昇り竜の如く
<米沢藩士>雲井(くもい)龍(たつ)雄(お)伝とその時代
<のぼりりゅうのごとく よねざわはんし くもいたつお でん とそのじだい>
~米沢藩に咲いた滅びの美学~
米沢藩の不世出の「米沢の坂本竜馬」詩吟「棄児行」誤伝論
「幕末史に埋もれた歴史的・偉人」究極の伝 米沢藩士・雲井龍雄伝説
ノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
MIDORIKAWA washu
緑川 鷲羽
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
あらすじ・まえがき
「「若者の感懐 人はみな 命をかけて信ずる途に進まれよ それが服従でも反抗でも 損得は別として その人の生き甲斐というものである その典型的実践者が 米沢の人 雲井龍雄である その生涯のはかなさは 次の 良寛和尚の辞世と同じである <散る桜 残る桜も 散る桜>」 平成三年(一九九一年)夏 煙雨にけむる斜平山を眺めつつ 田宮賢山(雅号・本名・田宮友亀雄氏)」
<「序に代えて」国士舘大学教授文学博士 安藤秀男氏>幕末の志士・明治の書生、それは共通した心情を持っている。すなわち、「富貴も淫する能(あた)わず。貧賤(ひんせん)を移す能わず。威武も屈する能わず。」(『孟子』滕(とう)文公章)といった独立特行の精神と、輝かしい明日の来たるを信じて挺身し、国家の礎(いしずえ)となるのを辞せぬという殉国の精神である。私は中野好夫さんに知遇を受けたが、中野さんは「私は最後の明治書生でした。雲井龍雄の詩は、私の胸に深く沈殿した感があります」と言われたことがある。杉浦重剛も、「青年期には何もこわい者がない。天下横行すべしという元気であったから、雲井龍雄の詩などは開いた口に牡丹餅だった」(『杉浦重剛座談録』岩波書店)と述べている。雲井の詩を知らぬ学生は一人もなかったと言っていい、と記している。
雲井の詩はペダンティック(学者ぶったもの)ではあるが、壮志と悲調とロマンチシズム(浪漫主義)を織りまぜて、復興期・明治の青春にふさわしい情熱を発散している。これによって有為の青年がいかに希望に胸をふくらませ、志を引き立てたかは歴々として証拠がある。しかるに平成の現代、雲井龍雄の名を知る者は少なく、その詩もほとんど吟じられない。バブル経済の濁流の中で、世は拝金万能となり、「義」を軽んじ「利」を貪(むさぼ)るの風が、蔓延したことと関連がありはしないか。
雲井は政治家であるよりは詩人であり過ぎ、詩人であるよりは政治家であり過ぎた。明治四年春に西郷南洲(西郷隆盛つまり西郷吉之助のこと)が上京し、明治の政治に着手するまでは、新政府は反動そのものであった。五か条の誓文は空文に帰し、三権分立を主義とする機構は一掃的に廃止され、王朝時代の大宝令さながらの官僚専制に改められた。これに絶望の感をいだいた雲井が、集議院(のちの衆議院)を脱退して兵を挙げようとしたのは、憂国の至情に出でたものである。歴史をひもとく者は、成敗の跡をのみをもって人を評価してはならない。邪にして正名(せいめい)を負い、正にして邪を冠せられるもの、決して少なくないのである。中野好夫さんは、かつて雲井の詩の「国を護るの人は、多くの国を誤るの人」の句をひいて「思い当たることが多大ですね」と言われたことがある。すべからく活眼を開いて、活史を読むべきである。
<まえがき 「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作まえがきより>
明治三年十二月二十六日、米沢の人、雲井龍雄は判決を下され、その日のうちに小伝馬町(こでんまちょう)の獄で斬首され、その首は小塚原(こつかばら)に晒された。また龍雄の胴体は大学に下付され、医学授業のために切り刻まれた。昔の未開地域ならいざ知らず、近世、世界の文明国に於いて、裁判の判決と同時に死刑執行などという行為は、歴史上にその類例を見ないのではないか。
当時、諸官庁の年末御用仕舞(御用納・仕事納めのこと)は二十六日である。そのため、処刑を新年に延ばさず年内に実施したのである。すなわち、明治政府にとっては、雲井龍雄が生きている、そのことが恐怖であった。それほど政府に脅威を与えた龍雄の罪状は何であったのか。今もって定かではない。ただ最近の歴史的な見方は「西郷隆盛のように雲井龍雄も「挙兵」しようとした」あるいは「あまりもの明治政府にとって義に生き藩閥政治をおわらせようと主張する龍雄は「厄介者」だから」と斬首になったと、いう説が有力であるという。
ただ、龍雄にとって、その胸中を去来したものは、新政府という美名にかくれ、朝権(ちょうけん)をかさに着た薩長ら雄藩の策動、これでは幕府専制に代る藩閥専横(はんばつせんおう)を招くという憂いであった。一日も早く藩閥の芽を摘まなければ国家百年の災いを招くという、龍雄の義侠(ぎきょう)の精神を政府は恐れたのである。新政府は成立以来まだ日も浅く、人心収攬(しゅうらん)も定かでないとき、龍雄一党には厳罰主義をもって臨み、これをもって天下不平の徒への見せしめとする意向であった。
かつて、龍雄は政府の選抜により、上杉藩代表として唯一人、国会の前身集議院(現・衆議院)に籍をおき、天下の論客として活躍した。名誉あるこの地位は、政界であるなら政党領袖か国務大臣、官界ならば府知事か各省次官、軍人なら将官以上という、輝かしい将来が予約されていたのである。それにもかかわらず龍雄は、すべての栄達を投げ捨てて政治の理想を求め、同志を率いて内乱の罪に坐し、その魁首(かいしゅ)として葬られた。
これを極刑に処した政府は、その威信を保たんがため、龍雄一党の軌跡については極力消滅を期した。龍雄の郷里米沢においても、龍雄の名を口にすることさえ、絶えてタブーとされ続けたのである。龍雄の行為は、外形的にはいずれも挫折であった。龍雄の苦悩と、決断にいたるまでの道筋をさぐり、龍雄の精神をいくらでもご理解いただきたく、米沢における滅びの美学を追及するものである。
平成三年(一九九一年)夏 田宮友亀雄著作遠藤書店「まえがき」より
ちなみに私こと緑川鷲羽の拙書「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代」は幕末の出来事を頻繁にこれでもか、これでもか、と幕末明治維新の世界観とその時代を、歴史上に埋もれてしまった米沢市(米沢藩)の偉人・雲井龍雄氏、を主人公のひとりにその時代背景とともに描いていくまさに「大河ドラマの原作」のような作品である。この書で、雲井龍雄が、直江兼続公、上杉謙信公(いずれも著者が小説の主人公として小説作品にものしている)のように有名人になれれば、緑川鷲羽は「「坂本竜馬」を有名にした作家・司馬遼太郎氏」のように「「上杉鷹山公」「雲井龍雄」「耶律楚材」「杉原千畝氏」を有名にした作家・緑川鷲羽」と呼ばれるかもしれない。そうなれば大河ドラマ化確実だ。米沢市の為にも粉骨砕身するしかない。2016年の大河ドラマは緑川鷲羽原作「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」その次々回作大河ドラマは本書緑川鷲羽原作「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代」でお願いしたい。2015年のNHK大河ドラマが発表され、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(ふみ)が主役のオリジナル作品「花燃ゆ」に決まり、女優の井上真央さんが主演を務めることが分かった。井上さんが大河ドラマに出演するのは初めてで、NHKのドラマに出演するのは11年のNHK連続テレビ小説「おひさま」で主演を務めて以来、約4年ぶりとなる。萩市の野村興児市長は「大河ドラマは萩観光の起爆剤になる」と期待を高めている。もう一つのドラマの見所として、松下村塾での教育のあり方も興味深い。「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶもの)「志を立ててもって万事の源となす」(志を立てることがすべての源となる)「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)松陰が語りかける言葉の一つ一つに感銘を受ける若き玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら。人間形成にとって教育とはいかなるものか。われわれに問いかける。黒船来航…幕末、伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる高杉晋作、久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちはそれぞれ明治の時代に花開いた。 おわり
1 草莽掘起
この世に人と生まれてきて、八十年の平均寿命をいかに過ごすべきか。これは各人共通の課題である。いつの時代も人はみな、平穏無事な環境に、衣食住に恵まれた文化生活を求めている。少しでも多くの肩書や役職を求めて地位の上昇を望む。権力に追従するためには、常に他人の心境を憶測し、心にもない言動を示すのもやむを得ないことである。
戦国封軒時代当時の大名や、それに仕える武士階級はもとより、現代社会に於いても多少の差はあれ同じである。公務員の上司と職員、会社の社長と社員、その他権力に群がる多くの人たち、いつの世でもこれが人間社会の姿である。贈収賄の原因もここにある。
歴史上の人物は、その時代に傑出し、溌剌(はつらつ)と活躍し、英雄と呼ばれて民衆から慕われた人々である。さまざまな分野で、その人たちが生きた時代に、その人自身が持つ並はずれた才能によって、数多くの制約・重圧とたたかい、成功や失敗にかかわらず、群を抜く功罪で名を後世に残した。時代は幕末、米沢の雲井龍雄は、近代国家建設に尽力し、維新の大業を純粋なものにしようとして、藩閥政府の中心である薩長に反抗して刑場の露と散る。何故滅びなければならなかったのか。昇り竜の如し、雲井龍雄伝をものしてみたい。(『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店1~5ページ)
