
 ときいた。
 それに対して色部照長はなんといっていいかわからず、オドオドと躊躇して咳ばらいをするしかなかった。「……う…そのぉ、だな…」
「私から答える!」色部のそんなオドオド声を遮るように、治憲が言った。そして続けて、「色部は改革案に賛成してくれただけでなく、手まで貸してくれた。色部には感謝したい」 と言ってほわっと微笑み、きらきらと白い歯を見せた。
 それに対して色部照長はまたまたなんといっていいかわからず、オドオドと躊躇して咳ばらいをするしかなかった。「…う…そのぉ。まあ……いえ…感謝には…及びません」
 しばらくしてから色部は躊躇したまま、
「う…そのぉ。御屋形さま! このように家臣に倹約を望むのであれば、御屋形様にも…という声がきかれますでしょう。御屋形様ご自身の倹約についておきかけ願いたい」
 と尋ねた。
「もっともな質問である」治憲がまってましたとばかりに言った。「…いまの私の生活費は1500両だか、それを200両に減らす」
「なんと……?!」
 家臣たちは驚いて声も出なかった。御屋形さまは本気だ……皆がそう実感した。そうした中で、竹俣当綱・莅戸善政・木村高広・藁科松伯ら4人の男たちは冷静で、御屋形さまの態度に共感し、笑顔をつくるのだった。それから心臓が二回打ってから竹俣当綱が、
「しかし…御屋形様は日向高鍋藩からの養子の身…しかも若輩…。何かとうるさい国元の重役たちから反発され米沢藩主の座から排斥されるおそれもあります。それについてはどうお考えですか?」と尋ねた。
「わかっておる。しかし、この治憲が藩主としてふさわしいかどうかは家臣が決めることではない。それを決められるのは領民だけだ。年貢を納めた者のみがそれを決められるのだ」
 治憲はハッキリとした口調で答えた。その瞳はどこか大きな海を見ているかのようで、妙に逞しくもあった。
 竹俣当綱・莅戸善政らは、その若輩ではあるが指導者としてはふさわしいヴィジョンを持った治憲に感嘆し、強烈に魅かれていった。そして畏れいった。
「……さすがは御屋形さま」
 竹俣当綱は満点の笑顔をつくり、輝くような表情のままそういった。

 それから二年、治憲は辛抱強く江戸で改革を進めた。
しかし、その倹約も焼け石に水のごとし、で、なかなかうまくいかなかった。……





         入国




  明和六年初期、
 十九才になった治憲(のちの鷹山)は、はじめて領国米沢へと向かった。
 江戸を出発する数か月前、永く胸を患っていた藁科松伯が死んだ。
 鉄砲隊を先頭に千人以上をひきつれて街道筋をねり歩き、『米沢藩の行進』といわれた米沢藩の大名行列は改革のため100人あまりに減らされた。米沢藩にとって最初の宿泊地は『板谷』である。


「なんということだ……」
 米沢藩家臣の水沢七兵衛は藩主・上杉治憲を出迎えるために板谷にはいって、愕然としてしまった。…なんということだ…。板谷の宿場には誰の姿もなく、宿場はボロボロに壊れ、みるも無残な状況だった。まさに宿場はゴーストタウンと化していた。
「……もっと……はやく…」水沢七兵衛はやっとのことで喘いだ。「…もっとはやく板谷にくるべきだった…」
「水沢さま!」
 部下のひとりが水沢七兵衛の元に駆け寄った。
「おお、榊。どうだ…?!」
「駄目です! 誰も宿場に残っておりません。御屋形さまが泊まれるような宿は一軒も…」「…くそう…」水沢七兵衛は愕然としたまま、ほぞを噛んだ。「……もっと早くきていれば……」
「しかし……出迎えを命じられたのは二日前です!」
「…なぜ板谷がこんなことに…」
「……皆、年貢が高くて生活が苦しいために出ていったのでしょう。しかも…逃亡する農民たちたの通り道であるためそれらの連中が金や物を盗み……結果、このような廃墟となったかと…」
「くそっ」
「どうなさいます?! 水沢さま」
「………ありのままでお迎えするしかない。…後は……わしが腹を切れば済む…」
 水沢七兵衛は愕然としたまま喘ぐように言った。水沢は暗澹たる思いだった。これで自分の人生も終りだ。もうすべておわりだ。いや、自分はいい。しかし、残された家族は…? そして何より藩主に申し訳がたたない。自分はなんとした失敗をしでかしたのだろう。「……わしが……腹を切れば……」
 水沢七兵衛はもう一度、愕然としたまま喘ぐように言った。


  漆黒の夜だった。
 蒼白い月明りがきらきらと差し込むこともあったが、ほとんどは暗い暗闇だった。それは水沢七兵衛の愕然とした暗澹たる気持ちにも似ていた。
 上杉治憲は賀籠を降り、廃墟のような板谷を家臣とともに歩いて、茫然とした。治憲や竹俣らはボロボロの宿らを茫然と見ながら歩いていた。
 しばらくすると、水沢七兵衛らが出迎えに参上した。
「御屋形さま! 江戸からの長旅……領国・米沢の板谷宿にご到着のおり、まことにご苦労さまにござりまする!…私、出迎え役の水沢七兵衛らにございます」
 水沢七兵衛と部下が地面に膝をつき、頭をさげて言った。
「出迎えご苦労である、水沢」
 治憲は魅力的な笑顔のまま言った。
「ところで水沢殿」竹俣当綱は水沢に声をかけた。そして続けて「…御屋形さまや我らが泊まる宿は何処じゃ?」と尋ねた。
 水沢七兵衛と部下は頭を深々と下げ、「…ございません!」と胸を締め付けられる思いで答えて謝罪した。「…宿は……ございません! 申し訳ありません!」
「…なんじゃと?」竹俣当綱は水沢にそう尋ねた。「どういうことじゃ、水沢殿」
「……はっ! なんとも申し訳なく……」
「水沢殿……そちにもわかる通り、御屋形さまはわれらとともに歩いてこられたのじゃぞ。それが……休む宿もないと申すのか…?」
「………申し訳ありません。そうです! …我々がこの板谷に着きました頃にはごらんの通りの廃墟となっており……宿は…そのぉ」水沢七兵衛はしどろもどろになった。
「それは言い訳にならん! 水沢殿、そちはずっとこの米沢におったではないか。板谷がこうなっているのは調べればわかったはず!」
「……申し訳ありません!」
「これは国元から御屋形さまへの嫌がらせですか?!」佐藤文四郎が口をはさんだ。
「…いえ! けして……その…ような事では…」
「しかし!」
「もうよい」しばらく冷静な表情できいていた治憲は文四郎や竹俣らをとめた。そして、魅力的な笑顔をつくり、口元からきらりと白い歯をのぞかせてから優しくいった。
「…今晩はこの板谷で野宿しようせではないか。さあ、野宿の準備をしてくれ。水沢、まず寒さをしのぐ火だ。そして酒。家臣や足軽たちにふるまう。…さ、準備してくれ」
「……ははっ!」その言葉に、水沢七兵衛はもう一度、頭を下げた。
 こうして治憲らは板谷宿で野宿することになった。焚き火がたかれ、日本酒も用意されて団欒のようなものが出来ていた。談笑するものが出来てもいた。しかし、水沢七兵衛らはそれらの集まりから外れ、暗澹たる気持ちを拭い去ることが出来なかった。冷たい地面に腰をおろしていた。無理もない。取り返しのつかない失態を演じ、これからその罪滅しのために切腹となるのだから…。元気に明るくふるまえ……というほうがどうかしている。「水沢殿」
 しばらくして、そのような声がして振り向くと、佐藤文四郎と上杉治憲がやってきていった。文四郎が水沢に声をかけたのだ。
「……これは佐藤さまに御屋形さま…」
 その言葉に水沢はもう一度平伏した。
「礼はもうよい。それより水沢、酌をさせてくれぬか」治憲が酒瓶を手に、言った。
「……は……ははっ!」
 水沢らは杯を手にとって、ひざまずいたまま杯を前に差し出した。
「出迎えご苦労であった」
 治憲が酒瓶から酒を杯にそそぎながら、水沢に労いの言葉をかけた。それに対して水沢七兵衛らはもう一度、深々と頭を下げた。それからしばらくして、
「お…御屋形さま!」と土下座した。そして続けて「申し訳ありませんでした、御屋形さま……この責任をとって、私めがこの場で腹を切って…お詫びを…!」と必死に訴えた。「ならぬ!」
 治憲がハッキリとした口調で水沢を諫めた。「これくらいのことで腹を切るなどとんでもないことだ」
「……しかし!」
「…もうよいのだ」治憲が魅力的なきらきらした笑顔をつくり、おだやかな口調で続けた。「このようなことはなんでもないことだ。私は気にしておらぬ。それに…野宿も案外楽しいではないか、のう水沢」
「御屋形…さま…」
「謝って改めるに憚ることなかれだ。水沢は謝った。もう…それで済んだ。これからは気をつけてくれよ」
 治憲は笑顔のままいうと、佐藤文四郎とともに場を去った。
 残された水沢七兵衛らの胸に熱いものが込み上げてきた。涙が瞼を刺激して、それを堪えようと下を向いて瞬きしたが、無駄だった。涙がボロボロとこぼれ、やがて水沢らは号泣した。
「……御屋形…さま…」
 水沢七兵衛らはそう涙声で言って、もう一度、頭を下げた。………


         火種と希望




  一夜明けると、周りは銀世界だった。
 上杉治憲(のちの鷹山)はふたたび賀籠に乗り、行列はふたたび始まった。
 しんしんと降りしきる白い雪。それらは何もかもを白く覆い隠し、何もかもを重く包み込むかのようだった。…板谷から米沢までは六里の道程である。
 しかし、領内にはいっても何も風景はかわらなかった。
 土地は死んでいた。
 何よりも領民の心が死んでいた。
 希望がないから誰もやる気がない。活力もない。瞳の輝きもない。土地も人間の心も、すべてが死んでいた。
 上杉治憲は賀籠に乗り、隙間からみえる雪の米沢の風景や領民らの希望のない瞳をみて、絶望してしまった。なんということだろう……。これが、米沢か…。治憲は小さな火鉢を手にとり、火もなく灰だらけとなった中を見続け、
「米沢はこの灰と同じだ。……灰に種をまいても…育つだろうか……とんでもない国にきてしまった」と、心の中で呟いた。
 絶望的な気持ちだった。心臓がかちかちの石のように重く、全身の血がコンクリートのように固まっていく気持ちだった。「……灰に種をまいても…育つだろうか?」
 治憲は蒼さめた表情のまま、火鉢の中を指でかきまわしてみた。
 するとどうだろう?……わずかだが残り火がみつかった。「…これは…」そして、ふうふう。ふうふう。上杉治憲はいまにも消えそうな火を吹き続けた。
 その音に気付いて、お側の者が「火を取り替えましょう」と言った。しかし治憲は「いや、一寸思うことがあるからこのままにさせてくれ」と断った。
 ふうふう。ふうふう……しばらくするといまにも消えそうだった火がふたたび明るさを取り戻した。火が蘇ったのだ。上杉治憲は火種を覗きみながらにこりとした。
 そして、それからしばらくして治憲は、
「賀籠をとめてくれ」と言った。
  行列がとまると、賀籠から治憲は出て雪道に降り立った。手には小さな火鉢を持っていた。家臣らは跪いた。
 上杉治憲の表情は、さきほどまでの絶望的な表情ではなかった。
 しばらく沈黙ののち、治憲は語り始めた。
「皆。きいてくれ。米沢領に入って、正直……私は絶望した。
 お前たちに改革案をつくらせたが、それを受け入れる国のほうが死んでいた。この灰のように。……しかし、残った灰をかきまわしていたら火がついた。
 これだ! と思った。
 残った火が火種となって、また新たな火を起こす。そしてその火がまた火をおこす。そうしたことがこの国でも出来ぬものかと思って火を起こしてたのだ。この火種は誰あろう…お前たちだ。火をつけるものは藩士たちであり領民たちだ。
 濡れている者、湿っている者、火をつけられるのを待ち侘びている者、私の改革に反対する者……一様ではあるまい。
 いくら吹いても火がつかぬ者も多いだろう。しかし、私はかならず火がつくと信じるしかない。そこでお前たちの胸に燃えている火を、心ある藩士たちにつけてほしい。そうすればいつかきっと改革の炎が燃え上がるに違いない!」
 治憲の言葉をきき、一同は静まった。しばらくのち、竹俣当綱が抑えきれなくなって、「御屋形さま! その改革の火を私めにわけてください! ……米沢藩の改革が実るまでたやさずに置きます!」
 と嘆願した。
「うむ」治憲は口元に微かな笑みを浮かべて、頷いた。
「御屋形さま!」佐藤文四郎も言った。
「御屋形さま! ……私めにもその火をわけて下さい! 私も改革が実るまで火をたやしません!」
「うむ」
 それからは「私にも、私にも!」とたくさんの家臣たちの声があがった。
 それに大して、上杉治憲は口元に微かな笑みむを浮かべて、「うむ」と頷くのだった。


  それからしばらくして、上杉治憲は白馬に乗り、米沢城へ初入城した。
 しかし、国元の重役たちの中には、治憲公に反対する者も多かったるそのボスがのちに『七家騒動』をおこすことになる千坂高敦(国家老)や須田満主や芋川延茂や色部たちだった。
「まるで物乞い入城だ…」
 天守閣のうえの窓から治憲らの姿を眺めて、千坂が吐き捨てるように言った。
「まったく…」須田が同意した。「……米沢のしきたりもわからぬ養子藩主め」
「あれをみよ」芋川が続けた。「竹俣のやつ…江戸で冷や飯を食らわせてやったのに……意気揚々と乗り込んでくる、ふん」
「しかし……例え雪がふっていようと入城の際には着替えてくるのが常識だろうに…」
「とんでもない若造だ。一から教育しなおさなくては」
『七家』は勝手きままに愚痴ともとれるような陰口を囁いて、養子藩主・上杉治憲を嘲笑した。そんな中、色部照長がオドオド言った。
「……いやいや、あの御屋形さまは年こそ若いが…なかなかのやり手……甘くみていると火傷しますぞ…」
「なんだと?」千坂が笑った。そして「色部、お主……あの若造にたらしこまれたか?」「…いや…そのようなことは…」
「それならいい」
『七家』そういうと、また、せせら笑うのだった。                 


米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説6

2013年12月22日 07時17分27秒 | 日記
        重定への言上書




  帰国する本庄と芋川を見送った夜、竹俣美作当綱は江戸の役宅に、莅戸善政、藁科松伯、木村高広を招いた。召使の爺が大根の煮付けと徳利をもってきた。
 当綱は徳利をさっそくもつと、つごうとした。
「この地酒は国元の大町でもとめたものだ」
 当綱は徳利をふってみた。…いい音だ。いい酒は音もよい。
 そして、「まだ残っておる」といった。
「いや、江戸にもどったら貴公らとのもうとおもっておったが……なにせ持って歩くと音がする。芋川にみつかっての。かなり飲まれてしもうた」
 竹俣美作当綱は笑った。
 木村高広と莅戸善政も笑った。しかし、藁科松伯は微笑するだけであった。
 杯を満たして酒を味わってから、当綱は
「これが殿にさし出した言上書の写しだ。目を通してくれぬか」といって巻紙を出した。 竹俣当綱にいわれ三人は順々に写しをみた。木村が最後に読み終わると、巻紙を返上した。それをみてから藁科松伯が口をひらいた。
「……で、殿は森平右衛門の誅殺を承認されたのですな?」
「うむ。認めた」
「そうですか」
「うむ。ただはじめは激しく怒ってのう」
「ほう。でしょうな。殿は森を可愛がっておりましたからな」
「うむ」当綱は続けた。「はじめの激怒で、承認をえるのに苦労した。しかし…そこは肝心なところゆえわれらも負けなかった。重臣連判を盾に押し切った」
「ほう」
「…殿は…」
 竹俣当綱はなにかいいかけて口をつぐんだ。あのときの重定との応酬を思い出して、……殿は愚者で馬鹿だ…と思った当綱ではあった。が、そう口に出すのには憚られた。確かに愚かで馬鹿でも、米沢藩の殿であることにはかわりはないからだ。そして、それにもましてこらえたのは、口にだしていってしまえば空しくなると思ったからだ。
 藁科松伯が口をひらいた。
「ご改革の件も、殿はお認めになられたのか」
「……一応は…」
 竹俣当綱は盃をおいて、顎の不精ひげを掻いた。竹俣当綱は髭の濃いたちである。朝も昼もそったのに、もう髭が青々となっている。
「…改革とはいってもなにをするのか何もきまってはおらん。だから、殿も一応だけ認めたのであろう」
「さようか」
 藁科松伯は咳をしながらいった。そして続けて、
「ただ認めただけでは改革は無理でござりましょう。改革には思いきった人材登用も必要です。また森のようなのがでてこないように…また藩財政を正確に判断し案をだせる人材登用こそが必要でありましょう。言上書をみるかぎりそこが抜けているように思えてなりませぬが…」
「その場に、竹俣がいて、かようなあり様はなにごとかと先生はいいたいのですな?」
「いや、さようなことは…」
 竹俣当綱は手を掲げて、弁明しようとする藁科松伯を止めた。
「当然、そう思われると思っておった。それがしも格式、先格が出てきたときはこれはこれけはと思ったが、口に出さなんだ。侍頭をとりこむのだから、妥協も必要じゃと思った次第である」
 当綱はそういって、ぴしゃりと膝を打った。
 そして「改革は必ず実行する。われわれには名君がいるからのう」といった。
「……直丸さまですか?」
 藁科松伯がにやりとすると、当綱はにこりと笑って「そうそう」といった。
 そして続けて「……先生、直丸さまのご様子はいかがですかな?」と問うた。
「それがですな」
 松伯はにやりと顔をほころばせると、「ご学問もさることながら、近頃は弓や馬のお稽古に精進でござります」
「ほうほう、それはよい。頼もしい限りだ」
 竹俣当綱も顔をほころばせた。そして、その瞬間、
 ……はやく藩主交代を急ぐべきではないか……と思った。


  藩主重定に、竹俣当綱ら重臣四名が談判して森平右衛門誅殺を追認させてから十日ほどすぎた三月四日、国元では森家の処分言い渡しが行われたという。
 嫡子の森平太七歳は親類預け囲入り、故・森平右衛門利真の用人佐久間政右衛門父子は入獄処分となった。だが、ほかの家族、召使は構いなしとされた。その後、森のいた奉行所の家宅捜索がなされ、森の屋敷と塀と門が藩の手で打ち壊された。
 また森が屋敷内にたくわえておいた諸道具は、六人年寄の中沢新左衛門が立ち会って改め、城の宝蔵に返すべきものは返し、売り払うべきものは商人を呼んで売り払った。
 が、たくさんの刀や金銀があったので処分に時間がかかったという。
  その後、参勤交代で重定が江戸に着くと、竹俣当綱はひと息ついた。
 上杉重定と竹俣当綱の関係は、藩主と江戸家老というものであったが、重定は、
 ………わしの信頼しておった森平右衛門を誅殺した張本人め!
 という目で当綱をみるし、竹俣当綱は当綱で、
 ………この藩主は暴君で無能だ……
 と内心みている訳だから、双方とも相手を見れば気持ちが擦れ違うのはやむを得ないことであった。
 しかし、上杉重定もおそまつながら「改革」をしようという動きをみせた。
 七月になって、重定は侍頭の本庄職長、須田満主を呼んで、侍頭のまま六万石の荒地開拓をふくむ農政を担当することを命じた。しかし本庄は一年ほど職をつとめてからお茶をにごし、しきりに辞めるつもりだと国元にも伝わった。重税と借金にあえぐ米沢藩のために誰かが命がけでやっていないことは明らかであった。

  竹俣当綱の屋敷に、後日、藁科松伯がひとりでやってきた。
 先生は咳がかなりひどかった。松伯は胸を患っていた。
「非道の取り立てとは何のことでござろうか」
 当綱は首をかしげ、そしてすぐ自分でうなずいた。
「停止した銀借り上げ分を別の形でとりもどしたということじゃな」
「その分、また米沢の民がかぶったということでござる」
「しぼっても血もでぬところから、さらに血をしぼった訳でござるか」
「藩は天も恐れぬことをおやりになる」
「まさに亡国ですな?先生」
 と、当綱はいった。
「直丸さまがおられます」
「おそれ多いが……まだ子供だ」
「しかし、名君になられる」
「しかし…上杉は名門。若輩の直丸さまに藩主がつとまるじゃろうか?」
「つとまります!直丸殿は臥竜ですゆえ」
 藁科松伯がにやりといった。
「人材登用はどうです?先生」
「……今の殿よりましになりますでしょう。千坂さまは平時なら名執政と呼ばれてしかるべき器量のひとです。しかし、その千坂さまも、いまの藩をいかんともしがたい」
「いま……米沢は大病にかかっておる」
「さよう」
「森の始末がついて……一杯やったとき…」
 と、当綱はいった。
「九郎兵衛と丈八がいたゆえ言うのを憚ったが、先生、わが殿はまちがいなく愚者です。森の処分でつくづくそう感じた」
「今頃お気きですか?」
 藁科松伯がにやりといった。
「いや。かねてより凡庸と思っておったが、あれほど酷いとは思わなんだ」
「ですから…」松伯が続けた。「名君が必要なのです」
「直丸さまか?」
「はい」
「しかし……まだ海のものとも山のものともわからぬ若君である。名君になられるか…」「なられます!」
 藁科松伯が珍しく抑圧のある声でいった。
「……であるか?」
「はい。直丸さまは臥竜です。きっと米沢を救ってくださります」
「……臥竜……であるか」
「しかし、殿は若い。用意に藩主の座をゆずるでしょうか?」
「わしが引き摺りおろす」
 竹俣当綱は、ひとりごとのように、そういった。
。                                       


維新の風と 龍馬伝「薩長同盟・大政奉還・維新回天の土佐の英雄」ブログ連載小説1

2013年12月21日 01時14分44秒 | 日記
小説 維新の風と 龍馬伝

                    日本をいま一度洗濯いたし候

                 RYOUMA!     ~the top  samurai ~~大政奉還せよ! 龍馬の「日本再生論」。
                 「薩長同盟」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  黒船来航…
  幕末、龍馬は土佐(高知県)に生まれた。町人郷士の坂本八平直足の末っ子である。 龍馬は「坂本の仁王様」とあだ名される乙女姉にきたえられる。それから江戸に留学して知識を得た。勝海舟に弟子いりした坂本龍馬にとって当時の日本はいびつにみえた。龍馬は幕府を批判していく。だが龍馬は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。
 勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 龍馬は維新夜明け前に近江屋で暗殺されてしまう。墓には坂本龍馬とだけ掘られたという。やがて明治時代に募金によって高知県桂浜に龍馬の銅像がたてられた。 おわり





         1 立志


 長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。

 若い頃の栄一は尊王壤夷運動に共鳴し、文久三年(一八六三)に従兄の尾高新五郎とともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地襲撃を企てた。
 しかし、実行は中止され、京都に出た渋沢栄一は代々尊王の家柄として知られた一橋・徳川慶喜に支えた。
 話しを前に戻す。
  天保五年(一八三四)、栄一は十二歳のとき御殿を下がった。
 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように栄一は召し抱えられ、内示がきた。
 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。栄一は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。栄一は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは渋沢にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「栄さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた渋沢栄一は算盤に熱中した。
 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように商売に励んだ。
 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
 栄一の父は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、死んだ。
 父はいろいろなところに借金をしていたという。
 そのため借金取りたちが栄一の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」栄一は頭を下げ続けた。プライドの高い渋沢にとっては屈辱だったことだろう。
 渋沢は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。渋沢は蘭学を死に物狂いで勉強した。
 本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。
 あるとき、本屋で新刊の孔子の『論語』を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」渋沢は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで渋沢は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、孔子の『論語』はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら渋沢はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
 渋沢は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると栄一は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、渋沢は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い渋沢栄一でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  渋沢は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 渋沢の住んでいるのは本所江戸王子で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、渋沢は写本に通った。
あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。渋沢は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。渋沢は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。栄一は売らなかった。その栄一による「論語の写し」は渋沢栄一記念館に現存している。

  渋沢は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により渋沢の名声は世に知られるようになっていく。渋沢はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
 大飢饉で、渋沢も大変な思いをしたという。
 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 渋沢はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、渋沢も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
「火事場泥棒」的に尊皇攘夷の旗のもと、栄一は外国人宿泊館に放火したり、嵐のように暴れた。奇兵隊にも入隊したりもしている。松下村塾にも僅かな期間だが通学した。
 だが、吉田松陰は渋沢栄一の才に気づかぬ。面白くないのは栄一である。
 しかし、渋沢栄一は「阿呆」ではない。軍事力なき攘夷「草莽掘起」より、開国して文化・武力・経済力をつけたほうがいい。佐久間象山の受け入りだが目が覚めた。つまり、覚醒した。だが、まだ時はいまではない。「知略」「商人としての勘」が自分の早熟な行動を止めていた。今、「開国論」を説けば「第二・佐久間象山」でしかない。佐久間象山はやがて幕府の「安政の大獄」だか浪人や志士だのいう連中の「天誅」だかで犬死するだろう。
 俺は死にたくない。まずは力ある者の側近となり、徐々に「独り立ち」するのがいい。
 誰がいい? 木戸貫治(桂小五郎)? 頭がいいが「一匹狼的」だ。西郷吉之助(隆盛)?
薩摩(鹿児島県)のおいどんか? 側近や家来が多すぎる。佐久間象山? 先のないひとだ。坂本龍馬? あんな得体の知れぬ者こっちが嫌である。大久保一蔵(利通)? 有力だが冷徹であり、どいつも「つて(人脈)」がない。
 渋沢栄一は艱難辛苦の末、わずかなつて(人脈)を頼って「一橋慶喜」に仕官し、いつしか慶喜の「懐刀」とまでいわれるように精進した。根は真面目な計算高い渋沢栄一である。
 頭のいい栄一は現在なら「東大法学部卒のエリート・キャリア官僚」みたいな者であったにちがいない。
 一橋慶喜ことのちの徳川慶喜は「馬鹿」ではない。「温室育ちの苦労知らずのお坊ちゃん」であるが、気は小さく「蚤の心臓」ではあるが頭脳麗しい男ではある。
 だが、歴史は彼を「阿呆だ」「臆病者だ」という。
「官軍に怯えて大阪城から遁走したではないか」
「抵抗なく大政奉還し、江戸城からもいち早く逃げ出した」
  歴史的敗北者だ、というのだ。だが、なら自分が慶喜の立場だったら?ああやる以外どうせよというのだ?官軍と幕府軍で全面内戦状態になれば「清国の二の舞」だったではないか。
 あえて「貧乏くじ」を引く策は実は渋沢栄一の「策」、「入れ知恵」ではあった。
 まあ、「結果」よければすべてよし、である。
 


坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。

 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。



            
  龍馬(坂本龍馬)にももちろん父親がいた。
 龍馬の父・坂本八平直足は養子で山本覚右衛門の二男で、年わずか百石の百表どりだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。いきおい兼業することになる。質屋で武士相手に金の貸し借りをしていたという。この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。坂本家は武家ではあったが、質屋でもあった。
 坂本家で、八平は腕白に過ごした。夢は貿易だったという。
 貧乏にも負けなかった。
 しかし、八平の義父・八蔵直澄は年百石のほかに質屋での売り上げがはいる。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。
 そのため食うにはこまらなくなった。
 それをいいことに八平は腕白に育った。土佐(高知県)藩城下の上町(現・高知県本丁節一丁目)へ住んでいた。そんな八平も結婚し、子が生まれた。末っ子が、あの坂本龍馬(龍馬直柔)である。天保六年(一八三五)十一月十五日が龍馬の誕生日であった。
 父・八平(四十二歳)、母・幸(三十七歳)のときのことである。
 高知県桂浜……
 龍馬には二十一歳年上の兄権平直方(二十一歳)、長姉千鶴(十九歳)、次姉栄(十歳)、三姉乙女(四歳)がいて、坂本家は郷士(下級武士)であったが本家は質屋だった。
 龍馬は、表では威張り散らしている侍が、質屋に刀剣や壺などをもってきてへいへいと頭を下げて銭を借りる姿をみて育った。……侍とは情なき存在じゃきに。幼い龍馬は思った。
 幸は懐妊中、雲龍奔馬が胎内に飛び込んだ夢をみた。そのため末っ子には「龍馬」と名付けたのである。
 いろいろと騒ぎを起こす八平の元で、龍馬は順調に育った。幸も息子を可愛がった。
 しかし、三歳を過ぎた頃から龍馬はおちこぼれていく。物覚えが悪く、すぐに泣く。
 いつまでも”寝小便”が治らなかった。
「馬鹿」なので、塾の先生も手を焼く。すぐ泣くのでいじめられる。
 そんな弘文三年に、龍馬は母を亡くした。龍馬が十二歳のときだった。
 母のかわりに龍馬を鍛えたのが、「坂本のお仁王様」と呼ばれた三歳年上のがっちりした長身の姉・乙女だった。
 乙女は弟には容赦なく体罰を与えて”男”として鍛え上げようとした。
「これ! 龍馬! 男のくせに泣くな!」
 乙女は、びいびい泣く龍馬少年の頬をよく平手打ちした。しかし、龍馬はさらに泣く。  
 いじめられて友達もいないから、龍馬は折檻がいやで堪らない。
「泣くな! これ龍馬! 男は泣いたらいかんきに!」
 乙女は龍馬を叩いたり蹴ったりもした。しかし、けして憎い訳じゃない。すべては立派な男にするためだ。しかし、近所からは”「坂本のお仁王様」がまた馬鹿弟をいじめている”……などと噂される。乙女も辛かったろう。しかし、乙女はけして妥協しない。
 龍馬は少年時代から孤独であった。
 兄姉があり、末っ子だから当然うるさいほど甘やかされてもよさそうなものなのに、そうではなかった。龍馬が利発な子なら好かれたろう。
 だが、龍馬は逆に皆に無視されることになった。それは生まれたときから顔に大きな黒子があったり、背中に黒い毛が生えていたりしたからであろう。栄姉などは龍馬を不気味がったりもしたという。そのうえ龍馬は少しぼ~っとしていて、物覚えが悪く、いつも泣く。剛気をよろこぶ土佐の風土にあわぬ者とし「ハナタレ」と呼ばれ、いつもいじめられた。そんな中で乙女だけが、イライラと龍馬を叱ったり世話をやいた。
「龍馬。あなたはちゃんとした立派な男に……いいえ英雄になりなさい!」
「……じゃきに…」龍馬は泣きながらいった。         
「泣くな! 男じゃろ?! あんさんは女子じゃきにか?」乙女は叱った。
 そして続けて「あんたが生まれたとき、あたしたちはびっくりしました。黒子が顔にあって、背中にふさふさ毛が生えちゅう。じゃきにな龍馬、母上は嘆いたのよ。でも、あた            
しが慰めようとして、これは奇瑞よ。これは天駆ける龍目が生まれたのよ……って」
 龍馬はようやく泣きやんだ。
「あとはあなたの努力次第じゃ。ハナタレのままか、偉いひとになるか」
 高知で「ハナタレ」と呼ばれるのは白痴のことである。それを龍馬の耳にいれまいとして乙女はどれだけ苦労したことか。しかし、今はハッキリと本人にいってやった。
 この弟を一人前の男にしなくては……その思いのまま乙女は弟をしつけた。
「あんさんは何かあるとすぐ泣くので、皆いっちゅう。金で侍の株は買えるがもともと商人じゃ。泣虫なのはあたりまえじゃきに…と。悔しくないのきにか?!」
 愛情を込めて、乙女はいった。しかし、龍馬にはわからない。
 乙女はいろいろな手で弟を鍛えた。寝小便を直すのに叱り、励まし、鏡川へ連れていっていきなり水の中に放りこんで無理に泳がせたり、泣いているのに何べんでも竹刀を持ち直させて打ちすえたり………いろいろなことをした。
 そんな龍馬も成長すると、剣の腕もあがり、乙女のおかげで一人前の男になった。
 十九歳の頃、龍馬は単身江戸へむかい剣術修行することになった。
 乙女はわが子のような、弟、龍馬の成長に喜んだ。
 乙女は可愛い顔立ちをしていたが、からだがひとより大きく、五尺四、五寸はあったという。ずっとりと太っていてころげると畳みがゆれるから、兄権平や姉の栄がからかい、「お仁王様に似ちゅう」
 といったという。これが広がって高知では「坂本のお仁王様」といえば百姓町人まで知らぬ者はいない。乙女は体が大きいわりには俊敏で、竹刀を使う腕は男以上だった。末弟に剣術を教えたのも、この三歳年上の乙女である。
 龍馬がいよいよ江戸に発つときいて、土佐城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、早朝からひっきりなしに祝い客がくる。客はきまって、
「小嬢さまはぼんがいなくなってさぞ寂しいでしょう?」ときく。
 乙女は「いいえ。はなたれがいなくなってさっぱりしますきに」と強がりをいう。
 龍馬が十二歳のときに母親が死んでから、乙女は弟をおぶったり、添い寝をしたりして育ててきた。若い母親のような気持ちがある。それほど龍馬は手間のかかる子供だった。 いつもからかわれて泣いて帰る龍馬は、高知では「あのハナタレの坂本のぼん」と呼ばれて嘲笑されていた。泣きながら二丁も三丁も歩いて帰宅する。極端な近視でもある。
 父親はひとなみに私塾(楠山塾)にいれるが、毎日泣いて帰ってくるし、文字もろくすっぽ覚えられない。みかねた塾の先生・楠山庄助が「拙者にはおたくの子は教えかねる」といって、塾から排斥される。
 兄の権平や父の八平も「とんでもない子供だ。廃れ者だ」と嘆く。
 しかし、乙女だけはくすくす笑い、「いいえ。龍馬は日本に名をのこす者になります」などという。
「寝小便たれがかぜよ?」
「はい」乙女は強く頷いた。
 乙女の他に龍馬の支援者といえば、明るい性格の源おんちゃんであったという。      源おんちゃんは「坊さんはきっと偉いひとになりますきに。これからは武ではなく商の時代ですき」という。

  城下でも見晴らしのいい一角に、小栗流日根野弁治の道場があった。龍馬はそこで剣             
術をまなんだ。道場の近くには潮江川(現在の鏡川)が流れている。
 日根野弁治は土佐城下でも指折りの剣術使いで、柔道にも達していたという。
 もともと小栗流というのは刀術のほかに拳術、柔道などを複合したもので、稽古も荒っぽい。先生は稽古のときに弟子の太刀が甘いと、「そんなんじゃイタチも斬れんきに!」 と弟子をよく叱ったという。そして、強い力で面をうつ。
 あまりに強い竹刀さばきだから、気絶する者まででてくる。十四歳の龍馬もずいぶんとやられた口だったらしい。
 毎日、龍馬は剣術防具をかついで築屋敷から本町筋一丁目の屋敷にもどってくると、姉の乙女がまっている。
「庭にでなさい! あたしが稽古をつけちゃるきに!」これが日課だったという。また防具をつけなければならない。乙女はふりそでを襷でしばり、竹刀をもったきりである。
「今日のおさらい。龍馬!」
 今日ならったようにうちこめという。
「女子だと思ってみくびったらいかんぜよ!」
 みくびるどころか、龍馬の太刀を乙女はばんばんとかわし打ち込んでくる。龍馬は何度か庭の池へ突き落とされかける。はいあがるとまた乙女は突く。
 父・八平がみかねて「乙女、いかげんにせぬか」ととめる。
 すると乙女は「ちがいます」という。可愛い顔だちである。
「何が違うきにか?」
「龍は雨風をうけて昇天するといいますから、わたしが龍馬を昇天させるためにやってるのです。いじめではありませぬ」
「馬鹿。わしは龍馬が可哀相だといってるんじゃなかが。お前がそんなハッタカ(お転婆娘)では嫁入り先がなくなるというとるんじゃきに」
「……わたしは嫁にはいきませぬ」
「じゃあどうするんじゃ?」
「龍馬を育てます」
「馬鹿ちんが。龍馬だってすぐ大きくなる。女子は嫁にいくと決まっておろう」
 乙女は押し黙った。確かに…その通りではある。
 ………龍馬は強い!
 こう噂されるようになったのは日根野道場の大会でのことである。乙女も同席していたが「あれがあの弟か?」と思うほど相手をばったばったと叩きのめしていく。
 まるで宮本武蔵である。
 兄・権平や父・八平も驚き「これはわしらの目が甘かった。龍馬は強い。江戸へ剣術修行をさせよう。少々、金がかかるがの」といいあった。
「あの弟なら剣で飯が食えます。江戸から戻ったら道場でもやらせましょう父上」
 さっそく日根野にいうと、「江戸の北辰一刀流がいいでしょう。あの子なら剣術道場をもてます」と太鼓判をおす。
「千葉周作先生のところですな?」
 名前ぐらいは知っている。「そうですきに」坂本家は土佐一番の金持ち郷士だったが、身分は、家老福岡家御預郷士、ということであり、江戸にいくには藩の許しが必要だった。
 八平はさっそく届けを出した。
「龍馬、よろこびやれ! ゆるしがでたぜよ!」
 乙女が龍馬の部屋に駆け込んで笑顔になった。
「はあ」と龍馬が情なくいう。「ノミが口の中にはいった…苦か」
 ……やはり龍馬は普通じゃない。

  龍馬がいよいよ江戸へ旅たつ日がきた。嘉永六年三月十七日のことである。
 坂本家では源おんちゃんが門をひらき、提灯をぶらさげる。父・八平は「権平、龍馬はどこじゃ?」ときく。
「さぁ、さきほどからみえませんが…」
 龍馬は乙女の部屋にいた。別れの挨拶のためである。しかし、「挨拶はやめた」という。「どげんしたとです?」乙女は不思議がってきいた。
 龍馬はいう。「乙女姉さん、足ずもうやろう。こどものときからふたりでやってきたんだから、別れにはこれがいい。それとも、坂本のお仁王様が逃げるきにか?」
「逃げる? まさか!」
 乙女は龍馬の口車にのってしまう。「一本きりですよ、勝負は」
 乙女はすそをめくり、白いはぎを出して両手でかかえた。あられもない姿になったが、龍馬はそんな姉をみなれている。
 姉弟は十分ほどあらそったがなかなか勝負がつかない。乙女が龍馬の足をはねた瞬間、「乙女、ご開帳じゃ」と権平が声を出す。
「えっ?!」
 その乙女の隙をついて龍馬は乙女の足をすくいあげ、乙女をあおむけざまに転がした。股の大事な部分までみえた。
「どうだ!」
「卑怯です!」
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」

「まじないですから、龍馬、この小石を踏みなされ」
 乙女がいうと、龍馬は「こうですか?」とちょっとふんだ。
「これで厄除けと開運になるきに」
「姉さん。お達者で。土佐にこんど戻ってくるときには乙女姉さんは、他家のひとになっちゅうますろう」
 乙女は押し黙った。しかし、龍馬は知っていた。乙女には去年の冬ごろから縁談があった。はなしは進み、この夏には結婚するという。相手は岡上新輔という長崎がえりの蘭学               
医で、高知から半日ばかりの香美群山北という村に住んでいるという。
 ただ背丈が乙女より三寸ほど低いのが乙女には気にいらない。
 それでも乙女は、
「こんどかえったら山北へあそびにいらっしゃい」とうれしそうにいった。
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」
  土佐は南国のために、唄が好きなひとがおおく、しかも明るいテンポの唄しかうけない。どんな悲惨な話しでも明るい唄ってしまう。別れでも唄を唄えといわれ、
「わしは歌えんきに」
 と龍馬は頭をかいた。もう旅支度も整い、出発を待つだけである。
「では、龍馬おじさまにかわって私がうたってしんぜまする」           
 といったのは兄・権平の娘の春猪だった。春猪は唄がうまい。
 そろそろ夜明ける。龍馬が今から踏み越えようとしている瓶岩峠の空が、紫色から蒼天になりはじめた。今日は快晴そうである。
  道中、晴天でよかった。
 龍馬は、阿波ざかいのいくつもの峠を越えて、吉野川上流の渓谷に分け入った。
 渓谷は険しい道が続く。
 左手をふところに入れて歩くのが、龍馬のくせである。右手に竹刀、防具をかつぎ、くせで左肩を少し落として、はやく歩く。
 ふところには銭がたんとある。龍馬は生まれてこのかた金に困ったことがない。
  船着き場の宿につくと、この部屋がいい海が見える、と部屋を勝手にきめて泊まろうとする。「酒もってきちゅうきに」龍馬は宿の女中にいう。
 土佐者には酒は飲み水のような物だ。
 女中は「この部屋はすでに予約がはいっておりまして…」と困惑した。
「誰が予約しちゅう?」   
「ご家老さまの妹さまのお田鶴さまです」
 龍馬は口をつぐんでから、「なら仕方ないき。他の部屋は?」
「ありますが海はみえませぬ」
 龍馬は首を少しひねり、「ならいい。わしは浜辺で寝るきに」といって浜辺に向かった。        
  お田鶴はそれをきいて、宿から浜辺へいった。
「まぁ、やはり坂本のせがれじゃ」
 お田鶴は、砂の上にすわった。土佐二十四万石の家老の妹だけあって、さすがに行儀がいい。龍馬は寝転んだままだ。
「龍馬どのとおっしゃいましたね?」
「そうじゃきに」
「江戸に剣術修行にいらっしゃる」
「そうじゃ」
「兄からいろいろきいています」
 龍馬は何もいわなかった。
 坂本家と福岡家は、たんに藩の郷士と家老というだけの間柄ではない。藩の財政が逼迫したときは、家老は豪商の坂本家に金をかりてくることが多い。このため坂本家は郷士の身分でありながら家老との縁は深い。
 ちなみに坂本家の先祖は、明智左馬之助光春だったという。明智左馬之助は、信長を殺            
した明智光秀の親類で、明智滅亡後、長曽我部に頼って四国に流れついた。
 そこで武士にもどり、百石の郷士となった。
 坂本という、土佐には珍しい苗字は、明智左馬之助が琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことからつけられたのだという。
「龍馬どの。こんなところにいられたのでは私が追い出したように思われます。宿にもどってください」と、お田鶴がいった。
「いいや。いいきにいいきに。わしはここで十分じゃきにな」
 龍馬はそういうだけだ。
  船が出たのは翌朝だった。
 船に龍馬とお田鶴と共の者がのった。「龍馬殿、この中にいられますように」
「いいきにいいきに」龍馬はやかた船の外にいってしまった。好きにさせろ、という顔つきであった。そのあと老女のはつがお田鶴にささやいた。
「ずいぶんとかわった者ですね。噂では文字もろくに読めないそうですね」
「左様なことはありません。兄上がもうされたところでは、韓非子というむずかしい漢籍を、あるとき龍馬どのは無言で三日もながめておられたそうです」
「三日も?」はつは笑って「漢字がよめないのにですか?」
「いいえ。姉の乙女さんに習って読めますし書けます。少々汚い字だそうですが」
「まんざら阿呆でもないのでございますね」
 老女は龍馬に嫌悪感をもっている。
「阿呆どころか、その漢節を三日もよんで堂々と論じたそうです。意味がわからなかったようですけれど……きいているほうは」   
「出鱈目をいったのでしょう」
 老女は嘲笑をやめない。お田鶴はそれっきり龍馬の話題に触れなかった。


「わしを斬るがか?!」
 龍馬はじりじりさがって、橋のたもとの柳を背後にして、相手の影をすかしてから、刀を抜いた。夜だった。月明りでぼんやりと周りが少しみえる。
 ……辻斬りか?
 龍馬は「何者だろう」と思った。剣客は橋の真ん中にいるが、龍馬は近視でぼんやりとしか見えない。よほど出来る者に違いない。龍馬はひとりで剣を中段にかまえた。
 橋の向こうにぽつりと提灯の明りが見える。龍馬は、
「おい! 何者じゃさにか?!」と声を荒げた。「人違いじゃなかがか?!」
 ところが相手は、声をめあてに上段から斬りこんできた。鍔ぜりあいになる。しかし、龍馬は相手の体を蹴って倒した。相手の男は抵抗せず、
「殺せ!」という。
 ちょうど町人が提灯をもって歩いてきたので、この男の顔ば明りで見せちゅうきに、と龍馬は頼んだ。丁寧な口調だったため町人は逃げる時を失った。
「こうでござりますか」
 すると龍馬は驚愕した。   
「おんし、北新町の岡田以蔵ではなかが!」
 後年、人斬り以蔵とよばれ、薩摩の中村半二郎(のちの桐野利秋)や肥後の河上彦斎とともに京洛を戦慄させた男だった。
 以蔵は「ひとちがいじゃった。許してもうそ」と謝罪した。
「以蔵さん、なぜ辻斬りなんぞしちゅっとか?!」
 ふたりは酒場で酒を呑んでいた。「銭ぜよ」
「そうきにか。ならわしが銭をやるきに、もう物騒な真似はやめるんじゃぞ」
「わしは乞食じゃないき。銭なら自分で稼ぐ」以蔵は断った。
「ひとを斬り殺してきにか?!」龍馬は喝破した。以蔵は何もいえない。
 龍馬は「ひとごろしはいかんぜよ! 銭がほしいなら働くことじゃ!」といった。
 ふたりは無言で別れた。(以蔵は足軽の身分)
 龍馬は、もう昔の泣き虫な男ではなかった。他人に説教までできる人間になった。
 ……これも乙女姉さんのおかげぜよ。
 龍馬は、江戸へ足を踏み入れた。



米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説5

2013年12月20日 03時54分22秒 | 日記
         元凶、森 二



  宝暦十三年のある夜、竹俣当綱の江戸屋敷の邸宅に3人が集まっていた。
 莅戸善政と木村高広はすでにきていた。ただ、藁科松伯はまだだった。だが、風でぎしぎしと揺れる屋敷に近付いてくるのは誰にでもわかった。
 …ゴホン、ごほん、ゴホン…。藁科松伯の咳こむ声が響いたからだ。
 だいぶ病状は悪いらしい。
「先生、だいじょうぶですか?」
 木村が襖を開けて、そう心配気に尋ねた。それにたいして松伯は、
「なに大丈夫、これくらいなんともない」
 と、にこりとして、また咳こんだ。
 江戸屋敷も森派のものだった。そのため、批判派の四人は密談がばれないように慎重をきさねばならなかった。莅戸は襖に横耳をつけて、敵の気配を見張ったが、煩く吹く風の音以外はきこえもしなかった。木村も耳をそばだてた。
「どうぞ先生」
 竹俣当綱が、病身の藁科松伯に言った。
「はっ、………では」
 彼は中に入って、襖をしめた。そして、また、ごほんごほんと激しく咳こんだ。
「いやいや…これでは密談もできませんな。ごほんごほんという咳で、藁科松伯ここにあり、と言っているようなものですからな」
 当綱が、冗談めかしに言った。
 が、誰も笑わなかった。言った当人の竹俣当綱もすぐに険しい顔にもどった。
 ………先生がこのまま死んでしまったら………。不安にかられた。
 しかし、当人の医師・藁科松伯だけはそう思ってなく、周囲のものには「風邪だ」と言っていた。それは本心かどうかはわからない。
 藁科松伯は米沢生まれでも、米沢育ちでもない。父の藁科周伯が御側医のつぎの待遇を受ける外様法体の医師として米沢藩に抱えられて以来の家臣である。
 彼は火鉢に手をかざし、「いやぁ、寒い寒い」と言った。その手も顔も、驚くほど蒼白かった。それから続けて、
「あたたかい季節になれば、風邪などすぐになおります」と言った。
「もう少しあたたかくなるまであたってて下さい」
 当綱が、師をいたわった。
「いや、ご家老」
 藁科松伯は火鉢から離れると、正座した。そして、「危険をかえりみずにわれわれを収集したところをみると……よほどの重要なお話しと存じます。たかが風邪ごときのそれがしの心配など無用に願います。さっそく話を承りたい」
「さようか」
 当綱が頷いた。           
「九郎兵衛、丈八、そちらも近くに寄れ」
「はっ」
 三人は竹俣当綱のまわりに集まり、言葉を待っていた。「…では申す」
 竹俣当綱はそういって、言葉を切った。それで、しんとした静寂がしばしあった。当綱の濃い髭がゆれたが、それは表情をかえて考えているからだった。
「実は、ある藩のご家老の屋敷にいってきいた。それによると、わが米沢藩の内情を伝える書を滝の口に箱訴したものがいるというのじゃ」
「なんと?!」
 莅戸九郎兵衛善政と木村丈八高広はびっくりとした声をあげた。しかし、藁科松伯だけは、表情をかえなかった。
 箱訴とは、滝の口の幕府評定所表門にでている投書箱に訴状を投函することである。いわば、幕府の目安箱にだ。この箱は、先先代の徳川吉宗が設置をきめたものである。その目安箱に、誰かが、「米沢藩の内情」を書面にしたためて投書したのだ。なんということだ! 九郎兵衛も丈八もことの重大さに気付き、動揺して額に汗をにじませた。「落ち着かなければ…」と焦れは焦るほど、足の力は抜け、足はもつれるばかりだ。無論、だからといって藁科松伯が重大さに気付かなかった訳ではない。この人物は事前に知っていたのだ。もちろん投書する者も多かった。が、すべてが正論という訳でもない。が、現代の政治家が「世論」を気にするように、幕府、各藩もそれを気にした。
「いったい誰が投書を……?」
「わからぬ。ただ」竹俣当綱はそういって、言葉を切った。そして「ただ……な」と言った。うむ。どうもその書状の内容は幕府にとって重用視されたようじゃ。赤字や藩の内情、人別銭のこと森のこと……あからさまに書いてあったそうじゃ」
「訴えたのは、はたして領民でしょうか?」
 木村が尋ねた。
「箱訴は武士の訴えを禁じておる。訴状は名前や住所を記入しなければ受け入れられぬゆえ、米沢の者に間違いなかろう」
「もしくは家中の者が、親しい領民に書かせた……とも考えられましょう」
 莅戸が言った。
「それもありうる」
 竹俣当綱はそういって、莅戸に顔を向けた。
「米沢藩のありさまは何がおこってもおかしくないところまできておる」
「はっ……まさにその通り」
 莅戸と木村が頷いた。
「森の排除を急がなければなりますまい」松伯が言った。そして、また激しく咳こんだ。そして続けて「しかしながら……」と言った。
「森の排除には慎重をきさなければなりますまい」
「慎重?」竹俣当綱は怪訝にそういって、考えた。……どういうことじゃろう。慎重?森という男は藩の元凶……それは誰もが知っている。そのような男をのぞくのに慎重をきす必要があるだろうか?手段など考えずバッサリときり捨てるべきでは……?
「今回の訴書の件がござる」
 藁科松伯が当綱の心の問いに答えるように言った。
「訴状が焼き捨てになるか、取り上げられるかはわからないにしても……これだけ評判になったよし、幕府としても無関心ではいられますまい。森の処分についても藩の内々の問題とはならなくなったと思います」
「………確かに…」
「それに森は藩主・重定公のもっとも信頼している重鎮の家臣……その取扱いによっては、こちらの方が処分されないともかぎりません」
「それについては大丈夫。国元の千坂、芋川、色部らとともに談合いたす所存である。藩の重役たちの意見として殿に森の処分を押し切る所存じゃ」
「森の処分の内容はもう決めておりますのかな?」
「そこじゃ」竹俣当綱は言った。「千坂を中心に条々は決めているはずで、千坂の密書によると……森の悪政は十七か条にもおよぶという」
「さて…それではその書をして森に隠居を勧めてはいかがですかな?それを受け入れぬとあらば…その時、謀殺を検討すればよろしいかと」
「先生は森をご存じない」
 竹俣当綱は強く言った。「あの森という男はかなりの傲慢な人間で、神にかけてもいいが隠居などするような男ではありません」
「ならばいたしかたなし」
 松伯は言った。そして、また激しく咳こんだ。
「だいじょうぶですか?先生」
「だいじょうぶ…です」
 師は言った。「江戸の寒さは米沢よりこたえます」
 そんな時、外の門が開く音がしたので、一同は沈黙した。木村が襖を開けて、みにいった。が、たんに風に吹かれて音をたてただけだったことが分かった。…ほっ。一同はまた話はじめた。
「で、決行はいつになりますか?」
 藁科松伯が静かに言った。当綱は、
「すぐにでも。殿が当屋敷にいる間に形をつけなければなりません」
「いかにも」
 松伯が静かに言って頷いた。
「そのようなことは一日でも一刻でも早いほうがよろしい。しかし、内密に…秘密利に」「さよう」
 当綱は強く頷いた。「しかし、まだ国元の重役は訴状の件を知りません。誰かが知らせて、森排除の話しをすすめなければなりません。しかも、内密に…秘密利に、森派に気付かれないように、です」
 木村は「では私が米沢へいきます」と手をあげた。それにたいして当綱は、
「いやいかん」
 と言った。
「なぜでございましょう?」
「丈八は顔が知られ過ぎておる。九郎兵衛も松伯先生も、だ」
「……では、誰か顔を知られぬものがおられますか?」
「そこじゃ。顔を知られぬものはここにはおらん」
 当綱は強く言った。「だが、他の者では話しにならん。そこで、わしが隠密に米沢にいって話しをしてこようと思う」
「ご家老が、ですか?」
「うむ」竹俣当綱は強く頷いた。



  宝暦十三年の二月の夜、竹俣当綱は江戸の米沢藩邸をでると、かねてから準備しておいた市内の隠れ家で旅姿に着替え、密かに江戸を立った。懐には、関口忠蔵名義の関所手形と、出発にあたって莅戸善政と木村高広と藁科松伯が当綱にあてた血判書と、松伯がしたためた書があった。
 ……長い旅になる。いや、困難な旅になる。……
 竹俣当綱は歩き始めた。
 懐の血判書はひとりぼっちの当綱を勇気づけてくれた。郷里に向かうとはいえ、森のせいで敵地のような米沢……。しかし、なんとか米沢に隠密で森派に気付かれないように着けば同心の千坂、色部、芋川がいる。竹俣当綱は無言で歩いていった。
 江戸をすぎると、急に寂しい風景となる。
 それでも、竹俣当綱は無言で歩いていった。だが、
「森派の追っ手がきてやせぬか?」
 と不安にかられ、ときどきそれとなく道の背後を確かめたりもした。
「……いない」
 彼はこうして道を急ぎ、奥州街道をひたすらひとりで進んだ。
 当綱は翌日の二月七日には板谷峠を登りきることができた。奥州街道を北に進む間、天気は凄くよかった。ほんの一日だけは雪が降って往生したが、それ以外は晴天だった。陽の光りが眩しいほどきらきらと辺りを照らし、しんとした静かな空間が広がってもいた。
 前後には人影もなく、当綱が道の凍ったところで転ぶと、カアカアと馬鹿にしたように烏が鳴くだけだった。
「くたびっちゃ(疲れた)」
 竹俣当綱は起き上がって言った。
 それから、野を越え、山を越え…彼は急いだ。しかし、板谷関所に近付くにつれ、当綱は自分の身分がバレやしないか?と不安にかられた。なにせ、その関所は森派の連中がうようよいるところなのだ。ちなみに板谷は、仙台の伊達の侵攻を押さえるために築かれたところである。いってみれば戦国時代の「国境の守り」の遺物である。
「いやぁ、こわいこわい(疲れた疲れた)」
 竹俣当綱は足をとめ、そう荒い息でいった。…もうすぐ米沢の街も見えよう。それにしても、いやぁ、こわいこわい(疲れた疲れた)。
 板谷関所につくと、竹俣当綱は関口忠蔵名義の関所手形をだした。例え名前や身分に疑いをかけられようと「関口忠蔵」で通すつもりだった。袈裟をふかくかぶり、目立たないように努めた。しかし、彼の緊張とはうらはらに、関所は難なく通ることができた。
 当綱はあやしまれぬように関所を出て、米沢へ急いだ。そして、心の中で、
「簡単に抜けられた……だが、まだ安心は出来ぬ」
 と用心した。関所が簡単に通可し過ぎだ。…何かあるのか? それとも自分の変装がうまくいったのか?……そうだといい。
 だが、もし自分の存在に気付いた者がいたら、通報者がいたら……その場で殺さぬばならない。無益な殺生はしたくはない。だが……、
「まだ安心は出来ぬ」
 竹俣当綱は足をとめ、そう荒い息でいった。
 しかし、彼の心配したようなことにはならなかった。当綱は誰にも知られずに、米沢の城下町に着くことに成功したのだ。その日、竹俣当綱が米沢城下についたのは深夜だった。関根を立つころには雲ゆきが怪しくなってきて、暗い夜空から雪が降ってきた。千坂の屋敷に着く頃には、当綱の笠も肩も真っ白になっていた。


  米沢の千坂の邸宅に着くと、すぐに奥へ通された。
「日暮れに着くとのしらせだったのに、遅かったではないか」
「もうし訳ござらん」
 竹俣当綱はあやまった。そして「しかし…」と続けた。「しかし、これには理由がござる。確かに日暮れ頃に関根まで着いたのだが、途中、森派の人間と見られる人物がいた。そこで、村に入り、いなくなるまで民家に匿わせてもらったのじゃ。よって、遅くなった」「さようか」
 千坂は言った。そして「先方は竹俣とわかったのか?」
 屋敷の主人で、同じく江戸家老をつとめる千坂高敦が続けて言った。
「さて、それはいかがでしょうか。わかりません。ただ、せっかく名を偽って旅してきたゆえ、米沢にきてバレたのではつまらぬと考えた」
「しかし、その者が森に伝えるとも限るまい」
 芋川が言った。当綱は芋川をみて、
「用心に用心を重ねたということでござる」
 と言った。
「まあ、いい。ごくろうだったな、竹俣」
 千坂が竹俣当綱をねぎらった。「腹は減ってないか?」
「いや、まぁ少し……それより白湯を一杯頂きたい」
「よかろう。準備させよう」
 千坂高敦が笑った。
 こうして竹俣、千坂、芋川、色部の四人は明りの前で「密談」を始めた。
 森利真のような家格の低いものが、重い家格の上杉家臣をさしおいて藩政を動かしていることは、米沢の権威がゆらぎはじめている、とみるべき。…四人はそう考えていた。
 竹俣当綱は白湯を飲むと、血判書や藁科の書を千坂らに渡した。
 千坂、芋川、色部らはそれを読み、
「なるほど……よく書けておる」と頷いた。
「ごくろうであったな」
「いや、なに」
「竹俣もこうしてきたことだし……さっそく森を除く段取りを決めいたそう」
「そのまえに申すことがある」
 竹俣当綱は、森に訴状をみせ隠居を勧める考えもある、と言った。それでダメなら…という訳である。
「藁科松伯は森について何もわかっておらん」
「まさしく」
 千坂、芋川らは口ぐちに言った。「あの森という男は藩の癌であり…元凶! すぐにでも討ち取るべきじゃ!」
「しかし、今回のことは江戸の幕府も知っていることゆえ、すぐに討ち取るというのは藩のメンツにかかわる」
 竹俣当綱は、冷静に言った。「どのような手を使っても……という訳にはまいらん」
「なら、説得し、聞かねばその場で討ち取るというのはいかがか?」
「説得し、腹切りさせるのがよい」
 色部がはじめて声を出した。冷静な声だった。
「森は、われらが説得したくらいでは腹切りはせぬ。傲慢な男じゃからな」
「いや」色部が続けた。「さきほどの弾劾書……それをみせて殿からのご命令だ、といって腹切りさせるのだ」    
「しかし、それでは御殿の御名を偽り借りるようでおそれおおい」
 芋川が言い、四人は沈黙した。
 やがて千坂が、しかしながら、と言った。
「いずれにしても藩のためにすることじゃ。われらの私利私欲のためではないから、御殿の御名を偽り借りることもやもえない」
「そうじゃな」
 四人は頷いた。



