昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
なんとも神秘的な風景である。
上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。
坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは長州は倒幕でいきますよ」
竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
竜馬はにやりとした。「それ坂本さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。
話を過去に戻す。
坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」
桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」
龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親(もうり・たかちか)に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。
吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。
そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をしてしまう。井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。
当然、松門門下生は反発した。「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。
桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」
坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
文は兄が好きな揚げ出し豆腐を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋(といっても牢に鍵は掛っていない)にもっていく。
「この揚げ出し豆腐は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」
「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。
こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。
そして病床の身であった母親・杉瀧子が、死ぬのである。
桂小五郎と新選組
竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
晋作は呆れた。「なにーい?!勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
高杉は考えてから「わかってた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(のちの由利公正・ゆりきみまさ)と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人?ほう」
坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
おりょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
おりょうは答えなかった。
ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
半平太はそういって連行された。
吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。
新選組の血の粛清は続いた。
必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。
文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。
……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。新選組は毎晩警護にあたった。池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。「桂はん…新選組です」のちの妻・幾松が彼につげた。桂は「すまぬ」といい遁走した。そして、十年前………
桂小五郎は江戸幕府300年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。小五郎にはもちろん父親がいた。木戸孝允は名を桂小五郎という。父は和田昌景(まさかげ)であり、彼は息子・小五郎だけでなく息子の弟子的な高杉晋作や久坂玄瑞のひととなりを愛し、ひまがあれば小五郎や高杉少年らに学問や歴史の話をした。
「歴史から学べ。温故知新だ」「苦労は買ってでもせい」「学問で下級武士でもなんとかなる」そう言って憚らなかった。もう一人の教師は長州の偉人・吉田松陰である。
時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。ハイカラな兄さんで、小五郎や高杉晋作は学ぶことが多かった。
桂小五郎家は長州下級武士であったが、父・昌景には先妻があり、女子二人をもうけ、長女を養子にとったところ長女が死に、次女をその後妻とした。後妻との間に小五郎と妹が出来た。
大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。
だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあう。父親の昌景が死ぬと小五郎は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。「また借金か! この貧乏侍!」借金のためにあのプライドの高い桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」
悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰先生との勉強会であった。吉田の塾は「松下村塾」という。
それにしても圧巻し、尊敬出来るのは吉田松陰公である。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は「攘夷などくだらないぞ、草莽掘起だ!」という。何故か?「外国と我が国の戦力の差は物凄い。あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。日本はぼろ負けする。だが、草莽の志士なら勝てるだろう!」
なるほどな、と桂小五郎と高杉晋作、久坂玄瑞はおもった。さもありなん、である。この吉田松陰(しょういん)公は愚かではない。
そんなとき、桂小五郎(木戸孝允)は結婚した。相手は芸者・幾松(いくまつ)である。松子と名を改めた。だがなんということだろう。知略に富んだ長州藩の大人物ともでいわれた吉田松陰公が処刑された。桂小五郎も高杉晋作も久坂玄瑞も「松陰公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。吉田松陰は船で黒船に近づき、「世界を見たい。乗せてくれ」といい断られ、ご禁制を破った大罪人として処刑されたのだ。何故だ?何故に神仏は松陰公の命を奪ったのですか?吉田松陰公なき長州藩はおわりじゃっ。この時期、薩摩の島津斉彬公も病死する。
大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。
だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家茂(いえもち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。
ここは江戸の貧乏道場で、天気は晴れだった。もう春である。
土方は「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」
「しかし…」近藤は戸惑った。「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。「なれる!」
近藤らは笑った。
「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。
三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。
いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだという。
沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。
土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だられになった。
「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。
近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」
といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。
「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」
近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。
この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、そして桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。
近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。「幕府の大老が……」
「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。
「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。
この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。
けっこう美人なほうである。
「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!
「どうでした? 近藤先生」
道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は「ダメだった……」とぼそりといった。
「負けたのですか?」と沖田。近藤は「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」 と口ごもった。
「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。
「……その通りだトシサン」
近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。
……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?
この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
その後、幕府の密偵を斬って遁走する。
文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。
その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。
土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていいという。
幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京の尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
近藤はゆっくり笑顔で頷いた。
今度は”採用取り消し”の、二の舞い、にはならなかった。”いも道場”試護館の十一人全員採用となった。「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」一同は歓喜に沸いた。
近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。
彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。
ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の青天の町を歩いていると、「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。坂本龍馬だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。
「坂本さんか」近藤は続けた。「俺は”鬼瓦さん”ではない。近藤。近藤勇だ」
「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。
「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかぜよ」
「よくない!」と近藤。
龍馬は無視して「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったぜよ」
「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物じゃきに。天下一の学者で、幕府の重要人物ぜよ」
「重要人物? 名は?」
「勝!」龍馬はいかにも誇らしげにいった。「勝安房守……勝海舟先生じゃけん」
「勝海舟? 幕府の軍艦奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。
「会いたいきにか? ふたりとも」
近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。
龍馬は「よし! 今からわしが会いにいくからついてきいや」といった。
近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。
そんな勝には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」龍馬は勝に茶を煎じて出した。
近藤たちは緊張して座ったままだった。
そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(坂本龍馬のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」
近藤は下手に出た。
「そうか」勝は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。
「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。
「なるように?」勝は笑った。「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」
近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」勝は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。
近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。
勝は笑って「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」
勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」勝はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」
「そうじゃきぃ。メリケンすごいじゃろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
今まで黙っていた龍馬が強くいった。
近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。
そして、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。
「これが世界よ。ここが日本……ちっぽけな島国だろ?ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」
勝に呼応するように龍馬もいった。「今は世界ぜよ! 日本は世界に出るんぜよ!」
「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。
隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。
近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
浪人隊は黙々と京へと進んだ。
途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになるが、それは次項で述べたい。
浪人隊はやがて京に着いた。
その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」
浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)
「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。「何か策はないか?」
勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」
「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」
「京の守護職って誰だっけ? トシサン」
「さあな」
「松平…」沖田が口をはさんだ。「松平容保公です。会津藩主の」
近藤はさっそく文を書いて献上した。…”将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい”
文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。
この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。
近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。
勇たちは就職先を確保した。
しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。
……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………
”芹沢の始末”も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだったという。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。そして、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。そして、「誠」の紅色旗………
土方は禁令も発する。
一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと (永倉日記より)
やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で”組”を強固なものにしようとした。
永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。
「誠」の紅色旗がたなびく。
沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。
壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。
そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
そして、容保は書をかく。
……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。
和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。
今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
家茂は妻・和宮と話した。
小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
話しを少し戻す。
長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
…それにしてもまたされる。
窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
……自分のことしか考えられないのである。
しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
晋作は上海にいって衝撃を受ける。
吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
……壤夷鎖国など馬鹿げている!
それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
しかし、すぐに捕まって処刑される。
日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
……俺には回天(革命)の才がある。
……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
高杉晋作は革命の志を抱いた。
それはまだ維新夜明け前のことで、ある。
伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。 明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。