この物語の主人公・雲井(本姓・小島)守善(もりよし)龍雄で、ある。「くもいたつお」である。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の薩長同盟ができ、幕府が敵とされた時期だった。
雲井龍雄は「維新」の書を獄中で書いていた。薩摩藩を討つべし!それが、「討薩檄(とうさつのげき)」である。最初は「討幕派」であったが、明治新政府が出来ると腐った私利私欲にうつつをぬかす薩長幕政に嫌気がさし、特に薩摩を憎むようになったのだ。
弟子と妻は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の龍雄が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも龍雄は微笑んだ。
「………ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「旦那様―!旦那さまー!」
やがて龍雄は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「………朝に道をきけば夕べにしすとも可なり」「ごめん!」閃光が走った……
「旦那さまーっ!」妻は号泣しながら絶叫した。暗黒の維新回天時代ならいざ知らず、戊辰後の明治政府初期の時代である。明治初期の天才・米沢藩の思想家・詩人「雲井龍雄の「死」」……
かれの処刑をきいた弟子たちは怒りにふるえたという。
「軟弱な明治政府と、長州薩摩の保守派を一掃せねば、本当の維新はならぬ!」
「先生はあまりに頭が切れすぎた。『討薩檄』はまずかった。薩長の奸賊どもめ!」
弟子は師の意志を継ぐことを決め、決起したがもう遅い。もはや師匠・雲井龍雄は「あの世のひと」である。
話を少し明治維新前夜に戻す。
長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。
……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……
伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
英国の痛いところをつくものだ。
伊藤は感心するやら呆れるやらだった。
明治四十二年には吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。
松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献は田宮友亀雄(たみやゆきお・雅号・賢山・監修「国士舘大学文学博士 安藤秀男」)著作「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」(遠藤書店・平成三年)、ウィキペディア、「ネタバレ」、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ(この作品執筆時2014年4月まだ放送前)」、他の複数の歴史文献。漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、小林よしのり著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ(この作品執筆時まだ放送前)」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
坂本竜馬はいつぞやの土佐藩の山内容堂公の家臣の美貌の娘・お田鶴(たず)さまと、江戸で偶然出会った。お田鶴は徳川幕府の旗本のお坊ちゃまと結婚し、江戸暮らしをはじめていて、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。
「お田鶴さまお久ぶりです」「竜馬……元気そうですね。」ふたりは江戸の街を歩いた。「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」「ああ!ほんに江戸はええぜよ!」
忘れてはならないのは龍馬とお田鶴さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。
「幸せそうじゃの、お田鶴さま。旦那様は優しい人ですろうか?」「つまらぬ人です。旗本のたいくつなお坊ちゃま。幸せそうに見えるなら今、龍馬に会えたからです」「は……はあ」「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。人妻のわたしは抜け殻、夜……抱かれている時も、心は龍馬に抱かれています。お前はわたしのことなど忘れてしまいましたか?」「わ、忘れちょりゃせんですきに」
二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。「お田鶴さま」「竜馬」
「なぜお田鶴さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお田鶴さまを幸せに出来るんじゃ?!」
そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた一見するとやわな女性のような華奢な男・雲井龍雄である。
「なにとぞ護国大明神!この日の本をお守りくだされ!我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」
龍馬たちは唖然として音をたててしまった。
「おお!返事をなさった!護国大明神!わが祈りをお聞き入れくださりますか!」龍雄は門を開けて神社内にはいり無言になった。
龍馬とお田鶴も唖然として何も言えない。
「お二人は護国大明神でありますか?」
「いや、わしは土佐の坂本竜馬、こちらはお田鶴さまです。すまんのう。幼馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」
雲井は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。
「護国大明神!このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります!雲井龍雄、もはや命は捨てております!幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます!なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」
雲井龍雄は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお田鶴は唖然とするしかない。しばらくして龍雄は「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如くどこぞかに去った。
すると次に四人の侍が来た。「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が竜馬たちにきいた。
「あっ、見かけた」
「なに!どちらにいかれた?!」
「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」
「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。「まあ、正蔵」
「わたしは米沢藩の黒井と申します。捜しておられるのは我らの師雲井龍雄という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む!お教え願いたい」
四人の武士は雲井龍雄の弟子たちであった。
龍馬は唖然としながらも「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」
「かたじけない。ごめん!」
四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(正蔵)は「おい!逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きてるぞ!」と振り返り言った。
「なにが起こっちゅうがよ?」
「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた!いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと正蔵も去った。
「黒船……?」竜馬にはわからなかった。
その頃、長州藩(山口県)の思想家・吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。
だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。
吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」
「先生!先生!」「下がれ!下がれ!」長州藩の桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(博文)の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。
松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です!どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります!狂い戦ってください!二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」