  五ツ刻(夜八時)、米沢城内二ノ丸…。
 「森を除く」会談が開かれた。森は、弾劾書を読み上げる竹俣当綱をじっと見ていた。森は大男という訳でもないが、割腹のいい体躯で、贅沢な食事のせいか顔や体に脂がのっている。出掛けに髭を剃ってきたのか、顎のあたりが青々としていた。
 竹俣当綱は弾劾状を読み終えて、森のほうを見た。千坂、芋川、色部も見た。……座敷にはこの四人と森しかいなかった。
「どうだ、思い当たるフシが多々あろう?」
「いや、なんのことでござろうか? いっこうに思い当たらぬ」
 森は嘘ぶいた。竹俣当綱は動じなかった。「さる年、自分の屋敷を改築し、贅沢な庭園を造り、池にはギヤマンの金魚を大量にそろえたそうじゃが……?藩の金で」
「なんのことかな」
「では、人別銭についてきこう。いまおこなわれている人別銭を、領民は血も涙もない悪税と申しておる。またこの税のために人心も荒むとの声もある。この人別銭はいまから七年前に御殿が出府されるときの最後の手段としておこなったもの。それを今だに続けているのは無策と申しておる」
「米沢藩の台所は火の車……ほかに藩費をまかなうよい方法があれば教えていただきたい」 森は素っ気なく言った。すると、今までだまっていた芋川が、
「この男と議論しても無駄じゃ!」
 と怒鳴った。
 森は「わしは藩のために正しいことをしておる。ギヤマン金魚だの豪華な食事云々はすべて出鱈目……わしの 政 に一点の曇りもあらず」
「さようか」
 千坂は悠然とした態度で言った。
「そなたの家の土蔵の中には豪華なこしらえがあり、炉のわきにはじかに掘った井戸があって、その水をくむつるべは銀で出来ているそうではないか」
 森の顔が、ふと青褪めたように見えた。森は何かいいかけたが、口ごもって沈黙した。しだいに森の表情が曇っていくのがわかった。秘密の土蔵の内部のことまで知られているのは森にとって予想外のことであったらしい。
 竹俣当綱の手が汗ばんだ。今、千坂が申したことははじめて聞くことだった。
「…覚えがあろう?……答えぬか、森!われらの詰問に答えられぬ時は、腹切りさせよと御殿からのご命令だぞ!」
 千坂が、森を喝破した。
「……腹を……?それは…おかしい…?」
 森は狼狽した。そして「では、直接江戸の御殿に確認してから…そのぉ」と言った。
「いさぎよく腹を切るか、森!支度はできておるぞ」
 森は益々青褪めた表情になった。恐怖しているのは誰の目にもわかった。
「ならば、殿のご沙汰書を拝見したい」
「内密のことゆえ、ご沙汰書はない」
「……ますます怪しい。さような…ことがあるものか」
 と森は呟いた。そして一瞬にして顔が赤みをおびた。すざまじい形相で、四人を見て、大声で怒鳴った。
「これは何かの企みだ!御殿に確認するまで腹など切らぬぞ!」
 森が言い捨てて、立ち上がると、竹俣らもすっと一斉に立ち上がった。竹俣当綱が「倉崎」と呼ぶと、入り口横の襖がひらいて、伏せておいた倉崎一信が踊りでた。そして森の行く手を遮ると、すかさず小太刀でひとたちした。
 倉崎一信の一撃は、森の額を浅くきっただけだったが、森は激しく動揺し、狼狽した。「うあぁぁっ!」
 森の顔は、額から流れでる血で真っ赤に染まって、すざまじい形相になった。すぐに、千坂と色部、芋川が短刀を構え、森にきりかかった。森は刀を抜かず、ただ逃げ惑うだけだった。激しい衝突で、色部が畳みに転んだが、誰も声をださなかった。
 森の裃は片袖がはずれて背にぶらさがり、衣服はきりさかれ、顔からも両手からも血がしたたっていた。森は部屋をでて、通路をどたどたと逃げた。が、当綱が脇差しを抜いて追い付き、千坂と色部、芋川が短刀を構え、最後の一撃をくわえた。
 森は「うっ…」というと、そのまま廊下に血だらけで倒れ込み、やがて息絶えた。
「……身まかった」
 森の屍をみた芋川が言った。しばらく四人は荒い息だったが、なんとか冷静をとりもどすと、「さてと、今夜はいそがしくなるぞ」と呟いた。
「少しは手むかってくるかと思ったが………逃げ回るだけだったの」
 千坂が言った。
 こうして、「元凶・森平右衛門利真」の粛清は終わった。この後、御殿・上杉重定公に森平右衛門利真の処分について報告した。が、やはり重定公は初め激しく怒った。…自分に相談もなく殺害するとはなにごとか?!というのである。しかし、なんとか慰めて事なきを得た。
 直丸(のちの鷹山)が養子となったのは、このような事件のすぐあとのこと、である。

  治憲が米沢藩の養子となったのは十歳の頃だった。
そして、それから、2つ年上の幸姫が正室になった。が、この病弱で心も体も幼いこの少女はひとの世の汚れを知らぬままこの世を去ることになる。
 幸姫は治憲の前の先代藩主・上杉重定公の次女だった。
 確かに、幸姫は美しかった。
 黒色の長い髪を束ね、美しい髪飾りをつけ、肌は真っ白く透明に近く、ふたえのおおきな瞳にはびっしりと長い睫がはえている。細い腕や足はすらりと長く、全身がきゅっと小さくて、彼女はあどけない妖精のような外見をしていた。
 細い腕も、淡いピンク色の唇も、愛らしい瞳も、桜の花びらのようにきらきらしていてまるでこの世のものではないかのようであった。
 それぐらい幸姫は美しかった。
 しかし、そのような愛らしい外見とはうらはらに、彼女のメンタリティ(精神性)ゆ思考能力や心とからだの成長は全然なってなかった。
 その外見は確かに美しかった。が、もう20才ちかい成熟した女性だというのに、まるで小学生のような体型であり、頭も悪く、まんぞくに会話も出来ないあり様だった。
 まあ、はっきりいうと「知恵遅れ」だった。
 しかし、彼女は「純粋なピュアな心と優しさ」を持っていた。それゆえに、そうした純粋な心と優しさと可愛さを持った彼女のことを、治憲は「天女」と呼んだ。
 まさに幸姫は天女だった。
 治憲は婚礼の式のときを忘れることができない。対面したときの唖然とした気持ちを忘れることが出来ない。幸姫は十七歳。花のさかりをむかえようという乙女のはずが、十歳ほどの少女に過ぎなかったのである。これは何かからくりがあるな……と思った。が、なんのからくりもなく、その目の前にいる少女が、結婚相手の幸姫だった。
 幸姫は可愛らしい笑みを彼に向けていた。姫がこんなに小さいのでびっくりなされているのですね、と語りかけているように思えた。姫は明るい性格なので、治憲はすくわれる思いだった。式の後、彼と姫はふとんにはいった。治憲は、さて姫、眠りましょう、と囁いた。と、姫は、
 ……夫婦ですから……このようになさるのですね」と珍しく言葉になった声を発した。 治憲は微笑して、その通りです、といった。姫は目をつむって彼の胸に顔をよせた。
 …これでいいのだ…治憲は思った。そう思っていると、彼は大人の女の匂いをかいだような気がした。だが、目を開けると、そこにはやはり少女がいるだけだった。

「幸、幸……」
 幸姫は、治憲に作ってもらった小さな人形を胸元に抱き締めほわっとした笑顔になった。彼女はその人形に自分の名前をつけたかのようだった。
 それをあたたかい母親のような目でみいた奥女中の紀伊は、
「よろしかったですね、幸姫さま。御屋形さまに素敵なものを頂いて…」
 と優しく微笑んだ。
「幸、幸……」
 しばらくして治憲が幸姫のいる座敷まで訪ねてきた。
 幸姫は「幸、幸……」といって治憲に人形を掲げた。
「そっくりですよ、幸姫。人形も幸姫も可愛らしい」
 治憲はやさしい笑みを口元に浮かべて、優しい父親のように答えた。そして膝まずき、懐から紙を出して、「よい紙が手に入りました。鶴を折ってさしあげましょう、幸姫」
 と言った。
 しかし、幸姫は心ここにあらずで、人形を大事そうに抱いたままどこかへ歩いていってしまった。
 こうして座敷には治憲と奥女中の紀伊のふたりだけになった。
 しばらく静寂が辺りを包んだが、沈黙をやぶったのは紀伊だった。
 紀伊は畳みに手をつき、深々と頭を下げ、「…本当にありがとうございます。御屋形さま。幸姫さまにかわってお礼を申しあげます。国元の重役や重定公からも側室を置くようにといわれましたのに断られたよし……何とお礼を申しあげてよいやら…」と泣きそうな声で礼を述べた。
「いや、たいしたことではない」治憲は魅力的な笑顔を浮かべて、「私は幸姫を裏切ることが出来ぬだけだ」
「は?」
「幸姫は天女だ。……天女は裏切れない」
 治憲のその言葉に、奥女中の紀伊は涙をボロボロと流しながら、もう一度深々と頭をさげた。なんというお優しい方だろう。……紀伊は心の底からそう思った。       


蒼に月に 忠臣蔵伝47RONIN年末特別ブログ連載忠臣蔵小説5

2013年12月19日 01時35分57秒 | 日記
         5 準備







  堀部安兵衛は「もう待てぬ!」
  と焦っていた。「とっくに殿の一周忌が過ぎたというのにあの昼行灯め! 放蕩ばかり続けているという……まったくの愚か者だ!」
「待て! 安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ!」
 そういったのは義父・堀部弥兵衛だった。
 もうそろそろ浅野家の家臣はバラバラになり、もうあと一年も経てば、仇討ちの数さえ集められなくなるだろう。
「しかし義父上、吉良は老人……いつ死ぬかも知れませぬ!」
「安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ! ご家老はきっと考えがあって廓遊びをなされておるのだろう」
「……上杉の間者を糊塗(ごまかす)するためにですか?!」
「そうだと信じたい」
 いっている堀部弥兵衛にも、確信がなかった。
 大石内蔵助が何も考えずに遊んでいるとは思いたくなかった。
 そんな馬鹿な男がいるだろうか?
 いや、いる。大石内蔵助とはそういう男である。しかし、後年、歌舞伎や書物などで内蔵助は上杉たちを騙すために放蕩を続け、女や酒に酔ったふりをしていた…などと改められた。忠臣蔵の主役が、放蕩していただけなのでは不様であるからだ。

 さてここで徳川幕府体制による禄高と年貢について説明しなければならないだろう。 まず大名や家臣の禄高は実収とはだいぶ違っていたという。例えば、赤穂藩浅野内匠頭家は、内匠頭長矩の祖父長直の得た禄高は「五万八千八百九十七石……」などと細かく書いてある。一見するとまことしやかだが、本当の実収は四分の二であったという。農業の収穫だから収益に差があるのは当然だが、同じ「五万石の禄高」……といってもかなり差があった。
 しかし、誰も本音をいわない。
 ……元禄時代は農民への搾取が凄まじかった…というのは樹を見て森をみずだという。 建て前は「六公四民」ということだが、この時代、全国の八割りが農民だった。
 つまり、八割り近くの農民は四割りの米で生活し、二割りだけ収めていた。所詮は米であるから、食べる量にも限りがある。どんな金持ちでもそんなにいらない。
 米ではなく、銭の時代にならなければ、経済の行方の先は見えている。
 そこで米の先物取引(デリバティブ)が生まれた訳だ。

  内蔵助はまたも放蕩を続けていた。
 愛人を囲い、屋敷を借りてお可留というまだ十代の小娘と同棲しだしたのだ。
 これには赤穂浪人たちも呆れた。
 陰から見て、
「あれは怪しい…」
「……なにかあるかも知れぬ」
「子を孕ませるかも知れない。あの昼行灯め!」
 元・家臣たちは陰で激怒となった。あんな小娘と同棲などと……ご家老は頭がどうかしたのではないか?
「お茶どす」
 お可留は縁側で、お茶を飲み大石と語り合って微笑んでいた。
「……お可留は可愛いのう」
 内蔵助は満足そうである。お可留はどうも未通娘(処女)の京娘のようだ。
「……怪しい。夜な夜ないやらしいこともやっているようだ。あの昼行灯め! ふぬけたか! ふぬけめ!」
 赤穂浪人たちは呆れて、場を去った。
 そして、当然ながらお可留は妊娠してしまう。
 お可留はその後、女の子を生むが、その後の詳しい記録がない。
 大石家も女児をひきとらなかったし、お可留に経済的援助もしなかった。所詮は愛人と外子である。内蔵助の妻りくの恨み具合が知れるエピソードではある。
 江戸では吉良上野介が余裕で女を抱いていた。
「……吉良さま! はあはあ…」
「おつや…はあはあ…」
 行為が終わると、吉良は笑って、
「巷では赤穂浪人たちがわしを討ち取るとか申しておる」
「…まあ」
「しかし、やつらは赤穂浪士ではない。あほう浪士じゃ。大石ではない軽石じゃ。わははは…あんな連中恐れるの足りぬわ」
 吉良は馬鹿らしい放蕩を続けている大石内蔵助を軽視するようになっていた。
 歌舞伎や小説では、これが狙いだった、となっている。
つまり、吉良を糊塗(騙す)することが目的だったという訳だ。
 だが、違う。
 大石内蔵助はお可留という小娘とやりたくて”かこった”だけのことだ。
 あまり、不用意に内蔵助を「英雄視」すると歴史がわからなくなる恐れがある。


 元禄十五年秋。
  赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、妻・しのと抱きあっているところだった。長い長い抱擁……
 毛利小兵衛太は「本懐をとげれば、お主ともこうして抱き合うことも出来なくなる。これは今後の生活のたしにしてくれ。額は少ないが……」といって、しのに金三両を渡した。 本懐とは、当然ながら「吉良邸討ち入り」「吉良の御首をとること」である。
「お前さん……本当に討ちいる気なのですか…?」
「当たり前だ! しの…わしは腰抜け侍ではないぞ! 吉良にひとあわ吹かせてやるのだ」「だけどお前さん…」しのは泣いた。「お前さんがいなくなったら、しのは悲しうござりまする。老人の吉良の首などなんの得になるのです?」
「……仇を討つのじゃ。このまま赤穂藩士たちが何もせぬと……腰抜けと一生いわれ続ける。命一代名は末代じゃ! のちに歴史がどちらが正しかったか判断するのじゃ」
「しかし、歴史などといわれましても…」
「もうよい!」
 毛利は訝しがった。「武士の魂のわからぬ女子め」
「わたしは武士の魂より、お前さんの魂のほうが大事ですよ」
 毛利小兵衛太は黙りこんだ。
 確かに、吉良の首をとればいいだけだが、残された妻はどうなるだろう……?
 小兵衛太は、大石内蔵助のような単純な思考回路は持ち合わせていない。
 いろいろ考えると頭が痛くなってきた。
 彼には一晩の熟睡と、女子の慰めが是非とも必要だった。


  吉良邸は増築の真っ最中だった。
 この機会に赤穂浪士たちがスキを狙ってくるのではないかと、上杉の侍たちが辺りを見廻っていた。赤穂の間者が大工姿に化けて、情報収集しているところだった。
「あら、平吾郎さん?」
 吉良邸から出てきたおつやが、平吾郎に声をかけた。
「おつやちゃん!」
 間者は不審に思われないように微笑んだ。
「何をしてらっしゃるの? 平吾郎さん?」
「なにって……おつやちゃんを待ってたんだよぉ。俺はおつやちゃんのことが好きだから」「まぁ」
 おつやは照れた。
 おつやは大工の棟梁の娘だった。父親は吉良邸の図面ももっているはずだ。
 このおつやは売春婦のような性格の女子で、吉良とも何度が寝ている。
 しかし、いつもいやいや抱かれているだけで、男から「愛しておる」「好いておる」といわれたためしがない。おつやは嬉しかった。
 上杉の侍たちがやってきた。
「おい! お主! ここで何をしておる?!」
「いえ……あっしは大工の平吾郎と申しまして……おつやさんに会いに…」
「怪しいやつだ! 赤穂の間者ではあるまいな?!」
「めっそうもない!」
「この怪しいやつめ!」上杉の田舎侍たちは平吾郎にリンチをくわえた。
 ボコボコにされる。
 血だらけになりながら、彼は何とか堀部の開く道場まで着いた。
「どうした?!」
「……上杉の連中に…や…られた。だが、まだ吉良は生きているようだ。…ああして…警護しているところをみると…そう思う」ぜいぜい息をしながら、間者役の男はいった。
「とにかく、誰か医者を!」
「いや……怪しまれる。われらが介護する。まぁ、あがれ!」
 堀部安兵衛は「もう待てぬ!」と苛立った。
「あの……昼行灯め! 今度は小娘らしい」

  京・山科の大石邸には、本蔵の妻・戸無瀬と娘の小滝が訪ねてきていた。
 りくは「主人は外出していまして……」と動揺した。
 まさか小娘の愛人と別の家に住んでいるとはいいだせなかった。
「うかがったのは、主税さまとこの子との縁談を考えなおして頂ければと思いまして…」 内蔵助の妻・りくは「……どういうことです?」と問うた。
「娘がどうしても主税さまを忘れられないと申しまして」
「まあ! 小滝さん。それは本当ですの?」
 小滝は頬を真っ赤にして「はい。わたしは主税さまの妻になりとうござります」という。可愛い娘だ。しかし、主税は、
「それはならぬ」という。
「なぜにござりまするか?! 小滝のことが嫌いでござりまするか?!」
「いや! わしは小滝が大好きである。しかし、吉良のことがある。もうわしは浪人の子……食べさせてやれぬ」
「それはお父上とともに討ちいるということにござりまするか?」
「そうじゃ! わしは卑怯者にはなりとうない!」
「卑怯者けっこうではごさりませぬか……この小滝と一緒になってどこかで誰も知らないところで暮らしてもバチは当たりませぬ。赤子だってつくって……畑を耕し…」
「そのような暮らしは御免こうむる! 主君の仇を討たずして何が侍ぞ?!」
「主税さまはもう侍ではありませぬ! この小滝と結ばれてもいいはずです!」
「……小滝…すまぬ。出来ぬ誘いじゃ」
 主税は後ろ髪引かれる思いで、場を去った。
「………主税さま!」
 小滝は号泣した。
 主税の最期が見える気がした。

  大石内蔵助と息子の主税と共周り四十数名は名をいつわり、江戸へと入った。
 討ち入りの数か月前のことである。
 十月、瀬尾孫左衛門は逃亡しようとして捕まった。しかし、大石は許した。
「孫左衛門……討ち入らないと決めたのじゃな?」
 かれは何もいわなかった。
「吉良邸に討ち入るも討ち入らぬもそちの勝手じゃ。好きにするがよい。ただ頼みがあるのじゃ」
「……頼みとは?」
 やっと瀬尾孫左衛門は声を発した。
「お可留という女がおる。わしの愛人じゃ。守ってやってくれ」
 内蔵助は孫左衛門に四百両渡した。ずっしりと重い。
「……これで足りるじゃろうて」
「ご家老………拙者を信じるのですか? この銭をもってどこかへ逃げるかも…」
「かまわん! お主の好きにせい」
 内蔵助はにやりとした。

  赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、咳き込むことが多くなっていた。
 どうやら労咳(肺結核)のようであった。
 床に伏すことが多くなった。
「早くなおって……みなとともに憎っくき吉良上野介の御首を……頂戴しなければ…」
 雨がざあざあと降ってきた。
「雨は嫌いじゃ。雨がふると体が痛む…ごほごほ」
 小兵衛太は血を吐いた。
「お前さん?!」妻のしのは泣いた。もう主人は永くはないだろう……

  赤穂の間者・平吾郎はおつやに近付いていた。
「おつやちゃんは本当に可愛いねぇ」
「やだぁ、もう平吾郎さんったら…これ、おとっつぁんが持っていた吉良さまの邸宅の図面よ。欲しがってたでしょ?」
「ありがたい」
「でも……どうして吉良さまの邸宅の図面なんてみたいの?」
「あっしは大工だから、大好きなおつやちゃんのおとっつぁんがどんな仕事してるか知りたいだけさ」
「……それだけ?」
「そうとも」
「まさか! ……あなたは赤穂浪士じゃないだろうね?」
 おつやはふざけてきいた。確信はなかった。
「まさか!」平吾郎と称している男は笑った。「それよりご隠居さまはどこに寝てらっしゃるんだい?」
「ここじゃないの? でももう少しで米沢にいくっていってたわよ」
「米沢へ?! 上杉家のところへいくのかい?」
「ええ。そんなこといってたような…」
「とにかく、この図面写させてもらうよ。仕事のためだからさ」
「いいけど……そのまえにやることがあるんじゃないの?」
「なにさ?」
「やだぁ! 抱いてよ、平吾郎さん」
 男はおつやを押し倒し、ふたりは愛しあった。

「なに?! 米沢にいくだと!」
 赤穂浪士たちはいきり立った。米沢にいかれたのでは首はとれない。
 播州赤穂藩の再興はかなわなかった。内匠頭の弟・大学は広島藩お預かりとなり、藩は正式になくなった。
「吉良は年寄りじゃ。すぐに老衰死するかも知れぬ」
「……米沢にいかれたのではおわりじゃ」
 大石内蔵助は、
「よいかみなのもの! 吉良邸に討ち入り、吉良の御首を頂くのじゃ!」と激を飛ばした。「おう!」
 四十七名は声をあげた。そして、泣いた。世にゆう円山会議と神文返しで意見は一致。 ……やっと本懐を遂げる日がきた!                       


米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説4

2013年12月18日 06時43分30秒 | 日記
         米沢藩の借金と困窮



  米沢藩の財政や台所事情は悪化の一途を辿った。
 綱憲の跡をついだ吉憲の代には、参勤の費用が捻出できず、ついに人別銭を徴収するにいたったという。
「人別銭……とな?」
 上杉吉憲は、城内で家臣に問うた。
「人別銭とは領民すべてから税をとることでございます」
 家臣がいうと、殿は笑って、
「たわけ!そのようなことはわかっておる」
「はっ」
「……人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬのか?ときいておる」
「はっ。……なにぶん米沢藩は困窮しており…そのぉ…」
「はっきり申せ!」
 上杉吉憲が声を荒げると、家臣は平伏して、「御屋形様のおっしゃる通り、人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬ……ということでござる」
「領民は納得するかのう?」
「…しますまい。しかし、仕方がござりませぬ。藩の窮地ですから…」
「さようか?」殿は溜め息をついて、「仕方…ない…であるか」といった。

  人別銭とは、人頭税のことである。
 だいぶ前に英国のサッチャーが導入しようとして、国民に反発され、デモが激化しサッチャー首相(当時)が退陣に追い込まれたエピソードは記憶に新しい。
 そして、困窮米沢藩はそんな人別銭(人頭税)を敷かねばならぬほど混乱していた。
 だが、財政困窮はさらに続いた。
 つぎの藩主宗憲の代、享保十八年には、江戸城のおほりの浚渫という国役を命じられ、家中の棒禄半分を借り上げて急場をしのぐという事態も起きたという。
 綱憲以来、家中の借り上げははんば習慣化していたそうだが、棒禄半分をもの借り上げははじめてであった。
  つぎの藩主宗房は、兄・宗憲の急死の跡をついだ藩主だが、このような藩財政の緩和に心を砕いた形跡があるという。襲封五年目の元文三年には、領内郷村の困窮がひどくて年貢がとどこうっているのを知ると、古年貢の七ケ年延納と当年分年貢の完納を命じた。で、米沢藩の年貢は半米半銀が建て前であるが、その年の年貢は米蔵にあふれて急遽用意した仮屋に積むほどに集まり、また銀も蔵の床が抜けるほど集まったという。
 この触れを、膠着する年貢未進の状況を打開する藩の一工作とみるむきもあるという。事実、旧債に喘いでいた農民がこの触れに善政の匂いを嗅ぎつけたのは確かなようである。「…やればできるではないか。こんなに年貢が集まった」
 藩主宗房は、にやりとしたことであろう。
 実際、この年(元文四年)は漆の実や青ソなど豊熟で、宗房の代で米沢藩の窮乏も一服という感じになった。
 しかし、藩主宗房も二十九歳の若さで死去して、さらにその弟で吉憲の四男にあたる重定が新藩主になると、ふたたび米沢はきびしい窮乏に直面することになる。
 延享三年に、兄宗房の跡を継いだ重定は、翌年五月に初入部したが、八月に至って家中藩士に文武ならびに歌謡乱舞に心がくべきだという論告を出したという。
 重定は、「これからは家中藩士みなが歌謡乱舞に心がくべきだ」
 といったという。
 それにたいして家臣が「御屋形様……歌謡にございますか…?」
 と問うと、重定は、
「さよう。みなで能や狂言をやれば楽しいであろう?」と飄々といった。
「ですが……財政が…」
「なんじゃ?」
「…しかし……能とは…」
「武家というものはのう。……能芸をたしなんでこそ武家なのだ」
 重定はそういって笑った。
 家臣一同は唖然とし、沈黙するしかなかった。
 しかし、次第にそうしたひとびとも「御屋形様のいうことだから…」と、家臣はみな歌謡の稽古に熱中し、学問弓馬の道を顧みる者はいなくなったともいわれる。
 この新藩主を『綱憲の再来』と思った者もいたに違いない。
 とにかく、重定は綱憲のように”暴君”であり、”馬鹿”であった。
 ……藩の財政が困窮しているのに”能遊び”とは何事のことだろうか?
 延享、寛延のつぎに宝暦という時代、重定の治世下であったが、その薄氷を踏むようなやりくりをしている米沢藩財政に、致命傷ともいうべき打撃が到来した。
 脆弱な米沢藩財政に加えられた最初の一撃は、重定が藩主となってから七年目の宝暦三年末に幕府から下命された上野東叡山の中堂の修理、仁王門再建工事の助役であったという。その費用は九万八千両もかかると概算されたので、藩はただちに費用の調達にとりかかったが、領内からは家中、商家、郷方を合わせて六千二百六十両、越後商人の渡辺儀右衛門千七百両、与板の三輪九郎右衛門四千五百両というところが借入金の主で、これらの借金集めても一万二千五百両に満たなかったともいわれているそうだ。
 米沢藩では、あとの不足分を上方からの借入金と、領内に宝暦四年三月から毎月徴収の人別銭を課すという非常手段に訴えてなんとかした。
 辛うじて危機を乗り切ったが、このときの作業手伝いは、借財の急増と人別銭による家中、領民へのダメージと傷や禍根を残すこととなった。
 米沢藩では、こうした経緯はありながら、宝暦四年十月幕府に「手伝い完了」の報告ができたというが、翌年五年は奥羽一帯を覆う大凶作となり、米沢藩もこの宝五の大飢饉を免れることはできなかった。
 大雨て河川が氾濫し、田畑の損失は二千七百四十九町歩に達し、三万七千七百八十石余の収穫が消滅した。
 この状況をみて、米価が高騰する。八月に入ると、米は一俵一貫七百三十文になり、藩が一俵の値段を一貫五百文に指定すると、村からの米穀の出回りがぴたりととまった。藩では市中に横目を放って米を探させたところ、町中の米は百九十七俵しかなかったというのは、東町の長兵衛が六、七百俵の米を隠していたからだという。
 こうした状況と飢饉に憤った南町の下級藩士に率いられた関村、藩山村などの農民五、六百人が、九月十日馬口労町酒屋遠藤勘兵衛家、南町の酒屋久四郎家、紺屋町の喜右衛門家を遅い、その三日後の十三日には城下に住む微禄の藩士五、六百人が、米座のある商人の土蔵を破ったという。
 ……百姓だけでなく、武家も”一揆”に走った訳だ。
 暴徒たちはすぐに鎮圧されたが、その次の年も次の年も飢饉は続き、ついに餓死者まででたという。
 凶作で、高二十三万石のうち十九万石もの損失をだした弘前藩、あるいは飢饉に悪疫が重なって死者五万人を出した盛岡藩ほどではないにしろ、米沢藩でも、ひどいことになったのである。三万とも五万ともいわれる禄高を損失したという。
 こうした状況の中で、家中、領民はどうのような暮らしをしのいでいたろうか?