「先生!」晋作らは泣き崩れた。
黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。
唐丸籠(とうまるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。
「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ!幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。
「うるさい!この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」
「若者よ、今こそ立ち上がれ!異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ!若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ!この日の本を守る、熱き志士となれ!」
またも役人は棒で松陰をぼこぼこにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。
「耐えるんだ、皆!我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。
江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。
やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生!先生!」「兄やーん!兄やーん!」
座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。
そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」
しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。
「ごめん!」
吉田松陰の首は落ちた。
雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられた藁布団をとると首がない。
高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ!先生の首はどうしたー!」
「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!
長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ!松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると!聞け―幕府!きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ!この高杉晋作がきっと後悔させてやる!」
雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。
坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは長州は倒幕でいきますよ」
竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
竜馬はにやりとした。「それ坂本さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。
竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
晋作は呆れた。「なにーい?!勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
高杉は考えてから「わかった坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(のちの由利公正・ゆりきみまさ)と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人?ほう」
坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
おりょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
おりょうは答えなかった。
ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
半平太はそういって連行された。
吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。
この禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池内蔵太(いけ・くらた)もいた。そして中岡慎太郎も……。桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。
「御所御門に発砲するとは何ごとか?!そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ!」
「そんな話があるかー!」
鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります!」
武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出たが、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。
「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」
入江九一(いりえくいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。
右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。
「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」
「ああ」
「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」
久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。
やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。
竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。
のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。
すべては日本の国の為にである。
長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。
京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。
だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。
勿論、竜馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。
ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。
だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。
立志
米沢の春
兼続と景勝……ふたりの性格はまったく正反対だった。
兼続は弁がたち、策略家である。いっぽうの景勝は無口で、謀略性もない。
上杉は兼続でもっているようなものだった。
こんな逸話も残っている。戦後、江戸城で伊達政宗に行き合い、挨拶もしない兼続を政宗は「陪臣の身で大名に挨拶しないとは無礼千万!」と咎めた。すると兼続は、「戦場では(負けて逃げていく)後ろ姿しかみていなかったので気付きませんでした」と皮肉った。
直江兼続は家臣の前で静かに語った。
「領民の皆さん。
われは今日、厳粛な思いで任務を前にし、皆さんの信頼に感謝し、我々の祖先が払った犠牲を心にとめて、この場に立っている。上杉景勝公が我が国に果たした貢献と、政権移行期に示してくれた寛容さと協力に感謝する。
これまで上杉謙信公が、上杉の義と愛を当主として宣誓を行った。その言葉は、繁栄の波と平和の安定の期待に語られることもあったが、暗雲がたれ込め、嵐が吹きずさむなかでの宣誓もあった。こうした試練の時に上杉が前進を続けられたのは、役人や家臣の技量と展望だけでなく、「我ら、上杉」が、先達の理想と、上杉の義に忠実でありつづけたためである。それが我々の世代にとっても、そうありつづける。
誰もが知る通り、我々は重大な危機にある。わが国は会津二七十万石から米沢三十万石になり、天下太平の世でも憎悪と暴力が広がって膨らみを持っている。経済状況も悪く、それは一部の人々の貪欲さの無責任さにあるものの我々は困難な選択を避け、次世代への準備に失敗している。
多くのひとびとが家を失い、商人が倒産した。領民の健康もカネがかかりすぎ、多くの学校(制度)も失敗した。毎日のように我々の軍による使い方が敵を強め、米沢を危機に陥れている証拠も挙がっている。
これが情報や統計が示した危機だ。全上杉領土で自信が失われ、上杉の没落は必然で、次の世代は多くを望まない、という恐れが蔓延している。
今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だが、上杉・米沢いずれそれを克服できるということだ。今こそ我々が米沢藩の時代をつくっていくのだ!
この日に我々が集まったのは恐れではなく、恐れではなく、希望を選んだからで、争いのかわりに団結を選んだからだ。この日、我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ、これまで使い果たされ、そして政治的な独断をやめることだ。そのために私はここにやってきた。
我々はいまだ若い藩だ。だが、古の言葉を借りれば「幼子らしいこと」をやめるときがきた。我々が不屈の精神を再確認する時がきた。より良い歴史を選ぶことを再確認し、世代から世代へと受け継がれた高貴な理想と貴重な贈り物を引き継ぐときがきた。それはすべての人々が平等で自由で、最大限の幸福を獲得できるという約束である。
我々が国の偉大さを確認するとき、偉大さは与えられるものではなく獲得するものだと知るべきときがきた。自分で勝ち得るものがそれなのだ。
我々のこれまでの道はけして近道ではなかった。安易に流れるものでもなかった。それは心の弱い、強欲な豊かなひとだけが得をするという安易な道でもなかった。
むしろ損を選ぶひと、実行の人、創造のひとの道だ。恵まれたひしだけでなく、貧しいひとも豊に夢を持てる社会構築こそ大事なのだ。
我々のために彼等は、ないに等しい荷物をまとめ、海を渡って新しい生活をしたのだ。 我々のために彼等は額に汗して働き、越後、会津、米沢に住み着き、鞭打ちに耐え、硬い土地を耕してきたのだ。我々のために彼等は川中島や関ケ原や、大坂の陣で戦い、死んだ人々を思い起こそう!
我々は旅を続けている。我々は今だに日本一繁栄し強力な藩だ。我々労働者は今、危機の真っ直中にある。しかし、我々の能力は落ちてはいない。過去に固執し、狭い利益しか守れず、面倒な決定は後回しにする時代は終わった。
我々は道や橋、商業流通の網を作り、我々の商業を支え、我々の結び付きを強めなければならない。我々には緑や風や風土、商いが必要で、我々がやらなければならないことは緑田畑のための環境公共事業である!
我々は「できない」という人々にこう答えよう。「我々には出来る」と。答えは一様ではないだろう。「そうだ」だけでなく「否」という覚悟も大事になるだろう。しかし、我々は商い活性化や環境と戦わなければならない。取り組まなければならない。差別とも戦わなければならない。私の父は越後の百姓同然の身分だった。その息子が宣誓している。 謙信公は昔、私にいった。「私には夢がある」と…我々の米沢は白い米沢でも黒い米沢でも赤い米沢でも黄色い米沢でもない、出羽米沢藩三十万石なのだ!
我々は今こそ立ち上がろう!
「未来の世界に語られるようにしょう。厳寒の中で希望と美徳だけが生き残った時、共通の脅威にさらされた国や地方が前に進み、それに立ち向かうと」
将来、我々の子孫に言われるようにしよう。あの時代は間違いではなかったと。試練にさらされたとき我々の旅は、たじろうこともなく、後戻りすることもなく、自由という偉大な贈り物を前に送り出し、それを次世代に届けたのだ、ということを記録しよう。我々は「できない」という人々にこう答えよう。「我々には出来る。と」
こうして直江兼続は大喚声に包まれる。第一歩だった。
しかし、そんな兼続も死んだ。死ぬまえ、兼続は江戸で、「米沢に帰りたい。そこで死にたい」と荒い息のままもらした。景勝は「春になれば米沢に戻れる」といって励ました。 兼続はわすがにうなずき、「御屋形様…義を…大切に」といい、数日後、眠るように息を引き取った。享年六十歳だった。
元和五年(一六一九)のことである。兼続には景明という息子がいたが、病弱で、元和元年に死んだ。ふたりの児女も早世、家康の重臣・本多正信の息子を養子にしていたが、慶長十六年に帰され、兼続の死の十六年後・妻お船も死ぬ。そして直江家は絶えた。
元和九年、景勝は六十九歳となった。お互い年寄りどおしになった伊達政宗と笑顔で語り合った。この頃、嫡男は元服し、定勝と名乗った。
この頃から、景勝は病気になった。
「もうよい。お迎えがきておる」医者にいった。しきりに謙信や兼続の話しをした。
景勝は自ら遺言書をつくり、三月二十日、米沢城で静かに息を引き取った。
享年六十九、当時としては異例の長寿だった。
慶次も禄を三百石に減らされて米沢に移った。城外の堂森に隠居する。が、安易に隠居暮らしのできる男ではない。奇行は死ぬまで続くのだが、ここでは紙数がない。
堂森の自宅を『無苦庵』と名付け、「記」を貼り付けた。「生きるだけ生きたれば死ぬるでもあらうからと思う」と、慶次一流の人を食った文言だった。
慶長十七年六月四日、慶次は『無苦庵』で波乱に満ちた生涯を閉じた。
七十前後だったという。
<米沢藩士>雲井(くもい)龍(たつ)雄(お)伝とその時代
<のぼりりゅうのごとく よねざわはんし くもいたつお でん とそのじだい>
~米沢藩に咲いた滅びの美学~
米沢藩の不世出の「米沢の坂本竜馬」詩吟「棄児行」誤伝論
「幕末史に埋もれた歴史的・偉人」究極の伝 米沢藩士・雲井龍雄伝説
ノンフィクション小説
total-produced&PRESENTED&written by
MIDORIKAWA washu
緑川 鷲羽
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
あらすじ・まえがき
「「若者の感懐 人はみな 命をかけて信ずる途に進まれよ それが服従でも反抗でも 損得は別として その人の生き甲斐というものである その典型的実践者が 米沢の人 雲井龍雄である その生涯のはかなさは 次の 良寛和尚の辞世と同じである <散る桜 残る桜も 散る桜>」 平成三年(一九九一年)夏 煙雨にけむる斜平山を眺めつつ 田宮賢山(雅号・本名・田宮友亀雄氏)」
<「序に代えて」国士舘大学教授文学博士 安藤秀男氏>幕末の志士・明治の書生、それは共通した心情を持っている。すなわち、「富貴も淫する能(あた)わず。貧賤(ひんせん)を移す能わず。威武も屈する能わず。」(『孟子』滕(とう)文公章)といった独立特行の精神と、輝かしい明日の来たるを信じて挺身し、国家の礎(いしずえ)となるのを辞せぬという殉国の精神である。私は中野好夫さんに知遇を受けたが、中野さんは「私は最後の明治書生でした。雲井龍雄の詩は、私の胸に深く沈殿した感があります」と言われたことがある。杉浦重剛も、「青年期には何もこわい者がない。天下横行すべしという元気であったから、雲井龍雄の詩などは開いた口に牡丹餅だった」(『杉浦重剛座談録』岩波書店)と述べている。雲井の詩を知らぬ学生は一人もなかったと言っていい、と記している。
雲井の詩はペダンティック(学者ぶったもの)ではあるが、壮志と悲調とロマンチシズム(浪漫主義)を織りまぜて、復興期・明治の青春にふさわしい情熱を発散している。これによって有為の青年がいかに希望に胸をふくらませ、志を引き立てたかは歴々として証拠がある。しかるに平成の現代、雲井龍雄の名を知る者は少なく、その詩もほとんど吟じられない。バブル経済の濁流の中で、世は拝金万能となり、「義」を軽んじ「利」を貪(むさぼ)るの風が、蔓延したことと関連がありはしないか。
雲井は政治家であるよりは詩人であり過ぎ、詩人であるよりは政治家であり過ぎた。明治四年春に西郷南洲(西郷隆盛つまり西郷吉之助のこと)が上京し、明治の政治に着手するまでは、新政府は反動そのものであった。五か条の誓文は空文に帰し、三権分立を主義とする機構は一掃的に廃止され、王朝時代の大宝令さながらの官僚専制に改められた。これに絶望の感をいだいた雲井が、集議院(のちの衆議院)を脱退して兵を挙げようとしたのは、憂国の至情に出でたものである。歴史をひもとく者は、成敗の跡をのみをもって人を評価してはならない。邪にして正名(せいめい)を負い、正にして邪を冠せられるもの、決して少なくないのである。中野好夫さんは、かつて雲井の詩の「国を護るの人は、多くの国を誤るの人」の句をひいて「思い当たることが多大ですね」と言われたことがある。すべからく活眼を開いて、活史を読むべきである。
<まえがき 「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作まえがきより>
明治三年十二月二十六日、米沢の人、雲井龍雄は判決を下され、その日のうちに小伝馬町(こでんまちょう)の獄で斬首され、その首は小塚原(こつかばら)に晒された。また龍雄の胴体は大学に下付され、医学授業のために切り刻まれた。昔の未開地域ならいざ知らず、近世、世界の文明国に於いて、裁判の判決と同時に死刑執行などという行為は、歴史上にその類例を見ないのではないか。