  馬廻組、五十騎組、与板組は総称で三手組と呼ばれ、米沢家中の中核であったという。 馬廻組は藩祖謙信の馬前のそなえを勤めた勇猛な旗本百騎を淵源とし、五十騎組は出生地上田以来の景勝の旗本で、とくに景勝が征服に手をやいた大敵であった新発田重家を攻めて決戦を挑んだとき、直参の五十騎の武功が著しかったのでその名を冠された組、与板組は、上杉の柱石直江兼続の与板城以来の直参で、兼続の戦役の功名をささえてきた者たちであるという。
 三手組ともに、しだいに人数が多くなり、家臣の二割を占めるまでになった。が、それは、それぞれ戦時下の戦仕事よりも、日常の重要な職務をゆだねられたからである。
 馬廻組が勤める役職は、大目付、御中之間年寄、御留守居、群奉行、宗門奉行、町奉行、御中之間番頭、藩主に近侍する御中之間詰二十四人などであった。このうち御中之間年寄六名は奉行の下で重要政務に参与する要職で六人年寄などと称したという。
 五十騎組は、板谷などに関所の職や、江戸での仕事、奉行などの仕事であり、与板は足軽や大筒、鉄砲などの職であったという。
 しかし、足軽たちは早くから棒禄による生計をあきらめていて、商農工に道を探していたという。それぐらい藩財政は困窮していた訳だ。
 ……あまり難しくてどうでもいいようなことは省略して、これからは鷹山公の改革などに言及する。しかし、どうしても詳しい事情が知りたい方は古い文献を参考のほど。
 とにかく、こうした困窮した米沢藩の状況のなか登場した政治家が、森平右衛門利真であった。森は、長く藩政に専権をふるった筆頭奉行清野秀祐が職をしりぞいた翌年の宝暦七年に奉行職についた。そして、独裁的な権力をふるったのである。
 ”無能”の藩主は森の正体を見抜けず信頼し、自分は領民が飢えて苦しんでいるのにもかかわらず「能」や「茶」ばかりに熱中していたという。
 名君・上杉治憲(のちの鷹山)、改革の数十年前の出来事である。



2013年12月17日 北朝鮮・金正日総書記死去から2年 金正恩体制求心力強化に腐心

2013年12月17日 10時52分08秒 | 日記

       北朝鮮の正体
 
2013年12月17日、金正日総書記の崩御(笑)というか病死から2年目の節目ですね。北朝鮮は金正恩(キム・ジョンウン)独裁体制の求心力強化に腐心しています。例えば、北朝鮮のNo.2であった張成沢(チャン・ソンテク)氏を処刑したのもそうだった。黒幕は正恩の実兄の金正哲(キム・ジョンチョル)と正恩の妹の金汝貞(キム・ヨジュン)である。金正哲は故・金正日総書記の次男で(長男は金正男(キム・ジョンナム))、スイスに留学経験がある。北朝鮮が海外で遊ぶための経済活動(金儲けの裏ビジネス)を仕切る「ポンファ組(中国でいうところの「太子党」)」のトップで、張成沢の「政権奪還のクーデター」情報を耳にした為に殺したのだ。金王朝は血族だけが命であり、張氏の妻の金慶喜(キム・ギョンヒ)は、死刑に決まった夫・張氏と離婚したという。大変に「醜い政変劇」を見せられた国際社会だが、大事なのは2015年の「在韓米軍一斉撤退(グアムに基地移転の為)」で韓国のパク・クネ大統領はどういう動きをみせるか、だ。また「千年恨みます、ニダ!」だのの馬鹿らしい対応では世界が見捨てるだろう。パク氏はもう少し政治経済は勿論、歴史を学んだ方がよい。今のパク・クネ大統領は「ひたすら痛いおばさん」でしかない。『中朝貿易・中国大気汚染・中国共産党・中国白酒大手~取り組みの阻害要因を理解する』中朝貿易 中朝国境のつり橋 橋桁が連結中国大気汚染 12月に入り広範囲でスモッグ発生中国共産党 汚職疑惑めぐり 周永康氏を本格調査中国白酒大手 銀基集団控股 最終赤字約102億円▼ 中国と北朝鮮の交流。移民の出入国管理が難しい。中国遼寧省・丹東と北朝鮮シニジュの間で3年前から進められているつり橋の建設で橋桁の連結する作業が終了しました。完成は来年9月の見通しとのこと。これまでは道路と線路を古い橋1本でつないだものが、中朝間の物流の7割以上を賄っており、新たな橋が開通すれば両国間の貿易が活発化しそうです。中国と北朝鮮の国境は長く、過去には国連が主導してデルタ開発計画を立案したこともありました。中国とロシアと北朝鮮の国境付近です。しかし結局は空振りに終わってしまいました。今、中国遼寧省・丹東から北朝鮮シニジュに至る新鴨緑江大橋を建設しており、中国側、北朝鮮側の左右から建設してきた橋が、ようやく真ん中で連結しました。この後、税関の設置や諸々整える作業があり、その完成が来年の9月になる見込みとのこと。もし両国の関係が正常化すれば、物流はかなり活発化するものと思いますが、出入国管理が大変な面もあるので、それほど簡単にはいかないとも思います。 ▼中国が抱える問題。汚染大国、汚職大国としての中国。中国中央気象台の公式サイトによると中国・中央気象台の公式サイトによると、12月に入って、中国の中・東部地域は広範囲にわたってスモッグが発生。濃霧注意報を出した4日には、多くの地域で汚染レベルが4~5級。局地的に6級という最重度汚染のレベルに達したとのこと。今週はソウルでも視界が500メートル以下になり、上海、南京、広州でもPM2.5の影響でかなりひどい事態になっています。韓国は遠慮していて、中国に強く文句を言っていない様子に見えます。いずれにせよ、今の中国は1970年代の日本と同様、完全に汚染国家なのです。中国共産党中央政治局常務委員会の前のメンバーで、石油閥の重鎮・周永康氏について、習近平指導部が汚職などの容疑で本人と周辺への調査に乗り出したことが、7日明らかになりました。中国共産党には、政治局常務委員の経験者は摘発しないという不文律がありましたが、今後周氏への本格追求を公にした場合、党の権威が失墜し、権力闘争に再び火をつけかねないことから指導部は事件の取り扱いと公表の是非を慎重に判断するとのことです。これは完全に権力闘争です。軍、鉄道、エネルギー、石油などの利権を持つ江沢民一派への対抗です。 習近平氏は、すでに鉄道利権についてはメスを入れて、1兆円規模の汚職を明らかにしました。そこから、さらに石油利権も引き剥がしにかかっているのでしょう。汚職の規模は大きなものでしょうから、上手く国民に伝えることができれば、支持を得られると思いますが、気をつけなければいけないのは、返す刀で自らも切られるリスクがあるということです。習近平氏にしても、李克強氏にしても、誰もが脛に傷がある存在です。推進するのなら、迅速に行うことが重要だと思います。薄熙来氏も、胡錦濤氏なども情報源としていち早く抑えられたのだと私は見ています。ここから先は、それほど時間的な猶予はないでしょう。▼ 蒸留酒が数十万円の値段になること自体に問題がある。銀基集団控股が2日発表した、2013年4~9月期決算の最終赤字は7億7141万香港ドル(約102億円)と前年同期の1億7708万香港ドルの4倍強に膨みました。習近平国家主席の倹約令の影響で、高額の白酒の需要が激減していることが響いたということです。スイスの高級時計と白酒に倹約令の影響が出ているということですが、私に言わせれば、白酒は、蒸留酒と言ってもエチルアルコールであり、豪勢な箱に入れても数十万円という値段になっていること自体、不思議に思います。それほど、大騒ぎするほどのことはないでしょう。(2013年12月13日「大前研一メール」記事参照)更なる驚きの事実は2013年12月13日、北朝鮮の事実上のNO.2だった張成沢(チャン・ソンテク)氏がすでに処刑されていた、とのことです。金正恩の叔父さんで、故・金正日総書記の妹・金慶喜(キム・ギョンヒ・病気療養中)の旦那です。故・張氏は、北朝鮮で唯一、「民主主義的経済成長を理解していた男」と言われています。事実上、北朝鮮は、中国の小平氏がやったような改革開放経済政策をやらねば国としてもたない、といいます。まあ、くだらん独裁者に誰かがストップをかけねばならない。だが、それは民衆蜂起では有り得ない。外国からの爆撃・兵糧攻め・経済制裁で、しかない。[ソウル 2013年12月3日 ロイター] - 韓国の議員は3日、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の叔父である張成沢(チャン・ソンテク)国防委員会副委員長が失脚したもようだと明らかにした。韓国のJung Cheong-rae議員が国家情報院(NIS)当局者の話として伝えたところによると、張成沢氏は、国防委員会副委員長および労働党部長ポストを解任された。また、張成沢氏の側近2人は、汚職の罪で処刑された。張氏は現政権の最高実力者の一人とみられ、金第1書記の事実上の後見役とされる人物。故金正日総書記の実妹、金慶喜(キム・ギョンヒ)氏の夫でもある。専門家は、正恩第1書記の承認なしでは張氏の失脚はあり得ないと指摘しており、張氏の解任により、第1書記がより若い側近を従え、自身の権力基盤を固める可能性がある。韓国議会の情報委員会メンバーは会見で、張氏の側近2人が汚職の罪で公開処刑されたことをNISが確認したと述べた。その上で「NISによると、側近の処刑後、張氏の消息は確認されておらず、失職したと見られている」と述べた。北朝鮮指導部の情報に詳しい東国大学(ソウル)のKoh Yu-hwan氏は「張氏は、金正恩第1書記が権力体制を固める上でいずれは解任しなければならない人物」と指摘した。金正日総書記の死後、第1書記への権力移行で中心的な役割を果たした張氏が失職したことで、第1書記を取り巻く側近らの勢力図が塗り変わる可能性もある。だが専門家は、第1書記の権力が揺らぐ公算は小さいと分析している。また張氏は経済改革推進派とされており、同氏の失脚が北朝鮮経済にどのような影響を与えるのかも注目される。英王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)のシニアフェロー、ジョン・スウェンソン・ライト氏は「北朝鮮の現指導部内で、張氏は経済改革の旗振り役とみられていた。そのため改革に近い人物を失うことにはリスクが伴う」との見方を示した。張氏の失脚がもう1人の側近、崔竜海(チェ・リョンヘ)軍総政治局長に優位に働くとの見方も出ている。崔氏は公の場で金正恩第1書記に同行している実力者で、張氏失脚は軍部にとり象徴的な勝利とも言えそうだ。また最近の日韓関係は、もはや修繕不可能な程憎悪の炎が広がっています。韓国人が日本国に腹を立てて、あるいは嘲る理由は「従軍慰安婦問題」を教科書にまで載せて国民を洗脳しているからです。私は「侵略戦争」「従軍慰安婦」はあったと思っている人間です。だから、国際法上確実に日本軍部に被害があったと認定された被害者の皆様には日本国として謝罪と賠償金を支払うとお約束しているのです。ですが、韓国の良識ある人々は日本人と交流したいと思っている筈です。米国のオバマ大統領は歴史認識で安倍政権に問題があると考えています。だが、パク・クネ韓国大統領のことは無視し、東南アジア諸国も韓国の「慰安婦「告げ口」外交」に辟易しているとききます。東南アジアは韓国から商品を購入しているが、韓国製品の性能の悪さに反感まで抱いている。また関係ない事かも知れませんが、韓国人の男女のほとんどは美容整形をしていて「親と子供の顔が全然違う」が当たり前だそうですね。だが、日韓関係をインド・パキスタンのような関係にしてはなりません。例えば、同じく日本の統治下にあった台湾は、日本人技術者による農水事業などで、日本の貢献に感謝し、極めて親日的です。占領には当然デメリットもあった筈だが、「やはり日本の統治があったから近代化できた」と評価しています。そんな台湾の方が韓国よりも「正しい歴史認識」を持っていると私は思います。韓国の財界人第一世代のトップたちは、例外なく、日本の貢献をまっとうに評価し、日本語を話し、日本の大学を卒業した人も多いのです。息子らにも日本語を話させ日本語や日本文化・世界一の日本の技術を学ばせているのです。韓国のスマホもテレビも日本の技術から出来ています。そして「日本メーカーと戦うと負ける」と自覚しています。軍事力についても在韓米軍は陸軍が2万人程度で、海軍、海兵隊はなく、北朝鮮軍にさえ韓国軍は勝てないのです。有事のときは、米空軍は日本の嘉手納(かでな)基地から、海兵隊は沖縄と岩国から、さらに海軍は横須賀・佐世保から韓国に向かうことになるのです。「韓国はもっとも日本に影響を受けながら、もっとも日本を馬鹿にし、悪口を言っている」。だが、時代は変わった。千年などといわず日韓でちゃんと話し合いましょう。尖閣諸島、竹島は私は「フリーズ状態」にする。まずは同じアジアの同胞として、日本と中国・韓国の皆さんとウインウインな関係を共に築きましょう!また張成沢の失脚が事実なら「金正恩独裁体制の終焉」のはじまりでもあります。くだらん独裁には天誅をくだす必要がありますね。日韓全面協力で18年冬季五輪・平昌(ピョンチャン)、20年夏季五輪・東京でだそうです。感情的になっては負けだが、つまり「お金と技術をくれ」ということですね?決定直前まで東京五輪を妨害していた韓国…。本当に大丈夫なのですか?まあ、感情論や憎悪は駄目。彼を知り己を知れば百戦危うからず。2013年7月29日「朝鮮戦争休戦60周年大軍事パレード」が、北朝鮮平壌で行われた。パレードにはスカッドミサイルに農業用トラクターが運搬するミサイル、80年代密輸したヘリ等登場。金正恩や中国の李源潮国家副主席が拝謁した。李氏がジョークを言ったのか金正恩が爆笑する場面もあった。北朝鮮に関しては、核ミサイル保有以外は脅威ではない。改めて朝鮮半島の非核化を望む。またキューバからの輸送船がパナマで検閲にあい、砂糖袋に隠れたミサイルやミグ戦闘機などが発見された事件で、キューバ側が「北朝鮮に修理してもらう予定」であると主張。北朝鮮も認めました。悪辣な国ですよね。2013年6月27日、中韓首脳会議が北京で行われパク・クネ韓国大統領と習近平中国国家主席が「北朝鮮核容認せず」「年内6か国協議開催」で合意した。2013年6月1日、日本の小野寺五典(いつのり)防衛大臣と、米国ヘーゲル国防大臣、韓国の金寛鎮(キム・グァンジン)国防大臣が会談し「北朝鮮抑圧」で一致した。これはいいことである「対話」と「圧力」ならこういうのがいい。「太陽政策」だの只の阿呆だ。2013年5月14日から小泉政権で秘書官であった飯島勲氏(第二次安倍内閣内閣参与)が、何を考えているのか?北朝鮮を電撃訪問した。横田めぐみさんのご両親たちなど「拉致被害者家族」は「何か(拉致問題が)動くかも知れない」と期待していたが、私から言わせれば「飯島氏は阿呆か?」ということだ。北朝鮮は「テロ国家」であり「核開発」「ミサイル開発」「拉致」もテロリスト北朝鮮人たちがやったことだ。昔、金大中大統領(当時)が「太陽政策」等とかで北朝鮮に援助した。だが、裏目にでて「テロ国家」の野望を増長させただけだった。飯島氏はどう考えても戦略があって訪朝したとは思えない。所詮「(援助資金や食糧などの)物乞い」をされただけだ。もし、拉致問題や北朝鮮の脅威を解決したかったら、最大の北の支援国・中国に「ODA全廃」「円借款早期返済」などで圧力をかけて、中国からの北のライフラインを遮断し、「兵糧攻め」にする。その際「北朝鮮の悪辣ぶり」をプロパガンダするのを忘れてはならない。中国に、北政権崩壊後の北からの大勢の難民処理資金を援助するから、中国は得意の人海戦術をしてくれ、といえばいい。戦略なきところに解決はない。彼を知り己を知れば百戦して危うからず、だ。まずは隗より始めよ。最近北朝鮮の瀬戸際外交が目立ちますね。だが、北朝鮮はミサイルを撤去したという。しかし北朝鮮の金正恩は「ソウルや東京を火の海にしてやる」と、いささかクレイジーなまでに緊張状態を作り出しています。詳しいことは後述します。では「北朝鮮のミサイル」とはどういう種類があるのか学んでいきましょう。まずは「スカッドミサイル(短距離弾道弾ミサイル・全長10.9m射程距離300kmから500km韓国全土が射程距離・旧・東ドイツのナチスのV2号ミサイルの改良版)」「ノドンミサイル(準中距離弾道ミサイル・全長16.2m射程距離1300km・日本全土が粗射程圏内)」「ムスダン(中距離弾道ミサイル・全長12から16m射程距離4000km・グアムまで射程圏内今回撃とうとしているミサイル)」「テポドン2号(大陸弾道弾ミサイル・全長30m・射程距離13000km・アメリカ本土に届く可能性あり)」等です。ちなみにミサイル名は北朝鮮が命名したのではなく、米国の偵察衛星が発見した北朝鮮ミサイルの発見場所の地名が「テポドン」であり「舞水端里(ムスダンリ)」だったから米国が命名したのです。北では火星だの金星だのと呼んでいるとかいないとか。またここでは北朝鮮の過去のミサイル発射恫喝の歴史を学びましょう。「1993年5月29日・ノドンミサイル・日本海に向けて実験発射」「1998年8月31日・テポドン1号ミサイル・日本海を越えて太平洋側に落下」「2006年7月5日・テポドン2号ミサイル・日本海に向けてノドン、スカッドら複数発射」「2009年4月5日・テポドン2号ミサイル・「人工衛星打ち上げ」と発表」「2012年4月13日・テポドン2号ミサイル・事前通報あり・衛星打ち上げ後空中分解」「2012年12月12日・テポドン2号ミサイル・事前通報あり・北朝鮮「人工衛星」打ち上げ」ですね。で、2013年なのですが「事前通報なし」「朝鮮戦争休戦協定白紙宣言」「開城(ケソン)工業団地の操業停止(韓国の中小企業123社が進出、北朝鮮労働者5万3000人・年間売上4億7000万ドル(457億円・北損失年7000万ドル))」と益々クレイジーさを見せています。何故「瀬戸際外交か?」は後述しますが「食糧難」と「国威発動」「花火」「物乞い恫喝外交」です。実は米韓合同演習は毎年やっているのですが2013年3月11日から3月23日まで「キー・リゾルヴ(米兵3500人韓国兵1万人・指揮系統の演習)」でB2ステルス機を米軍は動員したのです。レーダーに映りにくく核弾頭7個つめるものです。また2013年3月1日から2013年4月30日まで「フォール・イーグル(米兵1万人韓国兵20万人・野戦演習)」もやっています。ちなみに日本や韓国やグアムにミサイルを撃ち込むか?ですがそんな馬鹿なことはしないし、出来ないという真実があります。北朝鮮は米軍との戦争に勝てないことくらい解っているはずです(正恩小僧が理解しているかは不明)。ちなみにエムネットとJアラートですが「日本にミサイルが発射された6分か7分後に自治体や落下地域に危険地を自動送信」するシステムです。核ミサイルで「火の海」にしてやる、だのいっていますがあり得ない事であると思ってください。グアムや東京やソウルを本当に核攻撃したら、米軍が北朝鮮に報復し、北朝鮮は「全土が火の海」になります。それにしても北朝鮮はギネス記録級の長期独裁国家です。1948年から金日成国家主席が46年間、1994年からは金正日総書記が17年、2012年からは金正恩第一書記が独裁です。金正日は死ぬ前に遺訓というか遺言を残しました。「核と長距離ミサイル、生化学兵器を絶えず発展させることが朝鮮半島の平和を維持する道」「アメリカとの心理的対決(戦争したら負けるから)に必ず勝つこと」です。まあ、クリントンやブッシュ時代に「食糧援助」という甘い蜜を吸っていて恫喝すれば「食糧援助」「米国との平和条約」が成ると思って瀬戸際外交をやっている訳です。北は「アメリカの核による脅威には無慈悲な核攻撃で答える」「発射すれば敵の牙城がすべて火の海になる」と恫喝します。が、過去何回も「無慈悲な攻撃」「火の海にしてやる」と同じ恫喝をしています。脅しに屈しない事こそ大事です。まあ、開城事件で韓国株や韓国への観光客が激減し、パク・クネ大統領は「対話もあり得る」と弱気になっています。しっかりしてくださいパクさん!また北朝鮮には「春窮期(しゅんきゅうき)」という飢餓状態が毎年あります。国内の農業政策が大失敗して、国内で木をすべて伐採し、禿山に段々畑をつくったため雨季に川が氾濫したりして食糧難になります。ですが、核実験や軍備拡張分のお金を食糧危機にあててれば、北朝鮮国民の50年分の食糧が買えるのです。「飢餓状態」=「可哀想、食糧援助を…」という単純なことではありません。正恩坊やはロシアや中国にもいかないくせにMBAの選手とは会談したりして、これまたクレイジーなのです。が、実権は叔母さん(キム・ギョンヒ(金慶喜・正日の妹))叔父さん(ギョンヒの旦那の張成沢、チャン・ソンテク)が握っているといわれています。食糧危機は自業自得であり、我々日本には「拉致問題」などもある事をユメユメ忘れる事ないように、ということですね。戦略的に動くしか北朝鮮問題は解決できない。それを忘れるな、ですね。
北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)が朝鮮戦争の休戦調停を一方的に破棄し、戦争状態、を発令し、長距離弾道弾ミサイルの発射準備をしていることがわかりました。米軍はグアムに迎撃ミサイルTHAADを配置、日本の三沢基地や岩国基地・沖縄等も標準ということで「また瀬戸際外交かよ」という状況ではなくなった。正恩にしてみたら経済も政治も停滞悪化して飢餓まででているのでアメリカ・韓国・日本などをスケープゴートにしてやるしかない訳です。本当にミサイルを発射したら戦争になるので小僧には出来まい。だから、今のうちに日本政府は中国にいって、円借款早期返済やODA全廃で中国を脅してでも(勿論北朝鮮の極悪非道ぶりをプロパガンダし)支援国や中国からの北朝鮮へのエネルギー食糧援助等全部をストップさせ、北を「兵糧攻め」にするのだ。核ミサイルを保有してからでは遅い。もっと戦略みせろよ安倍内閣・自民党政府!日経新聞は2013年3月24日、「ウルグアイ・ラウンドではコメ部分開放、対策費6兆円超」と題する記事を掲載しました。1989年から1994年の関税貿易一般協定・多角的貿易交渉(ガット・ウルグアイ・ラウンド)の際、農業対策に8年間で6兆円超の予算が投じられたものの農業の大幅な競争力強化につながらなかったと指摘。大前氏に言わせれば日本はコメ・農業の影響について騒ぎ過ぎだといいます。2013年で1周年の米韓FTA(自由貿易協定)では関税の引き下げの恩恵を受けた工業品が米国で伸びる一方、農業の影響は限定的です。これは日本のかつてのピーナッツ、さくらんぼ、牛肉、オレンジとかと同じです。千葉県のピーナッツ、山形県のさくらんぼなどは米国から輸入品が入ってきて、むしろ値段が高くなったほどです。コメも市場開放すればいい。きっと日本人はおいしくて品質のいい安全な日本のコメを買うでしょう。騒いでいる農家や農協は「お金が欲しい」だけです。また米国車が売れないのは高い関税が問題なのではありません。欧州車も同じですが品質が悪く、燃費が悪く、競争力のない自動車が日本人にうけていないだけなのです。むしろ米国は日本車が関税ゼロで米国市場に入ってくればGM・フォード・クライスラーが潰れる可能性が大なので「(日本のコメのように(笑))聖域」にする事も十分考えられるのです。
2013年2月25日韓国女性初大統領・朴欋恵(パク・クネ)氏が誕生しました。女史は故・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(60年代から70年代)の実の娘で、母親は父親の命を狙った凶弾で死亡するなど苦労人です。朴正煕大統領も諜報機関の幹部に暗殺されています。経済独裁を敷いた朴正煕大統領の影をどこまで消せるか?女性初の大統領は日韓関係や竹島問題をどうするか?見ものですよね。ですが氏は父親を意識してか、「第二の漢江(ハンガン)の奇跡」を!という。「漢江の奇跡」とは故・朴正煕大統領時代にソウルの一部分だけでおこった経済発展の事をさすが、どうも言葉遊びに終始している感じは否めない。また日韓の歴史認識に関しても「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変えることは出来ない」といいます。全くお話にならない低レベルな次元の見解です。そんなことをいうならフランスとドイツは加害者と被害者を何度も入れ替えながら歴史を刻んでいます。カリフォルニアを奪われたメキシコは今でも米国を恨んでいるのか?氏の演説を聞いても「このひととなら仕事が出来る」というところがひとつもない。まるでコラソン・アキノ女史です。今の韓国の日本に対する反応はあまりにも子供じみています。パクさんとは一緒にビジネスが出来るとは私はとても思えない。残念な人です。
日本政府は、2013年2月12日正午前、気象庁が北朝鮮北東部で地震とは異なる特異な振動の発生を観測したことを受け、北朝鮮が核実験を行った可能性が高いと判断し、安倍総理大臣が、安全保障会議で、国際社会と連携して日本独自の制裁も含めあらゆる手段で対応するよう指示しました。兵糧攻めを進言して今日に至る。では何故に北朝鮮はミサイルや核兵器に拘るのか?当たり前ながら「アメリカ」を交渉のテーブルにつかせる為だ。日本や韓国や台湾には届くミサイル(ノドン)がある。しかし、アメリカのアラスカやカリフォルニアに届かなければ米国からみれば「極東の半島で馬鹿が独裁やっているだけ」でしかない。また核兵器の小型化(核弾頭)もしなければ米国は交渉のテーブルにつかない。米国人にとって韓国人・日本人の命など所詮意味がない。北が日本や韓国にミサイル攻撃しても、在日米人の命は心配しても、たいした意味はない。それが地政学というものだ。米国本土に届かねば関係ない。同じように中国は北朝鮮みたいな「テロ国家」等嫌悪の対照でしかない。北に兵糧攻めして独裁政権が崩壊したら、中国国境に難民が大量にやってくるから北朝鮮を宥めているだけ。北への親近感どころか嫌悪の2文字でしかない。だからこそなのだ。中国にODA全廃や円借款早期返却等で圧力をかけ北朝鮮を「兵糧攻め」にする。その際、中国には「北朝鮮のメルトダウン後の処理費用を日本が出す。その代り中国は人を出してお得意の人海戦術をしてくれ」といえばいい。中国からのエネルギー供給がなければ北は1か月で干上がるという。これは正しいやり方である。テロリストには死を!これが戦略だ。2012年12月12日、金正日死去1周年に北朝鮮が「衛星(ミサイル)」を打ち上げた。北朝鮮が事実上の弾道弾ミサイルを午前9時49分頃発射した。何故北朝鮮は大陸間弾道ミサイルに拘るのか?アメリカを対話のテーブルにつかせる為だ。日本や韓国、台湾に届いてもアラスカ・カルフォルニアに届かないなら米国にとっては「極東の半島で馬鹿が独裁」やっているだけ。すべては米国アピールだ。次期総理・安倍晋三氏はCIAの分析では「頭も体も心も弱い」となっている。彼らの「6年経って安倍は変わったか?」のリトマスが「北朝鮮のミサイル発射情報リーク」であった。結果は呆気なくおわった。反応は「無」だった。「大変遺憾に思う」といえば米国側は言葉の裏にある意味を感じ取った筈だ。北朝鮮のロケットは無事に地球軌道に何か(笑)を乗せたようだ。韓国沖に落下した北朝鮮ロケットの1段目が韓国で引き上げられ酸化剤(宇宙で酸素がないところで燃やす為に酸素を混ぜた毒性の強いロケットエンジン燃料)が確認されました。韓国のロケットの歴史は2009年失敗、2010年失敗、2012年発射延期とダメダメです。人工衛星の技術はあるのですが北朝鮮なんかに先を越されて屈辱でしょうね。2012年11月25日韓国大統領選挙が公示され、与党セヌリ党から朴正煕元大統領の娘で女性党首の朴䔈恵(パク・クネ)氏と最大野党民主統合党の文在寅(ムン・ジェイン)氏が立候補となりました。そして2012年12月19日、初の女性大統領・朴さんが圧勝しました。次期韓国大統領は朴女史です。2012年11月15日は北朝鮮工作員に横田めぐみさんが、1977年11月15日に、新潟県から北朝鮮に拉致(当時16歳女子中学生)されてから35年目になりました。父親の滋さんらも80代になりました。しかし、女子中学生の子供を拉致して、35年経過しても返さないとはさすがは「地上の地獄・北朝鮮」だ。ムカムカする。大変に遺憾である。金正恩第一書記の夫人・李雪主(リ・ソルジュ)が妊娠しているのではないか?と話題になっている。まあ、その子が世襲で北朝鮮を背負う訳ではなく「北朝鮮崩壊」はすぐだ。故・金正日(キム・ジョンイル)総書記の実妹の金慶喜(キム・ギョンヒ)女史が病気であるのではないか?と話題になっている。しばらく公の場に姿が見えないからだという。金女史は甥っ子の金正恩のサポート役であり、病死すれば金正恩体制には大ダメージだ。日朝平壌宣言から10年経過しました。2012年10月15日に拉致被害者5人が帰国して10年になります。が、拉致問題は何一つ解決していません。日本の外交戦略不足が主な原因と言えるでしょう。玄葉だの町村だの田中真紀子だの馬鹿ばっかり。また韓国最大野党・民主統合党は、2012年12月19日の韓国大統領選挙候補に、故・盧武鉉(ノムヒョン)元・大統領の側近であった文在寅(ムン・ジェイン)氏(69)を選出しました。韓国公営企業は純資産価値約14兆円で、韓国国債価格引き上げになった。韓国の公営企業は、資産から負債を差し引いた純資産が1777億ドル(約14兆円)で、経済協力開発機構(OECD)加盟国28か国で最大となった。一方で、韓国の公営企業は負債が483兆5000億ウォン(約32兆円)にまで膨れ上がったという。海外各付け会社は韓国経済のリスク要因と警告している。14兆円は大きなリスクだ。日本の公営企業は全部足してもマイナス。韓国は、ガス、石炭、石油、電力、国際空港、道路、水資源など多くが独占権を与え、税負担を少なくしている。両国の違いですね。欧州の各付け会社は韓国の各付けを「A-」から「AA-」に格上げした。だが、韓国企業が98年の国家破綻からこんなに回復するとは誰も予想しなかったでしょうね。日本も経済はよくないリスクはあるものの日本国債の価値は高い。両国とも失業率は高く各付けはあまり高くない。日本・韓国ともリスクは併在する。韓国人は手放しで喜ぶ前によく考えることだ。日本の民主党政府は韓国の李明博大統領が野田首相の親書を拒絶して送り返してきた問題で「返送に拒否」という姿勢を貫く、と宣言した。野田首相や無能外相・玄葉光一郎氏は「エキサイトともヒステリーとも違うのになんでかなあ。普通一国の首脳の親書を読みもしないで返却するなどあり得ないのになあ」と首をひねっている。何故わからないのだろう?相手が実効支配して韓国の反日の連中に煽られている李明博韓国大統領が、虚勢を張り、もはや反日姿勢を曲げられぬことを。従軍慰安婦の問題解決とかもっとやるべきことがある。だから玄葉氏は無能だというのだ。李明博韓国大統領が島根県の竹島に上陸した。現職大統領としては初で、これを受けて野田佳彦首相は「極めて遺憾。日本政府として毅然とした対応をとる」と述べ演説した。島根県と韓国の同じような距離に竹島がある。島根から約211キロ、韓国から約215キロだ。竹島は主に西島(男島)と東島(女島)の二つで北西に約157キロに隠岐島諸島、北西約92キロにウルルン島(鬱陵島)がある。1618年(1625年説もあり)島根藩の町民が藩の許可を得て、アワビなどを獲っていたらしい。だが、一方で朝鮮民、アイヌ民族、大和民、満州民など漁業をこの海域で昔していたらしく、「かつての歴史では…」というロジックはあまり意味がない。だが、竹島は江戸時代から日本の領土であり、1905年(明治38年)には島根県が竹島を島根県に「編入」している。韓国側としては「朝鮮併合前夜で文句が言えなかったのだ」というエクスキューズもある。その言い訳もわかるが、竹島が明白に日本領土になった瞬間だ。戦後になって日本を実効支配していた米国軍が「竹島を爆撃訓練場」に選んだのも「日本領土」という認識があったからだ。個人的には「只の岩の島」の認識の竹島だが、韓国初代大統領・李済晩(イ・スンマン)が一方的に「李済晩ライン(竹島周辺に石油や天然資源があるとわかり)」を1953年と主張し「実効支配」が確定的になった。だが、日本側が口先だけで文句を言っても「負け犬の遠吠え」でしかない。「武力で実効支配」した側の勝ちだ。しかしだからって自衛隊では戦えない。まあ、「時代」を読め。韓国与党セヌリ党女性初大統領候補に朴攈恵(パク・クネ)氏(朴正煕元大統領(1917~1979)の長女)が選出された。2012年8月10日韓国の李明博大統領が竹島(韓国名・独島(ドクト))に上陸しました。だが、韓国国内は冷めた目で「実績つくりに走った」という。日本側は大反発しましたが無能外相や政治家・外務官僚になにもできる訳もない。所詮は無戦略国家だ。抗議の遺憾の意(笑)をおくっておわり。こんなんじゃ拉致被害者奪還も北朝鮮独裁国家崩壊も無理である。学歴エリートになにができよう。凡庸に「竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に提訴」だという。無茶なやり方だ。何で戦略的に動けないかなあ。金正恩に同行している美貌の女性が李雪主(リ・ソルジュ)という名前の夫人であることがわかりました。李氏は一般家庭出身の元・歌手であり、元・喜び組です。金正恩の最側近の李英鐫(リ・ヨンホ)が解任、事実上の失脚です。北は病気で…と発表しているがそんな馬鹿なことはない。韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の弟の李相得(イ・サンドン)前国会議員(76)が政治資金違法で2012年7月11日逮捕された。しかし、韓国の大統領は1期だけの制度なので現大統領には影響がないとみられる。金正日総書記(2011年12月死亡)はプルトニュウム核兵器だけでなく、ウラン核兵器開発も指示していた事実が明らかになりました。それは息子の金正恩に受け継がれている模様です。恐ろしい国ですね。韓国政府は北朝鮮の核開発費は5260億ドルで、これは飢餓状態の北国民の50年分の食糧費だという。施設建設費13億ドル、施設稼働費27億ドルなどです。また金正恩第一書記は、金正日時代に粛清された6幹部を取り消すという。これは正恩主導体制みたいだが、軍や党ら裏方が決めたものだ。狙いは「慈悲深い金正恩第一書記」のプロパガンダでしかない。2012年4月13日ミサイル「発射失敗」です。2012年4月15日は金日成生誕100周年・金正日生誕70年でして金正恩の肉声(官僚の作文の棒読み)がきけましたね。また核実験をやるのでしょう。こうなると日本版NSC(国家安全保障局)が是非必要になります。国家戦略局みたいな看板倒れにならねばね(笑)。日本の田中直紀防衛大臣は13日、北朝鮮が「人工衛星」と主張する長距離弾道ミサイル発射対応で、藤村修官房長官に情報を伝えようとして電話がつながらなかったそうですね。おそらく北朝鮮はほくそ笑んでることでしょう。日本に配備したPAC-3(パックスリー)迎撃ミサイルやイージス艦がどうかなあ、と考えていたら「電話が三回もつながらず、知らない間にミサイルは韓国沖に空中分解して落ちてた」ですから。不幸中の幸いはミサイル発射が失敗して空中分解して韓国沖に四散したこと。沖縄石垣上空で空中分解しなかったこと、だ。Jアラートも情報もなく、失敗後に韓国からきいて、160分後に事後報告。この日本の防衛力って悪い意味で「ヤバイ」ですね。北は暴走するが、どこを狙うか?中国は味方、ロシアには手が出せない、韓国とは犬猿の仲だが韓国には反撃用のミサイルがたくさんある。日本に届くノドンミサイルは1000発程度ある。日本がもっとも「防衛的に間抜け」で狙いやすい。もうこれは北への兵糧攻めだ。話してわかる相手ではない。2012年4月11日に金正恩が総書記になる予定でした。が、故・金正日が「永遠の総書記」として党第一書記になりましたね。ある日本の週刊誌で「金正恩(キム・ジョンウン)は只のお人形さんだ」という記事がありました。専門家の私も同じ意見です。正恩は只のパペット(操り人形)です。では誰らが操っているのか?「北朝鮮棺七銃士」です。最高会議議長(序列9位)崔泰福(チェ・テボク)、朝鮮労働党書記(序列8位)金己男(キム・ギョナム)、国防委員会副委員長(序列19位)張成沢(チャン・ソンテク、正恩の親戚)、国家安全保障担当第一副委員(序列25位)兎東則(ウ・トンチョク)、朝鮮人民軍総政治局第一副局長(序列24位)金正角(キム・ギョルガク)、朝鮮人民武力相(序列5位)金永春(キム・ヨンジュン)、朝鮮人民軍総参謀議長(序列4位)李英鐫(リ・ヨンホ)、総政治局(序列不明)崔竜海(チェ・リョンへ)、金正日の妹・張成沢の妻(序列不明)金慶喜(キム・ギョンヒ)らです。北朝鮮はこれまで2006年に日本海に向けミサイルを発射、2009年には岩手沖までのミサイルを発射しています。今度は東倉里(トンチャンリ)から1700m級の弾道ミサイル(北は人工衛星というが)を撃ち失敗して海に四散しました。これは国連決議1874号にあきらかに違反しています。そもそもアメリカは北に舐められ過ぎです。ミサイルの件で「食糧援助を凍結」しました。が、米国はもっと前にスパイ衛星でわかっていた筈です。拉致問題も暗中模索状態です。なんだかな。G8外相会議で日本政府は「北朝鮮の弾道ミサイル(人工衛星)の打ち上げ非難声明」を主要各国に要請した。だが、ミサイル発射を失敗した。2012年4月11日、第4回朝鮮労働党代表者会議で金正恩が党のトップに就任しました。故・金日成から故・金正日への権力移行が4年間なのにわずか4か月で「党第一書記(事実上の最高権力者)」になった訳です。また北朝鮮の弾道ミサイル発射(北は人工衛星)といっているが、発射を失敗している。北朝鮮の金正恩は何の手柄もないからと功を焦っている。ちなみに日本の自衛隊はイージス艦を4隻ミサイルの軌道である沖縄や南シナ海に展開、地上からの迎撃用のPAC-3も沖縄や石垣島に展開していた。だが、MD(ミサイル・ディフエンス)は拳銃の弾丸を拳銃の弾丸で迎撃するようなものだ。1度MD実験に成功した、と言えば聞こえがいいが迎撃用のミサイルの軌道のデータを細かく入力したから迎撃できたのだ。大事なのは迎撃がどうか?ではなく外交で痛い目をあわせ「瀬戸際外交」をやらせないことだ。支援国・中国に円借款早期返還やODA全廃で圧力をかけ、世界に北の悪事を知らしめ「兵糧攻め」だ。もっと日本人には策士になってほしいものだ。まずは隗より始めよ。
また北朝鮮の故・金正日の三男・金正恩がご乱心でした。父親の模倣でミサイル発射指示の「瀬戸際外交」でした。だが、彼は馬鹿ですね。もう同盟国の中国の胡錦濤・温家宝も習近平も「また瀬戸際外交かよ。勘弁してくれ」ととほほな本音が理解できない。こんな国、核ミサイルさえなければこの地球上にいらない国です。我々の正常な常識でみれば「極東の半島で阿呆が独裁やっているだけ」。ミサイル発射だの核開発でのまるで赤子が母親の乳欲しさに泣いているようにしか感じない。こんな国いらない。世界もこんなくだらぬ国いらないと思っている。中国だって支持してる訳ではなく体制崩壊後の難民流入を恐れているだけ。そんなこともわからぬ金正恩は「間抜け将軍」だ。暗殺までカウントダウンがもう始まっている。独裁ももうすぐおわる。韓国総選挙も保守が勝利、北はミサイル発射失敗でダメダメです。くだらない瀬戸際外交は暗殺へのカウントダウンにリンクするだけですよ。なんでわからんかなあ。金正恩がクーデターを警戒して「懐に刀や銃をもつものを処理(殺害)せよ」と命令を出していることがわかりました。まあ、どっちみち暗殺されますね。2011年12月に極東のヒトラー金正日総書記(享年69)が死んだ。後継は三男の正恩になったが今こそテロ国家・北朝鮮崩壊と拉致被害者奪還のチャンスである。まずアメリカにいき在日米軍空母などを日本海に展開させ「威嚇」してもらう。そして中国にいき「北朝鮮の悪」を万人に知らしめて「北崩壊後の難民の費用を出す」と約束するのだ。そのうえで「北朝鮮への兵糧攻め」だ。もし中国が渋ったら「円借款早期返還」「ODA全廃」で脅せばいい。金正恩や張成沢らが次のカードを切る前にやれ。少なくとも金正日に弔辞など送るなよ。これがすなわち「外交戦略」である。チャンスは今しかない。官僚の作文棒読みの玄葉外相しっかりしろ!金正日(キムジョンイル)総書記が2011年12月17日「急病」により死亡しました。享年69歳だという。独裁者の死は明るい話題だ。現地指導中に急病で死んだらしい。後釜の金正哲・金正男・金正恩には何の力もない。北朝鮮は今後瓦解するだろう。まずは吉報でありがたい。死んだぞ(笑)。これから日本側がやらなければならないのは「兵糧攻め」だ。支援国・中国に「円借款早期返却」「ODA全廃」などで圧力をかけて北朝鮮支援ルートを断つ。と、同時に在日米軍艦隊を日本海に展開させ威嚇する。そうすることで「北軍部クーデター」を狙うのだ。そして北崩壊後「最大限の復興資金」を貸しつければいい。敵を知り己を知らば百戦危うからず、だ。