当時、諸官庁の年末御用仕舞(御用納・仕事納めのこと)は二十六日である。そのため、処刑を新年に延ばさず年内に実施したのである。すなわち、明治政府にとっては、雲井龍雄が生きている、そのことが恐怖であった。それほど政府に脅威を与えた龍雄の罪状は何であったのか。今もって定かではない。ただ最近の歴史的な見方は「西郷隆盛のように雲井龍雄も「挙兵」しようとした」あるいは「あまりもの明治政府にとって義に生き藩閥政治をおわらせようと主張する龍雄は「厄介者」だから」と斬首になったと、いう説が有力であるという。
ただ、龍雄にとって、その胸中を去来したものは、新政府という美名にかくれ、朝権(ちょうけん)をかさに着た薩長ら雄藩の策動、これでは幕府専制に代る藩閥専横(はんばつせんおう)を招くという憂いであった。一日も早く藩閥の芽を摘まなければ国家百年の災いを招くという、龍雄の義侠(ぎきょう)の精神を政府は恐れたのである。新政府は成立以来まだ日も浅く、人心収攬(しゅうらん)も定かでないとき、龍雄一党には厳罰主義をもって臨み、これをもって天下不平の徒への見せしめとする意向であった。
かつて、龍雄は政府の選抜により、上杉藩代表として唯一人、国会の前身集議院(現・衆議院)に籍をおき、天下の論客として活躍した。名誉あるこの地位は、政界であるなら政党領袖か国務大臣、官界ならば府知事か各省次官、軍人なら将官以上という、輝かしい将来が予約されていたのである。それにもかかわらず龍雄は、すべての栄達を投げ捨てて政治の理想を求め、同志を率いて内乱の罪に坐し、その魁首(かいしゅ)として葬られた。
これを極刑に処した政府は、その威信を保たんがため、龍雄一党の軌跡については極力消滅を期した。龍雄の郷里米沢においても、龍雄の名を口にすることさえ、絶えてタブーとされ続けたのである。龍雄の行為は、外形的にはいずれも挫折であった。龍雄の苦悩と、決断にいたるまでの道筋をさぐり、龍雄の精神をいくらでもご理解いただきたく、米沢における滅びの美学を追及するものである。
平成三年(一九九一年)夏 田宮友亀雄著作遠藤書店「まえがき」より
ちなみに私こと緑川鷲羽の拙書「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代」は幕末の出来事を頻繁にこれでもか、これでもか、と幕末明治維新の世界観とその時代を、歴史上に埋もれてしまった米沢市(米沢藩)の偉人・雲井龍雄氏、を主人公のひとりにその時代背景とともに描いていくまさに「大河ドラマの原作」のような作品である。この書で、雲井龍雄が、直江兼続公、上杉謙信公(いずれも著者が小説の主人公として小説作品にものしている)のように有名人になれれば、緑川鷲羽は「「坂本竜馬」を有名にした作家・司馬遼太郎氏」のように「「上杉鷹山公」「雲井龍雄」「耶律楚材」「杉原千畝氏」を有名にした作家・緑川鷲羽」と呼ばれるかもしれない。そうなれば大河ドラマ化確実だ。米沢市の為にも粉骨砕身するしかない。2016年の大河ドラマは緑川鷲羽原作「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」その次々回作大河ドラマは本書緑川鷲羽原作「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代」でお願いしたい。2015年のNHK大河ドラマが発表され、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(ふみ)が主役のオリジナル作品「花燃ゆ」に決まり、女優の井上真央さんが主演を務めることが分かった。井上さんが大河ドラマに出演するのは初めてで、NHKのドラマに出演するのは11年のNHK連続テレビ小説「おひさま」で主演を務めて以来、約4年ぶりとなる。萩市の野村興児市長は「大河ドラマは萩観光の起爆剤になる」と期待を高めている。もう一つのドラマの見所として、松下村塾での教育のあり方も興味深い。「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶもの)「志を立ててもって万事の源となす」(志を立てることがすべての源となる)「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)松陰が語りかける言葉の一つ一つに感銘を受ける若き玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら。人間形成にとって教育とはいかなるものか。われわれに問いかける。黒船来航…幕末、伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる高杉晋作、久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちはそれぞれ明治の時代に花開いた。 おわり
1 草莽掘起
この世に人と生まれてきて、八十年の平均寿命をいかに過ごすべきか。これは各人共通の課題である。いつの時代も人はみな、平穏無事な環境に、衣食住に恵まれた文化生活を求めている。少しでも多くの肩書や役職を求めて地位の上昇を望む。権力に追従するためには、常に他人の心境を憶測し、心にもない言動を示すのもやむを得ないことである。
戦国封軒時代当時の大名や、それに仕える武士階級はもとより、現代社会に於いても多少の差はあれ同じである。公務員の上司と職員、会社の社長と社員、その他権力に群がる多くの人たち、いつの世でもこれが人間社会の姿である。贈収賄の原因もここにある。
歴史上の人物は、その時代に傑出し、溌剌(はつらつ)と活躍し、英雄と呼ばれて民衆から慕われた人々である。さまざまな分野で、その人たちが生きた時代に、その人自身が持つ並はずれた才能によって、数多くの制約・重圧とたたかい、成功や失敗にかかわらず、群を抜く功罪で名を後世に残した。時代は幕末、米沢の雲井龍雄は、近代国家建設に尽力し、維新の大業を純粋なものにしようとして、藩閥政府の中心である薩長に反抗して刑場の露と散る。何故滅びなければならなかったのか。昇り竜の如し、雲井龍雄伝をものしてみたい。(『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店1~5ページ)
この物語の主人公・雲井(本姓・小島)守善(もりよし)龍雄で、ある。「くもいたつお」である。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の薩長同盟ができ、幕府が敵とされた時期だった。
雲井龍雄は「維新」の書を獄中で書いていた。薩摩藩を討つべし!それが、「討薩檄(とうさつのげき)」である。最初は「討幕派」であったが、明治新政府が出来ると腐った私利私欲にうつつをぬかす薩長幕政に嫌気がさし、特に薩摩を憎むようになったのだ。
弟子と妻は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の龍雄が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも龍雄は微笑んだ。
「………ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「旦那様―!旦那さまー!」
やがて龍雄は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「………朝に道をきけば夕べにしすとも可なり」「ごめん!」閃光が走った……
「旦那さまーっ!」妻は号泣しながら絶叫した。暗黒の維新回天時代ならいざ知らず、戊辰後の明治政府初期の時代である。明治初期の天才・米沢藩の思想家・詩人「雲井龍雄の「死」」……
かれの処刑をきいた弟子たちは怒りにふるえたという。
「軟弱な明治政府と、長州薩摩の保守派を一掃せねば、本当の維新はならぬ!」
「先生はあまりに頭が切れすぎた。『討薩檄』はまずかった。薩長の奸賊どもめ!」
弟子は師の意志を継ぐことを決め、決起したがもう遅い。もはや師匠・雲井龍雄は「あの世のひと」である。
話を少し明治維新前夜に戻す。
長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。
……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……
伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
英国の痛いところをつくものだ。
伊藤は感心するやら呆れるやらだった。
明治四十二年には吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。
松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献は田宮友亀雄(たみやゆきお・雅号・賢山・監修「国士舘大学文学博士 安藤秀男」)著作「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」(遠藤書店・平成三年)、ウィキペディア、「ネタバレ」、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ(この作品執筆時2014年4月まだ放送前)」、他の複数の歴史文献。漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、小林よしのり著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ(この作品執筆時まだ放送前)」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
坂本竜馬はいつぞやの土佐藩の山内容堂公の家臣の美貌の娘・お田鶴(たず)さまと、江戸で偶然出会った。お田鶴は徳川幕府の旗本のお坊ちゃまと結婚し、江戸暮らしをはじめていて、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。
「お田鶴さまお久ぶりです」「竜馬……元気そうですね。」ふたりは江戸の街を歩いた。「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」「ああ!ほんに江戸はええぜよ!」
忘れてはならないのは龍馬とお田鶴さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。
「幸せそうじゃの、お田鶴さま。旦那様は優しい人ですろうか?」「つまらぬ人です。旗本のたいくつなお坊ちゃま。幸せそうに見えるなら今、龍馬に会えたからです」「は……はあ」「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。人妻のわたしは抜け殻、夜……抱かれている時も、心は龍馬に抱かれています。お前はわたしのことなど忘れてしまいましたか?」「わ、忘れちょりゃせんですきに」
二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。「お田鶴さま」「竜馬」
「なぜお田鶴さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお田鶴さまを幸せに出来るんじゃ?!」
そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた一見するとやわな女性のような華奢な男・雲井龍雄である。
「なにとぞ護国大明神!この日の本をお守りくだされ!我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」
龍馬たちは唖然として音をたててしまった。
「おお!返事をなさった!護国大明神!わが祈りをお聞き入れくださりますか!」龍雄は門を開けて神社内にはいり無言になった。
龍馬とお田鶴も唖然として何も言えない。
「お二人は護国大明神でありますか?」
「いや、わしは土佐の坂本竜馬、こちらはお田鶴さまです。すまんのう。幼馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」
雲井は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。
「護国大明神!このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります!雲井龍雄、もはや命は捨てております!幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます!なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」
雲井龍雄は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお田鶴は唖然とするしかない。しばらくして龍雄は「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如くどこぞかに去った。
すると次に四人の侍が来た。「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が竜馬たちにきいた。
「あっ、見かけた」
「なに!どちらにいかれた?!」
「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」
「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。「まあ、正蔵」
「わたしは米沢藩の黒井と申します。捜しておられるのは我らの師雲井龍雄という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む!お教え願いたい」
四人の武士は雲井龍雄の弟子たちであった。
龍馬は唖然としながらも「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」
「かたじけない。ごめん!」
四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(正蔵)は「おい!逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きてるぞ!」と振り返り言った。
「なにが起こっちゅうがよ?」
「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた!いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと正蔵も去った。
「黒船……?」竜馬にはわからなかった。
その頃、長州藩(山口県)の思想家・吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。
だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。
吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」
「先生!先生!」「下がれ!下がれ!」長州藩の桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(博文)の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。
松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です!どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります!狂い戦ってください!二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」
「先生!」晋作らは泣き崩れた。
黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。
唐丸籠(とうまるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。
「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ!幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。
「うるさい!この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」
「若者よ、今こそ立ち上がれ!異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ!若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ!この日の本を守る、熱き志士となれ!」
またも役人は棒で松陰をぼこぼこにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。
「耐えるんだ、皆!我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。