蒼に月に 忠臣蔵伝47RONIN年末特別ブログ連載忠臣蔵小説4

2013年12月17日 05時39分28秒 | 日記
         4 放蕩






  ここで少し、なぜ吉良家と上杉家は親密なのかについて語らなければなるまい。
上杉家とは、当然ながら家祖は上杉謙信である。(拙著『上杉謙信』参照)
 上杉謙信はホモではなかったが変人で、嫁ももらわず子もなかった。
 そこで姉の子を養子(のちの景勝)にし、また北条氏の子(景虎)も養子にした。時代は戦国時代……そんな中、謙信は酒の飲み過ぎによる脳溢血で死んでしまう。
 当然ながら、上杉家は景勝と景虎による内戦「お館の乱」がおこる。
 そこで景勝が勝って上杉二代目として越後(新潟県)に君臨するが、秀吉の天下になると戦わずして景勝は服従する。そして秀吉により会津(福島県)二百七十万石に転封される。   が、やがて秀吉も数年後には死んで、ふたたび石田三成(豊臣・西軍)と徳川家康による東軍が関ケ原で激突。上杉は西側について敗北して、家康により会津(福島県)二百七十万石より出羽米沢(山形県米沢市)三十万石へと減封され、そこに移りすんだ。
 本来なら徳川に歯向かった訳だから、藩取り潰しも考えられた。が、「名門だから…」という理由で禄高と領土を減封されただけで済んだのである。
 そんな上杉家は子宝に恵まれないもので、景勝の次の藩主もまた養子だった。
 謙信から数えて四代目が上杉綱勝で、このひとは二十七歳であやしげな病死をしている。このひとには子も兄弟もいない。かろうじて妹にあたる上杉三の姫・富子と吉良上野介の間に出来た子だけがいた。
 そこで幕府は、
「謙信以来の名門の藩を取り潰すには惜しい」
 として、外孫にあたる吉良三郎を養子として上杉家に迎え、領地を三十万石から十五万石に減封して上杉家を存命させた。この三郎が、のちの上杉綱憲である。
 米沢藩主・上杉綱憲と吉良上野介は親子という訳だ。
 そこで、上杉のものが吉良邸に登場する……という訳である。

  話しを少し戻す。
 赤穂といえば塩である。しかし、元禄時代の前に血ヘドの吐く思いをして改革を行ったのは大石内蔵助ではなかった。それは大野九郎兵衛という男である。
「塩はもう伸びぬ。……わしは赤穂の塩がこれ以上荒れねばとそれだけを心配しておる」 大野は弱音を吐いた。
 せっかく改革を行って塩が軌道にのりかかったときに、また塩業が衰退しだしたのだ。しかも、大野は改革でリストラして人減らしを行っており、藩内での評判は最悪だった。 この大野という男は改革の才能をかわれて六百五十石の家老にまで成り上がったのだが、それでも何もしてない若造の大石内蔵助より序列は下で、禄は半分以下だったという。大野は不満で苦悩していたに違いない。
 しかし、そこに、
「それは違います。よそに新塩田ができたのなら、赤穂はさらにその先をいくやりかたでご改革をすればよろしいではありませぬか。そのための方法はあります」
 といいだす者が現れる。
 小説や映画やテレビドラマでは、石野七郎次という名の若者(架空の人物)として集約されている経済技術官僚である。
 この石野七郎次数正は、実在した五~七人の官僚をひとりに集約した架空の人物である。  この架空の人物のしたことは、戸島新浜の造成、塩の品質統一、俵の規格統一、薪柴の共同購入制度の採用とそれに対する課税(煙役)など、すべて事実として行われたことであるという。また赤穂藩取潰しのあとでも、塩事業管理のために団体(組)がつくられた。 浪人となった赤穂藩士たちが、食いぶちのために始めたものだという。


  播州赤穂城明け渡しから半年が経っていた。
 大石内蔵助は主席家老として残務処理のために江戸にいくことになった。
 上杉は敏感になっていた。
 すでに赤穂には何人もの間者を潜ませていた。
「内蔵助らが吉良邸へ討ちいるのではないか……」そんな憶測が飛び交っていた。
 内蔵助の息子・主税は、
「父上、とうとうやるのですね?」と尋ねた。
 すると内蔵助は、
「残務処理にいくだけじゃ」という。
「吉良の御首は……?」
「それは口外するでないぞ」
「しかし、それでは浪人となった藩士たちが納得しませぬ」
「主税!」内蔵助は強くいった。「急いては事を為損じる」
「……父上! 切腹もせず、討ち入りもせず……われらは世間に嘲笑されていまする」
「笑わせておけばよい」
 内蔵助は賀籠に乗り、共の者たちと江戸へ発った。
 その頃、江戸では堀部安兵護が偽名で町道場を開き、江戸を拠点に不破数右衛門らが吉良邸の様子を探っていた。
「どうだった?」
「上杉の連中がうようよいた! あれは腕がたつ者たちだぞ」
 不破数右衛門は溜め息をついた。
「それにしてもあの『昼行灯』め! もう殿の切腹から半年が経つというのに……なぜ吉良上野介の御首を討らなんだ?!」
 堀部安兵護は「内蔵助さまにも考えがあるのだろう」という。
「考え? ……こうしてる間にもどんどんと赤穂浪人たちが脱落していく……もう限界だ」「相手は老人、老衰でもして死なれたら……仇討ちどころではない」
「われらは笑い者になる」

  大石内蔵助は源蔵らをともない江戸についた。
 討ち入る訳ではなかった。
 まず幕府に顔をみせ、残務処理をして、亡殿・内匠頭の元正室、阿久里のもとを訪ねた。「大石内蔵助にござりまする」
 平伏した。
 まだ若い阿久里は、憔悴していたが、女子の色気はむんむんだった。
 内蔵助は思わず、帆柱立つところだった。
「……ごくろうでござりました」
 阿久里はか細い声でいった。
「ははっ!」
 その一方で、大石が江戸に着いたということで、米沢藩江戸邸の上杉家ではざわざわしていた。頭の少しお留守な綱憲のかわりに、側近で家老の千坂兵部が”内蔵助の動向”を探らせていた。
「どうじゃ? 赤穂たちは動くか?」
「いえ。動きませぬ」
 間者はいった。
「大石は動かぬと?」
「いまのころは…」
 千坂兵部は安堵して、
「やはり昼行灯という大石の噂は本当だったのか。しかし……用心は必要じゃ。なおも大石たちの動向を探れ!」
「はっ!」
 間者は去った。
  大石内蔵助らは山奥に引っ越していた。京の山科である。
 内蔵助の子供はいっぱいいたが、みなからかわれていた。
「赤穂浪士ではなくあほう浪士だ! あほう! あほう!」
「大石ではない軽石じゃ! 軽石じゃ!」
「なにを!」
 内蔵助のちいさな息子がいいかえそうとするが、今度は投石される。
「やめんか!」
 主税がとめた。子供たちは逃げていく。「あほう浪士~っ!」
「相手にするな!」
「しかし兄上、くやしうござりまする!」
「もう少しの辛抱じゃ! 今に世間をあっといわせてやる!」
 主税は願いをこめていった。
 ……かならずわれらは吉良の御首をとってみせる!
「江戸の連中をとめておいてほしい」内蔵助は江戸で元・家臣たちにそう告げて去った。

         
  内蔵助は江戸から戻り京で『廓遊び』にあけくれた。
 京女をはべらかせ、大酒をのみ、女を抱いた。
 いやらしいこともした。今でいうセクハラまがいのこともした。
 夜な夜な女子を相手にいやらしい行為をした。
 大石内蔵助が京・山科に移り住んだのは元禄十五年秋のことであった。
 それからは、仇討ちも忘れ、放蕩にふけった。
 女とのなには気持ちいいもので、内蔵助は快楽に酔っていた。
「忠臣蔵」の研究がすすむ中で、この大石内蔵助の業績らしき業績が見付からないという。このひとはおそらく家柄のよさだけで筆頭家老となり、四十四歳までただ「ムダ飯」を食っていた。それは、大石が千五百石の家老でありながら少年時代を除くと、藩お取潰し前には、一度も江戸にいってないことでもわかる。
 只の無用のひとだった訳だ。
 上杉や吉良を油断させるために放蕩を続けた訳ではなく、自然とそうなっただけのことだ。後で子を孕ませるお可留にしても、セックスが好きで妊娠までさせたのだ。
 こうした「無用の人」が何故あれほどの討ち入りが出来たのであろうか?
 歴史家は常に悩んでいる。
 こういう人物はどこにでもいるが、急に江戸時代の英雄になるのだから歴史は面白い。 たぶん周りの”仇討ち派”の勢いにおされたのであろうが、よくぞ吉良の首をとれたものだ。しかし、こういう無能な思考のひとだからこそ仇討ちという暴力テロを出来たともいえる。インテリならばあとのことを考えて、悩むものだ。
 ……残された妻や子はどうなるだろう? 周囲の評価は? 吉良の御首をとってどうするのか? 歴史に名を残せるか? 銭はどうするか?
 しかし、元来、単純な大石内蔵助はそこまで考えない。
 だからこそ大野九郎兵衛が改革を実行できたのであり、討ち入りまで出来たのだ。
 討ち入りまでの一年九ケ月もの間、浪人たちはいろいろな考えをもっていた。
「仇討ち派」「自然消滅派」「お家復興派」……
 しかし、大石内蔵助は態度を明確にしない。
 もし大石がインテリで、どこかの派閥に力を入れていたらたちまち分裂し、内ゲバがはじまっていただろうという。
  討ち入りの際も計画も立てず、おもに計画は吉田忠左衛門や原惚右衛門や堀部親子に立てさせている。よくいえば「無欲なひと」であり、ハッキリいえば「無能なひと」それが大石内蔵助であった。

  江戸では堀部安兵衛と妻のおそねが愛しあっているところだった。
 夜な夜なあえぎ声やうなる声、エロティックな声がきこえる。
 無理もない。まだ安兵衛は若い。妻だって若くて欲求不満だ。
 いやらしいことも必要なのだ。
 その朝、磯貝や原たちがやってきた。
「あの昼行灯は京で遊びまわっているそうじゃ!」
 磯貝は苦笑いした。
 安兵衛は「敵をあざむき、味方をあざむいているのか……」と大石を評価した。
「甘い! あの男は只、遊んでいるだけじゃ!」
「いや、あの方は上杉の間者たちを欺いているのだ」
「何にしても三月十四日までだ!」
「一周忌か」
 しかし、浅野内匠頭の一周忌がきても大石は動かなかった。
「どういうことなのだ?!」江戸の浪人たちはいぶかしがった。
「もう待てん! われらだけで吉良の御首を!」
「待て! 早まるな!」
「われらには忠義がある!」
「負け惜しみだ!」
 江戸の不穏な動きはおさまることを知らない。
 しかし、大石内蔵助は放蕩をやめなかった。
 芸子たちを抱き、酒を呑み、踊った。
 やがて、内蔵助は外にふらりと出て、茶屋の椅子に泥酔して横になってしまった。
 そこに薩摩藩士・村上が通りかかった。
「これは赤穂のご家老・大石内蔵助殿か!」
 村上は涙目でいった。「敵をあざむくためにこのような放蕩を続けるとは立派な方じゃ。 その勇気は信長公さえも越える。拙者、薩摩藩士・村上平衛門と申す!」
 しかし、内蔵助はぐうすか眠ったままだ。
「格好はどうあれ、その刀はするどく研がれていることでありましょう」
 内蔵助は動かず、酒くさい息で眠っている。
「吉良の首をとるのはこの刀でごわすか?」
 村上は大石の脇差しを手にとり、「この鋭い刃にて敵を…」抜いて見ると錆ついていた。京の女たちは大笑いだ。村上は拍子抜けした。
「いや……しかし、脇差しで無念を晴らす訳もない。この刀こそ……」
 内蔵助の長刀はやっぱり錆びていた。
 どっ! と笑いが起こる。
 村上は激昴して、「馬鹿らしい! この男は本当にふぬけになって放蕩を続けているだけじゃ!」と吐き捨てた。本当にそうだったのであろう。
 村上たちはひきあげた。
 京では嘲笑が止まらない。
       
 ……赤穂浪士ではなく、あほう浪士だ!
 ……あいつは大石ではない。軽石じゃ!
     
  ついに息子・主税は怒った。
「父上、いいかげんになさりませ!」
「主税……急ぐでないぞ! 急いてはことを為損じる」
「しかし…」主税は続けた。「もう亡殿の一周忌が過ぎました。江戸の元・藩士も「もう待てぬ」と申しております! このような大事なときに女子とたわむれるなど外道にござる!」
「焦るな………上杉の間者が潜んでおる」
「同じ浪人の橋本平左衛門は廓女と心中しました! 父上がはっきりと行動しないからです! 父上が殺したも同然です。他の家臣たちもばらばらです。みないなくなりまする! 父上とわたくしだけでは吉良は討てませぬ!」
「……主税……急ぐでないぞ!」
 内蔵助がまた酒を呑もうと杯を口にもっていくと、ついに主税もキレた。
「馬鹿親父!」
 杯を跳ね飛ばした。
「………主税……急ぐでない」大石内蔵助は余裕の微笑みを口に浮かべた。
  江戸の吉良邸では、出羽米沢の上杉家から腕のたつものが派遣されていた。
 稽古に力が入る。自然と騒がしくなる。
 吉良上野介は「うるさいのう。なにごとじゃ?!」と怪訝な顔でいう。
「綱憲さまからの派遣侍でござります。殿のお命を守るためです」
「ふん! 田舎侍どもめ! あほう侍など攻めてこぬわ!」吉良は笑った。      

米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説3

2013年12月16日 04時43分50秒 | 日記
         改革



  治憲は江戸の米沢藩屋敷の庭を散策するのを日課としていた。
 庭はあまり広くないのだが、朝の散歩はとてもここちよい気分にさせてくれた。少なからず目の前の不幸を忘れさせてくれるかのようだった。
 朝も早いためか、きらきらとした朝日が庭に差し込み、庭が輝いても見えた。それはしんとした静けさの中にあった。
 治憲は散歩の足を止め、朝日を浴びてきらきらとハレーションをおこす小さな池を指差した。一緒にいた若き側近、佐藤文四郎も池を見た。しかし、そこにはいつもと変りのない池があるだけだった。治憲は確かに、不思議な印象を与える人物だった。年は文四郎と同じように見えた。すらっと細い体に、がっちりとした首、面長の鼻筋の通った青年で、クールな力強さを感じさせた。着物もぴったりしているが、瞳だけは違った。彼のまなざしは妙に深く、光っていた。瞳だけが老成している、といえばいいのか。佐藤文四郎もハンサムだが、髭面で汚かった。
 佐藤文四郎は、「御屋形様、いかがなさいましたか?」、と尋ねた。
 それに対して、治憲は言った。
「文四郎………この池の中の魚をどう思う?」
「魚……でございますか?」
「うむ」
「さぁ………」佐藤文四郎の顔がクエスチョン・マークになった。そして、公の答えをまっていた。
 治憲は言った。
「この池はあらゆる藩。そしてこの中の魚はあらゆる家臣たちだ。泳ぐ魚をみてみるがよい。鯉は自由自在に泳ぐ。つかみどころのない鮒。池の中にありながら泳ぎを忘れないハヤ。しかし………国元の米沢の家臣たちは金魚だ」
「金魚?」
「そう。金魚だ。みずから泳ぐことをしない。…………今、私の改革の手助けをしてくれるのは……誰だろう?」
 ふたりはしばし沈黙した。
 それから、治憲はハッとしたような顔をしてから佐藤文四郎に、
「本国の重役たちから好かれてない人物たち。改革の志を持った者たちをあつめよ」
 と命じた。
 文四郎は呆気にとられた顔をしたまま「私もそのひとりですが…」と呟くように言った。 すると治憲はほわっとした微笑みを口元に浮かべて、魅力的な横顔のまま、
「だからこそ頼むのだ」と答えた。
「はっ!」
 佐藤文四郎はすぐに動きだした。