江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。
やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生!先生!」「兄やーん!兄やーん!」
座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。
そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」
しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。
「ごめん!」
吉田松陰の首は落ちた。
雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられた藁布団をとると首がない。
高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ!先生の首はどうしたー!」
「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!
長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ!松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると!聞け―幕府!きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ!この高杉晋作がきっと後悔させてやる!」
雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。
坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは長州は倒幕でいきますよ」
竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
竜馬はにやりとした。「それ坂本さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。
竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
晋作は呆れた。「なにーい?!勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
高杉は考えてから「わかった坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(のちの由利公正・ゆりきみまさ)と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人?ほう」
坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
おりょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
おりょうは答えなかった。
ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
半平太はそういって連行された。
吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。
この禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池内蔵太(いけ・くらた)もいた。そして中岡慎太郎も……。桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。
「御所御門に発砲するとは何ごとか?!そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ!」
「そんな話があるかー!」
鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります!」
武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出たが、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。
「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」
入江九一(いりえくいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。
右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。
「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」
「ああ」
「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」
久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。
やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。
竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。
のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。
すべては日本の国の為にである。
長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。
京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。
だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。
勿論、竜馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。
ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。
だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。
立志
米沢の春
兼続と景勝……ふたりの性格はまったく正反対だった。
兼続は弁がたち、策略家である。いっぽうの景勝は無口で、謀略性もない。
上杉は兼続でもっているようなものだった。
こんな逸話も残っている。戦後、江戸城で伊達政宗に行き合い、挨拶もしない兼続を政宗は「陪臣の身で大名に挨拶しないとは無礼千万!」と咎めた。すると兼続は、「戦場では(負けて逃げていく)後ろ姿しかみていなかったので気付きませんでした」と皮肉った。
直江兼続は家臣の前で静かに語った。
「領民の皆さん。
われは今日、厳粛な思いで任務を前にし、皆さんの信頼に感謝し、我々の祖先が払った犠牲を心にとめて、この場に立っている。上杉景勝公が我が国に果たした貢献と、政権移行期に示してくれた寛容さと協力に感謝する。
これまで上杉謙信公が、上杉の義と愛を当主として宣誓を行った。その言葉は、繁栄の波と平和の安定の期待に語られることもあったが、暗雲がたれ込め、嵐が吹きずさむなかでの宣誓もあった。こうした試練の時に上杉が前進を続けられたのは、役人や家臣の技量と展望だけでなく、「我ら、上杉」が、先達の理想と、上杉の義に忠実でありつづけたためである。それが我々の世代にとっても、そうありつづける。
誰もが知る通り、我々は重大な危機にある。わが国は会津二七十万石から米沢三十万石になり、天下太平の世でも憎悪と暴力が広がって膨らみを持っている。経済状況も悪く、それは一部の人々の貪欲さの無責任さにあるものの我々は困難な選択を避け、次世代への準備に失敗している。
多くのひとびとが家を失い、商人が倒産した。領民の健康もカネがかかりすぎ、多くの学校(制度)も失敗した。毎日のように我々の軍による使い方が敵を強め、米沢を危機に陥れている証拠も挙がっている。
これが情報や統計が示した危機だ。全上杉領土で自信が失われ、上杉の没落は必然で、次の世代は多くを望まない、という恐れが蔓延している。
今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だが、上杉・米沢いずれそれを克服できるということだ。今こそ我々が米沢藩の時代をつくっていくのだ!