 こうして、竹俣当綱(37才・千石・前江戸家老・現在閉職)、莅戸善政(33才・百八石・馬廻組)、藁科松伯(31才・米沢・待医・細井平洲門下)、木村高広(37才・二十五石・御右筆)らが呼ばれた。莅戸や木村はとてもいい顔で、華奢な体つきだ。木村は少しうらなり顔で、莅戸善政は背も低く、おちょぼ口で、しかし堂々たる男であった。
 奥座敷ではすでに上杉治憲と江戸家老の色部照長が待っていた。
 色部照長は初老の男で、がっしりとした体躯のわりには気の小さな男であったという。この色部の前の江戸家老が竹俣当綱だったのだが、国元の重役たちのクーデターによって竹俣は失脚させられたのだった。失脚のことを思うえば思うほど、焦り、怒りで体が震えた。
 集まった竹俣ら四人集と佐藤文四郎は座敷に足を踏み入れ、正座して、頭をさげた。
「御屋形様、連れてまいりました」佐藤文四郎が言った。
「うむ。ごくろう」
 竹俣ら四人集は「御屋形様、ごきげんうるわしう」と言った。
「うむ。おぬしらに話しがある。さっそくだが………ここにいる色部が毎月金を借りにいっている商屋に金を借りにいった。が、断られた。もはや、誰も米沢藩に金を貸してはくれぬ。それについて色部から意見がある。よく聞くように」
「はっ」
 色部照長はためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、心臓が二回打ってから話しだした。
「御屋形様からのお話しの通り……もはや誰も米沢藩に金を貸してはくれません。藩の台所は火の車でして………正直なところ……そのお…」
「色部、申せ」
「はっ」色部照長は少しためらってから「……もはや米沢藩の命運尽きたかと。もはや…幕府に藩を返上して…一からやり直すのが得策かと。もちろん家臣。藩士はじめ、皆、浪人になりますが……このまま死ぬのを待つよりはマシかと…思います」と呟くような苦しい声でいった。心臓がかちかちの意思になるような感覚に、色部は驚いた。
 治憲は「うむ。」と頷いてから「なるほど、そういう考えもあろう」と言った。そして、続けて、ハッキリとした口調で、
「しかし、私はこう考える。私は日向高鍋から養子にはいったばかりだ。それがすぐに藩をつぶしてしまったのでは謙信公以来の藩主に申し訳がたたぬ。同じ潰すなら、やれるだけやってみようと思う。米沢藩を立て直し、自立できるようにする。しかし、私のいっている改革は藩に金を集めることではない。領民の幸福のための改革だ。そこで、おぬしらに命ずる。………改革案をつくれ!」
 と言った。
 色部照長はまた少しためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、
「………しかし…」といいはじめた。
「色部、申せ」
「はっ」色部照長はまた少しためらってから「……御屋形様のお考え、まことにご立派。しかし…このような重要なことは…まず国元の重役たちに相談してからのほうがよろしいかと……」
 それにたいして治憲は「いや。」と首を軽く振ってから「それではことが進まぬ。米沢藩はいまや大病にかかっている。すぐにでも大掛かりな手術が必要なのだ。おぬしらの怒りを改革案にぶつけよ! 米沢を生きかえらせるのだ!」
 と言った。それすざまじい気迫のある声だった。
 こうして治憲(のちの鷹山)の改革はスタートしていくので、ある。

  米沢・前藩主・上杉重定は放蕩の限りを尽くしていた。
 ……能に酒に若い女……重定は藩財政の窮乏そっちのけで贅沢三昧の生活を続けていた。”無能”重定は自分の藩がどれだけ財政難か、という簡単なことさえ理解してなかった。  これにたいして竹俣が、治憲に申告した。
「御屋形様!」
「なんだ?」治憲がきくと、竹俣が、「重定公は放蕩の限りを尽くしております」
 と、怪訝な顔でいった。
「……うむ」
 治憲はなにもいわなかった。
 竹俣は「御屋形様から大殿様に節約を進言なされては?……藩の財政は窮乏しておりますれば…」
 竹俣の言葉を治憲がさえぎり、治憲は寂しそうな顔で微笑み、
「大殿さまに自由に遊ばせてあげてくれ」というばかりであった。
「……しかし…」
 竹俣当綱は何かいおうとしたが、やめた。これも御屋形様の優しい配慮なのだな、と考えたからだった。
  重定は、さきの藩主宗憲、宗房に子がなかったので、幸運にも、跡釜になっただけの男である。凡庸にして無能…。その無能さが森利真の独裁を許し、また森の前の清野内膳
                           
秀祐に、前主から続く二十六年にもわたって独裁政治を許した。
 しかし、重定の前から米沢藩は窮乏しており、米沢藩窮乏をすべて重定のせいにするのはかわいそうである。
 しかし、あきらかに重定は”無能”…であった。
 だからこそ、その反発から、のちの名君・上杉鷹山が誕生することになったのだ。


         大倹令




 改革案作成のため、竹俣当綱、莅戸善政、藁科松伯、木村高広ら4人の男達に官邸の奥の部屋が与えられた。
 そこで4人は5ケ月を費やした。
 改革案は多岐に渡り、非常に優れていたが為に、作成には手間ひまがかかった。そのために5ケ月を費やさなければならなかった。が、結果としていいものができた。
 その改革案がまとまったころには、竹俣当綱、莅戸善政らの顔の髭は伸び、ちょんまげの髪はバラバラになり、服はぼろぼろになり、それは見苦しかった。しかし、それでも男たちは気にすることなく、改革案に満足するのだった。
「よし、出来た……これだ!」
 竹俣当綱はニヤリと笑って、筆をおいた。
 ちょうどそんな時、
「失礼つかまつる」
 と、佐藤文四郎が訪ねてきた。
「おお、文四郎。なんじゃ?」
「御屋形様からの差し入れにございます」       
 佐藤文四郎はそういうと、籠にはいった美味しそうな葡萄を差し出した。
「おお、葡萄か。これはうまそうじゃ」
「御屋形様も気がきくな」莅戸が言った。
 そして竹俣ら4人は葡萄をほうばった。で、
「文四郎………そちも食え」と竹俣当綱は言った。
「いいえ、なりません。この葡萄は御屋形様から皆さんへの差し入れにございます」
「堅いこというな、食え!旨いぞ」
「いいえ、なりません!」
 佐藤文四郎は頑固として首を振った。それにたいして莅戸が、
「文四郎……おぬしも頑固だな」と笑った。
「そうそう」それからしばらくして竹俣当綱が思い出したように、
「米沢藩の改革は藩士、家臣だけ……という訳にはいかん。御屋形様にも率先してやってもらわなくてはならん。文四郎、それについて御屋形様から何かきいておるか?」と尋ねた。「はっ、御屋形様も率先して改革に協力する所存かと」
「そうかそうか」竹俣は文四郎の答えに満足気に頷いた。
「………改革案はできましたでしょうか?」
「うむ…」莅戸が首をひねってから「それなんだがな、文四郎。ちょっと困ったことがあってな」と言った。
「なんでございましょう?」
「奥女中を減らそうと思うのだが……」
「何人…でございますか?」
「9人」莅戸や竹俣当綱がハッキリとサバサバした口調で文四郎に言った。
「9人?……奥女中が六千人いる中から9人だけ減らす…と」
「いや、違う!5991人に暇を与えるのだ。つまり……結果として残る奥女中が9人…ということじゃな」
「なんですと?! 六千人いる中からたった9人だに? しかし…紀伊さまはお体もすぐれず…」「そこじゃ!」唖然とする文四郎をよそに、竹俣は続けた。「やはり残すのは10人のほうがよいか?それとも8人か?………文四郎、おぬしはどう思う」
「………わかりません!」
 文四郎はどう答えていいかわからず、そう言うしかなかった。
 しばし沈黙ののち、
 莅戸や竹俣当綱らが、
「そういえばこう悩んでいるとあの時を思い出すのぉ」としみじみと言った。
「……森か?」
「そう森平右衛門利真じゃ」
 ふたりはニヤリと言った。



         元凶、森平右衛門利真




  莅戸や竹俣当綱は思い出していた。
 数年前……。まだ治憲が幼い頃の米沢藩……。そこには、元凶、森平右衛門利真がいた。竹俣当綱はその当時、江戸家老で、千坂から手紙を受け取っていた。
千坂とは、千坂対馬高敦のことである。
「うむ。」といって、竹俣はもう一度手紙をひろげて、目を走らせた。
 手紙は、その当時の郡代所頭取と御小姓頭を兼ね、藩政を一手に切り回している米沢藩最大の権力者・森平右衛門利真の近況を伝えていた。
「ふむ」
 竹俣当綱はそう唸った。そして、
「つまり、森を排除せよ………ということじゃな?」
 と独り言をいった。
 確かに、そのような内容だった。
 また手紙には、
”………森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…”
 とかなんとかで結んであった。つまり、
「責任は俺がすべてとれ……か」
 竹俣はボソリと言った。
 …森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…我々は知らぬ存ぜぬ…?なんともまぁ手前勝手な。竹俣当綱は人一倍濃い髭をなでて、「勝手なものだ」と独り言った。 なんというオポーチュニズム(ご都合主義)だ。
 竹俣当綱のいかつい髭顔が、渋面になった。
「だが………森をのぞくのには反対ではない」
 いや、むしろ除くべき人物である。
 当綱が伸び始めた髭を片手でなでていると(朝剃ったのが濃いために生えてきた)、ギシギシと床のきしみ音がした。米沢藩は困窮のために、国元の城屋敷どころか桜田門の江戸屋敷の床や屋根のいたみさえも直せなかった。金がない、金、金、金、金欠……なのだ。 近付いてきたのは藁科松伯だった。
「ご家老はおいでですか?」
 藁科松伯の声がきこえた。だから、
「おりますぞ。どうぞ中へ」
 と竹俣当綱は答えた。それと同時に、自分から率先して襖を開け、中へ入れた。
 それは師のためであり、藁科の非力な力ではかたむいた襖は開けずらいのを考慮してのことだった。この当時から藁科松伯は病気がちだった。肺と心臓が悪く、虚弱体質のために手にも足にもどうにも力がはいらないのだ。
「どうもご家老」
 藁科松伯がにこりと微笑んで言った。
 彼は医師ではあるが儒学にも卓越した才能と知識をもつ人物で、上杉直丸(のちの鷹山)の教育係りだった。若輩ながら国元の米沢で家塾を開き、竹俣当綱や莅戸九郎兵衛善政、木村丈八高広などの傑出した人物を世に送りだした人物でもある。
 竹俣当綱は一礼して労をねぎらい、
「ごくろうさまです、ところで直丸殿のご教育のほうはいかがですかな?」
 と尋ねた。
「それがです、ご家老」
 藁科松伯が言った。
「もともと実直で勤勉な性格のお方ゆえ、勉強がはかどります。よほどの才能を持っていらっしゃるのでしょう」
「……うむ。そうですか」
「はい」
 彼は頷いた。
 直丸は昨年の宝暦十年に正式に米沢藩主上杉重定の養子に決まり、麻布の高鍋藩から外桜田の米沢上屋敷に移ってきた少年で、年は当時十二歳だった。彼は、その才能から、江戸の米沢藩士たちから「臥竜(がりょう・野に隠れて世に知られぬ大人物)」と期待されてもいた。
「……直丸殿はまさに臥竜です」
 松伯がにこりと言った。
 藁科松伯は禿頭で、姿勢も正しく、きりっとした学者肌の二枚目だった。病気のために何度か咳こむことはあったが、立派に背筋をのばし、とても好印象だった。態度や性格は謙虚そのもので、こういうひとを本当のエリートと呼ぶのだろう、と感じさせた。
 だが、病弱なのは紛れもない事実で、竹俣などは
 ……師がこのままあの世に旅立たれるのでは……?と不安になること度々だった。
 藁科松伯は明晰の人だった。
 家塾で経書を講義するかたわら、竹俣などに米沢藩の財政や政治、経済再生の案などを話したりもしていた。だから、もし今芽生えつつある改革の前にしてこの師を失うことになれば大変残念である……だが、
 先生は医者だ。ご自分のことは誰よりもわかってらっしゃる。心配無用……だ…?

「直丸さまは、ただ賢いだけではありませんぞ、ご家老」
 藁科松伯は活発な声で言った。
「ほうほう」
 竹俣当綱は請け負った。「それは…さもありなん」当綱は勘のいい男だ。松伯がまだ言いたいことがあるのはわかっていた。だから、
「今日は他になにかありもうしたか?」
 と尋ねた。
「はい」藁科松伯は言った。「今日、世子さまがお泣きになられました」
 竹俣当綱は大きな目を丸くした。……世子が泣いた? 十二歳にもなって人前で泣いたというのか……。なんと軟弱な……。泣いた?………なぜ?
「ご勉強の後で、いつものように米沢の話をしました」
 藁科松伯は言った。彼は、直丸に藩主としての心得として、米沢藩の歴史、気候、財政、産物、政、人情といったものをじっくりと教えていた。江戸生まれの、しかも三万石の小藩の直丸にとっては、この教育は大事に思えた。さいわいにして、直丸は国元の話に興味を示した。講義の合間に、少年とは思えない鋭い質問をすることに、藁科松伯はビックリさせられっぱなしだった。…けしてなおざりに聞き流してるのではないことは十分にわかる。だから、松伯はこっちの講義にも力を入れた。
「本日は、わが藩の人別銭について話しました」
「困窮しているとはいえ……あれは稀にみる悪税じゃ」
「お泣きになられたのは、その人別銭の話しが佳境にかかったところででした」
 藁科松伯は頷いた。そして続けた。「講義の間、世子さまは頭をもたげ、伏し目がちになっておりました。これはお行儀が悪いことだと注意しようとしました所、なんと直丸さまはその姿勢で泣いておられたのです」
「ほう、……泣いた?」
「はい。それで、何故お泣きになられているのかききました。その間、直丸殿の両方の瞳から熱い涙がぽたぽたと頬を伝わり、畳に落ちます。……どうなされましたか?と」
「それで?」
「はい、そして直丸殿は懐紙で涙をふき、不覚を詫びた後、それでは国元の米沢の家中、領民があまりにもあわれであると」
「憐れ?」竹俣当綱はびっくりした。
 十二歳の子供が意見を言った。……意見? いや、違うな。きっと、自分がそのような情ない困窮藩の藩主になるのが嫌で泣いたのかも知れぬ。きっとそうだ。
 竹俣当綱はにやりとひとり苦笑した。
 ちなみに、人別銭とは人頭税のことで、世にも稀な悪税だった。問題なのは領民ひとりひとりそれこそ赤ん坊から老人・男女問わずに税をとる。しかも、米沢だけでなく江戸の米沢藩人からも税をとるところだ。この人別銭(人頭税)を考えて実施しているのが森平右衛門利真だった。貧すれば鈍する…で、困窮・米沢藩はこのような汚い税収に頼らなければならぬほど「憐れ」だった。税史の通った後は草も生えない…といわれるほど。
「なるほど……「憐れ」か」
 竹俣当綱はもう一度、ひとり苦笑した。
 そんな時、
「ご家老」と、藁科松伯は言った。
「われわれはたぐい稀な名君にめぐりあったのかも知れません」
「だが、まだ十二歳であろう?」
「年齢は関係ありません」
「では、先生も、直丸殿は臥竜だと?」
「はい」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「直丸殿はまさに臥竜です」
「そうですか」竹俣当綱は話題をかえた。「…千坂対馬高敦から手紙が届きました」
「森氏のことですな?」
「はい。対馬は森の屋敷に伏嗅(スパイ)を入れるのに成功したそうです。それによると、森平右衛門利真は贅沢ざんまいな生活を送り、大きな池には贅沢な錦鯉を大量に飼い、なんと藩の金をも私的に流用していたといいます。これは許しがたい」
「まさに元凶ですな」
「まったく」
「色部さまにはそのことは…?」
「伝えて申す」
 竹俣当綱は言った。元凶、森平右衛門利真打倒のために集まっているのは千坂対馬高敦、芋川縫殿正令、色部修理照長と、竹俣美作当綱の四人である。藁科松伯は四人の結束を大事にするように日頃から申告していた。
「森は許しがたい男でごさる」
 当綱は強く言った。その瞬間、当綱は心臓に杭を打たれた感覚に、肩を震わせた。
「まったくその通りでございます。世子のためにも、早めにのぞくべきです」
「悪貨は良貨を駆逐する……と申すから、森をのさばらせておくとよからぬ事になり申す」「朱に交われば……」松伯はそう言いかけて、ごほんごほんと咳をした。
「とにかく、森は許しがたい男でごさる。早めに除かなくては」
「まったく」
 当綱は強く頷いた。松伯は「われわれには名君もいますしね」とにこりとした。
 ……名君か。たとえ世子が名君のたまごとしても、わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。
 夕暮れのオレンジがセピア色にかわり、障子を赤く染めていた。わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。
 森は片付ける……しかし……それでも、藩はつぶれるだろう。
 竹俣当綱はひとりそう考えてしまった。



米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説2

2013年12月15日 05時41分55秒 | 日記
         公の教育と立志



               
  上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。
 もちろん、上杉家の祖、上杉謙信も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。   米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山、鷹山といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉のうま煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。
 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。
のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種実の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。 高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。
 血筋は争えない。
 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。
 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか? ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!
 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。
 では、鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?
 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれてるくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。
 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。  当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。
 上杉重定はのちにこう言っている。
「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」



  明和四年(1764年)十二月、米沢藩江戸屋敷…。
 その日は11月というのに暖かく、また天気のいい日よりだった。太陽は遠くのほうにあったが、きらきらとした朝日が屋敷や庭に差し込んでいた。
 どこまでも透明なような雲が浮かんでいて、いい天気だった。しんと輝くような晴天である。             
 そんな中、上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生のもとに歩いていった。
 細井平洲は江戸でもなうてのエリートで、教育者で、教育のスペシャリストだった。そして、難しい学問を身につけていてもそれを気取らず、それどころか難しいことをわかり易くひとに教えるような人物だった。平洲は当時、四十代。不精髭を生やしていたが細身で、学者肌のインテリで、がっちりとた首や肩が印象的な人物であった。どこかクールな印象を受けるが、頭がいいだけでなく性格もよかった。
 人柄もよく、ちょうどよい中年で、とても優しいひとだったという。
 それゆえ、上杉重定は細井平洲先生をたいへん気に入り、養子である直丸の教育係に抜擢したのだった。
 上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生の待つ部屋に足を踏み入れた。そして、畳に手をつき頭を下げて、
「……上杉直丸でございます」
 とハッキリとした口調で言った。
「細井平洲と申します。藩主・重定公から直丸殿の教育をまかされました」と言った。そして続けて、
「…直丸殿はやがて米沢十五万石の藩主となられるお方です。習うのは王公の学です。学問は世の中の役に立たなければなんにもなりません。幕府の守る朱子学も学問のための学問になっています。賢き藩主は民の父母……という諺があります。どういう意味か「大学」にしたがって勉強してみましょう」と優しい口調で言った。
「はい」
 直丸は答えた。そして、台にのった本をひろげて、
「民の望むことを望み、民とともに生きること。賢き藩主は民の父母……」と読み始めた。それは上杉直丸(のちの鷹山)の立志の始まりでもあった。



  当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。
 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。…上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。
 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわざるえない。
 また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。
 そんな時、一五七八年三月、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。 上杉の二代目の候補はふたりいた。
 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、三郎景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館(おたて)の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、ぐずぐすしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。 ぐずぐずしてられない。
 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。
 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。
 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。
 だが、問題はそのあとである。
 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。
 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。…上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大義に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。
 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。
 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。
 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を押さえて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したというわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。
 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。
 西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。 そして和平したのである。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。
  当時の米沢は人口6217人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。
 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となったのである。
  人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。
 混乱する訳である。
 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。
 そのような暮らしは長く続くことになる。
 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。
 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。
 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?
 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。
 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざる得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。
 しかし当時は、士農工商とわず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。
 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。

  上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。
 また、有名なのが毒殺さわぎである。
 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。
 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。
 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。
 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。
 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。
 さぁ、上杉藩は大パニックになった。
 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死のまぎわに養子なりの後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。
 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。
 まず、
 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。
 だが、
 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べ、女遊びにうつつを抜かし……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?
 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。
 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。
 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。
 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。
 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。
  こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。
  明和三年(1767年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。
 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、
  収入 6万5000両…………130億円
  借金 20万両    …………400億円
 という具合になる。
 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が3倍。………存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民2 .85人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では9人にひとり……だから赤字は当然だった。
 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。
「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう! 米沢を生き返らせよう!」
 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。              


蒼に月に 忠臣蔵伝47RONIN年末特別ブログ連載忠臣蔵小説3

2013年12月14日 06時22分31秒 | 日記
         3 大石内蔵助






  大石内蔵助は、
「城を枕に討ち死にしようぞ!」と血判状を集めていた。
 それに反対する者たちが現れた。いわゆる”仇討ち派”である。
 その中心的人物が、堀部安兵衛、堀部弥兵護義親子と奥田孫太夫、高田郡兵衛などであった。
 それは、浅野家とも内匠頭とも関係なく、御家が断絶となって主君が切腹したのに相手吉良はのうのうと生きているのは武士として禄を食んだものとして面目が立たない、というヒロイズムであるという。
 堀部安兵衛というのは元々は中山安兵衛といって、元禄七年に、友人の菅野六郎左衛門の助太刀に出て、高田の馬場で相手の村上庄左衛門ら三人を斬り殺したことで有名人となり、浅野家詰三百石の堀部弥兵衛の養子になった者だ。
 十石で仕官するのも難しい時代に、養子後、わずか三年で二百石とりの武士になったのだから大変な出世である。そんな安兵衛はスターであり、江戸で広がる”吉良憎し””仇討ち当然”の世論にひどく気にしたのも当然である。
 奥田孫太夫、高田郡兵衛も新参者だった。
 奥田孫太夫は内匠頭の母に付いて鳥羽の内藤家から浅野家に入ったものだが、延宝八年、内藤和泉守忠勝が増上寺で刀傷事件を起こしたために浅野家に居残る形となったという。 内藤家は改易となり、改易となった大名の家臣として負い目を感じていた。
 高田郡兵衛は槍の名手で「槍の郡兵衛」といわれスターだった。
 その腕をかわれて浅野家に仕官したのである。
 その点では堀部安兵衛と似ている。
 これらは「恥をかいてまで生き延びたくない」という面目があった。
 この人物たちは強行に「吉良を討つべし!」と主張し続けたという。


                  
  内蔵助の息子・主税は小滝という小娘と結納までしていた。
 まだ若いふたりである。
 主税はハンサムで、小滝は可愛い顔をした女子だった。
 ふたりは庭を散策していた。
 手を握ると、それだけで小滝は頬を赤らめた。純粋な女子である。
「主税さま………わらわたちは夫婦になるのでごさりまするね?」
 まだ未通娘(処女)の小滝は、主税と結ばれるのを心待ちにしていた。
 いやらしい気持ちはない。
 まだ無垢な小娘である。
 しかし、その愛しの彼は妙なことをいいだす。
「……別れる?」
 小滝とその母、どちらが驚いたかわからないくらいだった。
 大石主税がそういったのだ。
 小滝は可愛い顔に涙を浮かべて、
「なぜでござりまする?! 小滝が嫌いになったのでござりまするか?!」と涙声でいった。「……いやそうではない」
「……では…なぜ? 小滝に悪いところがあるなら改めますゆえ…」
「そうではない。そうではないのだ!」
 主税は無念そうに言った。
「小滝のことを嫌いになったのではないのですね?!」
「……そうじゃ! わしはお主が大好きじゃ」
「なら……なぜでござりまする?! 小滝は悲しうござりまする」
「小滝!」
「…はい」
「われは」主税は無念そうに続けた。「われは父とともに城を枕に死ぬのじゃ」
「えっ?!」
 小滝は驚愕した。「なにゆえ?!」きいた。
「……殿が殿中で「刀傷事件」を起こしたのは知っておろう?」
「………はい。それはもう」
「それで赤穂藩はなくなる。亡君さまの弟君・大学さまの跡目相続も危うい。われら家臣は……幕府への抗議として赤穂城を枕に切腹するのじゃ」
「そんな……主税さま。そんな……!」
「さらばじゃ……小滝!」
「……主税さま。そんな…そんな」
 小滝は歩き去る主税を、泣きながら目でおった。
  江戸の夜の酒場では、堀部安兵衛、高田郡兵衛、片岡源九右衛門、神崎与貞郎らが、「かならず吉良を討とう!」
 と話しあって酒を呑んでいた。
「いまさら血判状などと…馬鹿らしい」
「おじけづくものもいよう」磯貝十兵衛左衛門がやってきていった。ぐいっといっきにいった。「昼行灯め!」
「なにが城を枕に討ち死にじゃ! 吉良の首はどうなる?!」
 そんなとき、一同はぴっとはりつめた。「まて! 女!」
 女と男は逃げ始めた。
「まずい! 上杉の間者か?!」
「待て~っ!」
 女は駆けてどこかへいってしまった。
 しかし、男のほうはやってきた不破数左衛門が斬って捨てた。
 一同は遺体をみた。
「………上杉の間者か?」
「死体だけでわかるまい。血判状のことが上杉に知られたかも知れん」


  廻船門屋・天野屋……
 播州赤穂の塩商人にて大富豪である阿島八十右衛門は、大石と話していた。
「かのようなことになり申し訳ないのですが…」
 大石内蔵助は恐縮した。
「赤穂の塩で一代築きました」
 阿島八十右衛門は「殿が一大事にならしゃれたと………切腹されるとか」
 大石は「まだそのことは内密に」という。
「……藩札(藩の借金・不良再建)は焼いてしまったということに」
 八十右衛門はあっぱれな男だった。
 借金を忘れてくれるという。
  大石内蔵助の妻りくは息子の死に装束の白無垢を縫っていた。
「母上! いままでお世話になりありごとうごさりました」
 主税はいった。
 母は「武士の子として、恥ずかしくない死にかたをしなさい」と涙声でいう。
 主税は服をきた。
「立派な最期を!」
 りくは言った。
「ご安心ください! 武士の息子として最後を飾りましょうぞ!」
 主税はいった。
 りくは台所にいき、奉公人たちに最後の挨拶をした。奉公人たちは泣いて平伏している。「お前たちには世話になりました。お別れです」
 りくに共をさせて下さいという奉公人があった。
 のちに討ち入り後、生き証人となる寺坂吉衛門である。
「なりませぬ、寺坂! そなたは武士ではありませぬ」
「大石さまのお供を!」
「わが旦那さまは切腹するのですぞ!」
「かまいません!」
 寺坂吉衛門はいつまでも平伏していた。
 雨がふってきた。
 老人がきた。
 吉田忠左衛門だった。それでも、寺坂吉衛門は雨に濡れながら平伏していた。
 大石内蔵助は出迎えた。
 そして、寺坂吉衛門に気付いた。
「なにをしておる? 寺坂吉衛門」
「わたくしもご一緒いたしたく…」
「馬鹿者! おぬしは侍でも赤穂藩士でもないのだ! 命を粗末にするな!」
 内蔵助はきつく叱った。
「あっぱれ。奉公人まで”義”を貫こうとする」忠左衛門はほめた。
 大石は折れて、
「わかった。寺坂吉衛門……共をせよ! 亡殿もよろこぶだろうて…」
「ははっ!」
 寺坂吉衛門はさらに平伏した。
  播州赤穂城の中では、家臣一同が白無垢姿だった。死に装束だ。
「………矢頭五衛門、下がれ!」
 内蔵助はいった。
 矢頭五衛門は「なぜでござりまする?! われも赤穂の家臣としてご一緒しとうござりまする!」という。
「お主はまだ十六歳! 死に急ぐでない!」
「下がりませぬ!」
 五衛門はその場で切腹しようとした。「わたくしが最初に!」
「それにはおよばん!」
 内蔵助は強くいった。
 一同が沈黙する。そして、ざわざわと騒がしくなった。
 内蔵助が、
「切腹はしない。わしはお主たちを試したまでのこと」と言い出したからだ。
「どういうことです?! ご家老?!」
「われらが目指すのは吉良の御首それのみ! 仇討ちせず、亡殿がはたして喜ぶだろうかとわしは思う!」
 一同はざわざわとなる。大石は続けた。「もうすでに戦いは始まっておる! 上杉の間者がわれらは切腹すると伝えたであろう。しかし、同じ切腹するのならば吉良の御首を頂いたあとじゃ!」
 一同も「そうだそうだ!」と同調する。
「殿の仇を討たずして切腹しても……吉良が喜ぶだけじゃ!」
「吉良の首を斬りとって殿の墓にささげなければ腹の虫がおさまらぬわ」
 大石は「城は幕府に明け渡す。無血開城じゃ」という。
 なにやらわからぬが、家臣たちは熱っぽくなった。
 ……これは仇討ちしかない。
 しかし、吉良はまだぬくぬくと生き続けていることであろう。老人だからいずれ死ぬだろうが、その前に痛い思いをさせてやろう。
 こうして、城は開城された。
 大石はその早朝、赤穂城内を見てまわった。柱に内匠頭の幼少のおり、つけた刀傷があった。「吉良さえいなければこんなことには……」
 大石内蔵助は残念に思った。
 やがて、幕府の令により、播磨藩や毛利藩の武者たち一同が旗をなびかせて城にやってときた。嘉坂は大石にわびた。
「わしがいながらこんなことに……すまぬ」
「いいえ。これは幕府の決まりでござる」
「わしは内匠頭殿の弟君・大学さまの跡目を幕府に進言するつもりである」
「嘉坂さま! 播磨藩主のあなたさまからのそのお言葉ありがたく思いまする!」
 大石は男泣きした。
「お家再興のために嘆願するぞ! あんずるな大石殿! 上様は頭が堅いが理解ある方じゃ。きっと、弟君・大学さまの跡目となりましょうぞ」
「……たとえ一万石でも……大学さまが浅野家を継がれればありがたき…幸せ…」
「今回のお家断絶は幕府の片落ちじゃ。きっと上様がなんとかしてくださるじゃろう」
 大石は男泣きし崩れた。
  江戸では堀部安兵衛の愛人が、病死した頃だった。
 清水一角は、「ねんごろに弔え」と銭を渡した。
 安兵衛は「吉良め! 吉良め!」と怒りを爆発させている。
 赤穂家臣たちの間では脱落者が多数でた。
 討ち入りのときは四十七人だったのだから、その何倍もの家臣が脱落したことになる。「まて!」
 赤穂家臣の吾平太は船にのった。「待たぬと斬るぞ!」
 しかし、吾平太は、
「仇討ちなどに付き合ってられぬ。ただの浪人では食っていけぬ!」といい船で去った。 このような者が続出した。
 人間は”義”だけでは食べていけない。
 忠義だの忠臣だのといってみたところで、所詮はただの浪人。今でいうフリーターやニートだ。つきあってられない…と思っても無理はない。
 どこかに仕官しなければ給料ももらえない。
  上杉の千坂兵部は「なにっ?! 切腹せず開城しただと?!」と間者からきいた。
 上杉綱憲のブレーンでもあった千坂兵部は、何やらおそろしくなった。
 ………何を考えておる?! 大石内蔵助!
 その大石内蔵助は紋付き袴姿で、城から出た。
 そして、空虚な気分で城を眺めた。
「主税! よく見ておけ! 赤穂城の見納めぞ!」
 明朝卯の刻、のことであった。
 ……狙うは吉良上野介の御首!
 いよいよ、仇討ちのための長い戦いの始まりでも、あった。            


緑川鷲羽による投稿「日本の成長戦略フローだけでなくストックを」個人金融資産でなく国家債務危機問題を

2013年12月13日 19時01分51秒 | 日記


         金融恐慌から脱出するには? 

  
尖閣諸島は確実に日本の領土だ。では、何故中国が怒っているのか?実は田中角栄首相と周恩来首相(いずれも肩書は当時)との間で「尖閣諸島問題は棚上げ」して「(戦後処理・賠償として)中国に多額の円借款とODA(政府開発援助を供与する、中国はこの密約により戦後賠償をおわりとする)」、と密約上合意している。普通の国では密約であれ外交交渉結果であれ、政権が代わっても引き継がれるのが当たり前で、ある。だが、民主党政権や石原都知事(いずれも当時)はそんな密約等知らないから「尖閣諸島国有化」等してしまう。ある馬鹿が、私がそう指摘すると、「我々は石原都知事を支持している。お前はそれでも日本人か?」等と水掛け論の悪口をいわれた。私は生粋の日本人だが、国籍など関係ない。何人だろうが何が正しく何が間違いかを示さなくてはならない。チャレンジした先にしか答えはない。誰もが答えがわからない物事に、答えを探す人間では駄目。自分なりの議論が出来ない奴や感情論や水掛け論や綺麗事だけで「自分の意見」がない輩、「自分の議論・討論」が出来ない輩が日本人に多すぎる。自分で考えられなければこれほどつまらない人生もない。まさに、クズ人生、糞人生、だ。自分で考えられない輩にもう居場所も職場もない。これからはその人間の「付加価値」が価値基準だ。政府自民党は有識者会議の結論として「2020年までの金融トップ戦略」をまとめた。1600兆円の日本の個人金融資産を活用したいという。だが、そんなこと当たり前で、有識者(笑)でなくとも誰だってわかる。しかも、フローばかりにとらわれてストックが疎かになっている。問題解決には「法人税」「所得税」「贈与税」「相続税」を軽減し、小金持ちに(経済の)血であり血管である「資金運用」を高める事だろう。だが、その前に仏の経済学者J・アタリさんの主張する「国家債務危機」を考えなければならない。個人金融資産1600兆円の前に国の債務は1000兆円だ。それを検討せずに、つまりプライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化や歳出削減(東海リニアや北陸新幹線や北海道新幹線等や公務員給与増額は正しいのか?)を考える事だ。日本の金融機関は日本国債を購入している。預金者のコンセンサスなどなくファイナンスされている。もしも仮に日本国債がデフォルト(債務不履行)になれば日本人の預金はすべてパーになる。これは悪夢だが、アメリカ国債の例でもわかる通り、そういう事も有り得る。国民に憎まれようが、消費税25%で北欧並みの「高福祉高負担国家」に日本国を変革する事だ。医療介護教育の無償化の少子高齢化国家こそ日本の成長戦略だ。(2013年12月13日・緑川鷲羽)2013年12月、楽天が東証一部市場に上場しました。楽天はJASDAQに上場していました。が、今回は東証一部です。楽天も大きな会社になったなあ、と思いますね。では、東証一部(東京証券一部市場)とJASDAQでは何が違うか?①「売買代金(一日)がJASDAQでは「880億円」東証一部では「2兆4800億円」」②「上場会社数がJASDAQが「831社」東証一部では「1771社」」③「審査基準がJASDAQでは「比較的易しい」東証一部は「非常に厳しい」」とこれほどまで違います。楽天が只のITベンチャー企業ではなく、ソニーやトヨタ自動車や花王や三井物産のような「大きな一流会社」と認められた訳ですね。また日経新聞が報じたところによると、2013年10月9日、パナソニックは2013年度末をめどにプラズマテレビ向けパネル生産を停止する方針を固めました。生産拠点の尼崎工場も売却する方針で同事業から完全撤退。プラズマテレビ事業は同社が13年3月期まで2年連続で7500億円を超える最終赤字を計上する要因の一つでした。最大の懸案に区切りがつくことで同社の構造改革が大きく前進する見込みとのことです。パナソニックは、いわゆる「プラズマテレビ VS 液晶テレビ」の戦いに敗北しました。性能的には大きな差はなかったと思います。しかし、生産コスト、ディスプレイの巨大化への対応の面で液晶に軍配が上がりました。とはいえ、液晶テレビの勝者であったはずのシャープも、厳しい経営状況に追い込まれていますから、結果として言えば「ダブルノックアウト」状態といったところでしょう。問題は、パナソニックが今後の事業の軸をどこに定めていくのか?ということです。日本では白物家電や住宅関連が好調ですが、どちらも海外ではほとんど実績を作れていません。今パナソニックは再び「松下幸之助時代」に逆戻りした状況だと言えると思います。米半導体メーカーのオン・セミコンダクターは8日、子会社の三洋半導体で同社の全社員の半分近くに相当する最大910人を削減すると発表しました。埼玉県の工場を2014年6月までに閉鎖し、希望退職も募集します。事業体制を見直し、年間5000万ドル(約48億円)規模のコスト削減につなげるとのことです。今回46億円のコスト削減につなげるということですが、歴史を紐解くと、非常に悲しい物語があります。まず2004年に新潟中越地震で被災し、700億円の損失を計上しています。その後、分社化して三洋半導体の売却先を募集し、2007年にはアドバンテッジパートナーズが名乗りをあげるものの、実現には至らず。 結局、パナソニックが買収し、1200人の人員削減と海外工場の集約(7箇所→4箇所)が行われました。そして、2011年になって米オン・セミコンダクターが360億円で買収しましたが、タイのアユタヤにある工場が洪水で閉鎖に追い込まれてしまいました。米オン・セミコンダクターとしても、本当に買収したことが良かったのか?単に三洋とパナソニックの苦しみを引き継いだだけではないのか?という気がしてしまいます。パナソニック、三洋と同じように、厳しい環境に追い込まれているのが、NECです。NECはインターネット接続子会社のNECビッグローブを売却する方針を固めたと報じられました。NECは2013年7月にスマートフォン事業から撤退するなど、消費者向けの事業を縮小しています。経営資源を成長の柱に位置付ける社会インフラ事業に振り向ける方針とのことです。NECビッグローブは売上が700億円~800億円あるので、そこそこの金額で買収が成立すると思います。時代の流れを見ると、ブロードバンドサービスは、固定系サービスから移動系サービスに軸が移ってきています。固定系では、業界4位で個人を中心に302万人の会員がいる NECビッグローブ。おそらく、携帯系サービスを展開する企業が、顧客ごと買収する形になるのではないかと思います。(2013年10月25日大前研一メール参照)。2013年10月8日の東京株式市場でヤフーや楽天など電子商取引大手の株価が急落しました。前日にヤフーがネット通販サイトの出店料を無料にすると発表したことを受け、価格競争が本格化し、事業の収益性が低下しかねないとの懸念が広がったものです。ヤフーは9日、同社の通販サイトへの出店希望数が1日で約2万6千件に上ったと発表しました。中小事業者や個人の申し込みが殺到しており、法人の出店ペースとしてはこれまでの数百倍規模とのことです。楽天によれば、法人に対する支援は大変でとても無料でできるものではない、とのことです。現在は楽天の株価が急落していますが、ヤフーとしてもこの後が難しいところです。無料で集めておいて、ある程度時間が経過したら後から有料化を考えていると思いますが、大バッシングを受けるでしょう。あるいは、良い場所に出店するのは有料とするというのも、当然想定していると思います。ヤフーの孫会長としては、アマゾンを最も恐れているのでしょう。アマゾンはネット通販に新しい生態系を確立しています。 出店料をとらないモデルも存在し、様々な切り口でビジネスが存在しています。世界最大の小売業を目指すアマゾン。今回のヤフーの出店料無料というのも、主にアマゾン対策が 強いと思います。日産自動車は海外で展開してきた高級車ブランド「インフィニティ」を初めて国内向け車種に採用します。主力高級スポーツ車「スカイライン」の次期モデルを 同ブランド車として今冬にも発売。現在、国内の高級車販売は好調が続いていますが需要を獲得しているのは主に欧州車。日産は国際的に知名度の高いインフィニティブランドを 活用して独BMWなどに対抗していくとのことです。率直に言って、これは無理だと私は思います。トヨタが米国で成功したレクサスブランドを日本に持ち込むと言ったとき、私は同じように無理だと言いました。トヨタのレクセスは日本でも成功しているのでは?と感じる人もいるかもしれませんが、世界で48万台販売されているうち、たったの4万台に過ぎません。あれだけ日本国内の販売に力を入れておきながら、4万台では成功しているとは言えないでしょう。むしろ、トヨタがあれだけ力を入れれば、どんなブランドでも4万台くらいの数字には達すると思います。日産はインフィニティを国内で販売しなくても、スカイラインGTRがあります。スカイラインでポルシェやBMWと戦えるはずです。またスカイラインをなくして、インフィニティが成功するか?と考えると、スカイラインの購入者層を考えても厳しいでしょう。今、スカイラインを購入している人は、若い頃には買えなかった「あのスカイライン」を今なら買えるという中高齢の男性です。そこに青春を感じるのです。それがインフィニティになってしまったら、全く意味がありません。このターゲット層を逃してまで、インフィニティでカバーできるのか?私には疑問です。そもそもインフィニティは米国でもそれほど成功していません。日産はまともにマーケティングを考えているのか?と疑いたくなります。マーケティング的な観点を考慮した上で、全く別の決断を下したのが「花王」です。花王は8日、子会社のカネボウ化粧品と研究・生産部門を統合すると発表しました。カネボウの美白化粧品で肌がまだらに白くなる「白斑」被害が出た問題を受け、経営に深く踏み込む必要があると判断。本格参入から半世紀以上続く化粧品の名門「カネボウ」は事実上、花王に吸収されることになりました。本当はもっと別の道があったはずですが、これは致し方ないと思います。そもそも花王は化粧品の取り扱いがあったものの、石鹸、洗剤などのイメージが強い会社でした。そこで純粋な化粧品会社を求め、資生堂と伍する立場にあったカネボウを傘下に収めました。花王としては、カネボウのブランドは残したままにしておきたかったと思いますが、今回のような不祥事がおきて、致し方ない対応に迫られたということでしょう。生産、研究部門はもちろんのこと、品質保証や顧客対応も一体化し、さらには総務・人事も取り込むということです。 ただし、現時点でもマーケティング部門だけは、いまだ花王に取り込む決定はされていません。かつては資生堂とも戦ってきたマーケティング部門ですし、花王のそれよりも一歩先んじているのは間違いありませんから、何とか残しておきたいという意向が強いのでしょう。カネボウの立場からすれば、取り返しの付かない痛恨のミスを犯したと言えます。 まさに自滅ですが、この悔しさは一生拭うことはできないでしょう。(2013年10月18日大前研一レポートより)。「みずほ銀行」は、暴力団員らへの融資を2年以上、解消していなかった問題で、当時の副頭取ら法令順守担当の役員が問題の融資の情報を経営トップに報告していなかったと説明していましたが、実際には、当時の頭取に報告していたことを示す資料が残っていたことが明らかになりました。みずほ銀行は、信販会社を通じた提携ローンで、暴力団員らへの融資が発覚したあとも、取り引きを解消していなかったとして、先月、金融庁から業務改善命令を受けました。みずほ銀行は、融資を把握した平成22年12月から2年余りの間、当時の副頭取ら法令順守担当の役員が情報を知りながら取り引きを解消せず、経営トップにも報告していなかったと説明していました。ところが、その後の銀行側の調査で、こうした取り引きの実態を、当時の西堀利頭取に報告していたことを示す資料が見つかり、金融庁に自主的に報告していたことが分かりました。また、情報を止めていたとされる元役員も、銀行側の調査に対し、こうした融資の情報は当時の西堀頭取もメンバーに入っている行内の委員会に報告していたという内容の回答をしているということです。みずほ銀行は2013年10月8日午後、佐藤康博頭取が、記者会見をして、これまでの調査の経過などを説明することにしています。みずほ銀行が暴力団員らへの融資を2年以上、解消しなかった問題について、佐藤康博頭取は、8日、都内で行った講演の中で初めて公の場で陳謝しました。みずほ銀行の佐藤頭取は、8日、都内で開かれた金融に関するシンポジウムで講演を行いました。この中で、佐藤頭取は、みずほ銀行が信販会社を通じた提携ローンで暴力団員らへの融資を2年以上、解消していなかった問題について、「大変なご迷惑とご心配をかけ、心から深くおわびしたい。グループのトップとして全力で事態の解明と改善策の策定に取り組むので理解を賜りたい」と述べ、初めて公の場で陳謝しました。みずほ銀行は、金融庁の業務改善命令を受けてから1週間後の今月4日、担当役員が記者会見しましたが、佐藤頭取が公の場で陳謝したのは初めてです。そのうえで、佐藤頭取は「調査結果を踏まえ私自身を含めて厳正な対処をしたい」と述べ、トップとしての責任を示す考えを改めて明らかにしました。今回の問題では、平成22年12月から2年余りの間、法令順守を担当していた副頭取と常務の少なくとも4人の役員が問題の融資を把握しながら取り引きを解消しておらず、なぜ抜本的な対策をとらなかったのかがよく分かっていません。
みずほ銀行は、外部の有識者で作る「第三者委員会」を設置して原因の調査を進め、今月28日までに関係者の処分を決めるとともに、金融庁に業務改善計画を提出する予定です。(2013年10月9日 NHKNEWSWEB参照)。半導体製造装置の国内首位で世界3位の東京エレクトロンと世界首位の米アプライドマテリアルズが、先月2013年9月24日、2014年後半に経営統合すると発表しました。スマートフォンの普及で進む半導体の高機能化に対応するため、経営統合により開発費を分担。 今後、次世代技術である450ミリウエハー向け製造装置の実用化やメモリーの大容量化に対応した技術開発を進める意向とのことです。東京エレクトロンもアプライドマテリアルズも、非常に高収益企業でしたが、ここ最近伸び悩んでいました。業界2位にいるオランダのASMLに脅威を感じた、3位と1位が手を組んだという形です。この経営統合でシェアは25.6%となり、ASMLの2倍になります。半導体製造装置メーカーは、巨大になりすぎた半導体メーカーから、厳しい仕打ちを受けています。半導体メーカーは、アップルやクアルコムから発注を受けると、半導体製造装置メーカーに厳しい条件を突きつけてきました。 今回の経営統合は、規模経済によって半導体メーカーに対抗できるようになるため、というのが最も大きな目的でしょう。本社はオランダとのことですが、ここはほぼペーパーカンパニーに近いでしょう。実際のオペレーションは日本と米国でそれぞれ行うはずです。 ただし、半導体メーカーとの交渉は一本化し、対抗する姿勢を示してくるものと思います。 LIXILグループは2013年9月26日、日本政策投資銀行と共同でドイツの住宅用機器大手グローエを買収すると正式発表しました。負債の承継を含めた買収総額は約29億ユーロ(約3800億円)。欧米などの独禁当局の許可を得て2014年前半に買収を完了する予定です。先日、私はこのテーマをケース・スタディで扱った時、今後LIXILが狙うべきM&Aの対象は、欧州市場の水回りメーカー、北米の建材メーカーだと提案しました。LIXILはすでにアメリカンスタンダードを買収済みですから、まさに私の推薦はグローエでした。グローエといえば、超高級メーカーの代名詞のような存在です。超一流ホテル、超大金持ちの家は、水回りやキッチンがグローエになっています。グローエを使っているだけで、お金持ちだとわかるほどです。アメリカンスタンダードとは対照的なブランドになりますから、その意味でもLIXILにとっては非常に良い買収になると思います。LIXILがアメリカンスタンダードとグローエをどう使い分けていくのか、楽しみにしています。LIXILの藤森社長は、海外・国内でそれぞれ1兆円という規模を託されているそうですが、今回の買収で6000億円が見えてきましたから、あと4000億円です。GEの副社長としても敏腕を振るった藤森社長なら、おそらく実現させると思います。ただし、気をつけなくてはいけないのは、買収後のマネジメントとインテグレーションです。当然、GEのノウハウを持っているとは思いますが、それでもプライドの高い会社を買収した後、マネジメントしていくのは大変です。 買収戦略で成長しているジョンソン・アンド・ジョンソンやネスレ、そして藤森社長の古巣であるGEなどは、必ず「買収後の3ヶ月でやるべきこと」が決まっています。LIXILが同じようなことができれば、日本で例外的に成功した会社として名を残すことができるでしょう。LIXILと同様、こちらも期待したいのが東レです。東レは27日、炭素繊維大手の米ゾルテックを買収することで合意したと発表しました。買収額は600億円~700億円で世界首位の東レは高機能品を主力としており、廉価品でトップメーカーのゾルテックを傘下に収めることで、炭素繊維の新たな用途を開拓する考えです。東レは炭素繊維生産能力シェアで現在トップです。ゾルテックは業界シェア3位ですが、東レとは異なり廉価品の炭素繊維を扱っています。東レはゾルテックを買収することで、既存のハイエンド品と廉価品の両方を抑えシェアは30%に達します。LIXILと東レの動きは日本企業にとっては、頼もしい限りです。今後の両社に期待したいと思います。(2013年10月4日「大前研一メール」)      東芝は2013年9月10日、インドの重電メーカー、ヴィジャイエレクトリカルの変圧器事業などを買収すると発表しました。買収額は200億円で、ヴィジャイの変電所向け変圧器の工場や販売網を活用し、経済成長が続くインドの送配電機器事業に本格参入するとのことです。日立や東芝などは、大胆に鉄道を始めとした欧州のインフラ投資に乗り出しています。 経営力が伴っていけば、これらの海外投資はかなり良い成績を上げてくれると期待できます。またサントリー食品インターナショナルは9日、飲料事業の買収交渉をしていた英製薬大手グラクソ・スミスクライン(GSK)と基本合意しています。買収金額は2000億円超とのことです。サントリーとしては上場によって得た資金の使い途として考えたのでしょう。 悪くはありませんが、この程度の会社しかなかったのかとも思います。一方日本国内では、これまで圧倒的な成績を上げてきたマクドナルドが動きを見せています。日本マクドナルドホールディングスは13日から価格を立地の特性に応じて9段階に分けると発表しました。 従来は都道府県別の6段階でしたが、同じ自治体内でも観光名所や空港など需要が旺盛な場所を最も高くします。全国一律を基本としてきた日本の外食産業の価格戦略に影響すると 見られています。私は最近のマクドナルドの戦略について、牛丼チェーン店やコンビニエンスストアなど惣菜市場を考慮していない点に問題があると指摘してきました。しかし、今回の方針はこれまでの何にも増して「お粗末な決定」だと思います。このようなことを平気で実行するということは、今マクドナルドは「お客さんに向いていない」ということです。そんな不道徳な経営は許しがたいと思います。海外では実施されているということを言い訳にして、客の弱みに付け込むような方針には、正直言って辟易してしまいます。 セブン-イレブン・ジャパンは2014年度、過去最高となる1600店のコンビニエンスストアを開く見通しです。大都市圏を中心に店舗網を広げ、日常の買い物に不便を感じているシニア層や働く女性の需要を取り込む狙いとのことです。10年ほど前までは、セブン-イレブン、ローソン、ファミリーマートの出店数は6,000から9,000の範囲で拮抗していましたが、ここに来て完全に出店スピードに差がついて、セブン-イレブンの一人勝ちの様相を呈してきました。昨年四国に初めてのセブン-イレブンが出店したというのですから、まだまだ出店できる場所はあると言えると思います。一方で、人口密集地ではすでに過当競争になっていますから、既存店舗の整理も必要になるでしょう。いずれにせよ、過去最高の出店数を目指すというのは、かなりリスクの高い戦略です。おそらく半径300メートルという近距離でカバーすることになるので、コンビニを超えてコンシェルジュ機能を備えるなど、従来のコンセプトを変えることが必要だと思います。さらに順調に日本国内で一人勝ち状態になっているのがアマゾンジャパンです。アマゾンジャパンは神奈川県小田原市に物流センターを新設し、2013年9月3日、稼働を始めました。同社の物流拠点としては国内最大で、約1千人の雇用を創出します。また、出版業界の9団体は9月中に、海外から電子書籍を配信する事業者へ公平に消費税を課す要望書を政府の税制調査会に提出するとのこと。海外にサーバーを置く企業が配信する電子書籍には消費税が課税されないことを問題視したものです。アマゾンが脅威になるというのは、以前から分かりきっていたことですが、東日販の存在があるので大丈夫だと高をくくっていたので、このような事態になってしまったのです。私は十数年前から「アマゾンは利益を出す企業になる」と指摘していました。その理由は明白で、次の3つを備えたプラットフォーム戦略に則っていたからです。すなわち、「ポータル機能」「帳合(決済)機能」「配送(物流)機能」の3つです。ポータルサイトを保有し、その場でクレジットカードを使って決済が可能で、その後の配送も請け負えるというのは「プラットフォーム」として大きな強みになります。日本では東日販が価格統制をして値引きができませんが、その分、物流機能の充実に努めて、今では午前中に注文したら午後には配送される仕組みを作り上げてしまいました。米国にも巨大な配送センターをいくつも保有していますが、日本でも巨大なものを小田原に新設するということです。 物流が強くなることで、アマゾンは当初の書籍だけではなく、アパレルから食品までありとあらゆる商品を扱えるようになりました。靴や洋服などは、「試着して返品も自由にできる」という仕組みまで作っています。まさに、物流機能の勝利です。日本の出版社や電子書籍関連企業にも期待していましたが、結局のところ全てアマゾンに持っていかれるという状況になっています。アマゾンのプラットフォーム戦略に、その勝因があると私は思います。(大前研一レポート2013年9月20日参照) 携帯電話の国内最大手、NTTドコモは、アメリカのIT企業、アップルのスマートフォン「iPhone」の販売に初めて乗り出す方針を固めました。国内の携帯端末メーカーは一段と厳しい競争にさらされることになります。関係者によりますと、NTTドコモは、アップルが今月以降に発売するとみられるiPhoneの最新モデルの販売に参入する方針を固めました。ドコモは、iPhoneの販売を巡ってアップルと条件面での折り合いがつかず取り扱いを見送っていましたが、国内でiPhoneを販売するソフトバンクとKDDIに乗り換える顧客が増え、苦戦が続いていました。このため、販売に力を入れる機種をソニーと韓国のサムスン電子のスマートフォンに絞り、大幅に値引きするなどの対抗策を打ち出しましたが顧客の流出は止まらず、iPhoneの販売に乗り出す方針を固めたものです。一方、アップルとしてもおよそ6000万件の契約を持つNTTドコモの販売網を活用して日本での販売台数の上積みを目指すねらいがあるものとみられます。ドコモの販売開始によってソニーや富士通など国内の端末メーカーは一段と厳しい競争にさらされるほか、iPhoneで先行するソフトバンクやKDDIの販売戦略に影響を与えることも予想されます。
日本マクドナルドホールディングスは先月27日、傘下の事業会社、日本マクドナルドの原田泳幸会長兼社長が社長を退任し、後任にマクドナルド・カナダ出身のサラ・カサノバ氏が就任する人事を発表しました。「100円マック」のヒットなどでデフレの勝ち組と言われた日本マクドナルドですが、足元の業績は低迷。原田氏は同社の会長とホールディングスの会長兼社長には留まるものの、今後は米国本社主導で立て直しが進むと見られています。以前原田氏はマクドナルドの低迷の原因の1つとして、特に東日本大震災以降の日本人の心理変化を挙げていましたが、私はその意見には与しません。これまでの実績を見れば、経営者として優れた人物だと思いますが、この点についての認識は正しくないと私は思います。マクドナルドの低迷の原因は、日本人の心理が変わったからではなく、マクドナルドを取り巻く競争環境が変化し多様化する中で、マクドナルドが対応できていないからです。コンビニ弁当・お惣菜、立ち食いうどん・そば、すき家・吉野家の牛丼など、かなりバラエティにあふれています。このような状況において、マクドナルドが売っているものの魅力が薄れているのだと思います。健康志向の食べ物でもありませんし、特別に安いわけでもありません。セットメニューも「バリューセット」の名前ほど、手ごろ感はないと感じる人も多いと思います。日本のコンビニ弁当などは世界でも類を見ないほど充実しています。加えて、牛丼チェーン店もかなりの強豪です。こうした状況は日本独特のものなので、果たしてカサノバ氏がどこまで対応できるのか、一筋縄ではいかないでしょう。 原田氏でさえ理解していなかった、この日本の市場環境について、米国本社はどれくらい理解できているのかは疑問です。今でも世界的に見れば、マクドナルドは非常に立派な会社ですが、「日本独特の競争環境」について理解して臨まなければ、日本を立て直すことは難しいと私は見ています。マクドナルドにおいて原田氏の退任が1つの時代の終わりだとすれば、スマホ事業から撤退するというパナソニックでも1つの時代が終わろうとしています。パナソニックは国内の個人向けスマートフォン(スマホ)事業から撤退する方向で最終調整に入りました。来年3月までに唯一の自社拠点であるマレーシア工場での生産を 停止する方針で、販売不振で営業赤字が続いており、立て直しが難しいと判断したとのことです。今でもパナソニックは国内で290万台の携帯電話を出荷していますが、それでも撤退という事態になりました。基地局事業まで売却するということです。今後どこで利益を上げていくつもりなのか、課題は山積みといったところでしょうが、時代の流れの中では致し方ないのかも知れません。先月28日、東京株式市場でカーナビゲーションシステム大手の株価が下落したと報じられました。こちらもほとんど同じような状況でしょう。JVCケンウッドとパイオニアが年初来安値を更新、クラリオンも年初来安値に接近。格安なカーナビの増加に加え、スマートフォン(スマホ)の普及により自動車用品店で販売するカーナビ市場が縮小。4~6月期はそろって営業赤字となるなど、業績悪化が嫌気されているとのことですが、私に言わせれば、未だに株価が付いていることが不思議です。日本のカーナビは世界的に見ても高額でした。海外に行けばカーナビは4~5万円で購入出来ます。 それも今では2万円台に価格が下落しています。さらに次のバージョンでは、スマートフォンを車のダッシュボードに取り付けて、カーナビの代わりになると言われていますから、ますます状況は厳しくなっていくでしょう。また経営再建中のソニーは、ヒトゲノム解析事業に参入するとのことです。米国の遺伝子解析装置大手イルミナと合弁会社を設立し、製薬会社や研究機関などから受託し、イルミナの装置を使って解析を進める方針で、データベース化した情報の国内製薬会社への販売することも計画しているそうです。ぜひ頑張って欲しいところですが、医療関係の市場環境は、世界中で非常に厳しくなっています。
また個人情報の取り扱いやモラルの問題など、他の市場よりも慎重にすべきことも多々あります。医療分野に活路を見出そうとして、ソニーが向こう岸まで泳ぎきれるのか注目したいと思います。(2013年9月6日大前研一先生レポート参照)経営再建中の半導体大手ルネサスエレクトロニクスは2013年8月2日、生産体制を見直し、新たに鶴岡工場を3年以内に閉鎖、甲府工場を2年以内に閉鎖すると発表しました。2013年6月にトップ就任後、初の会見に臨んだ作田会長は、再度の追加リストラの可能性示唆するとともに、車載機器と産業機器向けの半導体に特化して、再建を図る考えを示しました。官民が出資して、NEC、日立製作所、三菱電機の3社が出身母体になっている訳ですが、未だに「会社の体を成していない」のが問題です。工場1つ1つがバラバラで、お客さんも異成ります。地場との問題ですから工場閉鎖といっても一筋縄ではいきません。ルネサスと同じような状況にあるのが経営再建中のシャープです。電動工具大手のマキタと業務提携し、数十億円出資してもらい、マキタの電動工具開発技術とシャープの電子制御技術をとりいれる商品…だそうですがまったくイメージ出来ませんね。まあ、マキタは堅実な経営環境ですから損してもいいでしょう。が、シャープにはケアルコム、サムスン電子、デンソーなどの会社も出資しているが目的はそれぞれ異なり、シャープ自体の舵取りが困難な状況が続くでしょうね。ソニーは2013年8月19日、ソニー開発の電子マネー非接触ICカード「フェリカ」(6億6千万枚)の活用を、といっていますが「今更遅い」と大前先生はいいます。大前先生は10年前に「フェリカを戦略的商品としてプランを練ってビジネスした方がいい」と当時のソニーの経営陣に献策したそうですが、ソニー経営陣は聴く耳も持たず「フェリカ」を只の部品商品としてJR東、JR西、JCB等に「ばら売り」したそうです。もし、10年前にソニーが戦略をもって「フェリカ技術」戦略があれば世界制覇も夢ではなかった、といいます。今更6億枚もばら売りしてきて、それぞれ別会社に「部品納品」しているだけの状況では誰だって「今更「フェリカ技術」の活用」等いっても遅いともわからないソニーの現経営陣はちょっとピントがずれているとしか考えられません。大前先生の献策を受け入れていれば…覆水盆に返らず、ですね。(2013年8月30日大前研一先生談)金融庁は独自の基準に基づいた画一的な銀行検査を見直す方針を明らかにしました。1990年代はじめのバブル崩壊後の不良債権処理を目的としてきた検査を転換し、融資先が健全かどうかの判断は銀行に大部分をゆだねる方針とのこと。銀行がリスクをとりやすくなり、技術力はあるのに決算上は赤字になっている中小・ベンチャー企業がお金を借りやすくなるということですが、これは全く実現性のない「嘘」だと私は思います。なぜなら銀行には「査定」するスキルがないからです。バブル崩壊以降、金融庁が作成したマニュアルにのみ従ってきた銀行には、「経営者を見て、事業計画を見て」融資を判断することができる人は育っていません。今、銀行は融資の際、必ず「抵当」を前提とします。かつて赤字で苦しんでいた松下幸之助氏に、銀行が「経営者としての松下幸之助を見込んで」融資してくれたという話は有名ですが、今では無理でしょう。金融庁も都合が良すぎる発表をしたものだと思います。自ら作成したマニュアルのせいで、融資判断ができない人材を 育てておいて、今頃になって銀行にまともな融資判断を求めるとは支離滅裂です。さらに似たような事例を挙げれば、金融庁は3月、各財務局の認可を得た信金に対し、取引先企業が海外に作った現地法人に直接融資できるという政策を打ち出しています。愛知県瀬戸市の瀬戸信金や大阪府八尾市の大阪東信金が認可を得た他、およそ20の信金が準備に入ったそうですが、これも「本当に大丈夫か?」と疑いたくなります。国内で運用先がないからと言って、そのスキルもないのに海外直接投資を促すというのは、金融庁による規制緩和によってノンバンクに投資して失敗した住専を思い起こさせます。役人が主導することというのは、基本的に同じパターンであり、全く進歩が見られません。このような役人主導の辻褄の合わない政策が多すぎます。帝国データバンクが15日発表した大学発ベンチャー企業の2012年の売上高は、約7割は売上高が1億円を下回ったと言います。約半数は5000万円未満で、有望技術や特許を強みに設立しても、事業が軌道に乗らず苦戦が目立つとのことですが、これも日本の大学の先生の実態を知っていれば「当たり前」の結果です。小泉元首相が実施した「大学発ベンチャー1000社計画」をピークに、東大発バイオベンチャーなどがいくつか出てきた程度で、ジリ貧になっています。それでも、安倍政権下では、2012年度の補正予算で、産学共同研究や大学発ベンチャーへの出資金などの用途1800億円を割り当てていますが、この資金はどこに消えていくのでしょうか?大学の先生がベンチャーを起業したいなら、自由にやるのは良いことです。ただし、実行するなら、授業料の3分の1は配当金で賄うくらいの気合が必要でしょう。スタンフォードやMITとは異なり、日本の大学の先生には「起業意欲」そのものが低いと感じます。また資金を出すのは国ではなく、高齢者がエンジェル(投資家)になるほうが良いと私は思います。そうすることで、高齢者が抱えている預貯金の流動性も高くなりますし、意義も大いにあります。これも役人主導の「仕掛け」そのものがよろしくない政策の代表例だと言えるでしょう。さらには、次のような事例もあります。東京都江東区は区内を南北に通る豊洲―住吉間の地下鉄新線計画について、70円の加算運賃を設定すれば開業から29年で累積収支を黒字にできるとの試算をまとめたそうです。しかし、これは建設費に国の補助を受けるには30年以内の黒字化が義務付けられているため、それに合わせて「29年」と言っているだけでしょう。 実際に黒字になる確率は極めて低いと思います。これまでにも、飛行場を始め同じような試算をして建設された多くが採算割れしています。「基準ありきで、そこに合わせる政策」
 それが日本の役人が主導する政策にはよく見られます。結果として、不必要なものまで作ってしまうのです。このような事例は枚挙に暇がありません。それにも関わらず、その虚像のままを報道している新聞にも大いに問題があると私は感じます。上手く行っていない施策であれば、それは事実としてしっかり書くべきです。役人が発表するままに報道しているだけでは、脳天気に過ぎると言わざるを得ないでしょう。(2013年8月23日大前研一先生談話)安倍首相が2014年4月に予定する消費税増税による景気や物価への再検証をするように指示していることが2013年7月26日、明らかになりました。政府は法律で定めた通りに消費税を5%から10%と2段階的に引き上げる場合を含め、増税の開始期間や引き上げ額を変える複数案を検討するとのこと。デフレ脱却を重視し、増税が景気の腰折れにならないように十分準備することのようです。が、これは「危険」な考えです。消費税増税に関しては、民主党政権時に自民党も賛成して法律を通したもので「やらなければならない」事です。麻生財務相や財務省は何とか食い止めようと年に1%ずつ上げる等と言っています。そんなことでは日本国債が暴落してしまいますよ。日本の不況は20年間続いていますが飢餓者が続出してたり、失業者の大規模デモがある訳でもありません。日本の問題は不況ではなく財政問題だからです。不況は「乱気流で飛行機が揺れます」程度、だが1000兆円の借金は「墜落します」レベルなのです。日本が莫大な財政赤字の健全化をやらなければ国債は暴落して墜落しますよ。不況ではなく財政問題が問題なのです。日本の高齢化・アメリカ化の輸入国への退化、またTPP交渉者たちのいう「国益」とは「少数利益集団の利益」ですよ。「農協」や「漁協」「製鉄業」「ゼネコン」等の利益であり、国民の利益ではない。安倍さんは「日本を取り戻す」と言いましたね。3年間の民主党政権以外は自民党政権でしたから自分で自分の自民党利益を(笑)取り戻しただけです。ここでは「アベノミクス」について学びましょう。アベノミクスとは安倍晋三氏首相の「アベ」と「エコノミクス(経済)」を混ぜた造語です。でもこの政策が先進国では当たり前に政策として実行されていることは後述しているので参考にしてください。アベノミクス三本の矢です。①「金融緩和(異次元緩和(去年138兆円)今年・2年で270兆円)つまり「お金じゃぶじゃぶにして銀行の国債を日銀がどんどん買ってお金を循環しようという。が、不景気でお金を借りる会社がない」」(円高・株高⇔物価上昇・給料ダウン)②「財政出動(公共事業に10兆円→ミッシングリンクの整備(未開通高速道路完全整備))」(仕事アップ⇔借金アップ)③「成長戦略(ips、設備投資減税(のちに法人税減税)、女性力)」(規制緩和・減税→景気回復⇔期待外れ→日本沈没)ということだ。では政府と日銀の景気の見方を見てみよう。4月「一部に弱さがある」5月「緩やかに持ち直しつつある」6月「着実に持ち直しつつある」7月「自律的回復に向けた動きも」…という少々「大本営放送」っぽいが景気はいいと思うとそうなるという気分の氣が景気だから。ではアベノミクスの成果を見て観よう。政権発足当時から2013年7月まで。円相場・85円35~36銭→98円70~78銭。日経平均株価・1万230円→1万4129円。夏のボーナス(大企業)・去年(2011年)78万円→(2013年)84万円。百貨店売上・-1.3%→+7.2%。物価・-.0.2%→0.4%。給与(月)・24万2111円→24万1266円(雇用の多くはパートタイマーやアルバイトであった為)。国債の金利(10年物)・0.78%→(2013年4月)0.315%(5月)1.0%(7月)0.81%。有効求人倍率・0.83%→0.90%(5年ぶりに増えた。が、震災復興の建設業がほとんど)。というアベノミクスである。実体として我々が体感できるものは少ないが、安倍さんは「庶民が好景気を実感できるまでタイムラグがある。もう少し待ってくれ」という。ちなみに2012年度の税収は見積もりより+1.3兆円多くなった。それでさっそく政府は補正予算でまたいらない高速道路や整備新幹線(北海道や四国まで新幹線(笑))を造るという。また日本の債務つまり借金は1000兆円だが、全部返せるとかプライマリーバランスの黒字化等無理だ。少しずつだが還せているでいいのだ。年金保険料アップと年寄りの医療費1割負担から2割負担は当然のことだ。年金の不安はアベノミクスで大丈夫?は11兆円運用利回りがあるだけではちくりと難しいだろう。景気の良い悪いは「日銀(日銀短観)」と「政府(景気動向指数)」で判断している。また成長戦略で「1人当たり国民総所得を150万円増やす」というスローガンが出てきたが、どうもわかりにくい。また、法人減税策も中途半端だ。必要なのは抜本的な改革である。政府が6月14日に閣議決定した成長戦略では、1人当たり国民総所得(GNI)を10年後までに150万円以上増やす方針が盛り込まれている。GNIは、日本企業や国民が国内外で得た所得の総額を示すもので、日本の経済力を測る新たな指標として注目されている。ただ、現在のように国内総生産(GDP)が使われるようになる前は、国民総生産(GNP)が使われていた。細かな計算方法は違うが、GNPとGNIは同じと考えていい。GDPからGNP(GNI)に戻っただけ、とも言える。GDPとGNIの違いは、主に海外で得た所得の取り扱いだ。GNIではそれを算入するが、GDPでは算入しない。また、GNIが増えたと言っても、それがそのまま国民の懐に入るということには必ずしもならない。政府が言うように、仮に10年後までにGNIが150万円以上増えたとしても、ひょっとしたらそのうち80万円は企業が取り込んで労働者に分配しないかもしれない。もし、政府の目標が「国民の1人当たりの年収を上げる」ということならば、GDPなりGNIを算出したうえで、さらに労働分配率を加味し、国民の懐に入る部分を前面に押し出すべきだろう。GNIには「所得」という単語が含まれているので、「1人当たりGNIが150万円増えますよ」と言われると、年収が150万円増えるように錯覚してしまう。また所得税や社会負担が高い日本では「手取り」が増えるのかどうかも関心事だ。安倍首相も、そうした錯覚を意図したのかは知らないが、「所得を150万円増やします」という粗い言い方を何回かしている。もっと正確に言葉を使わなければ、国民に誤解を与えるだけである。一方、今秋にも成長戦略第2弾が発表されると見られているが、その目玉となる法人減税についても動きがあった。経済産業省と財務省が2014年度の税制改正で検討している法人減税策の概要が明らかになっている。これは、工場など設備の廃棄による損失の一部を前年度にさかのぼって法人税から還付できるようにすることなどが柱となっているようだ。設備の更新や研究開発を進める企業を税制面で後押しする考えなのだろう。2011年度の税収42.8兆円のうち、所得税が31.5%、消費税が23.8%であるのに対し、法人税は21.8%となっている。政府の法人減税策は単年度損金処理を原則としているようなので、日本全体の設備投資額が40兆~50兆円ということを考えると、設備投資減税で下手をすると21.8%を占める法人税収入全体が消し飛んでしまいかねない。そうした法人減税策をおそらく官邸ブレーンの中心である経済産業省が提案し、財務省がとりあえずOKを出している。あまりに無謀であり、ちょっと信じられない光景と言える。また本来の議論である法人税率の低減に関しては何も聞こえてこない。設備投資中心の議論だけでは、GDPの大半を占めるサービス業やシステム開発などの投資をどうするのか、見えてこないし不公平という議論が起こるだろう。設備投資にしても即時償却して企業の最終損益が大きくマイナスとなった場合、現行の繰り越し損(7年間)を認めるなら、ほぼ永遠に法人税収入は消え去ることになる。少なくとも今までに新聞紙面などで伝えられている「キーワード」からは、ただでさえ足りない税収を犠牲にしてどのくらい成長戦略に貢献するのか、などの評価ができない。どちらかと言えば漸減傾向にあることがわかる。成長戦略のために小手先の法人減税をすると、法人税収がさらに減って、財政赤字を拡大させることになる。重要なのは従来の税制を前提としないで抜本的な改革、たとえばフラット課税などで企業活動を活発にしつつ、税収もしっかりと確保する政策の立案である。そこで私が以前から提案しているのは、法人税を廃止し、付加価値税を導入するというものだ(『訣別―大前研一の新・国家戦略論』など参照)。企業の売り上げから原価を引いたものが付加価値である。この付加価値に対して一律の課税をしていく。現行の法人税では、付加価値からさらに経費を引いた後に残る利益に対して課税される。すると、何を経費として見るかで、どうしても不透明になるし、税務当局の裁量の余地が広がる。今回、政府が検討している損金処理などの優遇措置も、そうした不透明さを逆に利用したものだ。その点、私が提案する付加価値税ならば非常に透明性が高く、なおかつ企業のインセンティブの設計がやりやすい。税収も期待できる。たとえば5%の課税をすれば、日本の総付加価値(=GDP)は500兆円くらいなので、税収は25兆円となり、現在の法人税収の2倍以上となる。将来的にもっと税収が必要になれば、10%まで段階的に引き上げることで、税収は50兆円になる。もちろん、当初は現行より少し高い法人税収10兆円を目途にすれば2%からスタートすることもできる。さらに付加価値税に加えて、流動資産と固定資産の両方に対して資産税を導入する。たとえば時価の1%を課税するのである。これで約35兆円の税収となる。こうしたシンプルでわかりやすい成熟国型の税制にしていくことが必要だ。所得税や法人税は経済の成長を前提としているので税収が伸びないのは当然なのである。成長が止まった今、成長戦略のために従来の税制のまま小手先で刺激しようというアベノミクス「第3の矢」はうまくいかない。財政の健全化はもはや待ったなしだ。したがって、ここで税収を大きく落とし込むような刺激型の法人減税ではなく、法人税体系そのものを成熟した大国にふさわしいものに変えていく作業が優先されるべきと考える。政府は、目先の成長戦略だけでなく、財政健全化も視野に入れた抜本的な税制改革を進めていくべきだ。(大前研一レポート2013年7月11日)。携帯電話事業以外での儲けが見当たらないNTTドコモが、旅行業に参入するなど試行錯誤している。JTBとの提携でどこまで新機軸を打ち出せるだろうか。