この日に我々が集まったのは恐れではなく、恐れではなく、希望を選んだからで、争いのかわりに団結を選んだからだ。この日、我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ、これまで使い果たされ、そして政治的な独断をやめることだ。そのために私はここにやってきた。
我々はいまだ若い藩だ。だが、古の言葉を借りれば「幼子らしいこと」をやめるときがきた。我々が不屈の精神を再確認する時がきた。より良い歴史を選ぶことを再確認し、世代から世代へと受け継がれた高貴な理想と貴重な贈り物を引き継ぐときがきた。それはすべての人々が平等で自由で、最大限の幸福を獲得できるという約束である。
我々が国の偉大さを確認するとき、偉大さは与えられるものではなく獲得するものだと知るべきときがきた。自分で勝ち得るものがそれなのだ。
我々のこれまでの道はけして近道ではなかった。安易に流れるものでもなかった。それは心の弱い、強欲な豊かなひとだけが得をするという安易な道でもなかった。
むしろ損を選ぶひと、実行の人、創造のひとの道だ。恵まれたひしだけでなく、貧しいひとも豊に夢を持てる社会構築こそ大事なのだ。
我々のために彼等は、ないに等しい荷物をまとめ、海を渡って新しい生活をしたのだ。 我々のために彼等は額に汗して働き、越後、会津、米沢に住み着き、鞭打ちに耐え、硬い土地を耕してきたのだ。我々のために彼等は川中島や関ケ原や、大坂の陣で戦い、死んだ人々を思い起こそう!
我々は旅を続けている。我々は今だに日本一繁栄し強力な藩だ。我々労働者は今、危機の真っ直中にある。しかし、我々の能力は落ちてはいない。過去に固執し、狭い利益しか守れず、面倒な決定は後回しにする時代は終わった。
我々は道や橋、商業流通の網を作り、我々の商業を支え、我々の結び付きを強めなければならない。我々には緑や風や風土、商いが必要で、我々がやらなければならないことは緑田畑のための環境公共事業である!
我々は「できない」という人々にこう答えよう。「我々には出来る」と。答えは一様ではないだろう。「そうだ」だけでなく「否」という覚悟も大事になるだろう。しかし、我々は商い活性化や環境と戦わなければならない。取り組まなければならない。差別とも戦わなければならない。私の父は越後の百姓同然の身分だった。その息子が宣誓している。 謙信公は昔、私にいった。「私には夢がある」と…我々の米沢は白い米沢でも黒い米沢でも赤い米沢でも黄色い米沢でもない、出羽米沢藩三十万石なのだ!
我々は今こそ立ち上がろう!
「未来の世界に語られるようにしょう。厳寒の中で希望と美徳だけが生き残った時、共通の脅威にさらされた国や地方が前に進み、それに立ち向かうと」
将来、我々の子孫に言われるようにしよう。あの時代は間違いではなかったと。試練にさらされたとき我々の旅は、たじろうこともなく、後戻りすることもなく、自由という偉大な贈り物を前に送り出し、それを次世代に届けたのだ、ということを記録しよう。我々は「できない」という人々にこう答えよう。「我々には出来る。と」
こうして直江兼続は大喚声に包まれる。第一歩だった。
しかし、そんな兼続も死んだ。死ぬまえ、兼続は江戸で、「米沢に帰りたい。そこで死にたい」と荒い息のままもらした。景勝は「春になれば米沢に戻れる」といって励ました。 兼続はわすがにうなずき、「御屋形様…義を…大切に」といい、数日後、眠るように息を引き取った。享年六十歳だった。
元和五年(一六一九)のことである。兼続には景明という息子がいたが、病弱で、元和元年に死んだ。ふたりの児女も早世、家康の重臣・本多正信の息子を養子にしていたが、慶長十六年に帰され、兼続の死の十六年後・妻お船も死ぬ。そして直江家は絶えた。
元和九年、景勝は六十九歳となった。お互い年寄りどおしになった伊達政宗と笑顔で語り合った。この頃、嫡男は元服し、定勝と名乗った。
この頃から、景勝は病気になった。
「もうよい。お迎えがきておる」医者にいった。しきりに謙信や兼続の話しをした。
景勝は自ら遺言書をつくり、三月二十日、米沢城で静かに息を引き取った。
享年六十九、当時としては異例の長寿だった。
慶次も禄を三百石に減らされて米沢に移った。城外の堂森に隠居する。が、安易に隠居暮らしのできる男ではない。奇行は死ぬまで続くのだが、ここでは紙数がない。
堂森の自宅を『無苦庵』と名付け、「記」を貼り付けた。「生きるだけ生きたれば死ぬるでもあらうからと思う」と、慶次一流の人を食った文言だった。
慶長十七年六月四日、慶次は『無苦庵』で波乱に満ちた生涯を閉じた。
七十前後だったという。