米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説1

2013年12月13日 05時30分14秒 | 日記
 米沢藩の不世出の名君
 「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」




              よねざわもゆ うえすぎ ようざんこう
                   ~為せば成る!~
                   200年前の行政改革
                  total-produced&wrtten&PRESENTED BY
                    washu midorikawa
                    緑川 鷲羽
       あらすじ

 上杉治憲(のちの鷹山)が日向(宮崎県)高鍋藩から米沢藩(山形県米沢市)15万石の養子となり藩主となったのは明和四年、17才の頃である。その頃、米沢藩の台所は火の車であった。上杉謙信からの膨大な6千人もの家臣たちを雇い、借金で首がまわらない状況だった。まさに破産寸前だったのである。そのため、家臣たちからは藩を幕府に返上しようという考えまであがった。つまり、現代風にいえば「自主廃業」であった。
 そこで、上杉治憲は決心する。「改革を始めよう!」
 まず治憲の改革は質素倹約から始まった。着るものは木綿、一汁一菜…。しかし、それらは焼け石に水だった。江戸で改革をしてから2年後、治憲は米沢へと初入部する。しかし、そこで待っていたのは家臣の反発と死んだように希望のない領民たちの姿だった。
 しかし、治憲(のちの鷹山)は諦めなかった。なんとかヒット商品を考案し、学問を奨励し、さまざまな改革案を打ち出す。しだいに彼の改革に共鳴してくれる藩士たちもあらわれだす。だが、そうしたことを嫌うものたちもいた。芋川、須田、千坂ら七家である。これらの重役は治憲に対してクーデターをくわだてる。
 のちにゆう『七家騒動』である。
 上杉治憲(のちの鷹山)の改革はここでおわってしまうのか?
 鷹山、一世一代の危機!彼は危機をどう乗り越えるのか?しかし、彼は危機を乗りきり、やがて米沢藩の財政も立て直る。それは彼が亡くなって一年後のことであった。

  われわれはこの小説でなにを学ぶか?
 米沢藩の改革に生涯をかけた鷹山のいき様を描く!渾身の作品の完全版をお読み下さい。  貧窮のどん底にあえぐ米沢藩…鷹山と家臣たちは藩政立て直しに渾身する。これは無私に殉じたひとたちの、きらきらとしたうつくしい物語である。       おわり


        the novel is a dramatic interpretation
        of event and character based on public
        soutces and an in complete historical
        record.some scenes and events are
        presented as composites or have been
        hypothesized condensed.

       ~なせば成る、なさねば成らぬ何事も、
               成らぬはひとのなさぬなりけり
                        上杉 鷹山(1751~1822)~







         序章

                    
  上杉治憲(のちの鷹山)にとって、それは尋常でない光景だった。
 貧しい領民たちががりがりに痩せて、歩いている。いや、首がひんまがった領民たちが、歩いてくるのだ。治憲は息を呑んだ。血色をなくした、泥のような顔であるが、治憲には見覚えがあった。間違いなく、米沢の領民たちである。
 治憲の頭頂から爪先まで、冷気が走り抜けた。手足が目にみえて震えだし、思うように筋肉に力が入らず、指はしばらく、戦慄きながら宙を泳いだ。
 そして、治憲は目がさめ、悪夢から解放された。
「……夢……か…」治憲は額に滲んだ汗を手でふいた。
  治憲が米沢藩の藩主となる数年前、米沢藩は困窮していた。

  米沢の冬は厳しい。しんしんと雪が降って、やがて豪雪となり、辺りを一面の銀世界にかえていく。雪が完全に溶けるのは4月頃だ。田畑も城下町の屋敷の屋根も、道も、すべてが真っ白に衣を着て、ときおり照りつける陽射しできらきらとハレーションをおこす。      それはしんとした感傷だ。しかし、そんな幻想とはうらはらに、領民はみんな飢えていた。  若い儒学者の藁科松伯は米沢にいた。藁科は米沢藩の儒学者で、頭脳明晰な男である。彼は確かに不思議な印象を与える人物である。禿頭で、ぴしっと和服を着て、年はまだ三十代にみえる。痩せていて、手足が細く、病気がちである。ちょっと見にも、学者とわかるのだが、瞳だけは大変に光っていて、唯一、力強さを感じさせた。
 弟子の寺脇孫兵衛門が急いでやってきた。その顔には笑顔があった。
「見付かったか!米沢藩のご養子が……」
 松伯はほっと安堵の溜め息をつき、寺脇の寺衛門は場を去った。手紙は江戸にいる米沢藩の江戸家老・竹俣当綱からだった。米沢藩主・上杉重定公には姫しかなく、このままでは藩は取り潰しになる……そこで養子を取ろうということになったのだ。「なになに、日向高鍋藩主・秋月佐渡守種実公の次男坊で、名は直丸殿…か」藁科松伯は口元に笑みを浮かべた。しかし、そんな平和も一瞬で、彼は胸が苦しくなって激しく咳き込みだした。しかし、もう皆帰って誰もいなかった。
「ごほごほ…」藁科松伯は痛み止めの薬を飲んだ。……それでなんとか胸の劇痛が弱まった。彼は、「はやく江戸にいって直丸殿にお会いしたい!」と強く願った。「私が死ぬ前に…」藁科は医師でもある。だから、自分の病のことはだいたい把握していた。自分がもう長くは生きられないこと……もう生きられない…。
「…私が死ぬまえに是非…直丸殿にあっておきたい。是非…」彼はそう強く願った。
 そして、自分がその名君となるはずのご養子の成長や改革を目のあたりにできぬだろうことを残念がった。…私は死ぬ…だが、米沢のことは……直丸殿に頼るしか……ない。
 藁科松伯と弟子の寺脇や莅戸善政や木村高広らは雪道を歩き、興奮しつつ江戸へと旅立っていった。…雪深いため、ぬかるみ、転び…大変苦労した。
「……いやあ、こわいこわい(疲れた疲れた)」
 藁科松伯は珍しく米沢の方言をいった。
 松伯は江戸生まれで、米沢の人間ではないはずである。しかし、それにしても「自分も米沢の人間でありたい」と思っていた。だから、訛りを使ったのである。
「先生、少し休みますか?」
 弟子の寺脇がいうと、藁科松伯は「いやいや、急ごう!直丸殿に一刻も早く会いたい」「……無理しないでくだされよ、先生」
 莅戸善政がいう。
 木村も笑って「そうそう。先生あっての拙者らですから」といった。
「さようか」
 松伯は笑った。息がきれて、しんどかったが、それでも余裕の素振りをみせた。
  数日後、一行は江戸に辿り着いた。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いていた。人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はふいに思った。
  米沢藩の江戸屋敷に着くと、竹俣当綱が一行を出迎えた。
 竹俣当綱は三十七歳。目がキッとつりあがっていて、髭も濃くて、黒い着物を着て、浅黒い肌にがっちりとした体が印象的な男だ。
 屋敷を歩くと、ぎじぎしと音がした。屋根からは雨漏りがする。戸も壊れていてなかなか開かなかった。……財政難で金がないため、直せないのだ。
「ところでご家老」藁科松伯は切り出した。「…ご養子が見つかったそうですな」
「はい、先生。日向高鍋藩主・秋月佐渡守種実公の次男坊で、名は直丸殿と申す」
 竹俣は笑顔でいった。「大変に賢き若君ときいております」
「そうですか…」藁科は微笑み、続けて「ぜひに、一刻も早く…直丸殿にお会いしたい」 と願った。
 竹俣当綱は「先生……わしもまだ会っておらん。だが、今、直丸殿は高鍋藩江戸屋敷にいるときいております。近々、拝謁させて頂きましょう」と言った。
「……直丸殿は今、御年いくつなので?」
「八歳です」
「そうですか」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「それは重畳」
「……まぁ、いい年頃ではありますな」
「楽しみです」
 松伯はもう一度、満足気に深く頷いた。「…拝謁が楽しみです」
 竹俣当綱は「先生……わしもはよう会いたい」
「我々もでござる」
 莅戸や木村も笑顔をつくった。
 竹俣は「女房殿よりも愛しい方じゃな?」と冗談をいい、一同は笑った。



  こうして竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政、木村高広の四名は、高鍋藩江戸屋敷に徒歩で向かった。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いている。武家も商人も、女子供にも…人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はまた、ふいに思った。
 その日は快晴で、雲ひとつなく空には青が広がっていた。すべてがしんと輝いていくかのようにも思えた。きらきらとしんと。すべて光るような。
 高鍋藩邸宅は米沢のそれと同じで、殺風景でぼろくて今にも倒れそうだった。高鍋藩も財政危機で、修繕代が払えないのだ。
 ………貧乏藩は米沢十五万石だけではないのだな。
 竹俣当綱がそう不遜に思っていると、藁科松伯は低い垣根から、邸内を熱心に覗いていた。彼の横顔は笑顔だった。
「…いましたぞ、ご家老」
 と藁科。
 木村も覗き「あの若君が直丸殿ですか?」と竹俣に尋ねた。
 莅戸は「拙者にも見せてください」といった。
 竹俣当綱も垣根から邸内を覗き見て、「…おぉ。あれじゃ、あの方が直丸殿じゃ」と笑顔になった。「本当に賢そうな若じゃ」…邸内の庭では、秋月直丸という若君が剣術に励んでいた。一生懸命に木刀を何度も降り下ろす運動のためか、若君は額に汗をかいていた。 直丸は八歳。すらりと細い手足に痩せたしかし、がっちりとした体。ハンサムで美貌の少年である。唯一、瞳だけがきらきら輝いている。
 この、秋月直丸こそが養子となり名を「上杉直丸」と変え、さらに元服後「上杉治憲」と名をかえた、のちの名君・上杉鷹山公そのひとであった。
「……いい顔をしている」
 四人は微笑んで、呟いた。



「……どちら様でしたか?」
 ふいに藁科ら四人に声をかける女がいた。…それが直丸の生母・春(姫)だった。
 確かに、春は美人であった。背も低くて、華奢であったが、三十八歳の着物姿は魅力的なものであった。
「あ、私は藁科松伯と申します。こちらが江戸家老の竹俣殿、こちらは莅戸殿に…木村殿です」
「はぁ」春はそういい、続けて「どちらの国の方です? 江戸の方ではないように思いますけど」
「わかりますか」竹俣は笑って「拙者たちは出羽米沢藩十五万石の上杉家家臣のものです。今日は、藩主・重定公の名代として参りました」
 と丁寧にいった。そして、一行は頭を深々と下げた。
「まぁ!」春は思い出して、「養子の話しですね?直丸の……。こんな外ではお寒いでしょうから、中にお入りくださいまし」と恐縮して一行を屋敷に招いた。

  秋月家江戸邸宅は質素そのものだった。
 …春は、恐縮しながら「申し訳ござりません。今、殿は外出しておりまして…」と言った。…竹俣や藁科らが座敷に案内されて座ると、「……粗末な食べ物ですが。御腹の足しによろしかったらどうぞ」
 と、そばがゆが運ばれた。
「いや! 奥方様、われらなどに気をつかわなくても…」と竹俣。莅戸は食べて「おいしいです」といった。「馬鹿者。……少しは遠慮せぬか」竹俣当綱は彼の耳元で囁くように注意した。秋月の奥方様(春)は笑った。すると藁科と木村も笑った。
「米沢は今どうですの?」                
 春は竹俣に尋ねた。すると竹俣は「政のことでござろうか?」と逆質問した。
「いいえ」春は首をふって笑顔になり、
「気候や風土のことをききましたの」
 といった。
「……それなら、今、米沢は雪景色です。毎日、家臣たちは雪かきに追われて…くたびっちゃくたびっちゃ(疲れた疲れた)といってます」
 竹俣は笑った。
「どうして直丸を上杉家の養子にすることになったのですか? 他にも若君はいっぱいおりますでしょうに」春が言った。すると藁科が、
「いえ。直丸殿ではなければダメなのです。拙者はよく巷で直丸殿の噂を耳にしました」「……どのような?」
「秋月家の次男坊は大変賢く、心優しい方で、学問や剣術に熱心だとか…」
「直丸が? ですか?」
「はい」藁科はにこりと頷いて、続けて「直丸殿のような傑出した若君が…どうしても米沢では必要なのです。ご存じの通り米沢藩の財政は火の車、殿には姫しかなく、この危機を乗り越えるためには傑出した名君が必要なのです」といった。
「…直丸が、名君に?まだ八歳の童子ですのに?」
 春は少し訝し気な顔になった。
「歳は関係ありませんよ、奥方様」莅戸がいうと、続けて藁科松伯が「直丸殿はきっと米沢の名君におなりになります。拙者にはわかります。直丸殿は臥竜なのです」
「……臥竜? まぁ」春はびっくりした。そんな時、直丸の父親・秋月佐渡守種実が屋敷に戻ってきた。春は「少し失礼します。ゆっくりしていてくださいまし」というと、座敷から出て夫を出迎えた。そして「…殿。いかがでしたか?」と夫に尋ねた。
「だめだ。どの商人も金を貸してはくれぬ。日向高鍋藩もここまでか……。疲れた」
 秋月佐渡守は、深く溜め息をつくと、座敷へと向かった。
 そして、座敷に座る「みすぼらしい服を着た四人の侍」を発見し、後退りして障子の陰に隠れてから、「…なんの客だ?ずいぶんガラが悪そうではないか」と春にボソボソと尋ねた。春は「出羽米沢十五万石の家臣の方のようです」と答えた。
「あぁ。そういえば養子の話しか…」
 種実は頷いた。春は「出羽米沢は十五万石。殿の日向高鍋は三万石……養子なんていい話しですこと」と微笑んだ。
「う~む」種実はそう唸ってから、「……とにかく話しをきこう」といい座敷内に入った。「わしは日向高鍋藩藩主、秋月佐渡守種実である。そちらは…?」
 藁科らは平伏してから、自己紹介をした。そして、「直丸殿に是非、拝謁したい次第で参上つかまつった」といった。
「よかろう」秋月佐渡守は満足そうに頷いて「直丸をこっちへ」と家臣に命じた。
 まもなく、八歳の直丸がやってきた。
「…秋月直丸にございます。以後お見知りおきを」
 彼は正座して頭を下げて竹俣らに言葉をかけた。その賢さ、礼儀正しさ、謙虚さは、藁科たちを喜ばせるのに十分だった。……これなら名君になれる。

  竹俣や藁科らは、秋月佐渡守とその次男坊の直丸とわきあいあいと話しをした。時間は刻々と過ぎていく。そろそろ夕方で辺りが暗くなってきたので、藁科が立ち上がり、
「今日は遅いので…これで。さぁ、みんな帰りますぞ」と言った。
「いや、せめて夕食だけでも食べていかれよ」
 佐渡守がとめたが、四人は、せっかくですが、と断った。
 そして、藁科は袋に詰めていた分厚い本を取りだして「これは儒教の書。これは『大学』こちらは孔子の書です。どうぞ」と直丸に手渡した。
「…ありがとう」直丸は微笑んで礼をいった。
 藁科らは、黙々と秋月家屋敷を後にした。
 しかし、希望を見つけだした。あの若君は必ず名君になる。米沢を救ってくださる…四人はそう考えていた。…あの若君が米沢の希望だ。
 ………直丸は、さっそく本をめくり、熱心ににこにこ微笑みながら読み始めた。
 父・種実に尋ねられると、
「父上のような名君に、それがしもなりとうございます」
 と、のちの鷹山となる直丸は夢を語ったという。
 ちなみにのちに上杉鷹山として知られることになる秋月(上杉)直丸(治憲)は、寛延4年7月20日(1751年9月9日)に誕生している。名を直松、直丸、勝興、治憲、鷹山……と変えた。が、後世では『上杉鷹山』として知られている。